渡り廊下のはじまりに
いつもと少し違った雰囲気でお送りします。
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田園風景に吹く爽やかな風は乾いた土の道を撫で、帽子のつばを揺らして通り過ぎていく。雲は高く、出歩くには少し暑さを感じる季節だ。
彼女は、背の高いレンガの塔を遠くに見つけて息を吐いた。
「……あと半分くらい、かな」
被っていた帽子が飛ばないよう、手で押さえて呟く。まだまだ夏には遠いとはいえ、雲がなければ日差しは強い。
院長に言われたとおりにして良かった、と彼女は胸の中でひとりごちた。
その時だ。
強い衝撃が背中を襲った。
痛みに息を飲んだ彼女をよそに、帽子がふわりと宙を舞う。
それは、あっという間の出来事だった。
何が起きたのか理解出来ないまま、彼女は痛みに顔をしかめる。そして、自分が地面に突っ伏していることに気がついた。
「……いっ……たぁ……」
歪めた口から声を零しながら、手をついて起き上がる。すると、馬に跨った男の後ろ姿が目に入った。
「え?」
突いて出た言葉は呆気なく風にさらわれ、その間にも男の背中は遠くなる。
おかしな話だ、と彼女は思った。
ぶつかったなら、女性の手を取って起こすのが礼儀というもの。「すみません、怪我はありませんか?」なんて台詞が付くのは当たり前。これまでに彼女が出会った男性はおおむねレディーファーストだったから、孤児院の外でもそれが大多数かと思っていた……のだけれど。
内心で首を捻っていた彼女は、すごい勢いで遠くなる男の姿に呆然と溜息をついた。いくら急いでいるからって、ひと言もなしに行ってしまうとは。
「もう……っ。
パン屋さんで手を洗わせてもらわなくちゃ」
手のひらについた土を見て眉根を寄せたものの、彼女はすぐに気持ちを切り替え……そして、愕然とした。
「あ、あれ?」
肩から下げていたカバンが、どこにもないことに気づいたのだ。途端に血の気が引いて、心臓が慌ただしく音を立てる。
考えることなんてない。答えはひとつだ。
「――――盗られた……!」
促されるまま椅子に腰かけてしまったのは失敗だったかも知れない。彼女は意識を逸らすように、木の香りを吸い込んだ。慌ただしく行き交う、屈強そうな男たちの視線が痛い。
蒼の騎士団の駐在所には初めて足を踏み入れたけれど、とても住民達の生活を守るための治安維持機関だとは思えなかった。生まれ育った場所のそれとは、まったくもって雰囲気が違う。
彼女がそんなことを考えていると、目の前で何かの書類を用意していた中年の騎士が視線を上げた。
「あー…そしたらな、ココに名前書いてくれるか」
トントン、と机を叩いた指がペンを差し出してくる。
その音に我に返った彼女は、ひとつ頷いてペンを取った。さらりと短い名前を綴って、用紙を相手に向けて返す。
記入欄に書かれた名前を読んだ騎士は、眉根を寄せた。
「ミー…ナ?
お嬢ちゃん、家の名前は?」
たどたどしく読み上げられた名前を正すこともせず、彼女は首を振る。もう何回も聞いてきた台詞だ。以前ほど動揺したりはしなかった。
「孤児院でお世話になってるので、家はないんです」
「よし、じゃあ確認するぞ」
質問をくり返していた騎士が、書き込みを終えて目を上げる。
「はい」
頷いたミナを見て、彼は調書の内容を読み上げ始めた。
「一応聞き込みをしてみるが、見つからないかも知れないなぁ。
もうイルベまで逃げたかも知れない。
ここじゃ奪った金を遣おうにも目立って仕方ないし……」
最初は面倒くさそうだったけど、意外と真面目に扱ってくれてる。この人、良い人かも知れない。相談に来てよかった……。
そんなことを胸の中で呟いたミナは、ほっと息を吐き出して目の前の騎士を見つめていた。膝の上で握りしめた両手から、少しだけ力が抜けていく。
それでも天体盤の太陽が傾きかけているのが目に入って、気持ちが焦った。いつもなら、とっくに買い物を終えて馬車に乗る頃だ。
「……あの、私」
あまり待たせると院長が心配するに決まっている。それに、早く知らせて謝らなければ。
そう思ったミナが、控えめに騎士の言葉を遮った時だ。周囲で行き交っていた騎士達が、水を打ったように静まり返った。
強面の騎士達が顔を強張らせているなんて、まさか凶悪犯でも捕えたのだろうか。言い表せない緊張感に、息苦しさすら感じてしまう。
一体何があったんだろうか。時が止まったような静けさを不審に思ったミナは、視線を巡らせるしかない。
すると、内心で首を捻っている彼女の頭上から声が降ってきた。
「邪魔するぞ」
地を這うような低い声に、ミナは周囲の空気が凍てつくのを感じて息を飲んだ。
実は声の主を探すまでもなかったのだ。彼はすぐそこ……彼女の脇に立っていたのだから。
カシャ、と腰から下げた剣が音を立てる。
見た目の割に繊細な音だな、と思つつ、ミナは低い声の男を見上げた。彼も騎士のようだ。他の騎士達と同じような制服に身を包んでいる。
それにしても、ずいぶんと背が高い。自分が椅子に腰かけているからなのか、まるで山の麓から頂上を見上げているかのよう。首が痛くなりそうだ。
するとミナが視線を戻すのと同時に、長身の騎士が口を開いた。
「私に構うな。仕事を続けてくれ」
静かに放たれた言葉の重みがどれほどのものか、ミナには分からない。けれど、周囲で固まっていた騎士達は弾かれたように動き出した。慌ただしく外へ出て行く者、書類を取り落とす者……まるで“ちゃんと仕事をしろ”と尻を叩かれているかのようである。
どこか気だるげで重たい空気が漂っていた駐在所の中が長身の騎士の登場によって引き締まったのを感じて、ミナは瞬きをくり返した。
賛否両論だろうとは思うものの、彼女自身は緊張感のある職場は嫌いではない。むしろ、やることやって早く帰ろう、という空気はありがたいものだ。残業も減る。
そんなことを考えていたミナは、回想に耽ってしまいそうになった自分を心の中で叱咤した。ぼーっとしている場合じゃない。早く孤児院に帰って院長に謝らなければならないのだ。許してもらえるか、分からないけれど。
「あの、そろそろ帰らないと……院長が」
ふるふる、と小さく首を振ったミナは、若干青ざめた顔で向かいに座る騎士を見つめた。
ところが彼女の言葉に反応したのは調書を取った騎士ではなく、長身の。
「院長?」
「そ、その……っ。
この娘がしらゆり孤児院で暮らしているそうでっ」
思わぬところからの横槍に慌てふためいて立ち上がった騎士が、滑舌もよく一気に捲し立てた。まるで定規のような直立不動っぷりである。
すると長身の騎士は、腕組みをして眉根を寄せた。
「その孤児院の娘が、何故この村の駐在所に?」
そのひと言に、直立不動だった騎士のシルエットがいっそう細くなったように見えたのは、ミナの気のせいではないだろう。
ミナは考えを巡らせた結果、そっと口を開いた。もちろん、今いる騎士達の中でもっとも位が高いであろう騎士を見上げて。
事情はよく分からないけれど、緊張状態に置かれている騎士が窮地に陥っている自分に救いの手を差し伸べてくれるとは思えない。ちょっと打算的すぎる気がしなくもないけれど、そうでもしなくちゃ生きてはいけない。世界はそんなに甘くないのだ。
「実は……」
声を発した瞬間に、長身の騎士がミナを一瞥する。
彼女はその視線の鋭さに竦みそうになりつつも、膝の上で両手を握りしめて口を開いた。きちんと訴えないと、いつまでも話が終わらない。孤児院に帰れないのだ。
「この村には、院長のお遣いで来たんです」
彼は、話し始めたミナに何も言わない。相槌すら打たない。ただ静かに彼女を見下ろしているだけだ。
そんな姿を見て、彼女は不安になった。聞いてくれていないような気がしたのだ。けれど、だからといって視線を逸らすのも失礼な気がするのも確かで……。
なんだか落ち着かない気持ちのまま、彼女は彼を見上げて言葉を続けた。不安が後押ししているのか、やけに早口で。
「子ども達に服を作ってあげるのに、布が必要で。
10人分もお金を預かっていたんです。帰りの馬車賃も。
それなのに、農道を歩いていたら突然ひったくりが……。
あっ、院長に謝らなきゃいけないし早く帰らないと――――」
「落ち着け」
必死に言葉を並べるミナを制したのは、長身の騎士のひと言だった。
口にピタリと何かを貼り付けられたように声を堰き止められた彼女が、彼を見つめて瞳を揺らす。
すると彼は大きな手を伸ばして彼女の肩に触れると、静かに膝をついた。腰から下げた剣が、また音を立てる。
遠かった彼の顔が急に同じ目線にやってきて、ミナは息を飲んだ。飲んでしまった、と表現するべきだろうか。別に男性に免疫がない子どもでもないし、彼が怖いわけでもなかった。ただ、まっすぐに自分を見つめる蔦のような深い緑色の瞳に圧倒されたのだ。
言葉を失ってしまったミナの胸の内を知ってか知らずか、彼はゆっくりを口を開いた。
「犯人は騎士団が探し出すし、君のことは孤児院まで送らせよう。
院長にはその際にきちんと事情を説明させる。
必要なら私が一筆書いてもいい。
……あの人のことだ、君が責められるようなことにはならないだろう」
そこまで話して、彼は言葉を切り上げる。そして、きょとんとしているミナの目を覗き込むようにして、再び言葉を重ねた。
「もう、大丈夫だ」
何も解決していないというのに。ミナは奥歯を、ぐっと噛みしめた。そうでもしないと、震える吐息が口から零れてしまいそうだったから。
だから彼女は、手にしていた帽子を被って慌てて頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
ふわりと浮くような感覚に、彼は目を開けた。次の瞬間、目に入ってきたのは白い天井。感じたのは温い風だ。
どうやらソファに寝転んで、そのまま寝入ってしまっていたらしい。蒼鬼、のふたつ名には似つかわしくない姿に、自分でも苦笑が浮かんでしまう。
口元を歪めた彼は静かに立ち上がると、あたりを見回した。誰もいない。目を閉じる前には、たしかに妻がそばにいたはずなのに。
それほど長く経っていないのは彼女が用意してくれたグラスを見れば、なんとなく分かる。井戸水でよく冷やされたレモン水は、グラスにほんのりと汗をかかせているだけだ。
「ミナ……?」
思わず呟けば、自然と彼女の気配が感じられた。おそらく庭だ。
こうまで正確に居場所が分かってしまっては、もう逃がしてやることは叶わないだろう。支配欲とまではいかないけれど、やはり目の届く場所にいてもらいたいのが本音である。
渡り人の彼女には理解出来ない理屈で申し訳ないと思うものの、だからといって譲る気はさらさらなかったりするのだ。
我儘だな、と自分でも思う。思うだけだが。
ガラス戸を開けて庭に出ると、 木陰にしゃがみこんでいる人影が。
どうやらミナは庭の一角に植えたハーブの様子を見ているらしい。いくら帽子を被っているとはいえ、この日差しの下で大丈夫なんだろうか。
心配になった彼は、足早に彼女に近づいたのだった。
その時だ。下を向いていたはずのミナが顔を上げた。
目が合った瞬間、彼の顔に笑みが浮かぶ。ふわりと綻んだ唇が紡ぐ自分の名は、妙に心地よいものだ。それはきっと、いつまでも変わらないだろうと思う。
「シュウ、もう起きちゃったの?」
小首を傾げた彼女の言葉に、彼はぴくりと眉を動かす。なんだかいろんなものを否定された気分だ。
けれど彼女は何一つ気にする様子もなく、溜息混じりに呟いた。
「明け方まで仕事してたんだから、ゆっくり休んで下さい」
上目遣いで見つめられてしまえば、別の意味で眉がぴくりと動いてしまう。いつもこうだ。なんやかんやと揺さぶられるのは彼の方。
だから、ちょっとばかり仕掛けてしまいたくなる。
「じゃあ、今夜は早目にベッドに入るか?」
「……えぇ……っと……」
彼が低い声で囁くと、ミナの視線が右へ左へ。動揺したのだろうか、逃げるように顔を伏せて口ごもってしまった。
「もう。もうもうもう。なんでいつもこうなるかな~」とかなんとか、ぶつぶつ吐き出している。今日は手に土がついているからなのか、ぽかぽか叩かれることはないようだ。
そんな妻を見下ろして、シュバリエルガは眉根を寄せた。今見ている光景を、以前にもどこかで見たことがある気が……。
彼が霧を掴むような気分でいると、ふいにミナが顔を上げた。ほんのり頬が赤くなっているのは、きっと暑さのせいではないだろう。
目が合った瞬間、シュバリエルガは息を飲んだ。
ぼんやりとしていたものが、急激に輪郭を纏っていく。確信めいた何かが、すとんと腑に落ちてくる。
そして気づいた時には、笑みが浮かんでいた。
「……シュウ?」
訝しげな表情をしたミナに覗きこまれ、シュバリエルガは苦笑混じりに首を振るしかなかった。この不思議な高揚感を言葉にするには、少し時間がかかりそうだ。
「なんか、嬉しそうだね?」
珍しくコロコロと表情を変える夫を見て、ミナもどこか嬉しそうである。ついさっき振り回されたことなんて、もうすっかりどうでもいいらしい。
遠くの空で雷鳴が轟いている。夏の天気らしく、通り雨が降るのだろう。
湿った風が流れてきたのを感じて、シュバリエルガはミナの肩を抱いて歩きだした。雨に濡れて体が冷えでもしたら大変だ。
「小腹が空いたな。温かいものでも飲むか。
用意は俺がするから、ミナは手を洗って来い」
「ん、ありがと」
お茶の用意をする間、彼は考えていた。さっき思い出した数年前のことを、どんなふうに話したら妻が驚くだろうかと。
そればかり考えていたせいで茶葉を零してしまい、さらにその現場を妻に押さえられてしまったことは、この際ご愛嬌である。




