レイニーソング
彼は椎名和樹なのだ、と、並び立つ少年を横目に思った。
大勢の観客の前で声を張りあげる姿も、緊張に震える体も、SHEENAでは持ちえないものだ。彼はそれこそ完璧で隙がなく、仮面の向こう側をのぞかせもしないような歌手なのだから。
少なくとも、共に歌う少年は、そのSHEENAではない。
椎名和樹はがむしゃらに音楽にしがみつく男の子で、ちっぽけな学生で、そしてなによりも表現者だった。小夏となんら変わらない、ただひとりの歌手だった。
――だから、はじめましての歌を歌おう。
ようやく顔を見せた、彼の歌の始まりに。
太陽が少しばかり頭上を越えて、雲の切れ間から控えめに光を放っている。アスファルトにしみ込んだ雨粒をさらった風が吹き抜け、文化祭で配られていたヘリウム風船を空の彼方へと連れ去った。
体育館は続々と人を吐きだし、新たに呑みこんでいく。その人の群れから離れるように、小夏は校舎裏のベンチに腰をおろしていた。隣接する校庭では、野球部員が校内の祭り騒ぎをものともせず練習を続けている。それをうわのそらで眺めながら、ぐったりと背もたれに体を預けた。
「お疲れさま」
遠慮がちに声をかけてきた和樹に、応える元気がない。気力も体力も全てを持っていかれたようで、指一本を持ちあげることすら気だるく感じる。それも体中に満ちる充足感の表れだと分かっているから、今はそっと身を任せるのみだった。
生ぬるい風に髪を弄ばれながら、ふとただよってきた汗のにおいに、小夏は数分前の映像を反芻する。
歌い終えた瞬間――まるでパズルのピースがあるべき場所におさまるような沈黙が忘れられない。古いスピーカーによって音割れをおこした伴奏も、どよめきから歓声へと色を変えた観客の声も、嘘のように消え去ったあの瞬間が。
(けっこう……無茶、やったわね)
今思えば、ブーイングを受けてもおかしくないことをしたのだ。
直後に割れんばかりの拍手が二人を覆ったのは、会場が学校だったためだろう。観客の大半は同じ高校の生徒であったことが幸いした。和樹の登場に誰もが目をみはっていたものの、それも文化祭の出し物のひとつなのだと納得したらしい。
そして誰ひとりとして、SHEENAと和樹を同一人物と受け取る人間はいなかった。
和樹に対して上がる歓声はすべて、椎名和樹という少年への賞賛だった。生徒のなかからSHEENAに似ているという声が聞こえたあたりで、彼は目をしばたかせて、そしてくすぐったそうにマイクを握った両手を組み合わせていた。
「おれでもSHEENAにはなれないんだ」
ふいに、ぽつりと声がした。心中を見透かされたようでうろたえる。けれど和樹にその気はなかったようで、長い間のあとに言葉を続ける。
「SHEENAはおれだけど、それでも」
「……うん」
「おれが歌っても、SHEENAのまねにしかならない。結局SHEENAはどこにもいないんだ。おれの歌を聴いた人間が作った想像でしかないんだ、って」
それなら。
彼が演じつづけたSHEENAとは、いったいなんだったのか。
この場で歌ったからといって、すぐにSHEENAが消えるということはない。これからも彼は覆面歌手として楽曲を作っていくだろうし、素性をさらすことはないのだろう。和樹の言ったとおり、SHEENAは人々の想像上の歌手として生きていく。
少年として、少女として、青年として――いくつもの顔を持った彼は、たとえ和樹がその正体を明かしたとしても消えることはない。人の心のなかに生まれ落ちたSHEENAは、すでに彼から離れてひとり歩きを始めていた。
和樹はさんさんと輝く日の光に目を細めて、校舎の壁から身を起こす。
「だったら、いつか自分として歌いたい。今日みたいに」
言って、晴れた空に向かい大きく伸びをした。
白いシャツからのびる腕は、出会ったころより少しだけ日に焼けている。立ち姿を前にするとその線の細さがきわだって見えるけれど、彼が見た目どおりの弱々しい少年でないことぐらいはよく分かっていた。
だから、彼がある。椎名和樹としての道を選び取ることができた彼が。
「あんたが歌い続けるなら、わたしはもっとうまくなるわ」
「負けたくないから?」
揶揄するような口調の和樹に、見えないと分かっていながら首を振った。背を向けた彼にも届くよう声を張る。
「一緒に歌っていたいから」
きょとんとした和樹が、小夏を見おろして一度まばたきをした。とたんに気恥ずかしさが襲ってきて、小夏は慌ててベンチから立ちあがる。いつの間にやら倦怠感はとうに逃げてしまっていたらしい。ふらつくこともなく和樹の前に躍り出て、正面から目を合わせた。
「だから、妥協は許さない。わたし自身にも、あんたにも。椎名和樹を、わたしのライバルだって認めてあげる」
「SHEENAじゃなくて、いいの」
「顔の見えない歌手を相手に、なにを張りあうっていうのよ」
「……そうだね」
納得したように、相づちを打たれる。どこか気の抜けたその返事が気に障って、小夏はむっと眉を寄せた。ひとつ呼吸の間があって、「それじゃ、早くおれを見つけなきゃいけないな」と彼が困り顔で笑う。
「小夏さんが、待ってるなら。早く」
自分の名前が出てきたところで引っかかりを覚えたけれど、うなずいてみせる。
彼がそれを意識するしないにかかわらず、そう時間はかからないだろう。ステージに立つ喜びを知ってしまったのだから。自分を待ち望む観客の前で、自分だけの歌を歌う快感に、一度酔ってしまえば抜け出せはしない。
いつか椎名和樹としてとなりに立つ。それは彼にとっての、絶対の約束だ。
和樹が再び、今度は深く、呼吸をした。それに呼応するようにやわらかい風が吹いて、青々と茂った木の葉をふるわせる。となり合う校庭では野球ボールが打ち上げられ、小気味のいい音が空に響いていく。文化祭の騒々しさをどこかへ追いやったその場には、ひときわ濃い夏の雰囲気が満ちていた。
その空気に同化するように息をひそめていた和樹が、そっと口をひらく。
「あのさ」
つかの間の躊躇。わずかに視線を揺らして。
「おれ、小夏さんが好きなんだ」
――がさっ、という音を聞く。校庭とこちらを区切る金網が、鋭く飛んできたボールを受けて揺れていた。
すこし遅れてそのボールが地面に落ちるまで、その数秒のあいだ、小夏はまばたきも忘れていた。補欠であるらしい少年が金網ぎわを駆けぬけていき、足音が遠くなったころ、やっとのことでひきつった笑顔を浮かべる。
「あ……なによ、ファンだっていうんでしょ? し、知ってるわよ、それぐらい」
「そうだね」
「だから、まだまだ歌手は続けていくし、ファンにだって応えるし」
それと、それと、と必死に続きを探した。どうやら思考が空回りしているらしい。早口になっていくくせに、自分の言っていることの半分も理解してはいないのだ。いくつか言葉を連ねてから改めて和樹を見れば、彼はひとりの男の子の顔で立っている。
そうではないと否定することもせずに、かすかに目を細めて、立っている。
とうとうなにも思いつかなくなって、おずおずと切り出した。
「椎名……あの、ほんき?」
「本気」
「ファンだから、とか、じゃなくて」
「それも変わらない、けど。あの、小夏さん」
小夏に向かって踏み出した彼から、反射で後ずさる。それだけで和樹は動きを止めてしまうけれど、小夏は押しとどめるように両手をかかげた。
「ちょ……っと、待って!」
今まで頭の中につめこんできたものは、ただのガラクタだったのかと思う。――だって、大事なときに動いてくれない。はやくなにか言わねばと急かされるばかりだ。
胸の奥がうるさい。耳の先がかっと熱を帯びて、それを隠すように下を向いた。今のままでは、顔をあげられない。頭上から困り果てる気配が伝わってくるようで、恥ずかしくてたまらなかった。
和樹の靴が、舗装された地面を踏む。けれどそれは距離を縮めるためではない。彼はそうして数歩ぶんうしろにさがって、小夏さん、と名を呼んだ。
「上」
「……うえ?」
導かれるように、和樹が指さした空をふり仰ぐ。そして思わず声をあげた。
薄くにじんだ虹がひとすじ、雲のあいだを走っている。注意しなければとらえるのも難しいぐらいの、細く小さなそれが空に橋をかけていた。朝から降りつづいた雨が、そっと残していったらしい。あの喧騒のなかでは、気づいているのは少数だろう。
ぽかんとひらいていた口を引き結んで、小夏はひとつ息をついた。
(虹なんて見るから)
新しい自分の名を作った日のことを、思い出してしまった。そして、思い出したからには聞いてほしいと思ってしまった。彼に対してずいぶんと気がゆるんだものだと苦々しくため息をつく。
「雨は、たくさんのものを、運んでくるの」
雨、とくり返した和樹に、うなずいた。
「枯れた大地を芽吹かせて、空に虹をかけて、春に夏を運んでくる。だから、雨宮小夏」
雨宮小夏は、歌という雨を届けるために。
デビューを果たしたその日は梅雨の盛りで、オーディション会場の外には土砂降りの雨が降っていた。最終選考は事務所外部の人間を集めて行なわれるため、観客席に座る一般人はそのほとんどが事務所に責任を持たない。素人の歌を聴くためだけに雨のなかへ飛び出すほどに、音楽を純粋に愛する人々だった。
そんな彼らが満足できるような歌を作りあげられたなら、雨に濡れることもいとわないような音楽を届けられたなら。そして、小夏が歌手を目指すきっかけであったように、憧れのまなざしを受けるような歌手であれたなら。
――それは、とても、素敵なことだから。
「わたしの歌を聴いて、歌手を目指したいって思う人が現れてくれたらって。思ってた」
ならば、その夢は、とっくの昔にかなえられていたのだ。
空に打ちあげられた花火が、破裂音を響かせる。残り香のような煙がたなびき、やがて空に溶けていった。さっきまで目の端にとらえていた虹も姿を消していて、ただひたすらに青と白だけが天を覆っている。
一般客への公開の時間が終わった。やがて生徒間だけで中夜祭がひらかれ、翌日には文化祭は最後の盛り上がりを見せるだろう。小夏や和樹、三年生の夏は、そうして終わっていくのだ。
「じゃ、いきましょうか」
体をぴんと伸ばして、小夏は和樹に声をかけた。どこにと問う彼に背を向ける。
「中夜祭が終わったら事務所。野宮さんに怒られるの、つき合ってくれるんでしょ?」
今ごろかんかんに違いない。街じゅうにポスターを貼りだしたにもかかわらず制止の声がかからなかったのは、彼女がぎりぎりのラインで計画を許してくれたからだろう。それでもたてまえというものは存在するから、一応は雷を落とされておかねば双方の面目が立たない。
逡巡してから顔だけを後ろに向けて、言った。
「誰も一緒に行かないなら、中夜祭もつき合うけど」
「……い、いない、誰もいない!」
大きく首を振られる。そうして、小夏にもうつりそうな勢いで幸せそうに微笑んだ。
和樹の告白への答えは、きっとまだ先になる。彼の勇気を無下にするつもりはない。だからこそ、こちらにも考える時間が必要だった。
自分たちは全速力で夏を駆けぬけてきたのだ。今からでも歩幅を落ちつかせてもいいだろう。自分が和樹に答えを返すのも、彼が自分を見つけるのも、いくらか時間をかけても許されるはずだ。
――夏は、もうすこしだけ、つづくから。




