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レイニーソング  作者:
2/12

マネージャーの弟くん

 瀬尾小夏。それが小夏の本名だ。芸名である“雨宮小夏”も名前の字面はまったく変えていないだけに、見ず知らずの相手に面と向かって呼び捨てにされると言葉につまってしまう。最近はマネージャーと会話をすることが多いので“ちゃん”付けに慣れてしまっていたけれど、久しぶりに呼ばれた歌手としての名前には背筋が伸びた。

「ごめんなさい」

 言うことに困って、とりあえずもう一度だけ謝っておく。すると相手は小刻みに首を振った。

「こっち、こそ。すいません、邪魔なところに立ってて」

「悪いのはわたし」

 怒ったつもりはないのだけれど、彼はしゅんと肩を落としてしまう。声がきつくなってしまっただろうか。くせのようなもので、なかなか抜けないので困っている。

 優しく、優しく。自分に言いきかせて胸をおさえた。立ちあがると、彼も一呼吸おくれて腰をあげる。

「ええと、……スタジオに用があるの?」

 歌手としてデビューを果たしていないような一般人でも、代金さえ払えばスタジオハウスを使うのは自由だ。ギターやドラムなどの楽器を貸し出しているところが多く、追加料金でミキシング――音量や音質を調節して組み合わせる作業を頼むこともできる。

 とはいっても、たった今小夏が使っていたのはぴんからきりまであるスタジオの中でも高額で、質の高い録音を目指すためのものだ。その料金も、いち学生がぽんと払えるような金額ではない。

 だからこそ尋ねたのだけれど、彼はきょとんとしたあとに、いや、と否定する。

「いま、スタジオに姉ちゃ……姉がいて。知ってる――ますか」

「敬語じゃなくていいから。続けて」

 すると彼は視線をさまよわせ、やがて小夏のそれとぶつかるとためらいがちに喋りだした。

「姉ちゃん、歌手のマネージャーで。SHEENAって知ってるかな」

 嘘をつかないで、と即答することだけはかろうじて踏みとどまった。その代わりに露骨に顔をしかめてしまって、これでは突っぱねるのとどちらがよかったのか分からない。彼は小夏のその表情にいささか驚いた様子をみせたものの、自分の言葉を取りつくろうことはしなかった。そろそろと彼女をうかがう。

「色々なところをまわって、次の曲のスタジオを決めているらしくて……あ、そうだ。小夏さん」

 小夏と目を合わせ、ほほえむ。

「コラボを受けてくれて嬉しい。ってSHEENAが言ってたって……言ってた、みたい」

 声はどんどんと尻すぼみになっていったうえ、言い方は遠回しにもほどがある。しかしその言葉の中身に、小夏は目をまるくした。それを受けることになった当人でさえ、今日になってはじめて聞かされた話だというのに。

 一般人ではまず耳にできるような情報ではないはずだ。それこそ、SHEENAか小夏の関係者でもなければ。

「ほ、ほんとうに?」

「嘘じゃない。嬉しいって」

 こういうときだけはまっすぐに人の目を見るらしい。

「そっちじゃなくて、お姉さんのこと。SHEENAのマネージャーって本当なの」

 そう問いかけると、やっぱり信じられないか、と彼はななめ下を向いた。

 小夏はしばらく彼をながめたすえ、ひっそりとため息をついた。どうしても嘘をついているようには思えない。これでも業界人なのだから、初対面の相手をよく観察する目は持っていると自負している。

 信じてみようかという気持ちが働いた。わざわざ小夏を騙すためだけにここまで来たとは考えにくいし。

(それに、もし本当なら)

 これはチャンスだ。

 本人と直接会うには至らなくとも、自分の言葉だけでも伝えられればそれでいい。――うまくいけば、その正体をつかむことも夢ではないだろうし。

 嘘だったとしても、だまされたと悔しがるだけでいいのなら。小夏はうなずいて、彼の言葉を待たずに口をひらいた。

「SHEENAに会うことはあるの?」

 もちろん彼自身には期待はしていない。要するに、彼からSHEENAのマネージャーに、さらに本人へと伝わればじゅうぶんなのだ。そう考えていたけれど、予想に反して彼は遠慮がちにうなずいた。

「あ、でも、会わせることはできないから……」

「いいわ、そんなの!」

 小夏の声に興奮が混じる。

 これでSHEENAへとつながるパイプができた。百パーセント信じているとはいえないまでも、かけてみる価値はある。

 小夏は早まる鼓動をおさえるように、ひとつ呼吸を置いた。

「SHEENAに言いたいことがあるから、それを伝えて欲しいの」

「……内容にもよるけど、おれでよければ」

 長いのもちょっと、と目をそらした彼に、小夏は唇の端をつり上げて挑戦的に笑った。彼の向こうにいる、形の定まらないSHEENAの影を見すえて。

「ひとつだけよ。――“あんたには絶対に負けない”って」

 彼は目に見えてうろたえる。

「え……SHEENAが、なにかしたの?」

「特になにも。ただ気に入らないの、悔しいのよ」

 なにもかも奪っていって、平然とあの位置に立っているその歌手がうらめしい。そこはわたしのものだったと叫ぶことなどかなわず、せめてどんな奴なのかと顔を見ることさえも許されないでいる。……なにが覆面歌手だ、なにが七色の声だ。なんでもかんでも秘密にしておいて、誓ってひとりだから信じてくれとは虫がいいにもほどがある。

 もちろんそれをぐちぐちと吐き捨てるのは自分のプライドに反していた。小夏は肩をすくめる。

「それにわたしが不調だから。自分にはっぱかけたいの」

「不調?」

「歌っても満足できないっていうか、ね……そういうときがあるの、歌手って」

 わたしはこれがはじめてだけど。胸の奥でそうつけ足した。

「あんたが気にすることじゃないわ、ええと……弟くん」

 呼びかたに迷ったすえにそう呼ぶと、案の定彼は眉間にしわをよせる。

「和樹って、名前が」

「はいはい。覚えとくわ、弟くん」

「……聞いてないし」

 いいところに収まってしまったのだから仕方がない。初対面の相手を名前で呼ぶのは腰が引けるというのも事実だ。

 和樹がむすっとしている前で、鞄に取りつけている時計で時間を確認した。夏が近づいているために、今の日の長さはあてにならない。七時半までに家に帰れないのであれば連絡を入れろときつく言われているが、これから急げば間に合いそうだ。彼の横を通り抜けてふり返る。

「じゃあわたしはこれで。伝言よろしくね。あとは頭、ごめんなさい」

「あっ、返事はいつ伝えれば」

 返事が返ってくるのが当たり前だと言わんばかりのせりふに、思わず吹きだしてしまう。和樹はなにを笑われたのかわからないようだけれど、それを説明するつもりは毛頭なかった。

 一方的な伝言に、わざわざ返事を返すような律儀な人間。SHEENAはどうやら、そんな相手らしい。

 さて次に会うのは、と考えて千夏はそらを見た。うすい水色の空に、紫のグラデーションがかかっている。この水色が完全な藍色に染まるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

(事務所に呼ぶわけにもいかないし)

 SHEENAのマネージャーの弟であれば事務所の場所ぐらい知っているだろうが、直接的な関係があるわけではない小夏が彼と待ち合わせをするのではよからぬ噂がたつおそれがある。そもそも事務所は歌手、ひいては業界人の仕事の場なのだから個人的な要件は持ちこみたくない。野宮に関係を疑われるのも癪だ。

「来週の金曜日、六時。またここでどう? 学校の帰りに寄るから」

 通っている私立の高校は近くにある。部活には入っていないため、長く待たせることはないだろう。和樹がはっきりとうなずくのを確認して、小夏は今度こそ彼に背を向けた。

 日が沈みはじめ、足元の影は遠くまで伸びている。まるでマイクのようだと頭のすみで考えて、苦笑した。どうしても歌からは離れられないみたいだ。嫌いになりかけても、歌がこちらを向いてくれなくても、結局は同じところに戻ってきてしまう。

(戻れるのかな)

 歌手になったときのように、歌うことを心から楽しめた日々に。不安に負けてしまいそうになって首を振った。

「だいじょうぶ」

 そうつぶやいて暗示をかける。まだ歌える。好きでいられるかぎり、嫌いにならないかぎり。

 わたしはまだ、雨宮小夏でいたい。


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