紅蓮のワルツ
■あらすじ
大陸の覇者として名を馳せた王国が、たった一夜にして崩壊の時を迎える。
敵軍が城門を破り、すべてが灰に帰そうとする中、王は唯一生き残った近衛騎士・カイルに「生き延びろ」と、自由という名の追放を命じる。
しかし、カイルはその命を真っ向から拒絶する。彼にとっての「守るべき国」とは、地図の上の領土ではなく、目の前にいる王その人が作る国であったからだ。
■登場人物
王:
滅びゆく国の主。自らを「罪人」と称し、せめて忠臣であるカイルだけは生かそうと冷徹に振る舞う。
騎士:
王に命を救われた過去を持つ近衛騎士。国への忠誠ではなく、王個人への忠誠を貫く。
大陸の覇者として、その名を世界に轟かせた我がガルディア王国。
かつて、この国は、繁栄と知性の極みそのものであった。広大な大地は黄金の稲穂を波打たせ、世界中から集まる商船で、港は年中活気に満ちあふれていた。
魔法と科学が美しく融合した王都は、夜になっても決して闇に沈むことはなく、人々は誇りを持って『眠らぬ光の都』と称えたものだ。
歴代の王たちが血と汗を滲ませて築き上げた、幾重にも連なる頑丈な城壁。天を突くようにそびえ立つ壮麗な魔法の塔。そして、大陸全土の法と秩序の礎となった輝かしい歴史。
そのすべてが今、たった一夜の猛火によって、無慈悲な灰燼へと帰そうとしていた。
玉座の間を満たすのは、息が詰まるほどの熱気。
崩落を待つ不気味な静寂を切り裂くように、城壁の外からは狂乱した怒号と命を乞う悲鳴が、濁流となって押し寄せていた。
「助けてくれ! 誰か、誰か!」
「城門が破られたぞ! 退くな、死守せよ! 王をお守りしろ!」
「いやだ、死にたくない!神様、どうか…!」
何層にも及ぶ防壁を越えて響き渡る民の断末魔は、形を持たない刃となって、閉ざされた玉座の間にあるわずかな希望さえも無慈悲に削り取っていった。
ガルディアの象徴たる玉座に深く背を預けたまま、国王エドワードは、震える手で血に濡れた王冠を弄び、虚空を見つめて乾いた声を絞り出した。
「聞こえるか?怒号、悲鳴、そして祈り。我らが愛した、この国の終焉の音が」
その問いに答えたのは、玉座の傍らに直立する近衛騎士、カイルだった。返り血に汚れながらも、その背筋は微塵も揺らいでいない。
「はい。城門が破られ、外郭はすでに敵の手に落ちた模様です」
「フッ。何が『覇王』だ」
エドワードは自嘲気味に鼻で笑った。その瞳には、かつての覇気はなく、深い絶望と疲燥だけが揺らめいている。
「私は、先代から受け継いだこの大地も、私を全幅の信頼をもって慕ってくれた数百万の民も、何一つ守れやしなかった。残ったのは、崩落を待つだけの、この埃臭い玉座の間だけだ」
「まだ、私の剣は折れておりません、我が王よ」
カイルは、自らの胸に拳を当てた。その声には、死線を越えてきた者だけが持つ、絶対的な覚悟が宿っていた。
「このカイル、その身が朽ち果てるまで、一兵たりともこの玉座の間へは通しません。どうか、この私に最期の命を」
懇願するような騎士の瞳を見つめ、エドワードはただ首を横に振った。
「命だと? ふっ、馬鹿を言うな。もはや命じるべき民も、守るべき大地もありはしないのだぞ。私には、お前に下せる命令など、何一つ残っていないのだ。お前はもう、自由だ」
「ですが、私はあなたの騎士です! たとえ国が滅びようとも!」
珍しく声を荒らげたカイルの言葉に、エドワードの表情がわずかに和らいだ。
「騎士。そうだな。お前はいつでも私の影として寄り添い、私の片腕として完璧な働きをしてくれた。私という傲慢な男を、最後まで支え続けてくれた。だがな、カイル。それももう終わりだ。私は今、王としてではなく、一人の男としてお前に最初で最後の『願い』を託す。この城を去り、生きろ」
「…っ。お言葉ですが、そればかりは承服しかねます。主である王をこのような場所に置き去りにして、一体どこへ行けと言うのですか!?」
「どこへでも行くがいい!」
エドワードは玉座の肘掛けを強く叩き、立ち上がった。その咆哮は、かつての覇王としての威厳を帯びていた。
「裏口の隠し通路は、私が直々に細工を施しておいた。まだ火は回っていないはずだ。お前ほどの腕があれば、包囲網の薄いところを抜けて隣国へ逃れることなど容易いだろう。そこで新しい人生を始めるといい」
「お断りします!」
カイルは即座に、そして、断固として拒絶した。
「行け、カイル! これは命令ではない、私の『願い』だと言ったはずだ!」
燃え盛る炎に照らされながら、王は叫んだ。それは忠臣を死なせたくないという、血を吐くような本音だった。
「お前という、未来の光を...こんな薄汚い、墓場のような場所で消させるわけにはいかないのだ!」
生きろ、と王は言った。だが、私の時間は、私の命は、とうの昔に、この人に拾われた瞬間から、私だけのものではなくなっていたのだ。
玉座を包む炎の爆ぜる音が、まるで時計の秒針のように私たちの最期を刻んでいる。私は熱風に喉を焼かれながらも、十年前のあの日を鮮明に思い浮かべていた。
「…覚えていますか、エドワード様。十年前の、あの凍てつく冬の日のことを」
私の問いかけに、玉座に深く腰掛けた王は、視線を虚空に彷徨わせたまま小さく眉をひそめた。
「…十年前?」
「はい。私は、吹きさらしの貧民街の路地裏で、泥水をすすりながら死にかけていた、ただの名もなき童でした。生きる意味も、明日への希望もなく、ボロ切れのようにうずくまって、ただ凍えて死ぬのを待っていた。そんな、誰の目にも留まらないはずの私に、最初に声を掛けてくれたのが、あなたでした」
「ああ。あの、薄汚れた雪の中で、妙にギラギラとした目つきの鋭い童がいたな。今でも覚えているさ、懐かしいな」
王の唇に、どこか自嘲めいた笑みが浮かぶ。私はその表情を見つめながら、言葉を繋いだ。
「身を切るような吹雪の中、あなたは私のような、汚らわしい身なりの子供の前で、躊躇いもなく、その場に跪いてくださいました。その時、あなたから漂った甘い煙草の香りと、温かい体温を、私は今でも鮮明に覚えています。あなたはご自身の、雪の結晶のように美しい高価なローブを脱ぎ、そっと、私の震える肩に掛けてくださった。そして、その大きな手のひらで私の頭を乱暴に、だけど、どこか優しく撫でながら、こう言ったんです。『私のために、その牙を研げ。お前の居場所は、私の隣に作ってやる』と」
「フッ。若気の至りというものだ。当時の私は、自分の手足となって汚れ仕事を引き受ける、そんな都合のよい猟犬が欲しかっただけかもしれんぞ。そんな男の言葉を真に受けて、律儀に牙を研ぎ続けたお前が、ただの馬鹿者なのだ」
「ええ、それでも構いません。猟犬でも、道具でも。あの時、私は初めて、自分がこの世に存在していいのだと。誰かに必要とされているのだと、知ることができました。お前の居場所は私の隣にある、その言葉だけが、暗闇を照らす光だったのです。だから」
「だから、私の騎士になった、と? どこまでも救えぬ男だな」
王は私の言葉を遮り、鋭い視線を向けた。
「お前はその忠誠心のせいで、自らの未来を縛り、ついにはこの燃え盛る城から逃げ出す自由さえ失おうとしている」
「私は、法や契約を重んじているのではありません。絶望に沈む私に温もりをくれた、あなたの騎士であることを誇りに思っているのです。たとえ国が消え、王座が灰に帰そうとも、私の忠誠の灯火は、あなたという存在がある限り、決して消えはしません」
「ならば、お前を縛り上げていたその忠誠の呪縛を、この私がすべて握り潰してやる! お前はもう、誰の影でもない。自由だ、カイル。国を捨てろ、私を捨てろ! どこへでも行き、誰の命令でもなく、お前自身のために息をして、お前自身のために生きろ!」
荒々しい叫びのあと、王の声は、ひどく脆く、掠れたものへと変わった。その瞳には、隠しきれない懇願の色が浮かんでいる。
「…頼む。私を、私を愛してくれているのなら。こんな奈落の底で、私と一緒に死ぬな。お前だけは、光のある場所へ行ってくれ」
『愛しているのなら、死ぬな』。
主君の口から紡がれたその言葉は、あまりにも優しく、そして、あまりにも残酷だった。
王は、自分だけがすべての罪を背負って、一人で逝こうとしている。最後まで完璧な『王』の仮面を被り、泥を啜るのは自分だけでいいのだと、そう言って私に背中を向けている。
その、あまりにも不器用で孤独な背中を、私はどうしても放っておくことなどできなかった。何故なら、私の魂のすべてが、その命令を拒絶していたからだ。
「いいえ、お断りします」
カイルは一歩も引かず、王の背中に向かって静かに、しかし鋼のような意志を込めて告げた。
「理屈や損得で動くのは、金で雇われた兵士です。ですが、魂を預けるのが、本当の騎士です。私は十年前、あの雪の降る日に、あなたに魂を預けた。だから、最期の瞬間まで、たとえ地獄の業火に焼かれるのだとしても、私はあなたの隣に居ます」
一拍の沈黙をおき、カイルは自らの胸を強く叩いた。
「それこそが、ただ泥の中で死を待つだけだった、私が、この世に生を受けた、唯一の証なのですから」
エドワードは立ち尽くした。喉の奥から出かかった拒絶の言葉は、カイルの射抜くような視線に縫い付けられ、声にならなかった。
「カイル…」
玉座の間を包む沈黙の中、バチバチと炎が爆ぜる音だけが、二人の最期を祝福する祝詞のように流れていた。
そして、その静寂の裏側から、確実に近づいてくる無数の重い足音が響き始める。敵の軍勢が、すぐそこまで迫っていた。
エドワードは、深く、長い息を吐いた。
それはすべてを諦めるような、そして同時に、心の底から救われたような、安堵の息吹だった。
「救えぬ馬鹿だな、お前は。私の言うことなど、何一つ聞きやしない」
王の唇に、ふっと微かな、しかし酷く人間らしい苦笑が浮かぶ。
「はい。私は、あなたの仰る通り、御身の言葉に背き続ける不忠の騎士ですから」
カイルもまた、十年前のあの日、路地裏で王に拾われた時と同じ、悪戯っぽい光を瞳に宿して微笑み返した。
「だが、そうか…。最期の瞬間まで、私は独りではないのだな。暗闇の中に、お前がいてくれるのだな」
エドワードが差し出した右手に、カイルは迷わず自らの手を重ね、固く握りしめた。
「御身の傍らに。私の魂は、決してあなたから離れません」
「よかろう。ならば、剣を抜け。カイル」
エドワードの声は、もはや震えてはいなかった。彼の手が、装飾の施された鞘から静かに剣を引き抜く。その金属音が、玉座の間に冷たく響いた。
「はっ!」
カイルもまた、一切の迷いなく自らの愛剣を抜き放つ。
二振りの刃が、燃え盛る炎の照り返しを受けて、赤く、禍々しく輝いていた。
「もはや、国はない。王も、騎士もいない」
エドワードは剣を構え、迫り来る扉の向こうを見据えたまま、誇らしげに口角を上げた。
「ここには、一人の男と、その男に魂を預けた戦友がいるだけだ。行くぞ、カイル。王としてではなく、一人の男として、お前と共に逝こう!」
「御意! 我が王よ、我が光よ! あなたの往く道に、栄光あれ――!!」
カイルの絶叫が、轟々と唸る火の粉を散らした。
あとは敵を迎え撃つのみ。そうして死線を踏み越えようとした刹那、エドワードがふっと剣の切っ先をわずかに下げた。
「…なぁ、カイル。最期の瞬間に、一つだけ馬鹿げた約束をしてくれないか?」
不意の言葉に、カイルは驚き、目を見開いた。
「何でしょうか。あなたの頼みなら、何でも」
「もしも。もしも本当に、来世というものがあるのなら」
エドワードの視線が、カイルの顔を捉えた。その瞳には、今までカイルが一度も見たことのないような、深い慈愛の色が滲んでいた。
「その時は、私の『息子』として生まれてこい。今世では、お前を血塗られた戦場へ駆り立て、暗殺や汚れ仕事ばかりを押し付けてしまった。王の盾として、お前に本当の温もりを何一つ与えてやれなかった。だから、次は、私がお前を本当の家族として、精一杯、愛してやりたいんだ」
「…っ、エドワード様」
予想だにしなかった言葉に、カイルの喉の奥が熱く焼けた。視界が、涙で激しく歪みそうになる。
「今更だな。本当に、身勝手な父親だ。笑ってくれて構わないぞ」
「いいえ!」
カイルは即座に首を横に振った。溢れ出そうになる涙を堪え、これ以上ないほど誇らしげに微笑む。
「光栄です! もしもそんな奇跡が許されるのなら、来世では、あなたを本当の『父上』と呼ばせてください。そして、誰よりもあなたを愛し、慕わせてください。それが、私の、次の人生の夢です」
「ああ。約束だ。…さあ、いこうか、息子よ」
エドワードが柔らかく微笑み、再び前を向いた。その背中は、もはや孤独ではなかった。
「はい! どこまでもお供します、父上!」
怒号と共に、ついに玉座の間の大扉が押し破られる。
なだれ込んでくる無数の刃の嵐。
その真っ只中へ、二人の男は笑顔のまま、翼を広げるようにして、そして、散った。
こうして、かつて栄華を極めた一つの王国は完全に地図から消え去った。
しかし、燃え盛る玉座の前で、二人が奏でた最期の旋律は、歴史の闇に消えることなく、ただ美しく、永遠に語り継がれるのであった。
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。
まだ書き始めではありますが、少しずつ、内容に厚みのあるものも書けたらいいなと思っています。




