それは誘拐のように
腹の出たあのエンジニアと仕事をしたのは、録音が終わった段階で三回だった。録り終えたときには陰ながらガッツポーズをしたものだ。間延びした声と外見との対比がどうしても苦手で、実績があるとは知っていても、共にいる時間が苦痛だった。
レコーディングを終え、事務所で簡単な打ち合わせをしたあとに、野宮と並んで歩く。夕飯は彼女と食べる予定でいた。歩調も軽快になるというもので、野宮はそれをさして笑う。
「ずいぶん元気ね、そんなにあの人が嫌だった?」
「はい!」
「いいお返事。でも駄目よ、そういうこと言ってちゃ」
性格が合わない相手なんて、ごまんといるんだから。そう肩をすくめられた。仕事には私情を持ちこまないところにはひそかに憧れている。マネージャー業は自分が初めてだと言っていたけれど、この事務所に勤めていた期間はもっと長いはずだ。
多数の歌手と専属のマネージャーを抱えこむこの事務所で、今や売り上げトップの座についているのはSHEENAだ。そのマネージャーは彼の姉だという。
あれから質問攻めにしたけれど、和樹はなにひとつ嘘をついてはいなかった。彼の姉のマネジメントの対象がSHEENA、彼自身であったというだけだ。
――椎名美里。その女性が、彼の姉だという。聞いたことのない名ではあったけれど、そもそも事務所に勤める人の名前をすべて把握しているわけがない。
似てないって言われるけど。そう最後につけ足して、和樹は照れたように笑った。
(そうだ)
小夏は足を止めた。ふり返った野宮を、仰ぐ。
「野宮さん。この事務所に、椎名美里さんって」
「うん? ――ああ、椎名先輩ね。いるわよ」
先輩。野宮よりも前から事務所に勤めている女性だ、と記憶にとめて、小夏はさらに尋ねる。
「どんな人ですか?」
「どんな人って、そうねえ」
それきり考えこんでしまう。野宮さん、と不安になって名前を呼ぶと、彼女は眉を寄せた。
「ひとことで言うなら」
「あっ、小夏ちゃんだ!」
野宮のものではない声に呼ばれた。ハスキーながらも、女性の伸びを残した声は耳ざわりがいい。しかしそんな声には聞き覚えがなく、怪訝に思った――のも、つかの間。
このあたりにいるだろうと見当をつけた位置に目を向けても、すでにそこには誰もいない。どこにと慌てれば、すぐ横でなにかが動く気配がした。
ほんの数秒で廊下を抜けたのか。驚いても遅い。
「変な人、かしら」
野宮が答えを出した瞬間に、素早くがっつりと腕をつかまれる。女性のものだとすぐにわかる細くて白い指には、驚くほどの力がこめられていた。ふり払おうという考えが頭に浮かぶよりも前に、その女性はさらに腕を引いていく。抗えず、台風のようなそれにさらわれる。
「野宮、この子借りてくね!」
「はい? ……って、椎名先輩、待っ」
それ以上は聞きとれなかった。
歩幅が長い女性の早足についていくには、小夏は自然と走らざるを得なくなる。腕をつかんだ手の力はゆるむことなく、引かれるままに事務所の廊下を抜けていく。足音が聞こえないのは、彼女が履いているのがヒールのない靴のためだ。
(ちょ、っと。待って)
編みこまれた茶髪と、すっきりした立ち姿。暗い色のジーパンにシャツというシンプルな服装は、背が高くすらりとした体型の彼女によく似合う。野宮があくまでも女性らしさを中心にすえた美人なら、こちらは男性の中に混じっても違和感のないような美人だ。軽やかに、大股で歩いていく姿も様になっている。……いるけれど、これではまるで。
(誘拐っていうんじゃないの……っ!?)
流されて、流されて。
気がつけば小夏は、事務所の外の軽自動車に乗せられていた。
そのまま連れてこられたのは、郊外にあるマンションの一室だ。
走った距離はそう長くはない。むしろ事務所とくらべれば、小夏の家に近づいていた。普段は学校や事務所への移動に電車を利用している小夏だが、このマンションからであれば自宅にも徒歩で帰れるだろう。後部座席から見知った風景が目に飛びこんできたときには驚いたが、帰りは楽ができそうだ、と予想外の幸運に喜ぶことはできなかった。
「………………」
――無言のまま受ける、刺さるような視線が痛い。
部屋の中央にある低いテーブルの前に、小夏は腰をおろしていた。相対的に上から向けられるそれから、必死に目をそらす。そこにどんな表情があるかなど容易に想像できた。えてしてその通りだったのだろう、彼の口から最初に出たのはため息だった。
「あのさあ」
「ふ……不可抗力よ」
とうとう耐えきれずに顔をあげてしまう。呆れの一色に染まった目とかちあった。
どうやら学校帰りらしい。前回に出会ったときのようなワイシャツを着ている。着崩すということをしないようで、そのボタンは二つほどを残してきっちりと留められていた。
荷物が詰まっているためか垂れ下がったショルダーバッグを部屋のすみに置いて、和樹はキッチンへ歩いていく。そのキッチンからは、先ほどから絶えず鍋の湯が沸く音が聞こえてきていた。小夏をここに連れてきた張本人である和樹の姉、美里が夕食の準備をしているらしい。
親御さんに連絡しておいてね、と言われるままに携帯からメールを送ったが、いまだに自分がなぜ連れてこられたのかはわからないままだ。
戻ってきた和樹が、同じ机を囲んで座る。
「どうせ姉ちゃんに連れてこられたんだろうけど。人の話聞かないから」
「どうしてわたし、つれてこられたの」
小声で尋ねると、さあ、と肩をすくめられる。姉弟でも意図がつかめないというのはどういうことか。
和樹の目が、正座をしたままの小夏の足に向けられた。彼は申しわけなさそうに眉を寄せ、自分の足を軽く叩いてみせた。
「あんまり気は遣わなくていいよ。晩飯だけ出したら帰すつもりだろうし」
「気を遣うなってほうが無理でしょ、人の家に来てるんだから」
「しっかりしてるね」
「親の教育よ」
小夏の両親は厳しい人で、一人娘に対してももちろん例外はなかった。それに反感を覚えることこそすれ、理路整然とした両親のいいぶんはもっともなことで、しぶしぶ従っているうちにそれらは身に染み着いてしまっていた。芸能界で生きていくことが決まった当初には、ずいぶんと役に立ったものだ。
台所の音がいったん止まり、代わって油のはじける音が聞こえてくる。次々と移り変わるその音が手慣れている気配を感じさせて、成人している美里なのだからそれは当然なのかもしれないとは思ったけれど、疑問が浮かんだ。
(ご両親が見えないのよね)
このマンションの一室に入るや否や、美里はさっさと夕食の調理に入ってしまった。手持ちぶさたになった小夏は、家への連絡をすませたあとは部屋の中を見わたしているしかなかったのだ。きちんと整理された部屋のなかには、なぜか彼らの両親の私物らしきものが見当たらない。
美里が戸惑いもなく料理に移ったこともあわせて、もしやと思った。
「ご両親とは離れて暮らしてるの?」そこであっと思って、「言いたくないならいいんだけど」とつけ足す。
若くして両親と離れて暮らしているのだから、なにか並々ならぬ理由があるのかもしれない。他人の問題に首をつっこむのも失礼かと、言ってしまってから後悔した。
和樹は虚を突かれたように、ええと、と言いよどんだ。二重の目で数回まばたきをする。どう説明すべきかと考えていたらしい、それから言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「うちの両親、仕事先が海外だから。日本にいることのほうが少なくて、しかも実家がかなり地方で。ここから……ええと、車で一日かかるぐらいの」
納得がいって、ああ、と相槌をうつ。
小夏たちの属する事務所の本社は、都心をはずれた辺りにある。それでも大都会東京には変わりない、地方出身の歌手ならばまず転居を考えるだろう。ただでさえ多忙なのに、移動時間がそれ以上にかかるのではとてもではないが生活していけない。
「それで越してきたってわけ」
「そう。……ごめん、ちょっと荷物だけ片付けてくる」
うなずいた和樹は立ち上がり、置いたままにしていた自分の荷物を肩にかけた。知らない相手ととり残される小夏の事を気にかけていたのだろう、香ばしい匂いがただよい始めた台所を見やり、声をひそめて言う。
「変なこと言われてもさ、無視していいから」
「変なこと?」
「聞こえてんのよ、和樹ー!」
突如響いてきた声に、和樹が肩をすくめた。ということはつまり、今までの会話もすべて聞こえていたのだ。
水気をふくんだ布巾を持って部屋に戻ってきた美里が、一度和樹に視線をやってから小夏に笑いかける。机の上を拭く手つきも慣れたものだ。
「小夏ちゃん、もうちょっとだけ待っててね」
「すみません、ご飯なんていただいて」
「いいのいいの。連れてきたのはこっちだし。暇にさせちゃってごめんね、……そうだ」
手を止めて、ある一方を指差した。和樹が入ってきて開かれたままの、横開きの扉の向こうがわだ。いくつか部屋が並んでいるが、指はそのうちの真ん中を示している。
「あれ、その子の部屋だから」
「はい?」
意味が分からず小夏が尋ねかえすのと、和樹が顔色を変えるのが同時だった。美里は少年のような笑みを浮かべてみせる。化粧のきつさのない彼女に、やはりそれはよく似合っていて。
「入ってもいいよ、おもしろいものもあるし」
「姉ちゃん!」
「いいじゃない、恥ずかしいものでもなし」
布巾を手に立ち上がって、お好きにどうぞ、とばかりにまたキッチンへ戻っていく。冷蔵庫を開けたのであろう音があとに続いた。まだ調理は続くらしい。
和樹を見上げると、今度は彼のほうが懸命に目をそらしていた。さっきとは真逆になった立場がおかしくて、小夏はなにも言わずにそのまま彼を見つめ続ける。おもしろいもの、と言った美里の言葉が気にかかってもいた。
「……そんな、なにも」
しぼりだすような声が出された。それでも目を合わせようとしない和樹の隣で、小夏は立ち上がる。そうしてしまえば、背丈はほとんど同じだ。それでいくらか威勢を取り戻して、小夏はにっと口のはしをつり上げた。
「おもしろいかどうかはわたしが決めるわ」
「……横暴」
ぼそりとつぶやかれ、彼の背を強く叩いた。うめき声のあと、「それに暴力」と続く。
「わかったよ、わかったから」
ななめ下を向いての言葉と、短いため息が漏れた。
和樹が他人に対して強く出られない姿勢は、どうやらあの姉と暮らしているうちに染みついたものらしい。ひとり暮らしの小夏にはわからないが、やはり歳の離れた兄弟には逆らえないものなのだろうか。
肩を落として先を歩く彼の背を見て、小夏はくすりと笑った。




