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レイニーソング  作者:
1/12

覆面歌手の名は

 あの空を、貫くすべならここにある。

 声という名の矢を放ち、空へ。手を伸ばしても届かない、はるか高みへ声を響かせる。雨のように降り注ぐ音たちをつかんで、息を大きく吸いこみ、翼を広げ、さあ――歌を、

(――あ)

 思った瞬間の失速。そして、失墜。心に空いたすきまに、ひとつのピースをとり落とす。

 その瞬間にきらめく世界は色を失い、薄灰色にあせていく。こぼれていく音の雨。すぐに取り戻せ、と必死に声を張り上げても、落ちていったものは拾い上げられることをかたくなに拒む。音圧が失われ、現実が近づいてくる。真っ暗に沈みゆく視界と、感情の消えていく音楽が小夏を襲う。

(いや……お願い、待って)

 懇願しても、けっして戻らない。


 伴奏の余韻がぷつりと途絶える。

 ヘッドフォンからなにも聞こえなくなったのを確認してから、重い息をついた。

 曲が終われば自然と周りに満ちる、完全な無音が耳に痛い。自分を責め立てるようなそれから逃れるようにスタジオの外をふり向くと、窓の向こうのふたりはそろって首をふる。

 ――予想していた答えではあった。

 歌うさなかに浮かび上がった違和感は、最後の最後まで消えずにくすぶりつづけた。歌った本人さえ満足できないような歌が、他人に受け入れられるはずがない。

 最近はいつもこうだ。歌っても歌っても、はしから違和感がわいてくる。リテイクをくり返すほど声は疲れ、それでも違和感は大きくなるばかりで、いつかは歌がきらいになってしまいそうで怖くなる。

「すみません、今日はもう」

 申しわけなさでいっぱいになりながらマイクに伝えて、うつむいた。マネージャーの野宮が表情をゆるめてうなずいたので、怒られることはないみたいだとほっとする。

 スタジオの扉を開けると、とたんに雑音が耳にはいりこんでくる。歌手になるまでは気付くことのなかったわずかな環境音だ。野宮とエンジニアの会話も、そのときになってじかに伝わってくるようになる。

「もう六時をまわったし。終わりにしましょうか」

「今までのデータはどうします? 一応残っていますが」

 野宮の目が一度、小夏に向けられた。視線がからみ、小さな間のあとに彼女は首を振った。

「本人も納得がいっていないようなので、消しておいてください」

「わかりましたー」

 間延びした声が了承する。わたしはなにも言ってないのに、と恨めしげに小夏はパソコンの画面を見やった。そんな彼女の心中に気付くふうもなく、画面の中の歌唱データはまたたく間に消去されていった。エンジニアは回転式の椅子をくるりと反転させて問う。

「次はいつにします? 学校もまだあるのかな。今までどおり一週間後の土曜ですかね?」

「そこにはまた別のレコーディングがあるので……それが終わるまでは、この曲は延期ですね」

 今日で終わらせるはずだったのに。言外に苛まれているような気がしてくる。

 しかしそのニュアンスに傷心するより先に、小夏の頭には疑問符が浮かんだ。

(いまのって)

 ぱっと野宮の顔を見上げる。――別のレコーディングがあるだなんて、そんな話は一言も聞いていない。

「野宮さん、今の、どういう」

「あら、言ってなかったかしら? 同じ事務所の相手からコラボ楽曲の申し入れが来ててね、それを受けたの」

「だれと」

「誰だと思う?」

「野宮さん!」

「SHEENAさんよ、あの」

 し……っ、とすっとんきょうな声をあげてしまって、口元をおさえる。

 “あの”。そんな一言が添えられるほどに、今となっては有名な名前だった。音楽界に現れた彗星、低迷しかけたこの世界に差した光芒。雑誌や新聞を見れば称賛の嵐で、今世紀最高の歌手だと噂されることもしばしば。

 そしてその名は、小夏がいちばん聞きたくないものでもあった。

 ――しいな、シーナ、SHEENA。半年前のシングルCDランキングで、自分の上にその名前を見つけてしまったそのときから不調続きだ。なにを歌ってもいまいち納得がいかない、売り出した楽曲はどれもこれもSHEENAのそれにはかなわない。

 世代の女子高校生歌手、雨宮小夏の名は、いつのまにか人々の頭から消え去っていた。

 そんな相手からコラボレーションの申し入れだ。自分の意思が通るのなら四の五の言わずに却下しているところだけれど、あいにく立場が弱いのはこちらのほう。なにか言おうものなら子どもの文句だと取られてたしなめられるのが関の山だ。それがわかっているくせに、ただで認められるほど大人にはなれなかった。

「それじゃあ、SHEENAの顔は」

「SHEENA、さん」

「……SHEENAさんの、顔は見られるんですか?」

 小夏の言葉を受けて、エンジニアが手を叩いた。

「そりゃあいい! レコーディングの際にはぜひうちのスタジオを。覆面歌手のご尊顔がおがめるのであれば、料金の方もお安く……」

「いいえ、SHEENAさんのレコーディングスタジオはもう決まっているそうなので。小夏ちゃんとは別の日に録るから、お会いすることはないわ」

 小夏とエンジニアがふたりで肩を落とす。

 SHEENAの人気を手伝っているのが、いっそ厳格なまでの機密性だ。顔はおろか、性別も年齢も秘密とされている。歌声には男声と女声の両方を使い分け、さらに楽曲のそれぞれが異なった声色を持つ。もちろん顔だしのテレビ出演はすべて断り、ラジオなど肉声が入るメディアにすらも現れない。

 いつかSHEENAは二人組ユニットなのではないかと噂されたこともあったが、事務所側は断じてひとりだと主張を続けた――その確証はどこにもないにも関わらず。七色の声を持つ覆面歌手として売り出されたSHEENAは、確かな歌唱力も相まって老若男女を問わず急速に支持されていった。

 その波の広がりは、小夏の機嫌を損なうには十分すぎるほどで。

「それじゃあ、ご挨拶にうかがうぐらいは」

「小夏ちゃん」

「だめ、ですか」

 深くうなずかれ、小夏は口をへの字に曲げる。――気に入らない。コラボの相手にも顔を見せないなんて。

「初めての共同制作の相手に選ばれたらしいから、ね?」

 野宮の声に、かすかに苛立ちが混じった。聞きわけがないと思われているに違いない。ぶんむくれた顔で分かりましたとだけ答えて、そっぽを向いた。険悪になりかけた空気を感じ、エンジニアが頬をかく。

「今日はおしまいですかね?」

「ええ、ありがとうございました」

 彼がさっさと道具を片付けて立ちあがると、多大な負荷がかけられていたことを示すように椅子がきしんだ音をたてた。

 ひとこと、ふたこと、マネージャーとエンジニアの間に言葉が交わされる。それらは小夏の耳にはまったく入ってこない。どうにも、いたたまれなくなった。

「……おつかれさまでした!」

 通学用の鞄を手に取って、頭を下げあう二人の間をすり抜けた。

 弾かれたように部屋を出る。小夏ちゃん、と名前を呼ぶ声も聞かぬふりをして、走る一歩手前の早足で廊下を抜けていく。ごめんなさい、ごめんなさい、次はもっと上手に歌うから。そう心の中で叫びながら。

 途中途中でかかるねぎらいの声にも答えずにいると、ますます自分がみじめになっていくようで胸がつまった。自分の足元の影だけをにらみつける。勇み足で歩くたびに硬い足音がスタジオに響いて、職員たちがなにごとかと小夏をふり返った。

 ――なんて、弱い。

 歌が大好きで、ずっと歌っていたくて、その願いを叶えるために歌手になったというのに。人気なんか出なくてもかまわない、自分の歌を聞いてくれる人たちに届けばいい。そう思っていたはずが、今ではその歌でさえ嫌いになりかけている。

 歌が好きなのか、それとも歌手という立場が好きなのか。即答できる自分でいられなくなっていた。

 泣きたいやら情けないやら。プロなのだから、これぐらいのことでいちいち心を乱されてはいけないというのに。

(腹が立つ、ったら!)

 いらだち紛れに思いきり建物の扉を開くと、がつんと振動が伝わってきた。なにかにぶつけてしまったのか。どきどきしながら扉の向こうをのぞいた小夏の顔から、さっと血の気が引いた。

 相手は人だ。それも男の子。

 自分と同じか少し下ぐらいの年にみえるが、制服を着ていないため学生なのかすらわからない。運動など知らないような白い肌に、男子にしては細い骨格。無言で頭を押さえてしゃがんでいるのは、扉から入ろうとしたまさにその瞬間に、小夏がそれを押しひらいてしまったからかもしれない。

「ごめんなさい、……だいじょうぶ?」

 あわてて小さな隙間から外へ出て、彼の隣にかがみこんだ。う、とうめいた声は、外見にたがわず中性的でやわらかい響きを持っている。すこしだけ鼻声ではあるものの、そこに不快感はなかった。

「だい、じょうぶ……です、すいませ、」

 そんな声が、口の中でくぐもる。むしろそれは小夏の心配をあおった。大きなたんこぶができているかもしれない、手当ては必要だろうか。

 小夏の心配をよそに彼はぱちぱちと数回まばたきを繰り返して、やっと彼女を見あげる。身長は低いみたい、と、おぼろにそう思っていると目があった。彼はけげんそうに眉を寄せたりのばしたりしたあとに、はっと息をのんだ。

「あまみや、こなつ」

 そう呼び捨てにされたことを、喜んでもいいものだろうか。


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