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寝付けない時は本を読むと眠れるとはよく言うけれど、続きが気になるせいで読み終わるまで寝られるわけがない。
そう分かっていてもつい読んでしまうのは、眠りに落ちるために読んでいるわけじゃないからだ。
理由なんて必要がないぐらい、私にとって読書は欠かせない。
だからって、一限の必修を落としてもいいかと聞かれると別の話だけれども。
予鈴が鳴って急いでいるつもりなのに、重たい体を支えるので精一杯の短い足じゃあ、走っているつもりでも早歩きにしかならない。
おまけに寝不足なのと朝食を抜いたせいで、エンストを告げるような息切れで立ち止まってしまう。
そんな私の横を、日差しに照らされた長い長い影が過ぎった。
コンクリートの地面に映る違和感に気付き、私は思わず顔を上げる。
音楽を聴きながら歩く人なんていくらでもいるけど、君の耳から伸びる白のケーブルはポケットの中を経由して、手に持った黒いバッグの中まで繋がっていた。
影だけ見るとその姿は何だか、小さい頃によく遊んだリモコン式のロボットを彷彿とさせる。
ケーブルが繋がってないと、前にさえも進めないおもちゃ。
そんな奇妙な影の持ち主である君は、その大きなコンパスのせいであっという間に通り過ぎ、大教室へと続く外階段を上っていく。
その姿が印象的でつい引き寄せられたけど、始業のチャイムが鳴るのを聞いて、慌てて後を追いかける。
再び早足になりながら、昨晩読んだ本のことを自然と思い出していた。
それは、恋人が片時も離さずにいた鞄を亡くなった後に受け取る話だ。
その本の帯には『鞄の中には何がある?』という、本文中に全くない文が書かれている。
けれど、鞄の中身を当てることに重きを置いた作品ではないことは読んだ誰もが分かるだろう。
最後のシーンから自然とその中身に思いを馳せたくなる。
主人公が最後に受け取った鞄の中は、からっぽだった。
その鞄が彼女の手元に残されたのはどういう意味なのか、読み返す度に考える。
君が持つバッグから伸びたケーブルは、そのまま耳にまで繋がっていて。
ケーブルによって君の身体と繋がるバックは、まるで常に点滴を受け続けていないと生きられない人と同じ、体の一部のように見える。
輸液の代わりに、そのバッグの中に詰まっているものは一体何だろう。
そんなことを考えてしまう私は、君に目が奪われていた。
講義開始前の喧噪の中でも、イヤホンを挿したまま大教室に一人佇む君の周りだけ空気が違って見えて、後から教室に入った私でもすぐに姿を見つけられた。
五分遅れで教授が入ってくると、次第にざわつきも止む。
今日の内容も去年と同じだと分かると、私はバッグの中から本をそっと取り出した。
ハードカバーなのに持ち歩いては何度も読み返したその本は、振り返った女性と、その髪と同じ色で描かれた花びらが特徴的な表紙だった。
谷底を埋めるように生えているススキの海原と、波打ち際の蛍。
活字でしか知らない、居心地のいい空間を頭に浮かべながら、時折顔を上げては君の方を見る。
講義中でも君はイヤホンを片方しか外していなかった。
何か言われても仕方ないようにも見えたけど、教授どころか教室にいる誰もが君を気にしていなかった。
そんな姿が、まるで私を見ているようで。
根暗、と指を指されながら初めて言われたのはいつだろう。
記憶をたぐり寄せると、はっきりと自覚したのは恐らく小学校の低学年の頃だったような気がする。
晴れていても教室で本を読んでいると、私の机の前に来ては「やーい根暗。気持ち悪っ」とよく囃し立ててくる男の子がいた。
たまに物語に夢中になり過ぎて、目の前にその男子がいることさえ気付かずにいると、腕に抱えていたボールを私の頭に当ててくるような、そんな子だった。
少しは言い返せば良かったかもしれないけれど、普段使い慣れていない口はそう簡単に開いてくれたりしない。
記憶の中の彼は反応しない私に飽きたように、いつも他の子と一緒に教室を出て行く。
そんな彼の名前も今では思い出せないのに、本を読み終えた時は教室の窓から彼を見ながら、残りの休み時間を過ごしていたのを何故か覚えている。
敵にボールを当ててガッツポーズをする彼を見ていると、自分は根暗と呼ばれる種類の人間なのだと嫌でも気付かされた。