ミスティの苛立ち
この高校は、東西に伸びる三の字を二本の渡り廊下でつないだ形をしている。
最北の体育館で歓声があがるのを、少女は遠くに聞いていた。教室が並ぶこの棟には人気がない。おそらくほとんどの生徒や来客が、体育館のライブへと向かったのだろう。ときおり教師が通りすぎるだけの廊下は、午前の盛況が嘘のように静まっていた。
ひとつの教室の前で立ちどまり、少女は両手を強く握る。生徒が誰ひとりとして教室にいないことは知っていた。
あまみやこなつ。
愛するSHEENAを奪っていったあの女。
(ゆるさない、絶対)
がらりと引き戸をひらいて、明かりがついたままの教室に身をすべりこませた。
机を積み上げた上に暗幕がかぶせられ、教室を二等分する壁をつくりあげている。その幕をめくり、並んだ荷物のなかから、数分で目当ての鞄を見つけて引きぬいた。
「なにが、人気歌手よ」
少女の右手には、口紅の形状をしたペンがある。ミスティのルージュシリーズ、ロマンシング・ストロベリー。
「なにが、なにが、なにが」
ゆるさない。
他にはなにもいらなかったのに。SHEENAさえいれは、その歌さえ聴ければ、それでよかったのに。
すべて――あいつが、持っていった。
「雨宮小夏……っ!」
ペン先を現し、鞄に向けて。
先ほどひらいた扉が、思いきり開けはなたれる。教室内に響きわたった雷鳴のような轟音に、文字どおり跳びはねた。
「は、な、なに」
ペンを引いて背後を見る。にんまりと、見ている方が気味が悪くなるぐらいの笑みを浮かべる女性が、少女の顔に影を落としていた。
「みーつけた、犯人ちゃん」
だれ。
口の中で声にもならなかった言葉を、相手は拾いあげる。
「SHEENAのマネージャー。って言って、伝わる?」
出された名前に、思わず息をのんだ。伝わるみたいね、と、女性が目を細める。
「あの子が言うから見張ってたら、本当におびき寄せられてくれるんだもん。馬鹿な子って簡単でいいわねー」
軽い口調とは裏腹に、その声は低く、暗い。怜悧な視線が向けられて、少女はのどの奥をひくつかせた。
「小夏ちゃんを痛めつけるのは、楽しかった?」
それはまるで、今まで雨宮小夏に向けてきた刃を、裏返して突きたてられたようで。
女性が一歩教室に踏み入れると、少女は無意識に後ずさっていた。少し遅れて、ペンを握った腕が震えていることに気がつく。女性がそれをちらと見て、つまらなそうに言った。
「そのペン、女の子の間ではやってるみたいね。学校の生活にも手を出してくるってことは、間違いなく学校の関係者に違いないし。まあ、あの子もよく考えたもんだわ」
よどみなくあげられる自分の行為を、少女は目を見ひらいたままで聞いていた。SHEENAのマネージャーが、なぜ小夏の私生活にまで目を光らせている? 同じ事務所であったとしても、あまりに立ち入りすぎてはいないか。
彼女の言う“あの子”とは――いったい誰のことだ?
(そもそも)
たとえ親しい存在であったとしても、彼女の口からそんな話を聞きだせるわけがない。それを理解したうえで、自分は行動に出たのだから。
(だって、あの女が他人に弱音を吐くはずが……!)
目の前に、女性がしゃがみこんだ。背の高い彼女の顔は、そうしても少女より頭ひとつ高い位置にある。自分の存在がどれだけ相手を威圧するか分かっているかのように、彼女は艶然とほほえんだ。
「馬鹿な子って大好き。自分がなにをやっているか、どんな結果をもたらすか、――それがどれだけ他人にまる見えか、まるで分かっていないんだから。大好きだわ、吐き気がするぐらい」
その手が少女の右手をつかんだ。声を上げてペンを取り落してしまい、無意識に拾いあげようとすると女性の手にきつく力がこめられた。血が止まるかと思うほどの圧迫に、涙がにじむ。
「事務所でよくお話、聞きましょうか。ご両親も一緒にね」
「い、いやだっ」
身をよじっても、握りしめられた手首はぴくりとも動かない。燃え上がった怒りのままに相手をにらみつけて、そこで少女の反抗心は塵と化す。
冷たい笑みさえも消えた女性の顔には、ただ、軽蔑の表情だけが浮かんでいた。
「嫌だとも言えない彼女を、あんたは苦しめたの」
彼女の手に一層力がこもり、圧迫された手首の血の気が失せる。そのまま腕を引かれて、少女はなすすべもなく立ち上がった。女性は頭上から自分を見下し、そして。
「思い知れ、ばーか」
妙齢の女性とは思えない暴言を、吐き捨てる。
真夏の体育館の熱気が、額に、首筋に、汗を伝わらせる。残響が館内にこだまして、くらくらする意識を強引に揺り動かす。
(何曲)
頭を騒ぎまわるギターの轟音が、いまだ抜けきらない。
(何曲、歌った?)
歯を食いしばって顔をあげれば、ひしめきあう観衆が視界に入った。決してせまくはない体育館を、人の群れが埋めつくしている。
(この、次は。たしか)
ぎいん、と再びうなりはじめたスピーカーにはっとして、身をひるがえした。歓声が途絶え、歌い手を待つはずだったメロディがぴたりとやむ。それを合図と受け取ったのか、生徒たちはひとり、またひとりとそろえて手を叩きはじめた。
背に聞く、アンコールの掛け声。
舞台袖に下がった小夏は、その薄暗い部屋でひざをかかえた和樹に視線を落とす。彼は夢から覚めたようにぱちりと目をしばたかせた。いくらかして、会場をあごで示す。
「ほら、アンコール……応えてあげなよ。まだ一曲、入ってるはずだからさ」
このライブのための音源も曲順も、すべて和樹によって用意、構成されたものだ。歌ってみれば否が応にもその流れのよさに気づかされた。無理も侮りもなく、最後までこうして立ちつづけるだけの体力を温存しておけるような。それでいて、会場の熱気を徐々に最高潮へと導いていくような。
だからこそ、解せないのだ。
「あんたは、なんで歌わないのよ」
最後の歌に、あの曲を。
雨宮小夏とSHEENAのつくりあげた、あの一曲を入れこんだわけが。
「あれは――わたしだけの歌じゃない!」
激昂する。
体育館を包み込むアンコールの声は、けれど、その叫びさえものみこんで、消し去っていく。和樹は痛みをこらえるような顔をして、笑ってみせた。
「……ほら、SHEENAは前に出られないから」
音が出るほどに、奥歯をかみしめた。
「小夏さんの歌が聴きたいから、入れたんだよ」
嘘だと大きくかぶりを振った。何度も、何度も、シャワーを浴びた犬が滴をはじき飛ばすように。
それならなぜこの曲を選んだ? 自分がステージに立つ気がないのなら、マイクを握る気がないのなら、どうして小夏のライブに組み込んだ?
SHEENAであることを言い訳にしてしまえば、可能性などという言葉は意味を為さない。
選ぶための猶予を与えられたのだ、SHEENAという名のその繭はたいそう心地がよかったことだろう。同じ場所にとどまって、ひとつを選ばずにいられる。自分を手に入れる代わりに、今まで手に入れたものを捨てる必要はない。
(そんな甘え、許さない)
わかっている。彼が選択を望まないはずがない。
だからこそ、彼自身が押しこめてしまった声にならない声は、歌という形をとった。和樹はそうして、小夏に手を伸ばしたのだ。その手すらつかんでやれないでどうする。
「あんたと歌いたいの」
憎くて、悔しくて、妬ましかった。その才能の一部でも、自分にあればと幾度も願った。
それでも、気付いてしまった。
「この曲は、ひとりじゃ歌えない」
いつの間にこんなに弱くなってしまったのだろうと自分に問いかけて、それが弱さでないことを知った。小夏と歌いたかったと漏らした和樹の気持ちが憧れなら、自分の中にもそれはあったのだ。
彼でなければいけないと思った。歌声を聴いた日から、魅せられていた。
手を差し出す。うろたえた和樹が、のどの奥から声を漏らした。
「わたしは、あんたと――椎名と一緒にステージに立ちたい」
ほんの一瞬。和樹は泣く寸前のような顔をして、きつく唇を引き結んだ。背を向けた会場では生徒たちの拍手がテンポを増し、掛け声が熱を帯びる。誰もが小夏を待ちわびている。観客が期待を寄せる舞台こそ、歌手の居場所だ。
和樹の骨ばった手が掲げられる。光を求める夜の蝶のようにさまよったそれが伸びきる前に、強く握りかえした。
「できるじゃない」
にいっと歯を見せ、それを目にした彼が身をびくつかせたのを気にもかけない。そのまま体を反転させて、小柄な彼の背を突き飛ばす。空になった手で、床に放られたマイクを取り上げた。
バランスを崩し、片足で数歩跳ねた和樹が現れると、アンコールの声はどよめきに変わった。中心で立ちつくした彼が怒声を浴びるのも時間の問題だろう。
小夏はくすりと笑って、スポットライトのもとへ歩を進める。音響を担うステージ脇の少年に、無言で再開をうながした。どうにでもなれとばかりに荒っぽく機器を操作した少年が、小夏に向けてしかめ面をする。マイクの電源を入れ、歩み出た。
「聴いてください」
スピーカーから流れ出すギターの音圧が、そらをめぐって降りそそぐ。
――うたは、あめ。
七色の光をまとって、ときには穏やかに、ときには激しく、ひとを潤す。ひとたび旋律が流れだせば胸は高鳴り世界が輝き、畏れにも似た感情に満たされていく。雨宮として生まれたもうひとりの小夏が、歌う喜びにうち震えていた。
自らを鼓舞して、音律を手のひらにつかみとる。どの音も取り逃がしはしない。息を大きく吸い込み、歌手という表現者として、あくまでも傲慢に。
(従えてみせるわ)
雨宮小夏は、屈しない。




