もうひとりの自分
息が上がった。
アップダウンの激しい曲調は、はりのある高音を持つ彼女の得意とするところだ。とはいえ、歌い終えた瞬間の体中の力が奪われるかのような虚脱感は、他の曲を圧倒してあまりある。
メロディに歌声を乗せれば、それは高圧的な音となってふりそそぐ。スタジオの中に満ち満ちた音楽は余さずひとところに収束し、そうして世界でただひとつの歌へと変わる。そんなふうに作り上げられていく曲が、歌が、大好きだ。けれど。
(疾走感あふれるギターチューン? 大嘘にもほどがあるわよ)
こちらを試してきているとしか思えない。小夏の本領を発揮できるような曲調の難易度を執拗なまでにあげて、これぐらいなら歌えるでしょう、とでも問いかけてくるような。自尊心が邪魔してSHEENAの歌を聞いたことはないけれど、こんな歌ばかりを歌いこなしているのなら歌唱力うんぬんの前にまず嫌味だ。
負けるものかと力をふりしぼった。結局のところ彼女を突き動かしているのは歌うことへの愛と、誰よりも強い負けん気だ。酸欠になるのではないかと心配になったのはデータを見たときだけで、歌うそのさなかはすべての懸念を捨て去った。
その結果がこれだ。深呼吸をくりかえして、なんとか普段の呼吸をとりもどす。
『はい、おしまい。お疲れさま!』
ヘッドフォン越しに、野宮の声が聞こえてくる。その声色はいつになく温かく、小夏はきょとんとして窓の外に目を向けた。最初に目があった女性のエンジニアはふんわりとほほ笑み、うんうんとうなずいている。困ってしまって、野宮と同じようにマイクに向かって声をかけた。
「あの、今ので……」
『オッケーよ、よかったわ』
何か月ぶりに聞いた台詞だろう。目がくらむような高揚感を身の内にこらえると、じわじわと口のはしがつりあがって三日月を形どる。ありがとうございますと頭を下げ、小夏は小走りでスタジオの扉を開いた。
「一週間でなにがあったの? びっくりしたわ」
「わたしも、よくわからなくて」
半分は嘘、けれど半分は本当だ。
和樹と言葉を交わしたことが関わっているのだとは思うが、歌いかたを指摘されたわけでもアドバイスを受けたわけでもない。むしろそんなことをされようものなら、反発して逆の方向をいくのが小夏だ。
雨宮小夏のファンだと言ったあの少年と会ったのが二日前の金曜日。前回のレコーディングが一週間前。ターニングポイントは確かにそこだった、しかし彼の言葉に、小夏の歌声までも変える力があるものだろうか。
「デビューしたての頃みたいだけど、もっとうまくなった。……うん、すごくいいと思うわ」
「あ、ありがとうございます!」
腰を折って、大きく頭を下げた。胸がどきどきしている。野宮にここまでほめられたのも久しぶりで、飛びあがって喜びたい気持ちを必死で抑えていた。よかったですよ、と同様に言ったエンジニアは眼前の機械をいくつか操作して、マイクの電源を落とした。
「まだ録りますか? わたしはこれで十分だと思いますよ」
「そうですね……どうしましょう、小夏ちゃんは?」
「――え、っと」
実のところ、歌うのに集中しすぎて、技術のことなどまったく気にしていなかった。ここでビブラートをかけよう、ここで張りあげようと、音楽活動を続けるにしたがって気をつかうようになったこともすべて忘れていた。けれど、もう一度録り直して、果たしてあの歌が歌えるだろうか。
気をきかせたエンジニアが、先の音源を流し始める。それをサビの途中まで聴いたところで、小夏は首をふった。
「わたし、これでいきたいです」
「そうね」
野宮もうなずく。
確かにささいな粗はある。しかし、小手先の技術に目を奪われれば失われてしまうようななにかが、その歌にはあるように思えた。誤った選択ではないはずだともう一度、自分を納得させるためにもうなずき返す。
あとはこの音源をSHEENAのほうへ渡して、既定の場所にメインとなる歌とコーラスを入れてもらうのを待つだけだ。先にコーラスを録り終えているから、小夏の分担する歌唱部分はここで終わりになる。
理解がいったとたんに力が抜けて、張りつめていた緊張がとけていった。
「野宮さん、あの、迷惑をおかけしました」
野宮が、眼鏡の奥の目をこころなしか見開く。
「わたし、ずっとうまく歌えなくて。歌手として駄目でした。メンタル弱かったって」
「あら、いいのよ」
けろりと返される。野宮は目をほそめた。そうして笑うと、もともとつりあがった目のせいか猫のような顔になる。
「誰にだって調子の出ないときがあるもの。そういうときは待つのが私たちマネージャーの役目。歌うことをやめないでさえくれたら、それだけでいいの」軽い調子でひらひらと手をふってから、エンジニアに向かって「それじゃあ今日はこれで。ありがとうございました」と一礼する。
おつかれさまでした。エンジニアがゆるやかな動作で頭をさげた。ベージュを基調としたふんわりしたフレアスカートには、そこかしこにレースがあしらわれている。森ガールだわ、とは、一目見たときの小夏の印象だ。
野宮に顔をもどすと、机の上に広げていた資料を片付けているところだった。その中にはもちろん小夏のスケジュール表も含まれている。来週にも余裕を持って取られていたレコーディングの予定を、野宮が二重線で消していく。
(……でも歌えないあいだは、あなたがいちばん怖かったです)
そんなことなど冗談でも言えず、帰り支度をはじめた面々の中で、小夏は自分の鞄を肩にかけた。
「へえ、それで?」
興味しんしんといった様子で尋ねた件の少年に、小夏は肩をすくめてみせた。
背の低い樹の植えられた垣根ごしに、車が低いうなり声をあげて走っていくのが見える。入り口とは正反対にあるために、スタジオの裏側には日の光は届きにくい。
公園にあるような鉄製のベンチがひとつ、用途を忘れてしまったように置いてあったのは幸運だった。そこに二人は並んで座っている。
小夏は今日の日付を確認するように空を見て、指を折った。
「SHEENAの音源があがって、CDになったのが一週間前でしょ」
「うん、買った」
「そ、そう。それで――わたしは発売のちょっと前に聴かせてもらったの」
かなわないはずだ、と思い知った。
SHEENAが主旋律を取るパートはもちろんだが、引き込まれたのはむしろ、それが副旋律に回ったとき。小夏が前に出ていく部分だ。
荒削りだったのは自分でも分かっている。自由に歌えば、どうしようもないあどけなさが出る。その歌声に厚みを増しているのがSHEENAの担当するコーラスで、言うまでもなく既定の区分の完成度は高い。だがSHEENAは、割り振られたパートを歌うだけにはとどまらなかった。耳をすまさなければわからないほどかすかに高音に混じったその声が、小夏の歌声のよさを消すことなく昇華させる。
あれだけのことをされれば十分だ。あちらは小夏の歌をこれでもかというほどに聴いている。どこが足りないか、どこが魅力になっているのか、すべて理解したうえで重ねてきた。
いわば尊重と補完の歌。SHEENAを慮ることもなくパスをした小夏とは、目指すものからなにから違う。
「負けたって思ったわ、悔しいけど」
その悔しさは、けれど、恨みには変わらない。
小夏への侮りなど、はじめからなかった。そんなことは、ひとつフレーズを耳にすれば伝わってくる。あれはひとりの歌手として、ひとりの歌手に向き合った結果だ。
「文句はないの。出ないのよ」
「そっか」
和樹がほっとした様子で目をそらした。
これといって待ち合わせをしていたわけではなかった。打ち合わせを終えて事務所を出たところで、また彼とはちあわせしたのだ。初めは驚いたものの、よくよく考えてみれば彼の姉はその事務所に勤めているのだからおかしいことではない。
どうだった、と問われたのがついさっき。事務所の裏に回って人目を避けるようにしているのが今、だ。
黒いズボンにワイシャツ、その下にTシャツといういでたちは、学校の帰りだからか。校章もなにも入っていないからどこの学校かまでの判別はできないけれど、高校生であることはわかる。中学生ではないだろう。年のころは同じだ。
デビュー当時は、自分よりも年上のファンが大多数だった。それが今ではどうだ。数の上ではもちろん年上が半数を超えるだろうが、同年代、さらには年下の学生たちまでもが小夏を応援している。
(……ひとりのファンコールでやる気が出るなんて、簡単なものね)
認められたかったのだろうか。
ふと思ったのは、大人の中でぽつりと歌う孤独からかもしれない。
「そう、あんたにもお礼を言わなきゃ」
「え? なんで」
「ありがとう」
「どういたしまして? ……あの、なにが」
わけも分からずといった具合で返す和樹は、もう小夏に対してどもることがない。小夏もまた、クラスの男子と言葉を交わすときのように、思わず一歩引いてしまう感覚は彼に対しては抱かなかった。どうやら仕事が関わってくるとその感覚も麻痺するらしい。雨宮小夏として接するからだろうか。
そう考え至った瞬間、笑いだしてしまいそうになる。こうして当然のように会話を交わしておきながら、自分の本名は明かしていないのだ。
「瀬尾小夏、っていうの」
「せお……?」
「わたしの名前。雨宮は芸名だから」
瀬尾小夏の友人は、雨宮小夏を見ようとはしない。雨宮小夏を売り出す事務所の人々は、瀬尾小夏の生き方には目もくれない。別のものとして切り離された二人の自分の両方を、どちらも小夏だからと受け入れられたためしはなかった。それでもいい、と思っている。これを繋ぎとめるのは自分で、自分だけがそれをわかっていればいいのだから。
けれど、名前を伝えるぐらいはいいだろう。隠しているわけではない。調べれば、ネットの片端ぐらいには存在しているだろう名だ。
「瀬尾小夏、さん」
「あんたの名前は? 弟くん」
そう問うた瞬間、顔をしかめられる。やっぱり覚えてない、とぼそりと言われて慌てた。
「あ、だから、フルネームよ! 名字まで!」
実を言えば名前もあやふやだ。もちろんそれは隠しておく。
小夏の弁明が功を奏したのかは分からないが、ふいに彼はよそを向いた。拗ねているというわけではないらしい。考えこんでいるようなその様子に違和感を覚えた。
「隠さなきゃいけないってこともないでしょ?」
「や、うん……まあいいか……小夏さんだし」
「なによその言いかた」
「馬鹿にしているわけじゃなくて。……うん、いいか」
どうやら彼の中にはなんらかの葛藤があったらしい。いいか、とつぶやいた和樹の顔はなんとなく晴れやかで、暑い日にゆるりと通り抜けた風のような、全力疾走をやり終えた瞬間のような、そんな表情をしていた。
「椎名。椎名和樹です」
――しいな。
それを聞いて呼吸が止まった。
「え、え?」
まさか、と心がストップをかける前に、小夏の頭は働いていた。思い当たる節はいくらでもある。
もしもSHEENAが小夏のように、本名から芸名を作り出したのだとしたら。芸能界を見ても、そうして芸名を選んだ著名人は数えきれない。
それに、小夏の本心に向かって問いかけてきたとき、まるで別人のように変わった和樹の声色はなんだ。雰囲気や口調というだけの話ではなく、突然他人がそこに現れたのかのように思うほどの変わりようは。
――そして、もうひとつ。
(マネージャーの弟だからって、SHEENAに直接会うなんてことが、ほんとうにできる?)
考えてみればそうだ。同じ事務所内、さらにはコラボする相手にも徹底的に隠されたSHEENAの正体が、マネージャーの弟とはいえ部外者の彼に知らされるはずがない。あまつさえ直接会って言葉を交わすなどということができようか。
(待って、待ちなさい)
ようやく思考を制御する。考えすぎだ。彼はあくまで、SHEENAのマネージャーの弟で。杞憂ならばそれでいい。
あくまでも今のは小夏の想像にすぎないのだと。名字が椎名というだけですぐに関連付けてしまうのは、早計にもほどがあると。
まさかね、と愛想笑いを浮かべて和樹を見つめた小夏に、和樹はにっこり笑って、
「SHEENAは、おれです」
――容赦なく爆弾を落としていったのだった。




