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「音がないと、落ち着かないんです」

「音?」私の問いかけに、君はゆっくりと頷く。

 初めて見かけた時、君は前の晩にiPodの充電をしないまま寝てしまい、音楽を聴くためだけにパソコンを持ってきていた。

 それでケーブルとバッグが繋がっているように見えたらしい。

 私がそのことを知ったのは、この部屋で君と話すようになってからだ。

 一限が終わってから四限が始まるまでの間、自宅生の君は私の家で時間を潰している。

 君は持ってきたパソコンからほとんど目を離さなかったけれど。

 一つ前の世代らしい縦長のiPod nanoを君は常に持ち歩いている。

 たまにその充電が切れたりすると、君はまたロボットになる。

 コンピュータに繋がれたようなその姿はとても滑稽かもしれないけれど、私は嫌いじゃなかった。


「寝るときも聴いているの?」

「そうですね。音がないと、眠れない」


 今も君の右耳には白いカナルイヤホンが挿さっている。

 首から吊り下がった左耳の部分から漏れ出る旋律に覚えはなかったけれど、恐らく映画か何かのサウンドトラックのようだった。

 聞き慣れない言語で歌う女性の声が部屋の中にも漏れ出ている。

 インストロメンタルよりは声が入っているもの。特に女性がいい、と君は言う。

 一度だけiTunesの中身を見せてもらったが、歌手に詳しくない私でも女性だと分かる名前がずらっと表示されていた。

 アイドルから声優だけでなく洋楽にゲームミュージックまで、ジャンルは問わないと君は言う。


「音楽の容量だけで言うなら二週間分は蓄えがあるから、そのあいだ耳だけは少なくても無事にいられますね」


 君のその片側の耳が、私に向けられるようになってどれくらいが経つのだろう。

 教室で一人座る君を見ていた頃、講義が始まるまで常に両耳は塞がっていた。


「音が止まった瞬間が苦手で」


 神秘的な女性の歌声がフェードアウトしたかと思えば、すぐにまた違う女の子の声が聞こえてくる。

 今も、囁きのように歌う声が漏れ聞こえてくる。

 曲と曲の一瞬の間も気になると言う君の耳には、音のシャワーが絶え間なく届き続けていた。


「俺の身体は音楽で出来ていて、骨の髄から溢れ出ているんです」


 君は私の家にいる時も、持ってきたパソコンをテーブルで開いている。

 話しかけても、私の方を殆ど見なかった。

 お昼過ぎになって、お腹が空いた私が何か作って目の前に持っていくと、君はようやく画面から目を離す。

 それでも、イヤホンは外さないまま。

 君の隣にはいつだって音楽がいる。

 こうして二人でいても、君の片耳は常に塞がっていた。

 空いている耳の方を私に向けるせいで、君はいつも横を向いている。

 そういえば、講義中も頬杖を突いて左耳だけを教卓に突き出したような格好で受けていた。

 正面から君の顔を見た覚えがない。

 君の両耳を、私の声で埋めてしまいたいと思うようになったのは、いつからだろう。

 一度そう思うと君が帰ってからも、耳だけでなく君の全身が私に向けられるイメージで頭の中がいっぱいになる。

 本を読もうとしても、今は自分の中にある物語で満たされてしまい、頭の中に活字が入ってこない。

 骨の髄から溢れ出てくるものが音楽だと君は言っていた。

 同じように、私にとって物語は救いだった。

 ひとりでいても、物語の主人公がそばで語りかけてくれる。

 本は絶対に私を裏切らない。

 それなのにその本を、物語を、私が拒んでいる。

 これはあってはならないことだった。

 こういう時は、別れた恋人を遠く離れたフィレンツェにいても想う主人公のように、お風呂に浸かるに限る。

 その作者が書いた主人公の誰もが、お風呂を居場所にしていた。

 逃げ場所、と言ってもいい。

 主人公たちが悩む時は、いつも必ずお風呂のシーンが出てくる。

 そんな主人公たちにやはり自分を被せながら、ぬるめのお湯を張る。

 バスタブで足を伸ばしながら考えるのは、どうしても君のことだ。

 君はどうして、涼しい顔で私の手に触れられるのだろう。

 どうして話していても、いつもイヤホンを付けているのだろう。

 どうして、私の方を見てくれないのだろう。

 ばしゃん、と水しぶきが上がる。

 私が自分の拳を水面に叩きつけたから。

 腕に力なんてないけれど、その水音は十分に耳障りだった。

 苛立った時の私の癖だ。

 ああ、溺れるくらい、このぬるま湯に一生浸っていたかったのに。

『手冷たいですか?』なんて聞くくせに、君はちっとも私のことなど気にしていない。

 なのに、君の手に触れた日から──いや、君に出会った時から、私はずっと振り回され続けている。

 それなのに、こんなに容易く私に触れられる君は、冷たい人なんだ。

 そこまで考えて、自分は根暗なのだとつくづく実感する。

 前に君との会話の中で、あだ名を聞かれたことがある。

 例の小学生の彼を思い出しながら、根暗と呼ばれていたと答えた。

 君は、「そんな。前髪が長いからそう見えるだけですよ」と苦笑いで返す。 

 でもそうじゃないんだよ、私は根暗なんだよ。

 ねぇ気付いてよ、私の声を聞いてよ。 

 そんなことを考えながら、はっとする。

 私を根暗だと最初に呼んだあの男の子は。本当は、私と遊びたかっただけなんだ。 


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