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最後に君の手に触れたのは、夕暮れの薄闇に包まれたベッドの上だった。
私の家に来た時から、君は眠たそうにしていた。
中間の時期だったせいか別の授業の課題に追われ、明け方近くまで寝られなかったらしい。
何度目かのあくびを見かねた私がベッドで横になるように勧めると、最初は遠慮したけど結局「じゃあ」と君は仰向けになる。
それまで外していた左耳のイヤホンを君は戻し、目を閉じて寝る体勢になっていた。
いつも漏れ聞こえている音楽が部屋にないせいか、君の規則正しい寝息が妙に気になってしまう。
一限の他はテストもレポートもない私は近くに寄り、ただぼうっと君の寝顔を見て過ごしていた。
他人のこんな無防備な姿を見るのは、生まれて初めてかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていたら、いつの間にか私まで横で眠ってしまっていたらしい。
気が付いた時には、既に四限開始どころか五限に近い時刻だった。
私の物音で目を覚ました君は、片耳のイヤホンを取りながら時計を見て「大遅刻ですね」と、そう慌てることなく笑った。
私たちはそのまま天井を向きながら、たわいのない話でしばらく時間を過ごしていた。
南向きの窓から入るオレンジ色の光は、そう遠くないうちに日が落ちることを告げている。
私が電気のスイッチを入れようとすると、君は「点けなくていいです」とそれを遮った。
「いつも暗い中で過ごしているので、そのままでいいです」
それで私たちは明かりを消した部屋の中、ベッドの上で横たわっている。
外灯の光も窓から入ってきて、段々と薄闇に慣れてきた。
それでも内心、気が気ではなかった。
聞こえてくる呼吸の音は、今ここに二人しかいないことを意識させるのに十分だった。
天井まで届きそうな本棚と、びっしりと積まれた物語。
それが、私が私のままでいられる唯一の空間のはずだった。
今はそれらも、影でしかない。
「手、冷たいですね」
「そう……だね」
私の手を握ったり軽く離したり。
前にも同じようなことがあったはずなのに、胸の鼓動を隠すのに私は必死で。
けれど君は、何とも思っていないかのように小さく笑う。
君の耳にはいつものようにイヤホンが挿さっている。
片耳だけ外していても、いつからかその存在が憎くて邪魔で仕方なかった。
その時、たった一瞬だったのに、どうしてか君と目が合ったのを確かに感じる。
ねぇ、君。ずっと、話しかけていたんだよ。どうか気付いて、私は──
気が付けば、君の耳に挿さったイヤホンを強く引き抜いていた。
その勢いのあまり、いとも簡単に本体から端子が外れる。
漏れ聞こえてくる音もない部屋に、静寂が満ちた。
一瞬の間。何が起きたかを察した君の顔はひどく歪む。
それは、今までの君からは想像も付かない、世界の果てを見たような顔だった。
咄嗟に私から背を向けたけれど、声にもならない声で君は叫んでいた。
ゴメンナサイおかあさんゴメンナサイゴメンナサイ…………オマエノセイデコウナッタンダ。
かすれかすれでようやく聞き取れる声なのに、最後の言葉は鋭利な刃物になって自分に向けられているのが分かる。
それが確かに胸に刺さったはずなのに、似たようなフレーズの合唱曲が何故か頭に響いた。
賛美歌のような曲だったけどそれはサビだけで、女子は出番が少なく暇な曲だったことをひどく冷静になりながら思い出していた。
そのまま後ずさりする私に気付かないまま、君は声を上げながら本棚を揺すぶる。
長い時間をかけて集めた本たちが次々とこぼれ落ちていく。
鈍い音が響く中、私はどうすることも出来ずにただじっと、本が山になっていくのを見ていた。
奥に仕舞っていたはずの児童書も、今は床にぶち撒けられている。
薄明かりが眩しい黄色の表紙を反射していた。
つぎはぎを着た女の子と亀が描かれたあの本は、小学生の頃に買ってもらった物語。
抱えきれないほどの向日葵を持つ女の子とも目が合った。
あれは、生まなければ良かったという母の言葉で、声を失くした少女……懐かしい物語たちが私を見ている。
だけど私はその本たちを拾い上げることも出来ずに、出来上がっていく山が重さに耐えられずに崩れていくのをただ黙って見ていた。
君の中での儀式が終わったように、たどたどしい手つきで君は首に引っかかっていたイヤホンを手繰り寄せ、両耳にすっぽりと埋める。君の顔は見えない。
漏れ出て聞こえてくる大音量の音楽の中で、ただ息切れしながら立ち止まっていた。
そんな君にかける言葉を私は持っていない。
やがてその呼吸の音が段々と収まる頃になって、君は急に口を開いた。
「手が冷たいと、心が温かいなんて」
周囲の音が聞こえないせいか、加減されていない君の声はとてもよく響いた。
私はそれが怖かった。
「どうでもいい、ですね」
その時、ようやく気付いた。
本当に心が冷たいのは、私だったんだ。