匿名の刃は赤く
夏のにおい、というものがある。
たとえばそれは熱しに熱されたアスファルトのにおいであったり、プールの上を通りすぎた風の、つんとくる塩素のにおいであったり。そしてあるいは、汗くささを隠すための制汗剤のにおいであったりする。
小夏にとっての夏もそうして始まるはずだった。汗と日差しを嫌う女子高生たちのなかで、その一員として、同じように液体の制汗剤を塗りたくって。
――その朝、事務所に来なければ、いつもと同じ夏が訪れていたのかもしれない。
「見ちゃだめ、……小夏ちゃん!」
肩を揺さぶられて視界が揺れる。けれど小夏の目は一点に向けられたまま離れなかった。
人と人のあいだからかろうじて見えるのは、壁一面に貼り付けられ、バツ印をつけられた自分の写真。――そして、見間違えようもない、雨宮の名前だった。
『雨宮小夏は最悪の歌手』
映写機が頭の中にあるようだ。鮮烈な赤に彩られた攻撃的な言葉が、脳裏に焼きつけられる。
見てはいけないと小夏をたしなめる誰かの声さえも、はるか遠くで響くだけ。人の海にとらわれて、ささやきと叫びがぐちゃぐちゃに混じり合った波の中で、そのくせ心のなかばかりがしんと静まって。
『引退しろ』
ひときわ太く塗られたその文字から、やけに甘ったるい苺のにおいがした。
事務所の控え室にこもって、騒ぎがおさまるのをじっと待っていた。野宮が手配したのか、昼前だというのにだれもそこには寄りつかない。ひとりで使うには中途半端に広い部屋で、ティーパックで煎れたばかりの紅茶と向きあう。
(なに、あれ)
紙コップの紅茶に映る自分に問いかけても、答えが出るはずもない。琥珀色のそれに口をつけて、まだ早かったかなとしびれる舌を噛んだ。
早朝に事務所を訪れたあたりから、記憶がやけに鮮明に残っている。
事務所の壁に貼りつけられていたのは、大きく赤いバツ印をつけられた小夏の写真だった。印のない数枚には小夏の引退を訴える痛烈な言葉が殴り書きされていて、人の目を集めていたのだ。何重にも上塗りされたバツ印からは、姿の見えない相手からの強烈な敵意が叩きつけられた。
胃の中にたまった、重い空気を吐きだした。結局紅茶を飲む気にはなれずにコップを遠ざける。
(……なにか、したかな)
他人をおとしめるようなことを。あれだけの批判を受けるようなことを、しただろうか。
ファンを裏切ってしまったり、なにげない一言が誰かを傷つけていたり――いくら考えても、空回りするばかりだ。そもそも、つい最近まではこれといったおおやけの場には立っていなかった。前回のライブを行ったのももう四ヶ月も前のことだ。
「なによ……」
理由がわからない。雨宮小夏が、どうしてあれだけ嫌われなければならないか。
二回、三回、と扉が叩かれたあとに、野宮が部屋に入ってきた。あらかたの処理は済んだようで、扉のむこうの騒ぎはいつの間にかおさまっていた。
「ごめんね、小夏ちゃん」
「いいえ……。だいじょうぶです」
「早めに連絡入れて、今日のお仕事をお休みにすればよかったんだけど」
それは。
(わたしがなにも知らないうちに、なかったことにする、ということ)
歌手たちにストレスなどの負担を与えないようにするのも、マネージャーの仕事だと聞いている。精神状態は歌にそのまま響き、最悪の場合は活動停止に追いこまれることもあるからだ。メンタルケアの苦手な若手の歌手には特にそれが顕著なのだと。
思い知らされる。――守られてきた。
小夏の歌の背後には、周りの大人が固めた足場がある。もしかしたら今までにもこんなことはあって、ただ小夏が知らないでいただけなのかもしれない。
あの、と呼びかけた。
「誰がやったか、とか……分かるんですか」
「特定まではできそうにないわね。こういうのって、あたりまえだけど匿名だから」
絶対に安全な場所から、攻撃してくる。そうして、自分の傷つけた相手の様子をうかがっているのだ。
「一応、椎名先輩が写真を集めて調べてるわ。筆跡とか、なにか手がかりがないか」
「美里さんが?」
「小夏ちゃんには色々と迷惑をかけたからって」
美里に連れ去られた一件は、いつの間にやら片づけられていたらしい。彼女は事務所の誰もが認める“変な人”であるようで、その一件についても彼女の気まぐれということで処理されていた。
野宮はハンドバッグから手帳を取り出し、スケジュールのうちの一日をボールペンでつついた。来たるライブの日取りが、几帳面な字でつづられている。
「このライブのことだけど、中止にするしかないわね。どんな妨害をされるかわからないし」
えっ、と声をあげた。
ちょうどひと月前から予定されていたライブだ。事務所ではネット上での告知を行わず、あくまでも都内の若者を対象としたものだった。それでもチケットはすでに完売していたはずだ。代金は払い戻すとしても、どれだけの落胆を生むだろう。
「どうにかなりませんか?」
「小夏ちゃんの身の安全が一番なのよ、ファンの皆さんには申し訳ないけど」
「でも、野宮さん」
「わたしには、小夏ちゃんを守る責任があるの」
二の句が継げずに、唇を噛む。
そんなことは分かっている、などと、口答えをするほど向こう見ずではない。
「親御さんから小夏ちゃんを預かっている以上、危険にさらすわけにはいかないの。分かってちょうだい」
――そう、分かっている。野宮の危惧がすべて小夏の今後のためだということも、今回の騒動がどれだけ緊迫したものであるかも。もしもライブを行って怪我を負うようなことがあれば、犯人の要求するように引退まで追い込まれてしまう可能性もある。
自分の声を、ときには容姿を、売り物にするというのはそういうことだ。
(だからって、こんなの)
はいそうですかと受け入れられるような聞きわけのよさなど、持ち合わせていない。ライブを待ち焦がれ、そのためにスケジュールを調整したファンもいるはずだ。彼らの期待を無視して、自分の身を守るためにライブを中止して、罪悪感が湧かないわけがない。
野宮の言い分もファンの思いも、よく分かる。分かっているから――もどかしい。
そこでもう一度、控え室の扉が叩かれた。二人の返事を待たずに開け放たれたそこから、手ぶらの美里が顔をのぞかせる。
「ごめんね、ちょっといいかな」
「なにかわかりましたか?」
問うた野宮に、美里は肩をすくめてみせる。
「ペンから苺の香りがしたことと、ちょっと女性らしい筆跡だったことぐらいしか。本人を特定できるものはないわね。……あとは、写真の裏を調べていて、一枚だけに書かれていた文があって」
そこで口を止め、美里は小夏を気遣うような視線をよこした。少しだけ迷ってから、答えるかわりにうなずいてみせる。それを受けて、彼女はジーパンのポケットから折りたたんだ紙を引きぬいた。
引き伸ばされ、コピー用紙に印刷された小夏の写真だ。表に攻撃的な言葉を書いた本人の字とは思えないほどに、その写真の裏面には弱々しい言葉がつづられている。
――SHEENAをかえして。
これをもって、女性の字だと判断したのだろう。表と同じペンを使っていながら、角の少ない丸めの筆跡と小さい文字。おそらくこちらが、犯人である彼女の本心だ。
美里はその紙をすぐに引きもどし、眉を寄せた。
「十中八九SHEENAのファンだから、この件はそちらだけに預けておくわけにもいかないかな」
初めての共同制作の相手だから、と野宮に諭されたことを思い出す。SHEENAのコラボ楽曲を快く思わない彼のファンが、その敵意を小夏に向けてきたのか。相手が小夏――女性歌手であったことはことさら彼女の怒りをあおっただろう。
「学校にも送ってあげたいぐらいなんだけど」
野宮の言葉に、小夏はぶんぶんと首を振った。そこまでされてはたまらない。プライベートを仕事に持ち込むのも、仕事をプライベートに持ち込むのもまっぴらごめんだ。
しばし沈黙した控え室に、美里が柏手を打つ音が響きわたった。妙案でも思いついたように、そうだ、という明るい声を出したけれど、その動作の主は他ならぬ彼女だ。嫌な予感しか覚えない。
「小夏ちゃん、私の弟に送らせるわ」
「はい?」
野宮と小夏の声が見事に揃った。指揮者のように、美里が人さし指を振る。
「うちの子なら小夏ちゃんと知り合いだし。それに同じ学校だから」
「うそ!?」
「本当よ、……やっぱり知らなかったかあ」
美里が頭をかいた。
そんな馬鹿な、とは思ったけれど、考えてみれば学校の話などしたことがない。制服のない私立の学校では同じ学校の生徒だと見分けることも困難で、そして彼と顔を合わせたのはそのほとんどが休日だった。統一された鞄も、平日でなければ持ち歩く必要はない。
そもそも、部活動に手を出さないため交友関係の狭い小夏である。自分のクラスにいるならまだしも、他クラスともなれば名前と顔が一致するのは数人だけだ。
「でも連絡先は知ってるのよね?」
心臓がはねた。
「なんっ、で、知って」
「和樹に聞いた」
交友関係も筒抜けか。
おそらく姉の方が無理やりに聞きだしたのだろう、へそを曲げている弟の姿までありありと想像できた。この姉弟の中では、隠しごともなにもないらしい。
「どう、野宮」
「まあ、小夏ちゃんがいいのなら、それが安全かもしれませんね」
渋面をしながらも反対する気はないようで、こくりとうなずいた。ふたりの間でほぼ固まってしまったその案に、小夏一人があらがえるわけもない。
「……わかりました」
とうなだれる以外に、道はなかった。




