【前】これは三角関係ですか? いいえ、違います。(ミナ&シュウ&院長)
***このお話に至る以前の大雑把なあらすじ***
渡り人となったミナは身を置いている孤児院で、蒼の騎士団で団長を務めているシュバリエルガという人に出会いました。強くて怖い団長はみんなに怖がられていたのですが、渡り人のミナはそんな彼とじわじわ仲良くなります。そして紆余曲折を経て結婚したのでした。めでたしめでたし、これでひと安心……かと思われたのですが……。
これは、ふたりが新婚さんだった頃のお話です。
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そこそこの高級住宅街の朝は、それほど早くないらしい。玄関前の落ち葉を掃除する老夫婦が遠目に見えるくらいで、大通りのような喧騒とは無縁のようだ。穏やかで落ち着いた空気の漂う通りをゆっくりと歩きながら、彼女は頬を緩めた。とりあえず、住んでいる環境は良さそうだ。
不穏な空気を敏感に感じ取ったシュバリエルガは、覚醒するのと同時に身を起こした。戦場や山狩りをする時とも違う緊張感が、髪の一本にまで伝わっていくのが分かる。自分にとって訪れて欲しくない何かがすぐ近くに迫っているような、そんな気がする。
ちらりと見遣った先にいるのは、妻になったばかりの女性だ。彼女は恐ろしくあどけない、悪いことなど何も知りませんという顔つきで眠っている。まるで子どものような寝顔で。
すぐに戻る、と心の中で囁いたシュバリエルガは、音を立てないように気をつけながら寝室を抜け出したのだった。
――――ガチャ。
年の割に肉つきの良いふっくらとした手がドアベルに伸びた瞬間、見計らったかのようにドアが開く。当然そうなるとは思っていなかった彼女は、驚きに目を見開いた。
開いた隙間から顔を覗かせたのは無愛想で無表情な息子だ。そのことに気づいた彼女は、思わず顔をしかめる。
「……っ、お、驚かせないで頂戴……!」
ところが眉間にくっきりとした皺を刻んだシュバリエルガは、何も見なかったかのようにドアを閉めた。もちろん今度は驚かせないように、そっと。
静かに閉められたドアを前にぽかんと口を開けた彼女は、はたと我に返った。なんと失礼な。親に向かってなんたることか。
彼女は握りこぶしをわなわな震わせ、おそらくドアの向こうで様子を窺っている息子に言い放った。息子のことだ、きっと自分が立ち去るまでは動かないだろう……そう見当をつけて。
「ドアを開けなさい、エル」
「お断りします」
即座に返された言葉に、彼女は絶句してしまった。早朝に理由なく訪ねてきた母親に、何か事情があるなどとは思わないのだろうか。信じられない。いや、事情なんてひとつもないけれども。
沈痛な面持ちで溜息をついた彼女がもう一度口を開くのと同時に、シュバリエルガが言葉を続けた。
「ミナもまだ眠っていますし、家の中が散らかっているので。
そのへんで時間を潰して来て下さい」
「あら。家の中のことは気にしないし、私が朝食を用意するわ。
その間にミナを起こしてくればいいじゃない!」
「出来もしないことを提案しないで下さい。
母上に溶かされた鍋の数をお忘れですか。29個ですよ」
母親がドアの向こうで手を叩いてにこにこ笑う姿が脳裏をよぎって、シュバリエルガの口が思い切り歪む。料理下手にならずに済んだことは良しとしても、その経緯に関しては根に持っているのだ。
この国の王女様として育った母親には“出来なくて困った経験”というものがない。いや、困るという心情そのものが欠落していると思う。それは幸運なことでもあるし、ものすごく前向きに解釈すると、へこたれることを知らない程の楽観的思考の持ち主といえる。が。さすがに10回ほど鍋を溶かしたあたりで落ち込んでくれたら良かったのに、と思わずにはいられない。いやもうあれは、鍋を溶かすために料理をしていたとしか思えない。あれでは食材も鍋もそれらを作った職人や農夫も可哀相で。だから30個の大台に乗る前に引導を渡したのだ。
「……家のことは私が。
母上が大通りのカフェで紅茶を飲み干して戻るまでに済ませます」
頭の中をぐるぐる回った言葉を飲み込んで言い放ったシュバリエルガは、沈痛な面持ちでその場を離れようとした。
するとその時、頭上から声が降ってきた。
「えっ、院長?!」
眉間にしわを寄せて階段を上がったシュバリエルガは、ミナの姿を見るなり足早に近づいた。2階の廊下の窓から身を乗り出して手を振っているのは、間違いなく妻だ。
妻なのに、寝起きにガウンを羽織ったまま暢気に手なんか振っている。いろいろ無防備なのは生まれ育った場所の違う渡り人だから仕方ないとしても、だ。通りに郵便配達の青年がいたら、とか考えないものだろうか。あまり口煩くすると嫌われるかも知れないから決して言いはしないが。
胸の内で舌打ちしたシュバリエルガは、何も言わずにその体を窓辺から引き剥がす。
「ひゃぁっ……?!」
突然膝を掬われたミナの口から小さな悲鳴が零れる。
多少強引になってしまったのは、この際謝らずにいよう。自分が不機嫌になったことくらいは顔に出しても許されるはずだ。ミナ相手だとポーカーフェイスを徹底出来ない自分に言い訳をしつつ、彼は寝室に足を踏み入れた。
寝室を飛び出したミナが、勢いよく階段を下りていく。その髪は手先の器用な夫によって結い上げられ、綺麗に纏められている。寝起きの無防備な姿を外に晒すな、というお小言を右から左に聞き流した彼女の心は、すでに家の外で待ちぼうけな義理の母に向けられていた。
「お待たせしました!」
「あら、おはようミナ。
起こしてしまったみたいで、ごめんなさいね」
ドアの向こうから姿を現した義理の娘に、院長はにこりと笑顔を投げかけた。もとより図体のでかい、昔から無愛想で母親に厳しい息子に会いに来たわけではないのだ。今思えば、可愛かったのは小さな頃だけだったような気がする。時が経つにつれて頼もしく感じられるようになったのは良しとするけれども。
彼女はぶんぶんと首を振るミナの手を握ると、困ったように小首を傾げた。
「王城に用があるのだけど、ちょっと顔を見に寄ったの。
迷惑でなければ少し休ませてもらってもいいかしら」
「もちろん!
……あ、でも……えーっと……あっ、シュウ……!」
まだ顔も洗っていないことを思い出したミナが、視線を彷徨わせる。すると、困ったように眉を八の字に下げた彼女の瞳が、夫の姿を捉えた。
……目が合った夫は、ものすごく不機嫌そうだ。母親が突然やって来たものだから調子が狂ってしまったのだろうか。それとも寝不足か。仕事で疲れて眠いのだったら、睡眠をとることに目的を絞ってベッドに入るべきじゃなかろうか。いやいや、それでシュウが朝から元気になっても困る……。
唸りそうになったミナは、我に返ってぷるぷると頭を振った。睡眠時間については今夜にでも議論することにして、まずはお客様をおもてなししなくては。
そんなことを考えた彼女が言葉の続きを紡ごうとしていると、眉間にしわを寄せて階段を下りてきたシュバリエルガが口を開いた。
「ミナ、母上のことは任せて顔を洗って来い」
「は、はいっ」
目が笑っていない。口調は穏やかなのに。
そんな夫に気圧されたミナが首をかくかくさせて頷く。するとその横で、院長がにっこり微笑んで大きく頷いた。
「私のことは気にしないでね。
したくが出来たら、一緒に朝ごはんを食べましょう?
大通りのパン屋さんで、美味しそうなサンドイッチを買ったのよ」
すらすらと流れるような台詞に、シュバリエルガの眉根のしわが深くなる。
そうこうしているうちにミナはパタパタとバスルームに駆け込んで、玄関前には母親とふたりきり。人生の唯一の彩たる妻の姿が見えなくなったことに、彼は溜息を吐き出した。それこそ、体中の空気が抜けてしまうのではないかというくらいに。
それを見逃さず、なおかつ愉快そうに笑えるのは、さすが母親といったところか。
「ふふ。それじゃお邪魔しようかしらねぇ」
「きっちり朝食まで買い込んで……最初から我が家が目当てですか。
本当は王城に用などないのでは?」
「あら、分かってしまった?」
目を細めた息子を見遣り、院長はけろりと言い放った。そして、唇を尖らせる。その姿は少女というよりも子どもだ。
「だってあなた、いくら言っても里帰りさせないんですもの。
独り占めするなんてひどいわ」
「それは……いや、そもそも彼女はモノではありませんよ」
シュバリエルガは沈痛な面持ちでこめかみを押さえた。
いつもこうだ。思い立ったら吉日なのは仕方がないとしても、もう少し時と場合を考えてもらえないものか。いくらなんでも、連絡もなしに朝からとは……。
何歳になっても王女様気質な母親に向ける言葉が見つからず、彼はまたしても溜息をつくはめになった。こんな時、父親だったら何と言い聞かせただろうか。いや、あの人は母を溺愛していたから、なんだかんだと言いつつも……。
すると、院長は眉間のしわを深くする息子には気づかずに言葉を続けた。
「ミナだって、たまには私と過ごしたいんじゃないかしら。
あなたは夫だけど、男じゃない。
女同士の方が分かる話もあったりするものよ」
「お待たせしました~……って……」
リビングに足を踏み入れたミナは、顔が強張るのを止められなかった。空気が肌に刺さるような気がするのだ。
なんだこの空気は。なぜこんなに美味しそうな匂いが漂っているのに殺伐としてるんだ。ここはたしかに私とシュウの家のはずだけど……なんでだ。なんでだ。
頭の中でぐるぐると呟いたミナの目には、ソファで優雅にカップを傾けている院長と、キッチンで玉ねぎをみじん切り……しかも猛烈な勢いで真剣さを通り越した鬼気迫る顔で……しているシュバリエルガの姿が映っていたのだった。




