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一 医局

「お前が殺したんだ。」

 上原民生の父公生はそう呟いた。民生の父と母は、冷たくなりつつある民生の髪を撫で続けていた。いつまでも。


 民生が亡くなるまでの九ヶ月。民生は静かだった。しかし、民生の父は詩音を問い詰め続けた。今でも問い続けている。


「なんで診断にそんなに時間がかかるんだよ。」

「治療法はないのか。オブジーボ は使えないのか。」

「胸水を取れないのか。苦しそうじゃないか。」

「あんた、呼吸器内科なんだろ。なんとかしろよ。」

「このままじゃ、死んでしまう。」

「手術はできないのか。胸膜剥離術はしてもらえないのか?。」

「セカンドオピニオンを知りたいから、情報を提供してくれ。東京医科歯科大学、兵庫医科大学、癌研の希少がんセンター、いろいろあるだろ、それを教えてくれないか。」

「あんたと結婚なんてさせなければよかった。」


 ………………………


「辻堂さん、私は貴女と息子の結婚には反対です。」

 まだ民生は近所への買い物から帰って居ない。詩音は黙って聞いていた。こんな時の詩音はただ黙って耐えることしか知らない。

「貴女のご母堂は、民生や貴女にけがを負わせることさえ平気でする悪女ですね。実の娘に刃物を向けるなんて。そんな母親が居るのでは、この先私達にまで危害が及ぶことになるでしょうね。」

 公生は、詩音に声を絞り出すように語り続けている。

「二人とも、医局へ配属されたばかりだし、まだ若い。それぞれふさわしい相手をもう一度探すべきだよ。」

 後ろから、民生の大きな声が飛び込んできた。公生の顔が戸惑いの表情を浮かべている。

「親父、僕は彼女がいたからここまで来られたんだ。彼女が居ない時間は僕にとって無意味なんだよ。」

「しかし、お前の人生が狂わされるぞ。」

 二人のやりとりが熱を帯び始めた。

 …

「出て行け。勘当だ。」

 公生の細く静かな声が響く。その声に惑い追い出されるかのように、民生と詩音が熱い道に立ちつくしていた。


 ………………………


 辻堂詩音は、勤務明け。帰る支度をしているところだった。その呼吸器内科の医局へ、病理診断科の上原民生が顔を出した。

「今週の休みの日は、迎えに来るから。」

「そう、迎えに来てくれるの?。」

「結婚式の最終調整だからね。でも、君のおじいさんの住まいは遠いよね。」

 彼等は、結婚式の司式を辻堂泰造牧師、詩音の祖父に依頼していた。養子縁組をしているため、法律上は詩音の養父なのだが、実際は母方の祖父だった。今は、引退して栃木の栄光教会という小さな教会に住み込んでいた。

「じゃあ、おやすみ。」

「おやすみなさい。」


 ………………………


 彼等の結婚式はささやかだった。ご両人と付添人、証人となる詩音の祖母や詩音の友人の石井まり、宇津木ひなたち、権淑姫だけだった。詩音の民生のために働いてくれた権淑香や大石雄二は、行方不明だった。民生の父母は結婚に反対していたこともあって、参列してはくれなかった。しかし、辻堂泰造の友人であり、ご両人の恩師とも言える山形勇助も来ていた。


 寂しい人数だったが、民生と詩音には十分だった。


 ……………………


 医局の朝。夜勤当直医の帰宅、当日当番の登院で、少し慌ただしい。ただ、今日は急患がいないせいか、少し抜けた空気が遊んでいる。

 研修医の辻堂詩音は、大学病院の入口近くの呼吸器内科の医局に配属されている。ここだけは、まもなく、処置を急ぎ求める患者たちでごった返す。

 そういううちに受付前の列。事務員が息つく暇もない。その奥の処置室周辺では、もう、酸素吸入やら点滴の患者が廊下にまで溢れている。林の木々と山車のような杖と車椅子。その隙を白装束の医師と看護師たち、まだ研修医の詩音も動きまわっている。スタッフは皆、にこやか。それが患者たちの心を明るくする。

 その詩音は新婚だが、夫の辻堂民生との甘い時間は職場での数少ないオアシスだった。

 民生は病理診断部。細かな仕事を注意深く仕上げていく。送付された組織片を手早く溶液置換し、マイナス80度程度でパラフィン溶液ごと凍結し、トリミングナイフで薄く切り、プレパラート上に伸展させ、また溶液置換。その手間を惜しむことは、組織の変容につながり、精確な診断ができない。免疫染色のヒストケミストリーと観察とにより、組織が癌なのかを確定させていく。時には、手術室に陣取り、十五分ほどの手間で診断をすることもある。


 ミーティングの場。この日は画像診断医や呼吸器内科医とともに、複数の患者たちについて検討が行われていた。奥に呼吸器内科部長たち、そのさらに奥に詩音がいた。左手のスクリーン側に画像診断医。民生たち病理診断医は、手前に座っている。内科医の説明、画像の見立て、そして各箇所の組織の生検の結果。現代は、画像診断医と病理診断医とが診断の要だった。

 様々な可能性とそれに対する画像診断医と病理診断医の回答。呼吸器内科部長は、最後になるとこう引き取った。

「この患者は組織の遺伝子が変化していないから、良性と判断しましょう。」


 このミーティングが終われば、民生も詩音も解放される。二人だけのハワイ島が待っていた。


 ………………………


 ハワイ島は、ホノルルから乗り継いだ飛行機で訪れることができる。掘っ建て小屋の空港。飛行機が飛んでこなければ、ただの広い熱帯の草原。時々顔を出すのはネネと呼ばれるガンの仲間。


 空港前のレンタカーで予約済みのカローラを運転し、コンドミニアム、「ホープオブヘブン」へと駆けて行った。崖の上のオーシャンビュー。南風、鳥達の騒ぐ林。途中で買い込んだホットドック、コーラ、サラダ。欠伸をする民生。無口な詩音は満足だった。言葉がなくても民生がいてくれたら、もう何もいらない。彼の愛と思いはもう昔から知っている。彼の献身、優しさ、強い意志。次の日も、次の日も二人で過ごすその時間は永遠に。その時も今までもそしてこれからも……。


 夢の十日間は過ぎた。


 ………………………



 現場に復帰して六ヶ月。呼吸器内科の現場は怒涛の忙しさ。インフルエンザの流行っているこの頃は、特に目の前の患者達が文字通り喘いで待っている。受付から医師に至るまで、全てが怒涛のような空間。詩音もその怒涛の一部になっていた。手にした検査数値、自分に向けなおした画面。先輩は後ろからアドバイスをしてくる。病名を書き込んでは処置法を決めて連絡。

「終わった。つぎの方!。」

 自らを鼓舞しないと疲れた体は動かない。診察の合間を見て処置室へ。聴診器、ペンライト、電話など一式の道具をジャラジャラさせながら歩いていく。小さな子が担ぎ込まれている。

「ピークフロー八十。あなたは体重幾つなの?。あっそう。呼気一酸化窒素検査は無理ね………看護師さん、テオフィリンの点滴を用意してください。吸入もおねがいします。良い子ね。これで大丈夫よ。」

 呼吸困難で声を出せないことは普通のこと。アイコンタクトだけで返事は十分。次に寄ったベッドはちょっと前に運び込まれたおばあちゃん。

「先ほどCTを見たけれど、以前撮影した画像と比較すると、やはり肺気腫が局部的に進んでいますね。今日は抗生剤の投与とサルタノールを吸入しながら、一晩入院して様子を見ましょうね。少し元気になったら、外科的な手術の検討もしましょ!。」

 医局全体が渦のように回り続け、気がついた時には日も暮れだ。昼ご飯を食べていないことに気づいた。当番も開けて、今日は帰宅できる日。少し早めに病棟を出た。

「民生さん、御飯一緒に行かない?。」

 携帯電話の民生の声は少し息が弾んでいる。

「そうだね。急ぎの検体も処理を終わっているし、今日できることはもうすぐおわる。竜岡門で七時半に待ち合わせでいいかな?。」

「じゃあ、その時間ね。」

 これから夜の上野広小路へ二人で出かけていく。呼び出された時に対応できることを考えると、夕食にいくなら大学病院の近くがいい。

 この辺りは詩音の幼い時に過ごしたところだった。しかし、今は夜しか出歩かないので、昔の思い出と今の町の印象とは一致しない。それでも詩音は黒門小学校の校舎を見ながら昔を確認し、ついで街並みを眺めている。いつものことだが、なかなか昔の風景を探し疲れてそのまま飲み屋街へ行ってしまう。

 民生は三橋みはしを考えていた。

「夕食は軽く食べたいんだ。三橋みはし辺りで……。」

「そんな程度でいいの?。わたし、焼肉を食べに行きたいわ。」

「どうしたの?。焼肉屋?。いいけど。」

 そう言いつつ彼らは上野公園の方角へ曲がった。この先には、上野公園の反対側に店が並んでいる。

「昼食が取れなかったのよ。」

「道理で痩せているはずだ。オッパイなんか聴診器で、聞こえないほど大きいのに………どうやっているのか知らないけど、胸以外をダイエットしているんだものなあ。」

「ちがうもん!。」

 詩音は少し腹を立てた。民生が半分からかいの気持ちで女心を遊ぶのはやめてほしい。

「ゴメンゴメン。つい、いじめたくなるほど可愛いからさ。」

「何よ、それ。」

 民生は真剣な顔をして言った。

「君を愛している。それは君だから。幼い時に気がついたら僕の目の前にいて、それから君のために生きるのが、僕の存在意義だから。」

「どうしたの?。急に。」

「なんとなく、今言っておかなければならないような気がして。」

「ウフフ。どうしたのよ。」

 詩音がそう言っても、民生の真剣な顔は変わらなかった。

「君の笑った顔が昔から好きだった。泣いていた時の顔、訴える時の顔、僕を止めようとした時の顔、全て覚えている。そういえば、さっきみたいに時々見せるふくれっ面。口いっぱいに頬張る姿もね。」

「えっ、最近そんな食べ方していないわよ。」

「えっ、そうだっけ?。じゃあ小さい時の記憶かなあ。いつもお腹を減らしていたような……。と言うか、食べる時、いつもガツガツ食べてたよ。」

「そんな昔のことを覚えているなんて。もうそんな記憶は喪失してよ。」

「でも、君の全てを愛しているのさ。」

 熱くなった自分の頰と手先。思わず顔を伏せた時に目に入る民生の長い脚。その風景とともに、彼の息遣いと声とその言葉とを、こころに深く刻んでいた。


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