理由と決意2
イリスに手を引かれたどり着いたのは、紺色の塗装が施された奇妙なレストランだった。店の看板では、キーホルダーに描かれていた蝙蝠のマスコットがナイフとフォークを持ち、口から血のような赤い液体を垂らしている。食欲を削がれる外観だ。
「なんだこの店は」
「えー、綺麗だよ」
「お前がいいなら何も言わないが」
イリスとの感性の違いを再認識しつつ、店に入る。店内は肌寒く、薄暗い。アークの中でさらに不安が増した。
窓側の席に座り、メニューを開く。血や闇など、やたらと物騒な名前が並んでいる。料理の写真が一切載っていないことも、嫌な想像をかき立てた。しかし、イリスはそんなことは気にも留めず、新鮮な驚きに目を輝かせている。
「何にするか決まった?」
アークの心配をよそに、明るい声でイリスが尋ねる。
「俺はそうだな、これにする」
一瞬の躊躇いの後、メニューの中から最も危険度の低そうなものを選ぶ。手元の呼び出しベルを押すと、どこからともなく店員らしき男性が現れた。艶のある黒い髪をオールバックにした血色の悪い顔の男は、どことなく吸血鬼に似ていた。黒いスーツによって薄暗い店内に溶け込み、存在を消していたようだ。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
「これをひとつ」
「暗黒ソテーと血みどろライスのセットでございますね。かしこまりました。少々お待ち下さい」
食欲を失くさせる品名を確認し、黒いスーツの男が一礼する。
その姿が再び闇に溶け込むのを見ていると、店内を興味津々で見回していたイリスがアークを見て言った。
「なんか久しぶりだね。二人でお出かけするの」
「ずっと任務ばかりだったからな」
魔獣討伐のため、アークがイリスと任務以外で外出できる機会は多くない。その上、最近は魔獣の出現頻度が増しているようだった。
「昔はいろんなとこ行ったよね。公園に行ったり、近くの川で水遊びしたり」
イリスが昔を懐かしむように呟く。
「いつの話だ」
「えへへ。だって、ちっちゃい頃の思い出しかないんだもん」
「それもそうだな。お前が本部に連れていかれた時はどうなるかと思った」
アークの脳裏に幼い頃の出来事が蘇る。
二人で夕暮れの中を歩く帰り道、突然イリスは本部の人間に連れ去られた。アルトヘイルの呪いを受けた者を監視するためだ。変異反応の恐ろしさを考えれば仕方のない措置だったが、幼いアークには、イリスと別れなければならないという現実をどうしても受け入れることができなかった。すぐさま彼女の後を追い、アークは本部の戦闘員として入隊した。もう一度彼女のそばにいれるなら、魔獣と戦うことに迷いはなかった。
「本部の中で初めて会った時、アーク泣いてたもんね」
「な、泣いてない!」
「えー、泣いてたよ」
二人で言い合いをしていると、両手に皿を載せた黒服の店員がやってきた。
「お待たせいたしました。暗黒ソテーと血みどろランチでございます。ごゆっくりどうぞ」
黒服の店員は不気味な笑みを浮かべたまま、一礼をして下がる。外見と表情はとても接客に適しているとは思えないが、その挙動は優雅とさえ感じるほど完璧だ。
「わー! おいしそう」
テーブルに並べられた料理にイリスが目を輝かせる。
「う……」
アークの注文した料理はシンプルな名前に似合わず、グロテスクな見た目だった。
イリスの期待に満ちた視線を感じつつ、赤黒いソースがかかった真っ黒な肉塊を恐る恐るフォークで刺し、目を閉じたまま口に放り込む。
「嘘だろ……」
見た目とは裏腹に味は格別だった。甘さと辛さのバランスが絶妙なソースが柔らかな肉全体に染み込み、奥深い味わいを作り出している。
「おいしい?」
「あぁ。なんか悪いな、俺だけ」
「ううん、いいの。私はアークがおいしそうに食べてるのを見るだけで十ぶ」
ぐぅぅぅ。
イリスが言い終わらないうちに彼女の腹の虫が鳴った。彼女の体内にある特殊な酵素の働きにより、本来なら数日に一度魔獣の血を摂取するだけで活動するエネルギーは得られるが、料理を目にして食欲を刺激されたのだろう。
「無理するなよ。ほら、クッキー食うか?」
腰に括り付けた革袋から、小さな透明の袋を取り出す。中に入っているのは、薄紅色のクッキーだ。魔獣の血と細胞を元にして作られたもので、必要なエネルギーや栄養を摂取するには不十分だが、非常事態に備えて組織の研究員から手渡されていた。イリスは物欲しそうにクッキーを見つめていたが、周囲を見回すと躊躇いがちに言った。
「い、いいよ。お店で注文してないの食べるのも変でしょ?」
「それはそうだが」
「構いませんよ」
「うわぁっ! なんだ店員さんかぁ」
恐怖のアトラクションも笑顔で楽しんでいたイリスだったが、突然後ろから声を掛けられ驚く。
吸血鬼のような男はイリスの反応に笑顔で応えると、優しげに目を細めて言った。
「イリス様のことは本部の方から伺っております。特別な事情がおありのようですし、当店を訪れる全てのお客様を満足させるのが、私どもの使命ですから」
穏やかな口調だが、その言葉には自信と誇りが表れていた。
「ありがとうございます」
「やったー! じゃあ、アーク。食べさせて?」
アークが黒服の男に礼を言うのに続いて、イリスは彼の予想もしない要求を突きつけた。
「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだ。自分で食べろ」
「えー、じゃあ私がアークに食べさせてあげるね」
イリスは残念そうな声を上げるが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべ、アークの持っているフォークを奪おうと迫る。アークは慌てて手を後ろに引いた。
「なんでそうなる! 恥ずかしいからやめろ」
「もー、アークはわがままだなぁ」
「それはこっちの台詞だ」
「まーまーそう言わずに。ほら、あーん」
イリスは諦めるつもりはないようだった。目を瞑り、口を開けたまま動かない。今のイリスの諦めの悪さに比べれば、昨日戦った黒い魔獣のほうがいくらかマシだな、とアークはひそかに思った。
「きょ、今日だけだからな」
店員から許可を貰った手前、イリスの要求を無視するわけにもいかない。アークは袋からクッキーを取り出し、彼女の口に近づけた。桜色の薄い唇と白い歯の間から覗く舌の艶かしさに、心臓の鼓動が速まる。
幼い頃からともに過ごしてきたため、イリスを異性として意識したことはなかった。だが、間近で見る彼女の精緻な顔立ちや女性らしく変化し始めた体の曲線に、認識を改めさせられる。言動は幼い少女のままだが、体は着実に成長し始めているのだ。
イリスはそんなアークの心情など全く気にすることもなく、口の先に差し出されたクッキーをぱくっと食んだ。ゆっくりと噛み、飲み込む。薄い暗闇の中で白く浮き出た喉元が動いた。
「うーん、やっぱりあんまりおいしくないなぁ」
「人に食べさせてもらっておいて、わがままな奴だな」
「だって味がしないし、食感も変なんだもん。ねぇ、アークのも食べていい?」
「バカなことを言うな。死にたいのか」
「えへへ。冗談だよ」
イリスは笑い、アークの手に残っているクッキーの欠片を啄ばむように口に運ぶ。アークにはなぜか、その横顔が少し寂しそうに見えた。
昼食を済ませ、薄暗い店を出る。アークとしては、食欲を失くさせる店の雰囲気と恐ろしい想像をかき立てるメニューに思うところがないわけでなかった。だが、料理の味と店員の心遣いを体感した今は、そんなところもこの店の個性なのだと思い始めていた。
店の外には、色とりどりの風船を持った白いうさぎの着ぐるみがいた。
「あー! わーちゃんだ!」
イリスが嬉しそうな声を上げ、着ぐるみの元へと駆け出す。
わーちゃんとは、このテーマパークのマスコットキャラクターらしい。
着ぐるみの赤い目がアークを見つめる。中には組織のメンバーが入っているのだろうか。
興奮気味にはしゃぐイリスを見ながら、アークはぼんやりとそんなことを思った。
イリスが着ぐるみの手から風船を受け取ろうと手を伸ばす。その時、赤い瞳の奥にアークはただならぬ何かを感じ取った。
「イリス!そいつから離れろ!」
アークの叫び声に反応するかのように、白いうさぎの着ぐるみは手に持っていた風船を離し、両手を広げた。すると着ぐるみが蝋燭のように溶け、中から異形の何かが姿を表した。