獣人の山
標高四千メートルの富士山によく似た形の山。その中腹に小屋がある。そこは登山者の休憩所ではなく、獣人の住処なのだった。
ふもとの村に住む人々からは『獣人の山』と呼ばれ恐れられている。誰一人として、その山の頂に立ち、帰ってきたものはいない。山に登って帰って来れない者たちは皆、その小屋に住む獣人に食い殺されたのだと村人たちは信じていた。
ある日、一人の登山家が村を訪ねてきた。
「あ、地元の方ですね?僕は登山家のマークと申します。あの山がかの有名な『獣人の山』ですか?」
彼は重そうな青いリュックサックを背負い、バナナのような黄色い帽子を被っていた。年齢は三十前後といったところだ。
村の老人は答えた。
「そうだが・・・あの山に登るのはやめておけ。君も知っているだろうが・・・」
「噂には聞いてます。あの山には文字通り獣人が住んでいるのだとか。でも僕は今まであれより高い山に登ったことが三回あります。登頂する自信はあります。」
やれやれ、といった表情で老人は深いため息をついた。
「そう言ってこの山に挑んで、帰って来れなかった登山家を儂は何人も知っておるぞ。まあ登るのは勝手だがな。宿屋はあそこだ。」
老人が指差した先には、緑色の屋根の木造二階建ての宿屋が建っていた。
「ありがとうございます。」
登山家のマークは深々と礼をして宿屋に向かった。
宿屋でチェックインを済ませた彼は、村で一軒しかない小さなパブで食事をとることにした。
「はっはっは!やめとけやめとけ!お前には無理だ!」
酒に酔った男の大きな声が店内に響いた。
「ちょっとやめなよジョブ!」
続けて彼の連れかと思われる女の声が響いた。その女はカウンターに座っている登山家に近寄ってきて謝罪した。
「ごめんなさい、あたしの連れが失礼なこと言っちゃって。」
「全然気にしてないですよ。むしろ忠告していただいているわけですから、ありがたいです。」
女は二、三度頭を下げて酔っ払いの男の向かいの席へ戻っていった。
マークはパブのマスターと話し込んでいた。
「こういう僕みたいな登山家って、やっぱり見飽きてるんですか?」
「そうだなあ、ここ最近はそうでもないが、三年前くらいまでは頻繁にいらっしゃいましたね。」
マスターは外見は平凡だが、いかにもマスターといった渋い声をしていた。
「三年前に何かあったんですか。」
「・・・。」
「?」
マスターは何故か沈黙してしまった。
「話しづらいことなら構いません。とにかく、僕はあの山に登ります。」
「何があなたをそうさせるのですか。」
「僕は子供の頃、木に登るのが大好きでした。そして大人になってもっと高いところに登りたくなったのです。」
フフッと、マスターは思わず笑ってしまった。
「あ、済みません・・・。」
「いえいえ、笑わせるつもりで言いましたから。でもこれは本音です。」
長旅で疲れていたマークは昼まで宿屋で眠っていた。
「う・・・もうこんな時間か。今日は身支度だな。村を散策してみよう。」
マークが村を歩き回っていると、昨日の酔っ払いの連れの女が薬草を売っていた。
「あら、昨日は本当に済みませんでした。」
「いえいえ。全然構わないですから。」
「あの・・・少しよろしいですか?」
「全然構いません。」
女は店の奥から丸椅子を持ってきて、僕に座らせた。女はカウンターに腰かけて立っていた。
「あ、まだ名乗ってなかったわ。あたしはヨーコといいます。」
「マークです。それで、お話とは・・・」
「実はあたしの夫、ジョブは三年前に『獣人の山』に登っているのです。」
「え!?」
マークは驚きの声をあげた。
「生還者がいらっしゃるとは聞いていませんでした。」
「登山家の中では結構有名な話なんですよ?『獣人の山』から初めて生還者が出たって。」
「全然知りませんでした。僕には登山家仲間がいないので、情報には疎いのです。いつも一人で登っていますから。」
「そうでしたか。・・・それではお話しましょう。」
女は静かに語り始めた。三年前の事件を。
※
三年前、四人の登山家グループがこの村にやってきました。彼らの名はジョニー、ハンス、ポール、ジョブ。とても仲の良い四人組でした。
彼らは村にある小さなパブで酒を飲んで、それまでの旅で登ってきた数々の山の話を面白おかしく、店内に響き渡る声で聞かせてくれました。最初は疎ましく思っていた他の客も、彼らの陽気さに同調して、その晩はみんなで盛り上がったのです。
登頂の日、村のみんなが彼らの健闘を祈って見送りました。四人は笑顔で村を出発しました。
四合目までは順調そのものでした。彼らは長年の経験とチームワークに裏付けされた軽快な足運びで山を登っていきました。彼らは念のため、護身用に猟銃を携帯していました。獣人というのは恐らく、熊のことなのだろうと彼らは踏んでいました。ケモノが出たならこの猟銃で追っ払えばいい、そのくらいに考えていたのです。
異変が起こったのは、五合目に差し掛かったあたりです。その日は雲一つ見当たらない快晴だったにもかかわらず、いつの間にかあたりは雲で覆われ、視界が悪くなっていました。ふと、四人のリーダー格であるジョニーは前方に、青白い光を見ます。
「おい、なんだあれは?」
「なんだろう?太陽の反射という感じはしないな・・・色がはっきりしすぎている。」
グループで一番若いハンスが答えました。
「とりあえず猟銃を撃てるようにしておくか・・・。」
一同は猟銃を構えながら、光の指す方へ登っていきました。そのときの彼らには、回り道をするという選択肢は、全く考えられなかったのです。彼らはみな青白い光に興味を持ち、登頂することよりも、その光の正体を突き止めることを優先させてしまったのです。
しばらくするとバタンという扉が閉まる音が奥から聞こえてきて、青白い光はふいに消えてしまいました。四人が向かっていくと、そこには小さな山小屋が建てられていました。
「ここが獣人が住むという、噂の山小屋ですか・・・?」
臆病者のポールが声を震わせながら尋ねます。彼の質問には勝気なジョブが答えました。
「そうとしか考えられねえぜ。よし、中にいたら撃っちまおう!」
「おい待てジョブ。もし小屋の中に獣人がいるのなら、俺たちは捕食されるかもしれない。相手がどんな姿かも分からずに、撃ち殺せるのか?とんでもない化け物かもしれないぞ?あの青い光の正体も分かってないんだ。」
そのとき、急に雨が降り出しました。三十秒もたたないうちに土砂降りとなりました。
「まずい、地面が滑る。」
「あの小屋に入るしかありませんね。」
「仕方ない、みんな銃を構えろ。おれが扉を開く・・・。」
ギィ・・・と耳障りな木の軋む音とともに、扉が開かれました。
そこに立っていたのは一人の女性でした。どこからどう見ても、人間の。彼女は小さな悲鳴をあげ、怯えていました。白い布地のワンピースを着て、青い光を放つカンテラを持っていました。四人は顔を見合わせて、銃を下に向けました。
「あの・・・僕らは登山家の者なのですが、あなたはいったい・・・」
ジョニーの恐る恐るの質問に呼応するように、彼女も恐る恐る答えてゆきました。
「私の名前はミサです。ここにずっと住んでいます。」
「この小屋に人が来たことはありますか?」
「はい、何度も。」
「失礼ですが、あなたは獣人と呼ばれる種族なのですか?」
「いいえ、私はただの人間です。でも、私は獣人を知っています。獣人はここから先の森に住んでいます。」
「あなたはどうしてここに住んでいるのですか?」
「私はこの山に登る人たちに、引き返してもらうためにここにいます。」
「それは何故ですか?」
「私は子供のころから、動物と話すことができるのです。それで獣人とも解り合うことができています。獣人はこの山の頂を『聖地』として崇めています。『聖地』に登った人間は彼らに殺されてしまいます。それは『聖地』を清浄に保つためであり、好き好んで人を殺しているわけではありません。彼の主食は森の木の実で、人を食べることもしないのです。」
なるほど、とジョニーはミサが言った言葉を一応、信じることにしました。
「しかし、我々はこの山を登頂するのが悲願なんだ。どうにか『聖地』に行かせてはくれないだろうか。」
「無理ですよ。今まで何人の方が帰ってこれなくなったことか・・・。」
「俺たちは山を登るためなら命は惜しくないぜ。なあ、ポール!」
ジョブは既に登る気満々です。
「あ、ああ、そうさ。僕は臆病だけど登ると決めた山を途中で諦めたことはは一度も無いんだ。」
「そういうことです。みんな数々の死線をくぐってきたんです。大丈夫ですよ、僕らが『獣人の山』最初の登頂者です。」
ハンスは誇らしげに言いました。
「・・・分かりました。そこまで仰るなら止めはしません。聖地を囲む『獣人の森』はこの山をドーナツ状に覆っています。ですから、どこから登っても安全ではないわけです。獣人は人間の『穢れ』に非常に敏感です。ですから・・・。」
と言って彼女は棚を調べ始め、何か包みを手に持って来ました。
「これはお清めの塩です。『獣人の森』に入る前に、この塩を身体にかけて下さい。穢れの臭いを少し弱めることができますから。」
「ありがとう。必ず登頂して帰ってくるよ。」
「勘違いしないでください。別に私はあなたたちを応援しているわけではないですから。獣人からしてみれば、あなたたちは聖地を荒らす不届き者です。出来れば心変わりして、引き返してほしいです。」
「ハハハ、そりゃ失礼。」
塩の包みを受け取った4人は『獣人の森』の入口に到着しました。そこで四人は順番に身体に塩をふりかけることにしました。
「あっ!」
「ご、ごめんジョブ!」
ジョブはハンスから包みを上手く受け取れずに、地面の水たまりに中身の塩をぶちまけてしまいました。
「いいよ別に。みんなは塩をふりかけられたんだ。俺はもともと神様とか信じないタチだし、気にしないででくれ。」
「絶対俺たちから離れるなよ、ジョブ。いつもお前には後ろを任せているが、今日は中を歩いてくれ。」
「わかったよリーダー。」
そして四人は森の中へ入って行きました。
「『獣人の森』なんて言うが、普通の森じゃねえか。」
ジョブは少しがっかりしたようでした。たしかにその森はジャングルのような禍々しさも無く、何の変哲もない普通の広葉樹林帯でした。
「気を抜くなよお前ら。何の変哲もない森でもここには獣人が住んでいるんだからな。」
しかし、四人は明らかに気が抜けていました。見慣れた森林が、恐怖感を薄めていきました。
ガサ・・・と?四人の近くで物音が聞こえました。臆病なポールが問いかけました。
「今の音は・・・?」
「狸か何かだろ。さっきもいたじゃねえか。」
「そうですね。」
『そうですね。』・・・それがポールが最後に発した言葉でした。直後にポールは背後からのど元を掻き切られ、緑の木々を真っ赤に染めました。
「うわあああああああ!!」
目の前に現れたのは三メートル近い、ゴリラのような体に、狐のような顔を持つ獣人でした。
三人はあまりの恐怖にポールの安否など気にもせず一目散に逃げていきました。
ポールを噛み殺した獣人は、木から木へすさまじい速さで飛び移り、ハンスを捕らえ、ポールと同じように・・・。そしてジョニーも同じようにして殺されました。
「冗談じゃない・・・!冗談じゃない・・・!」
ジョブはジョニーが捕まっている隙に、一目散に来た道を引き返し、なんとか森から抜け出ることに成功しました。そしてミサの小屋を再び尋ねました。
ミサは留守でしたが小屋の扉に鍵はかかっていません。ジョブは息を切らしながら部屋に倒れこみました。
しばらくするとミサが帰ってきました。
「よ、よくご無事で・・・。他のお三方はやはり・・・。」
「ああ・・・。あんたの言う通りすぐ引き返すべきだったよ。獣人の野郎、凄まじい速さで動きやがる。生還出来たのが不思議なくらいだ。」
「もうここまで来れば安心です。今日はここに泊まってはどうですか。」
「いや、それは悪い。まだ昼過ぎだし、今日中に下山できるからな。」
ジョブは後悔を交えた深いため息をつきました。
「ところで、あの棚の白い袋の山はなんなんだ?」
「ああ、あれは私のコレクションです。見てみますか?」
ミサはおもむろに袋の一つをつかみ、そこから人間の頭がい骨を取り出しました。
「それは・・・。」
「ええ、私が殺したものです。」
ミサはそう告げるとみるみる体が大きくなり、獣人の姿へと変貌しました。
「あなたもコレクションに入れてあげますよ。」
「俺たちに渡したのは、塩ではないな。」
「ええ。あの粉は言わばマーキングのようなもの。あの粉を身体にかけると人間には感じ取れない臭いを放ちます。森の中のほうが貴方たちを仕留めやすいですから。」
「ああそうかい!」
ジョブは部屋にあらかじめ隠していた猟銃を取り出し、獣人のミサに弾を撃ち込んだ。
「!・・・効きませんよ、私には」
眉間に撃ち込まれた銃弾は彼女の皮膚を貫通することなく、地面にポロリと落ちた。ジョブはそれを見た瞬間、残りの銃弾七発を間髪入れずに撃ち込んだ。そして窓ガラスを突き破って地面を転がり落ちた。小屋の中からは雄叫びが聞こえてきた。
ジョブは振り返ることなく、全速力で転がり落ちながら山を後にしました。
※
女の話を聞いた登山家は、登頂を諦めて来た道を引き返していった。




