風は熱気をはらんで
高校生歌手という肩書きは、嘘いつわりではない。
はじめて歌手を志したのが三年前、小夏が中学三年生に上がったころのことだ。もちろん厳しい両親には猛反発をくらい、もうすぐ受験なのだからと諭された。
もちろん、小夏はそこで諦めることなど選ばなかった。ふたりを納得させるためにと必死で考え、都内でも名のある私立高校に合格することを条件にオーディションに出場することを申し出た。そのころの小夏の学力は中の下がいいところであり、絵空事をと思ったのだろう、親も了承した。うちの娘はなにを考えているのかとふたりが話しているのを、陰で耳にしたこともある。
小夏の負けん気は、しかし、そこで力を発揮した。
ぐんぐんと模試の結果がよくなっていくのを見た親が後悔し始めてももう遅い。持てる時間と体力をすべてそこにつぎ込んだ小夏は、するりと難関私立校の門をくぐってしまった。それどころか、大賞など届くわけがないと思われていた彼女はオーディションで審査員に太鼓判を押され、業界に送りこまれることになる――まさに執念がもたらしたデビューだった。
もちろん現役高校生でもあるのだから、勉強を欠かすことなどしない。一度知ってしまった成績上位者の優越感は、彼女にそれを手放すことを許さなかった。家庭での自習と歌手としての仕事で、千夏の休日はまたたく間に浪費されていく。
(……それを選んだのはわたしだから)
後悔をする気はさらさらない。けれど、放課後をスポーツや芸術、自分の思うように使っている同級生たちを見ると、うらやましさがにじんでくるのは否めない。三年生ともなれば受験も間近だ。高校生としての最後の時間を充実したものにしたいと思うのは、小夏とて同じことだ。
すっかり誰もいなくなってしまった教室で、黒板に向かって小夏はひとりたたずむ。今年の文化祭の出し物を決めていたのがついさっきの話だ。演劇、漫才、いくつか出された案の中に、歌にかかわるものはなにひとつない。
ひときわ勉学に秀でた人間が集まった学校の中であっても、小夏はイロモノだ。クラス外の生徒から突然サインを頼まれたときも、特別扱いはできないからと丁重に断った。けれど、クラスメイトたちがそうした行動をしたことはただの一度もない。
遠慮をされているのはわかっていた。とはいっても、敬遠されているわけではない。性格ゆえにリーダーにまつりあげられることは多かったし、生徒の仲間のうちに入ることもできる。けれど歌手として小夏を“使う”ことを、誰も意見としてあげようとはしなかった。
(優しいのよね)
小夏は結論づける。
ここは高校生としての居場所。歌手としての小夏を心から応援する人間がいても、それを取り上げて利用しようとする人間はいない。真綿に守られたように、くすぐったいけれど大切な、彼女の居場所だ。
小夏は、あ、と声をあげた。時計を見れば、もう約束の時間まで三十分を切っている。伝言を頼んだのはこちら側なのだから、せめて時間に遅れないようにしなければ。
私立高校既定の鞄を肩にかける。制服の指定のないこの高校では、その鞄だけが生徒の証だ。
いたるところから届いてくる女子生徒の笑い声を右から左へ聞き流して、小夏は廊下を歩いていった。
できるだけ早足でスタジオの前まで来たつもりだけれど、和樹はその前で平然と待っていた。ブロック塀に寄りかかったまま携帯音楽プレイヤーで音楽を聞いていたが、小夏を目にとめると電源を切ってイヤホンを外した。
パーカーを着ているせいか、前回より雰囲気が幼い。あの日の翌日には事務所のなかをあちこち見回してみたけれど、どうしても彼と似た容貌の女性は見当たらなかった。誰もがてきぱきと仕事をこなすような女の人たちばかりだから、どこかどんくさい印象のある彼とはつり合わないのかもしれない。
相手に気付かれないように腕時計を見た。まだ六時までには十分を残している。音楽を聴いていたということは、ずっと前から待っていたのだろう。悪いことをしたかな、と小夏は唇をかんだ。
「いつからいたの?」
「そんなに待ってないよ」
ずれた答えを返されたけれど、言わんとしていることは同じだ。
カップルが待ち合わせでもしているかのようなかけ合いをしていたことにむずがゆくなって、小夏はさっさと話をそらすことにする。
「それで……SHEENAには会えた?」
「ああ、会えたよ」
和樹はほころぶように笑う。
「“雨宮小夏さんと一緒に歌えて嬉しい”って」
「……は?」
「だから、雨宮小夏さんと」
「あーもういい! 聞こえてるから!」
二度も同じことを言われてたまるかと、小夏は首を振ってさえぎる。その言葉にもう続きがないことは、目をぱちくりさせた和樹の様子を見ても明らかだ。
敵対心をむき出しにした小夏に対し、泰然とした態度で返してきた。まるで軽くあしらわれたようで、小夏は憤慨する。
「なによ、なあにが“嬉しい”よ! 見てなさい、SHEENAが腰を抜かすぐらいの歌を……」
――ほんとうに歌える?
言葉に詰まった。歌って、と繰り返しても、その先が続かない。
金づちで殴られたように、勢いがかき消えていく。急激に冷えていく頭の中で、自分に問いかけてしまった。今の自分に――自身の歌すらもまともに歌えない今の自分に、ほんとうにSHEENAを超えるほどの歌を歌えるのか、と。
不安になり始めてしまえばもうだめで、疑い始めれば止まらない。
「小夏さん」と名を呼んだ和樹に顔を向ける。
痛々しいものでも見るかのような視線とぶつかって、今の自分はそんな表情をしているのかと遅れて理解した。理解はしたけれど、自信にあふれた笑顔などもう取り戻せはしなかった。
「わたしは」
歌えると。歌えると言え。
なかば脅迫概念のように凝り固まった、小夏の中の黒々としたなにかが声をあげる。ここで負けてしまえば、今まで強く保っていた自分が崩れていってしまうから。――だから歌えると、言わなければ。言わなければいけない。和樹の目をしかと見つめる。そのくせ、彼の瞳の中に映る自分は、ひどく頼りなさげだった。
ねえ。
胸の奥に忍びよる、低い声に思考が止まる。それは紛れもなく彼の声のはずなのに、確証が持てない。別人のような声に戸惑う小夏に向けて、和樹はかすかな笑みを浮かべている。
「小夏さん、歌うことは楽しくなくなった?」
そんなことはない、と答えることはできなかった。
大好きだと、胸を張ることもできなかった。
それが今の小夏をありありと示している。自身が、迷ってしまっていた。
「昔のほうが楽しそうだった。気持よさそうだったよ」
「……なんで」
「ずっと雨宮小夏のファンやってればわかる。好きだから」
――撃ち抜かれたような心地がした。
自分の歌を、雨宮小夏を、はじめて好きだと言ってくれたのは誰だったろう? たった一枚のファンレターが、涙が出るほど嬉しかったのはいつだったろう。それが遠い昔のことのように思えて、二年と少しの歳月はそんなにも長かったのかと錯覚してしまう。
好かれるために歌を歌っていたわけじゃない。ただ誰かに、自分の歌を聴いてほしかった。歌っていられれば幸せで、それに耳を傾けてくれる相手がいればそれで十分だった。
(どうして気づかなかったの)
いまも歌い続けていられるのは、雨宮小夏を愛してくれる人がいるからだ。自分自身が見失いかけた彼女の歌すらも、聴き続けてくれる誰かがたしかに存在するからだ。そして彼ら、彼女らには決して嘘をつけない。違和感をごまかして無理やりに音源に詰め込んだ歌は、こうして簡単に見破られてしまう。
(はずかしい)
自分を嫌いになることは、ファンを裏切ることだ。歌手は、表現者は、誰よりも傲慢でなくてはならないのに。自分の歌に誇りを持って歌い続けることこそ、プロとしての役目だというのに。
「なによ、」
弱々しい声が出た。そのとたんに、まずい、と和樹が顔色を変える。他人――それも女性に対しては強く出られない少年なのだということは容易に想像できて、そんな彼の言葉で心が震えるほど嬉しくなったことが悔しくて、小夏はもう一度「なによ」とつぶやいた。
「あんた、SHEENAのマネージャーの弟くんじゃない。わたしなんか商売敵じゃない」
「個人の趣味は関係ないと思います」
そう言ってななめ下を向く。
「そんなもんなの?」
「そんなもんです」
「……ありがと」
「どういたしまして、……え」
どうして礼を言われたのか、とばかりに和樹はぽかんと口を開けた。
その間のぬけた顔を見ていると、ほんとうは悩みごとなど何ごともなかったかのように思えてきた。ただ、今まで見えていたものが見えなくなってしまっていただけ。それだけだった。迷走していたことすら、馬鹿馬鹿しく思える。
穏やかに息を吸いこんだ。
「SHEENAにもうひとつ、伝えてもらってもいい?」
「ケンカはちょっと……」
「もう違うわよ」
唇をとがらせるが、先にケンカをふっかけたのはこちらの方だ。小夏はわざとらしくせき払いをして、それから声をやわらげないようにと気を遣う。
「“こちらこそ”って。あと、“手を抜いたら承知しないから”って伝えておいて」
「どうしてそんなにきついかなあ」
「ずいぶん丸いでしょうが!」
言葉がつっけんどんなことは否定しない。やはりうつうつと恨んでいた相手なのだから、そう簡単に好きになることは難しそうだ。その恨みの大半が八つ当たりであることには、今やっと気付いたばかりだけれど。
ふわり。
小夏の髪をゆらして吹き抜けた風には、とうに熱気が混じっていた。梅雨の時期から夏へと、それは早くも移り変わろうとしている。湿気はいよいよ消えていき、太陽はやがて高くにのぼるようになるだろう。ぽっかりと浮かんだ入道雲から、陽炎を洗い流すような大粒の雨が落ちる季節が、もう少しでやってくる。
雨宮小夏の名が生まれた、その季節が。




