雨空の教室
昼ごろから降りだした雨は、やむことを知らなかった。
最初のしずくが落ちたかと思えば雨はすぐに勢いを増し、屋根を叩いて、その下の学校を一瞬のうちに静けさに閉じこめた。
午後の授業を終えても雨は落ちつかず、ため息をついた生徒たちは、それでもひとりまたひとりと教室を後にしていった。電話で何事か喋っていた少女は親に迎えを頼んだのだろう。意気揚々と歩いていった少年は、念のためにと傘を用意しておいたのか。彼らも出ていって、やがて教室のなかには小夏だけが取り残された。
窓ぎわの最後列の席で、ひとり、音を聞いている。降り続く雨音を。教室から少しずつ人の声が、その足音が消えていくのを。そして、机に突っ伏した自分の、深い呼吸の音を。
先ほどから、携帯がモバイルライトを点滅させているのを知っている。着信音もバイブ機能も切っているためにちかちかするだけのそれは、歌を失った歌手に似ていた。
表示されているのは和樹の名前で、もう何通もメールが届いている。いつ学校を出るかと問いかけられるのを、ずっと無視し続けていた。一度だけ電話がかかってきたけれど、それもすぐに途切れてしまった。彼にも気恥ずかしいところがあったのだと思う。それきり着信はないままで、ついにあきらめたのだと頭のすみで考えた。
返事をしない理由は明確だ。帰りたくないから。帰って、また明日を迎えるのが嫌だからだ。
子どもっぽいことを、と思う。――ずっとここにいられるわけではないのに。
「小夏さん?」
うかがうように、名前を呼ぶ声。教室の前の扉からだ。顔を少しだけあげて、そこに立つ和樹の姿を確認するとまた伏せた。
「メール届いてなかった? そろそろ帰ろうと思って」
「……雨が降ってるから。傘もないし」
苦しまぎれの言い訳も、それとは気づかれなかったようで、大丈夫、と返される。
「姉ちゃんが迎えにくるって言うから。玄関で待たないと」
用意周到なところが憎らしい。
何事にもそつがないのだ、と理解している。対人関係も、学校生活も、なにもかも。
「まだここにいる。先に帰って」
「できないって分かっててそういうこと言う……」
「ほっといて」
会話を絶とうと声を硬くした。組んで額の下に置いていた両手に、力がこもる。
彼のためらいの気配が伝わり、ややあって、離れた位置から床に椅子をひきずる音がした。ちらと目を向ければ、教室の中心あたりの席に和樹が腰をおろしている。
(出ていけばいいのに)
姉に事のしだいを報告するなり、自分のクラスに戻るなりすればいいものを、わざわざここにとどまるつもりでいるらしい。小夏が歩みよりを拒否していることぐらい、おそらく彼も感じているだろうに。
どれだけ経ったか、根気比べのような長い沈黙のあとに、和樹がひとつため息をついた。
「小夏さんさあ、がんばりすぎだと思うよ」
ひとり言のような声は、ともすれば雨にのまれて消えてしまいそうだった。
和樹がこちらに気付かないよう、ひそかに顔を向けて耳をそばだてる。彼は猫背ぎみの体を背もたれに預け、黒板をながめたままで動かない。その顔は見えないけれど、また穏やかに目を細めているのだろうと想像するのはたやすかった。
「少しぐらい弱音吐いたって、だれも責めたりしないし」
そこで口を止める。慎重に言葉を選ぶから、きっと彼は無駄にしゃべることをしないのだ。
「嫌いになったり、しないから」
なら。
和樹の言葉に、無言のまま反発する。
(――それなら、雨宮小夏を、だれが守るの)
妬みも恐れも知らない純粋な彼女を、守る人間がどこにいる?
瀬尾小夏も、雨宮小夏も、どちらも自分であって切り離すことは不可能だ。瀬尾小夏が傷つけば、彼の言うとおりきっと誰かが支えてくれるだろう。胸の奥にためこんだ鬱屈した感情を吐き出しても、受け止めてもらえるかもしれない。
けれど雨宮小夏には、誰もいない。分かちあうことができるのは同じ自分だけだ。それがプロであるということではないのか。
歌手としての重荷ぐらい、ひとりで消化できなければいけない。周囲より早く社会に足を踏み入れたのだから、相応の責任を負わなければ。
「わたしはプロだから」
そう言って、また黙った。
幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉だった。自分を拘束する言葉であり、奮いたたせる言葉でもあった。悔しさを与えられればそれは向上心に変わったし、強くあらねばという自責の念はひたすらに自分を追いこんだ。
だから今回だって、いつかはひとりで立ちあがれる。そう信じているから、今は我慢するだけでいい。
和樹が体ごとふり向きかけて、動きを止める。背もたれにかけようとしていた手をおろし、姿勢を戻して、すねたようにぽつりと言った。
「……かっこよすぎだ、小夏さん」
「はあ!?」
思わず大声が出た。和樹も負けじと声をはりあげる。
「なんで寄りかかろうとしないかなあ! 周りの大人だっている、役に立たないかもしれないけどおれだっているし、ここには友だちだっているんだろ!?」
目をみはる。この少年が声を荒げるところを、初めて見た。
すでに意地だろうか、教室の前の方を向いたまま。聞き分けのない子供を叱るような口調で、それでいて苛立ちをぶつけるように、呼吸の音さえも聞こえてきそうなほどの剣幕で。
「おれだって小夏さんの話を聞きたいんだ。プロって、……プロって、なんだよ。全部ひとりでなんとかしようとするのが、そうじゃないだろ」
「しいな」
「もうちょっと、ちょっとぐらいさあ……」
勢いが徐々に消えていき、比例して背がまるくなる。しまいには下を向いて、おろした両手を握りしめて。
「疲れたとか、助けてとか、つらいとか、」
言ってよ。
その声が、雨に溶けていった。
さらに何ごとか続けて、打ち消すように小さく首を振る。窓を叩く雨音にしきられてしまい、もごもごとした彼の声は届かない。彼自身、もはやそれらを小夏に伝えようという思いはないのかもしれない。
――憤りは、なんのためだろう。
間違いなく小夏に向けられた文句は、けれど、暴言の体をなしてはいなかった。むしろそうであれば反論のひとつもするものを、言い返す気力すら腹の中で薄れていってしまった。
そっぽをむいている彼は、きっといじけているのだと思う。言いたいことを言いきったのだという満足感すらないのだということは、後ろからそれを聞いていた小夏からも見てとれた。なににおいても器用なくせに、なぐさめの言葉すらうまくは言えないのだ。
それでも小夏を放ってはおけなくて、ええいままよと胸中のものを叫んで。あとに残った後悔と沈黙とに板ばさみにされて、今ごろは眉間にしわを寄せているだろう。
なにか言ってくれ、と思っているはずだ。これではどちらがなぐさめられているのか分からない。
(ああ、もう、馬鹿)
ぷっ、と吹きだした。こらえられずに、のどの奥で笑ってしまう。
「笑っ――」今度こそ立ちあがって小夏に向きなおった和樹は、そこで、あ、と声をもらした。しかめっ面が、すぐに困惑へと色を変えていく。
「なに、あんた……あはは」
心の中で、馬鹿、と連呼する。そんなことなど思いもよらないだろうに、彼は眉を八の字にした。
――止まらないのだ。
堰が壊れてしまえば、あふれる涙におさえがきかない。笑いもとどまるところを知らないから、はたから見れば自分はさぞ情けない泣き笑いの顔をしているに違いない。
そんな小夏に和樹は戸惑うばかりで、もう一度背を向けるべきかと悩んでいるようにも見えた。ずっと小夏に背を向けてしゃべっていたのは、彼女が涙を流しても目に映さないようにという和樹なりの配慮だったのかもしれない。
目をこすって、腫れるだろうな、と少しだけ心配する。止め方も分からなくて、鼻をすすれば恥ずかしさとおかしさとでまた涙が出る。人前で泣くどころか、こんなふうに泣くことさえ初めてで、しかも相手は泣いている女にハンカチ一枚差しだせないような男なのだから目も当てられない。
しかも、そんな男の前で涙を流し続けるのは、ほかならぬ自分なのだ。
「あー、もう。泣くなんて」
おどおどとこちらをうかがっている和樹に、当てつけるように言う。
謝る言葉なんていらなかった。ただ、気付かないでいてくれたらそれでいい。
(わかってなんか、いないでしょう)
わたしが、こんなふうに泣いてるのは――あんたのせいなのよ。
“おかげ”だなんて殊勝なことは心の中でも言えなくて、不意にあいた沈黙をごまかすために、小夏は自分のハンカチで両目をぬぐった。もう周りの赤みは取れないだろうけれど、涙は役目を果たしたとばかりにぴたりと止まってくれる。すん、と鼻を鳴らして、和樹の顔を視界にとらえた。
「わたし、負けないから」
小夏を支えるものは、歌への気持ちと強い負けん気。
自分に言い聞かせるつもりで言ったそれに、和樹は唇を引きむすんでうなずいた。そして、ふと神妙な表情をする。
「小夏さん、確かライブがあったよね。取りやめたんだっけ」
「名前も知らない誰かさんのせいでね」
もはや苛立ちしか湧いてこない。怯えていたのが嘘のようだ。
そうだね、と和樹が苦笑し、それから口の端をつりあげた。
「そのライブ、やろう」
「やろうって、あんたねえ」
「マネージャーさんに止められてるのは知ってる。……でも、おれたち、高校生だよ」
「それがなにか……」
問おうとして、はたとする。高校生、そして学校の持つ特性とはなにか。だんだんと理解が追いついてきたものの、彼が思いつくような案にしては突飛だ。
和樹は小夏の狼狽を読みとったのか再度うなずいて、いつになく自信ありげな表情をしてみせる。
「歌おうよ、小夏さん」
にやりと微笑む、それを見ればすぐに納得がいった。突如の発言の理由なんて考えるまでもないことだ。こんなことを思いつきそうな人間を、自分はもうひとり知っているのだから。
(似てないなんて、どうして思ったのかしら)
――あの姉にして、この弟ありとはこのことだ。




