ドア枠の父
日付:2026年8月7日
時間:14:00 – 15:40
場所:東京都杉並区 某カウンセリングルーム
カウンセラー:中村健一(心理カウンセラー・臨床心理士)
来談者:鈴木杏子(19歳・大学休学中、抑うつ症状と認知の乱れを主訴)
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中村先生:杏子さん、今日は前回よりもお疲れのご様子ですね。この一週間に起きたこと、話してみますか?
杏子:中村先生……本当にもう、限界なんです。昨日、すごく怖いことがあって。私、両親がグルになって私を苦しめてるんじゃないかって思えてきて……警察に電話しようかとも考えました……
中村先生:ゆっくりでいいですからね。ここでお聞きしています。今「怖いこと」とおっしゃいましたが、具体的にはどんなことですか?
杏子: 父が……昨日の夜、ずっと私を塞ぎ続けたんです。私の部屋からリビングまで、さらに玄関まで。私がどこに行ってもついてきて、何も言わずに、体で私を遮るんです。まるで動く壁みたいに。泣いても叫んでも押しても、全然効き目がなかった。
中村先生:お父様は普段からそういう無口な方なんですか? それとも昨日は特にいつもと違いましたか?
杏子:前から口数は多くないけど、少なくとも返事はしてくれました。でも最近は全然違う――まるで……私の声がまったく聞こえていないみたいなんです。私が部屋から出てご飯を食べようとしたら、父が入口に立って、体全体でドア枠をふさぐんです。「出してくれない?」って何度も聞いたけど、十回以上聞いても、父は一度も私を見ようとしなかった。
中村先生:それはとても無力感を感じさせる出来事だったでしょうね。部屋に閉じ込められたとき、あなたはどうしましたか?
杏子:最初はちゃんと話そうとしたけど、ダメでした。それで押し始めたけど、びくともしなくて。先生、知ってますか、全身の力で、ほとんど体重をかけて押したのに、やっと少し隙間ができたかと思うと、すぐにまたふさがれて……
中村先生:それで、どうやって外に出たんですか?
杏子:諦めて、ベッドで泣いてました。しばらくしたら父がちょっとどいたみたいだったから、その隙に飛び出したんです。でもリビングに着いたら、また父が私の左前方に立って、じっと私を見てる。気をまぎらわせたくて外に出ようとしたら、今度は玄関に猛ダッシュで先回りして、まるで門番みたいにふさいでる。本当に監視されてるって感じで、あの圧迫感で息ができなくなりそうでした。
中村先生:お父様に、なぜそんなことをするのか、聞いてみましたか?
杏子:聞きました! 一時間ずっと聞いてました! リビングに立って、父に向かって叫んだんです。「どうして私をふさぐの? なんで私が行くところ全部についてくるの? 外に出したくないの?」って。でも父は口を開かない。ティーテーブルのそばにしゃがんで猫を撫でてるんです。猫の背中を撫でながら、目だけは私をじろじろ見てる。何を聞いても、まるで耳が聞こえないみたい。私が「それ以上ふさぐなら警察に通報する」って言っても、まったく反応しなかった。
中村先生:お父様は怒ったとき、いつもこうやって完全に無口になるんですか? それとも最近だけですか?
杏子:前は喧嘩してもせいぜい「行くな」とか「部屋に戻れ」くらいは言ってました。でも最近は一言もありません。私が休学したことで両親が不満に思ってるから、わざと冷たい態度で罰してるんじゃないかって疑ってます。
中村先生:前に似たようなことがあったとおっしゃいましたね。少し詳しく聞かせてもらえますか?
杏子:だいたい二週間前ですかね。また小さなことで揉めて、私が台所に水を飲みに行こうとしたら、父が台所の入口に立って入れてくれなかったんです。そのときはまだ父が怒ってるだけだと思って、あまり気にしてなかった。でも昨日はもっとひどくなってた。それに母もなんか変で――私が部屋に閉じ込められてる間、必死に母を呼んだんです。三四回呼んでも、母は何も返事をしなかった。後で母の部屋に駆け込んだら、母はベッドでスマホを見ながら、頭が痛いって言って顔も上げなかった。私が泣いてるのをちゃんと聞いてたのに、私に関わろうとしなかった。
中村先生:つまり、ご両親は示し合わせていたと感じたわけですね?
杏子:わからない……でも母の態度は冷たすぎた。前なら少なくとも父をなだめようとしてくれたのに、今回は完全に無視。その後、おばあちゃんに電話したら、おばあちゃんは「あなたのためだから、怒らないで」って言うんです。でも電話の向こうでおばさんが「何かあったの?」って聞いてるのが聞こえて、おばさんも変だと思ったみたい。おばあちゃんは父に電話するって言ったきり、今も連絡はないです。
中村先生:整理してみましょう。お父様の妨害行為は、主に「入口」という場所に集中しているんですね。部屋の入口、リビングの入口、玄関の入口。
杏子:そうです、いつも入口の前に立ってる。私が出ようとすると、ドアをふさぐんです。
中村先生:では、あなたが部屋に戻って、外に出ようとしなくなったとき、お父様はどうしていましたか?
杏子:入口に立ったまま、中にも入ってこず、どきもしない。私が横になって泣いてると、父はドア枠のところに、まるで衛兵みたいに立ってる。その後何とかリビングまで行けたけど、やっぱり父は私の左前方、玄関のほうに立ってた。
中村先生:杏子さん、一つ気づいたことがあるんですが――あなたがこの話をしているとき、何度も「入口」「ドア枠」「玄関」という言葉を繰り返していますね。お父様とドアの位置が、いつも重なっているんです。
杏子:だって父がわざと入口に立ってるからですよ。それが何か?
中村先生:すぐに結論を出さないでいきましょう。ほかのことも少し話してみたいんですが、例えば昨夜以前に、お父様のほかの変な行動はありましたか?
杏子:あります。何日か前、夜中の十二時過ぎに空腹で眠れなくなって、台所で饅頭を蒸そうとしたんです。お湯が沸いて、饅頭を鍋に入れたところで、父が突然寝室から起きて台所に来て、入口に立って「蒸すのやめて、もう寝なさい」って言うんです。もう蒸してるって言ったら、父は「寝なさい」を四五回繰り返して、鍋の中に何があるかも気にしない。それでも私が蒸し続けるって言ったら、父は台所の外に立ったままじっと私を見てて、私が騒ぎ始めるまで動かなかった。そのときはただ夜更かしを心配してるんだと思ってたけど、今考えると、なんであそこまで見張る必要があったんだろう? 饅頭を蒸すだけで、何を見張ることがあるんだろう?
中村先生:お父様は台所のどの位置に立っていましたか? ドアの内側ですか、外側ですか?
杏子:入口に立って、ドア枠にもたれて、じっと私を見てました。
中村先生:杏子さん、もう一つ細かいことを聞かせてください。昨日お父様が鍵を落としたとおっしゃいましたが、それがあなたの部屋の鍵だと言ってましたね。お父様は拾いましたか?
杏子:拾わなかったです。私が拾いました。確かに私の部屋の鍵でした。返してほしいって聞いたけど、やっぱり父は何も言わない。だからそのまま鍵を握りしめてました。
中村先生:あなたの部屋のドアは、普段は鍵をかけますか?
杏子:かけます。ときどき鍵をかけるんです。邪魔されたくないから。でも昨日は鍵をかけてなかったから、父が中に入って立ってられたんです。
中村先生:杏子さん、これから聞く質問は少し変に思われるかもしれませんが、真剣に答えてください。昨日お父様があなたの部屋の入口をふさいでいたとき、あなたがお父様の体を押したとき、どんな感触でしたか? 柔らかかったですか、温かかったですか、それとも別の感じでしたか?
杏子:……ちょっと硬かったです。胸を押したんですけど、まるで板を押すみたいでした。それに微動だにしなくて、人のように少しだけ身を引くようなこともなかった。
中村先生:そのときお父様はどんな服を着ていましたか? 色や素材、覚えていますか?
杏子:父は……濃い色の……違う、思い出せない。そのときは頭が混乱してて、ただ目の前をふさがれてることしか頭になかった。でも……顔はちゃんと見てなかった気がする。そう、ずっとちゃんと顔を見てなかったみたい。父はずっとドア枠のところに立ってて、光が逆光だったんです。
中村先生:さっきリビングで猫を撫でてたとおっしゃいましたね。お父様の手を見ましたか? 指や爪は、普通でしたか?
杏子:私……猫を撫でてるのは見えたけど……でもその手は……血色がなかったような……? ちょっと待って、「誰かが猫を撫でてる」というのは見えたけど、細かいところがぼんやりしてる。先生、どうしてそういうことを聞くんですか?
中村先生:ある矛盾に気づいたからです――お父様は会話の間、意味のある言葉を一言も発していません。もう一度考えてみてください。あなたが部屋からリビングに逃げたとき、「ドアを押し開けて」出ましたか、それとも「お父様を押しのけて」出ましたか?
杏子:私……最初に父を押して、それで父がどいてくれたから出られたんだけど……でも……力を入れてドアを押したら、ドアが開いた……ような……
中村先生:杏子さん、それは本当にお父様だったと確信できますか?
杏子:どういう意味ですか? あれは当然父ですよ! あの人が私の部屋に立ってたんです。ほかの誰かのはずがないじゃないですか。
中村先生:でもあなたが語ったその「お父様」は、話さない、返事をしない、体温がない、押しても動かない、いつもドアと一緒にいる、そしてポケットから鍵が落ちる……その姿は、むしろあなたの部屋のドアそのもののように思えてなりませんか




