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その三


 二十 (とう)()(ちょう)(とん)


「……はい……。私には趙盾を担当させて下さい。私はいつも、権力を持っている人、能力のある人ほど良心的であってほしい、自制心と寛容の精神を合わせ持ってほしいと願っています。権力と能力を正しく使ってほしいからです。晋という大国で、しかも並みいる人材のいる中で、三十三歳という若さでいきなり正卿(宰相)に抜擢され、二十年もの長きにわたり政権を担った盾は、かなり優秀だったと思うんです。でも……まだよくわかりませんが、たぶん私が盾に惹かれたのは、(とん)の優秀さではなく、盾の良心的で自制心のある人間性だと思うのです。うつくしいとさえ感じました。————実は、このことに関心を持ったのは、むかし、郷校(きょうこう)の先生が《趙盾、其の君を弑す》と朝廷に告示した大史・(とう)()のことを誇らしげに話してくれたからです。子供心にも史の心意気に感激したのを覚えております。……ですが……その後いろいろ調べていくうちに、それほどの権力者なのに、責任の一端を感じたがゆえに、やってもいない弑君の悪名を甘んじて受け入れ、大史を処罰しなかった盾に、だんだんと好感と興味を持つようになりました。……斉の崔杼(さいちょ)なぞは《崔杼、其の君を弑す》と記した大史と、それに続いた兄弟を三人も殺したといいます。盾とは違い、崔杼はあきらかに首謀者だったんですが……」

聞いているうちに、子貢は、オヤッと思った。いつもの岳より歯切れが悪い。それに、関心の比重も董孤から盾へ移っているような……。

 

 岳が、まだなにか言いたいことがありそうなので、子貢は静かに次の言葉を待った。

 そのとき、岳が子貢を見て、今度は、

「……ですが、あの~」

と言った後、何か迷っているようで口ごもった。

 子貢の見るところ、岳は理想家肌で書生気質、権力者に対してもなかなか厳しい意見を

持っている。                  

(何が言いたいんだろう?)と思っていると、岳の目がほんの一瞬大史を見たのに気づき、

察しがついた。

 そこで、その董孤の子孫であろう大史の了解を得ようと、大史を見た。大史も話の流れから察したのであろう。子貢を見てうなずき、それから岳を見てにっこりと微笑んで言った。

「大丈夫ですよ。何でも言ってください。よい仕事をするためにここに集まったのですか

ら。————実は私も若い時から、このときの盾と(とう)()のことに関心を持っていました。ですので、関連すると思われる史料はすべて読みましたし、いろいろな人の意見も聞きました。ですが、これは皆さんも同じだと思うのですが、いま岳さんがそれらをじっくり読み込んで熟考する時間的余裕はあまりないと思います。————そこで思うのですが、よろしければこれまで岳さんやみなさんが得た情報をまず私たちに聞かせていただいて、そこに私たちが知っていることや考えを付け加えさせていただくというのはいかがでしょうか」

 子貢をはじめ、周りのみんなが納得した様子なのを見て安心したのか、岳は、              

「ありがとうございます」

と言って、以前子貢に話した《趙盾、其の君を弑す》の経緯をもう一度繰り返した。その後、

「気になるのは大史のお考えです。犯人は趙穿なのになぜ《趙盾、其の君を弑す》と記したのでしょうか。もちろん、監督責任を重視したのはわかりますが、それだけではないような……。実は、ここへ来ることが決まった後 いろいろな人に話を聞きました。盾に好意的な話がたくさんありました。————たとえば政敵の()(えき)()が亡命したときには、妻子と家財を亡命先に送り届けてやったとか。————それから、文公は、よほど盾の父親の趙衰(ちょうし)を信頼していたのでしょう。亡命中、(てき)で妻を(めと)りますが、その妻の姉を衰に(めあわ)せています。この女性が盾の生母です。文公は帰国して国君になると、今度は、自分の娘の(ちょう)()をも衰に(とつ)がせています。その趙姫は盾と盾の生母を都に呼び寄せ、二人を(ちゃく)()嫡妻(ちゃくさい)とし、自分と自分の息子たちの地位をその次としました。後年、盾は自分の官位を嫡子以外の子がつく余子(よし)の官に下げて、趙姫の息子を嫡子の立場に引き上げ、趙家の宗主(そうしゅ)にして、趙姫の恩に報いたと聞きました。————それから、よい意見には従ったと。たとえば、郤缺(げきけつ)の『あなたは晋国の正卿として諸侯をまとめる立場にあるのに、その力を徳に尽くされぬとは如何なる次第か』という直言を受け入れ、行動に移したそうです。この郤缺がまたすごい人で、父親が文公暗殺を謀り(はい)()したため、一時は農民にまで身を落としましたが、ひたすら徳を尽くし、最後は盾のあと正卿になっています。————また、小国の邾の後継者選びに介入したときも、『国人の言い分が通っているのに従わぬのは()(しょう)である』と、兵を引き揚げたとも聞きました。————ほかにも、霊公から盾暗殺の命を受けた刺客ですが、盾の屋敷で自殺しています。な ぜなら、暗殺の機会を窺っているうちに、盾の身の修め方を見て、盾を殺すことは正しくないと考えたからだといわれています。それと、盾の屋敷で自殺したのは、盾に身の危険を知 らせるためだったと考えられているそうです。 霊公はそれでもなお、今度は酒宴の席で盾を殺そうとします。このとき盾を助けたのは霊公の衛士です。盾がまえに飢え死にしそうになったのを助けた男だそうです。————これらはほとんど聞いた話です。《実際に書かれているもの》を見たわけではありませんので、真偽のほどはわかりません。————しかし、百年以上経った今でも、盾に関する好意的な話が、これほどいくつも、しかも詳しく残っているということは、記録としても残されているような気がしてなりません。もしそうなら、残したのは大史か大史の関係者だと思うのです。それなのになぜ、大史は 敢えて《趙盾、其の君を弑す》と記録したのでしょうか。趙穿の名を出すつもりがないなら、無難なところで《(しん)(じん)()(くん)(しい)す》や《(しん)()(くん)(しい)す》と記録する方法もあったと思うのです。 現に三十年以上後に、(らん)(しょ)という正卿が、時の国君・(れい)(こう)を弑したときは、魯の『春秋』には《(しん)()(くん)(しゅう)()(しい)す》と記録されています。これらのことが、晋の正史にどのように記されているのか、それと、他にもどんなことが記されているのかわかりませんので、今はまだご意見を伺う段階ではないと承知してはいるのですが……。それでも、もし大史のご意見を少しでも伺えれば、こんなうれしいことはございません。長くなってしまいましたが、よろしくお願いいたします」

 岳はそういって、子貢と大史を見て頭を下げてから着席した。

 子貢は、それほど有力なツテを持たないであろう苦学生の岳が、これだけの情報を   集めるのは大変なことであったろうと、その苦労と思い入れの深さを思った。


 大史を見ると、この質問を予期していたようであった。

「……私はあの董孤の来孫(らいそん)にあたります。先祖は周から遣わされました。私が伝え聞いているのは、董孤はこの件に関して多くを語ることはなく、『必要と思われることはできうる限りすべて記しておいた』と言った、ということです。その意味では、今回岳さんを通じて、この件が巷間(こうかん)でどのように語られているかを知ることが出来、大変参考になりました。これらの話は、すべて記録として残っています。特に訂正すべきところはありません。董孤の子孫としては、そのことを大変うれしく思います。なぜなら、これこそまさに董孤が願ったことではないかと思うからです。『後の世まで、そのままに語り継がれるのは不可能である。いつかは、記してあることがすべてとなる。よって、(ぶん)()は心して用いよ』とは、史に対する訓示の一つです。 董孤はきっとこの言葉を思い、真相が後世に間違いなく伝わるよう、事件に関わった人物や出来事・背景を詳しく記しておいたのだと思います。その他にも、いろいろな記録が残っていますので、これらの記録をご覧になったあと、 また意見交換できる機会を設けられればと思います。ですが、ある意味よい機会かもしれませんので、とりあえず、今の私の考えを聞いてください。まず、岳さんのご質問、なぜ董孤は《趙盾、其の君を弑す》と記したか。これには、次の言葉がカギになっていると思います。『何のために記すのか。心によくよく問うてみよ』、これも史に対する訓示の一つです。董孤が《趙盾、其の君を弑す》と記すことに決めたのは、おそらくこの〈何のために記すのか〉が、きっと念頭にあったと思います」

 子貢はハッとした。まさかこんな場面で〈何のために〉という言葉を聞こうとは    思わなかったからだ。

 そんな子貢の思いには気づかず、大史の話は続く。

「《趙盾、其の君を弑す》と記せば、盾は必ず『違う、私ではない!』と抗議してくるはず。

そのときにはこう問いただすことによって、盾に考えてもらおうと思った……。『あなたは国の正卿です。()げても国境を超えず、もどってからも賊(趙穿(ちょうせん))を討とうとしない。()ここ(・・)に(・)()っ(・)た(た)()()は(・)、(・)あなた(・・・)でなくて(・・・)()に(・)ある(・・)と(・)いう(・・)の(・)です(・・)か(・)!(・)』、と。私は思うのですが、董孤は盾を買っていたんではないかと。買っていたからこそ、晋の正卿であり、ときの権門(けんもん)・趙家宗主でもある盾に監督責任がある————と、敢えて厳しい言葉を突き付けた。そして盾には、趙穿を賊として処罰しない以上、今後はこの件を(いまし)めとして、(しい)(くん)という(あく)(みょう)を背負い、正卿としてさらに身を(つつし)んで事に当たって欲しい————と願ったのだと思います。そして盾は、董孤が願ったように、このような事態になってしまったことについて、自身にも責任があると受け止めた。————さて、その盾の監督責任ですが、一つは、軽率で問題行動の多かった趙穿をずっと甘やかしてきた結果、ついには弑君という大罪を犯させてしまったこと。その盾がなぜ長い間趙穿の軽挙妄動(けいきょもうどう)を大目に見てきたかというと、父親の()が亡命中、衰の兄、つまり趙穿の祖父にかなり世話になったからだと考えられます。帰国後は、亡命中の文公に従った父親の衰の功績で、盾が趙家の宗主になっていますが、もともとは趙穿の家系が主筋です。そのうえ趙穿は、先君・襄公の娘、つまり霊公の姉を娶っています。そういうわけで、盾にとって趙穿は、かなり悩ましい存在だったのではないかと推察されます。決して盾が優柔不断だったからではないと思ってます。というのは、盾は正卿になると、様々な改革や腐敗の排除、隠れた才能の発掘に取り組んだと記録にあります。都から見たら辺境の地・(てき)で育ったにもかかわらず、義母となった文公の娘・趙姫の計らいで、母と共に都に呼び寄せられ、その趙姫に才を見込まれて嫡子となり、そのうえ、三十三という若さで盟主・晋の正卿に抜擢です。盾の後に続いて正卿になる郤缺(げきけつ)(じゅん)(りん)()・士会など、年上の有能な卿大夫の上にたって、数々の改革を成し遂げたとあれば、その心中、相当な気負いと責任感があったと推察されます。正卿就任早々に国君・(じょう)(こう)が亡くなった際には、嗣子(しし)()(こう)がまだ幼かったため、年長の公子・(よう)を秦から招いて立てることに決めましたが、その際、政敵の()(えき)()が立てようとした別の公子・(らく)をいち早く殺しています。その後いろいろあり、結局、幼い嗣子(しし)()(こう)(後の(れい)(こう))を立てると決めると、そのまえに自分が招いた公子・雍を秦に追い返したりもしています。そんな盾を恐れ亡命した孤射姑は、後に亡命先で、(ちょう)()(とん)父子のことを訊ねられ、こう答えたといいます。『(ちょう)()は冬の日、(とん)は夏の日である』と。

つまり、趙衰は冬の日差しのように穏和で温かく、盾は夏の日差しのように暑くて(はげ)しいと。

心の内が烈しければ烈しいほど、正卿としての気負いと責任感、そこに趙姫の例でもわかるあの義理堅い性格を思うと、趙穿に対するその葛藤(かっとう)はいかばかりであったかと……。記録によれば、いつもは義や規律にうるさい郤缺・士会・韓厥(かんけつ)が、趙穿について何か苦言を呈したという記述がないところをみると、彼等も、そんな盾の複雑な立場と胸中を思いやったのではないかと考えます。それに、先ほど岳さんのお話にあったように、郤缺の直言を受け入れたり、小国・(ちゅ)の国人の言い分を聞き入れたりと、素直さと謙虚さも併せ持っています。 

それ故董孤も〈家柄はよくても小人物の〉趙穿の罪状を記すより、そのことの監督責任を問うことにより、盾に考えてもらった方が意味があると考えたのだと思います。————それともう一つ、私はこちらのほうが問題だと思うのですが、先君襄(じょう)(こう)から託された幼い霊公を、うまく育てられないで暴君にしてしまったこと。その霊公がなぜ暴君になったかについては、詳しい記述がありませんのでよくわかりません。師傅(しふ)や取り巻きのせいとかいろいろなことが考えられます。『(せい)相近(あいちか)し。(ならい)相遠(あいとお)し。(おしえ)()りて(たぐい)()し』これは、孔先生のおことばと伺いました。人間が生まれながらに持っている性質には大差はないが、その後の教育や環境によって大きな差が出てくるというふうに理解しています。父を亡くし幼くして国君になった霊公に、よき師傅や側近を選んで付けるのは、正卿の大事な役目です。士会が諫めてもダメだったという記録がありますので、もともと霊公本人の人間性に問題があったのかもしれませんが、それでも、盾がもう少し早くから上手(うま)く対処していれば、霊公はあそこまで(ひど)くならず、あんな事件は起こらなかった、と、董孤はそう言いたかったのではないかと考えます。文公以来の名君といわれる(とう)(こう)は、名臣と評判の(しゅく)(きょう)を太子(のちの平公)の傅に任命しています。おかげで平公本人は凡君でも大過なく終わりました。盾もそうしていれば こんな事件は起きなかったかもしれませんね。これが、私の考えた、董孤が《趙盾、其の君をヲ弑す》と記した理由です」

と締めくくったのだが、ほんの少しの間をおいて、思いだしたようにつけ加えた。

「それと、これはあくまでも私の想像なのですが、幼くして父親を亡くした霊公は、もしかしたら盾に、父親のような親身さを求める気持ちがあったのではないかと……。しかし残された資料から想像するに、生来優秀で生真面目(きまじめ)な盾には、霊公のそんな気持ちは理解できず、あくまでも臣下として一生懸命仕えるだけ。そのもどかしさや苛立ちが、霊公をあのような行為に走らせたとも考えられなくもないかと……。それと、先ほど岳さんが言われた《晋、其の君州(しゅう)()を弑す》の記録ですが、これは、欒書(らんしょ)がときの国君・厲公(れいこう)を弑したときのものです。厲公と(おくりな)されるくらいですから、盾のときの霊公と同じく酷い国君でした。欒書(らんしょ)は、荀首(じゅんしゅ)()(しょう)韓厥(かんけつ)などの忠良の臣の意見は多くとりいれていますし、宋の()(げん)というなかなかの人物とも親しくしていました。そのおかげで、士燮が進めていた《()(へい)会盟(かいめい)》という晋・楚間の和議が、国君・(けい)(こう)の死去により滞った時、この華元が仲介に入り、締結にいたりました。その《弭兵の会盟》というのは、当時としては非常に画期的なものでした。文献も多く残っていますので、ぜひ読んでいただければと思います。欒書は、世故(せこ)に長けていて、判断は的確、目的のためには表と裏を使い分け、悪臣を排除し、厲公を弑したあと、晋の最後の名君と謳われた悼公(とうこう)を迎え、体制を整えた後、正卿の座を韓厥(かんけつ)に譲っています。あの趙穿とは人間が違いますし、厲公が暗君になったについても、欒書が正卿になった時期から見て、盾ほどの責任は問われるべきではないと思われます。そういうわけで、欒書と記さず《晋、其の君を弑す》と記したのだと思います」 


 聞きながら、子貢は(なるほど、盾についてだけでも一つの物語ができそうなのに、その後にも郤缺(げきけつ)・士会・欒書となかなかの人物が続き、さすが晋、魯や衛と比べると、何かにつけて一回りも二回りも話が大きそうだ)などと思いつつ、そのまま静かに大史の話に耳を傾けた。

「ところがです。実はこの年になりまして、史として、私のなかにある疑問が生まれました。

董孤のあのときの告示内容、あれは適切だったのだろうか。他に書きようはなかったのだろうか、と。残された資料から察するに、董孤自身も、盾が霊公暗殺に関与したとは思っていない。しかし、正卿という責任ある立場をよく考えてほしいと思うあまり、あのような書き方をしてしまった。ですが盾が『違う、私ではない!』と抗議したということは、事情を知らない人はどう思ったでしょう。書法の決まりがあるとはいえ、真相の説明がないまま、事実と違う内容を朝廷に告示するということは、果たしてそれは如何なものでしょうか。事実と違う内容を告示する場合は、読み手に誤解を与えないよう、その真相も必ず付記しなければならないと考えます。事実と違う文言が、後々独り歩きしてしまう危険性があるからです。幸い岳さんのお話で、この件に関しては、巷間に真相が正しく伝わっていることがわかり安心しました。ですが、今後は〈書法のありよう〉についても考えていかなければと思っております。孔先生には、私のこんな漠然とした迷いや思いもお伝えいただければうれしいです。先生ならきっと、よい方法を考え出してくださるのではと思っております。————ところで、それはそれとして、百年以上経った今では、多くの人が関心を抱くのは、弑君そのことよりも、そのときの董孤の心境と、盾の人間性だと思うのです。あのとき董孤が、《其の君を弑す》の前に、無難な《晋》または《晋人》と、そのどちらかを記していれば、盾と董孤のこのやり取りはなく、盾は、それほど多くの人々の関心を集めなかったかもしれません。董孤がこう記し、このやり取りがあったからこそ、盾の良心的で自制心のある人間性を強く浮かび上がらせることになり、このときの盾の姿に感じるものがあったからこそ、董孤は、盾に関する出来事を拾い集め記録しました。————長い歴史を通してみれば、盾のように権力や能力を併せ持った人間は(あま)()います。しかし、それだけでは歴史に大した名は残せません。名が残るには何らかの要素が必要です。一大事業を成し遂げたとか、ものすごい発見をしたとかの結果だけでなく、そこに至るまでの、何と言いましょうか、本質的に人を感動させる物語性があるかどうか。精神の美しさ、やさしさ、強さなどを感じた時、私たちは感動を覚えます。その意味で盾は、董孤を介して、この出来事でぎりぎりの何かを試されたのかもしれません。もちろん董孤に試すつもりはなかったと思いますが……。さて、この後、盾はさらに六年、合わせて二十年正卿を務めます。この間、世継ぎ問題も含め、盾も判断を誤ったことが多々あったと思いますが、それでも郤缺(げきけつ)(じゅん)(りん)()()(かい)欒書(らんしょ)韓厥(かんけつ)など多くの優れた人物を長きにわたりまとめることができたのは、盾の私心のなさ、国を思う気持ちが彼らに伝わっていたからではないかと考えます。士会は、世継ぎ問題での盾の迷走のせいで秦に出奔するはめになったことがありましたが、それでも、霊公の酷い行状を諫め続ける盾に、『正卿であるあなたが諫めても聞き入れられぬとなると、後に続くものがありません。私が先ず諫めて、聞き入れられぬ時はあなたが引き継いてください』と、言ったそうです。士会がえらかったこともあるでしょうが、盾と関わっているうちに、盾の中にある何かを認めたからではないかと考えます。盾が引退して百年以上経ちますが、この間、名君といわれるのは悼公一人だけです。それでも晋が何とか盟主の座を守ってこられたのは、盾の下で、後の名宰相や名臣が多く育ったからです。その意味で私は、文公亡き後の盾のはたした役割は、非常に大きかったのではと思っています。————そして今、私は董孤に言ってやりたいと思います。董孤さん! 百年以上経った今でも、この若者のように、あなたの残した史料に関心をもってくれている人がいますよ! と」

 言い終えた大史は岳を見て微笑んだ。が、

「あっ、それともう一つ付け加えさせてください。今のはあくまでも、晋の史として、私の知り得た情報の中で推測した考えです。私自身、若い時と今では考えが変わってますし、同

じ資料を見ても、人によって受け取り方が違うことがあります。なかには『董孤が《趙穿、

其の君を弑す》と記さなかったのは、そう記せば、趙穿の性格からして、自分は殺される

と恐れたからだ』と言う人もいました。ですので、史料を読んだのちの岳さんのお考えも

教えていただければと思います」

 大史の話が終わると、岳は立ち上がり、

「ありがとうございました。今のお話を心に刻み、さらに資料を読み込んで、盾の真情と

大史の思いを孔先生に正しく伝えられるようがんばりたいと思います」

といって、大史に深々と頭を下げて着席した。

 子貢も《趙盾、其の君を弑す》の記録のいきさつと、盾の人間性に感じるものがあった

ので、大史に心からお礼を述べた。


 二十一 趙武他


 子貢はそのあとまた、次の発言を目で促した。

「はい! 私はその趙盾の孫の(ちょう)()を担当したいと思います。盾の息子の(さく)は、盾が宰相

を退いて四年後、一部の人間の妬みからか、殺されたあげく家は取り潰されました。朔の妻・(ちょう)(そう)()は、ときの国君景(けい)(こう)の姉であったため後宮に戻りました。しかし、このとき身籠っていました。後の趙武です。その武が成人すると、盾に恩義のある韓厥の口添えで趙家は再興しました。後に、武は七年間正卿を務めましたが、その間、諸侯の礼物を軽減し、礼を以て友好に努め、戦争を無くすことを目指したといいます。私は趙武の数奇な生い立ちと正卿になってからの数々の功績を書きたいです」                       

 子貢は大史を見、特につけ加えることがなさそうなので、また、次の発言を促した。

「はい! 私は今のお話以外の人を取り上げたいと思います。晋は人材の宝庫です。名君

といわれる悼公や、郤缺・荀林父・欒書・()(おう)・韓厥・(かん)()などの正卿、他にも士燮や(しゅく)(きょう)()(けい)など名臣が数えきれないほどいます。これらの人物の言動やこぼれ話などもとりあげたいと思います」                            

 子貢は今度も、大史の表情を見て次の発言を促した。

「はい! それでは私は晋の成り立ちから文公の前までを取り上げたいと思います。この間三五〇年以上、特に分家が本家にとって代わったについてはいろいろあったようです。士会の祖父の()()や欒書の祖先などの名もあるそうです。さすが士会の祖父だけあって凄い人物のようです」

 子貢は今度も同様に、その隣の眞に発言を促した。


 二十二 ()(へい)(かい)(めい)


 眞は、まだ考えがまとまっていないのか言い淀んでいる。

 顔回が、

「私は行けないので、この眞君を一緒に連れて行ってくれないか? 若いけど、きっと役に立つと思うよ」

と、自信たっぷりに推薦してきた若者である。

 子貢が再度促すと、遠慮がちに話し始めた。

 子貢は顔回を思い出した。顔回も発言はいつも最後で、しかも遠慮がちだった。

「……はい。まだ何と言っていいのかわからないのですが、私は、先ほど大史が言われた

()(へい)(かい)》が気になっています。《弭兵》とは〈戦をやめる〉という意味だと思うのですが、書庫の奥の方に関連資料がまとまって保管されてました。私には、何か特別な思いが   あるような気がしてならないのです。一度じっくりと読み込んでみたいのですが……」

 子貢は眞の言った資料を思い出した。確かに書庫の奥の方にまとまってあった。

 子貢は、弟弟子たちにこれらの資料をどう割り振るかという観点からみていたので、  そこまでの感想は持っていなかったが、そう言われてみると、意外といい仕事になるような予感がしてきた。

子貢は眞に「いいだろう」と、許可をすると、大史に向かって頭を下げお礼を言った。

「先ほどは、たいへん有意義なお話ありがとうございました。皆、歴史を記す意義に改め

て思いを致したと思います。とりあえず皆の希望に沿って担当させようと思いますが、何かございましたらお願いいたします」

「はい、このたびの孔先生の史書編纂に協力できること、史として誠にうれしく思います。

何かありましたら遠慮なく仰ってください。できる限りのことはさせていただきます。ところで先ほどの《弭兵の会》についてですが、少し説明させていただきたい。————なぜ《弭兵の会》の資料だけ別にまとめて保管しておいたか。しかも、他の資料と重複している内容も多々ある。それは、当時大史であった私の曽祖父が、この(・・)()で(・)最も(・・)大切(・・)な(・)もの(・・)は(・)平和(・・)で(・)ある(・・)と考えるようになったからです。そう考えるようになったのは、()(しょう)という人物に深く感銘を受けたからです。士燮というのは士会の息子です。景公に乞い、初めて強国・楚と対等な立場での《弭兵の会盟》を提唱し、前五七九年に締結しました。これまでの会盟は勝者主導で行われていたので〈対等な立場での和議〉は、当時としては画期的なことでした。ですがその四年後、燮の願いもむなしく、(えん)(りょう)(たたか)いが始まってしまいました。景公の次の国君・厲公は、燮が諫めても聞く耳持たず、開戦を主張する卿大夫の声は大きい。そんななか、燮は失意のうちに亡くなりました」                   

 ここまでの大史は、静かにたんたんと話していたが、ここで一気に力が入った。

「たぶん、一部の人たちの目には、燮は弱腰と見えたかもしれません。しかし決して   そんなことはありません。燮は〈戦は最後の手段で、その前にまず、為すべきことを為す!〉

と考えていたのです。————これは、あなた方のお国の()(そん)(こう)()が、盟の温め直しを渋った  とき、燮の言った言葉です。『まずは諸侯を慇懃(いんぎん)かつ寛大に待遇し、民を(あん)()する。次に、時に応じて盟を確認し合う。従わない国を攻めるのはそのあとのことである!』、と。曽祖父は、そんな燮の真摯で高潔な人柄と言葉に感動し、後の世に伝えたいと記録を残したのです。それとこの《弭兵の会盟》にはもう一人、面白い男が登場します。先ほど話しました宋 

の華元。景公の死去により交渉が滞った時、仲介役を買って出ます。燮とはまったく違う

この男に、曽祖父はかなりの好感を持ったのでしょう。他国の宰相なのに、興味深い話を

いくつも残しています。————そしてそれから三十三年後、この《弭兵の会盟》は、その華元  が育てた(しょう)(じゅつ)が音頭を取り《第二次弭兵の会盟》に結実します。ここでは晋の(ちょう)()(かん)()(しゅく)(きょう)、斉の(ちん)(しゅ)()、楚の(はく)(しゅう)()などが登場し、よいことを言ってますのでご自分の担当でなくても、時間があればぜひ目を通してみてください。————実は私も史として、後の世のためにできることはないかといつも心にかけていたのですが……残念ながら今のところそんな人物も見当たりません。今の宰相は(ちょう)(おう)。あの盾の孫が武で、その孫にあたります。かなり有能ではありますが……」

といって言葉を濁したあと、また続けた。

「————それでは他に何ができるか。いろいろと模索しておりました。そこに、孔先生から  の今回のご依頼です。(これだ!)と思いました。後の世の人々に教訓となるような、中原全体の歴史書を編纂する。このような大事業は孔先生にしかできません。まさに歴史に残る一大事業になるかもしれません。それこそ、孔先生のもとに馳せ参じてお手伝いしたいくらいです。……それとまもなく、呉の夫差が北上してくるとの噂もあります。何が起こるか  わかりません。資料の散逸も心配でした。孔先生に資料を託すことで、私も大史としての 役目が果たせるのではと、ほっとしています」    

 ここまで聞いて、子貢は、なぜ大史がこんなにも協力的なのか納得した。

 大史の話はまだまだ続くようである。大史が真剣なのがよくわかるので、皆、身じろぎ もしないで次の言葉をまっている。

 「つねづね思っていたのですが、《弭兵》に熱心な人には善き人が多い。曽祖父は、そういった善き人、善きことばに感銘を受けて、さらに善き人が育つよう念じて、これらの資料を別にまとめて残すよう、私たちに命じたのです。————ですが、善き人、善きことばは《弭兵の会》ばかりでなく、他の資料のなかにもたくさんあります。後の人々に感銘を与えられるような、そんな話を孔先生に伝えてくださるよう、期待しています」

 聞きながら、子貢は思った。

(ああ、ここにも《(いつ)(もっ)(これ)(つらぬ)く》人がいる)

 子貢は、話し終わった大史に心からお礼を述べた。

 会議が終わると皆、早速それぞれの仕事に取り掛かり始めた。

 と、その時、(ほらね! 眞君、なかなかだろ!)と、顔回の声が聞こえた。子貢は心

の中で(回さん、あなたはやっぱりすごい!)と応えた。


 次の日、子貢は、眞の邪魔にならないようにして《弭兵の会》に関する資料を読んだ。

 燮に関しても、大史の話の他に、子貢にとって興味深い話がいくつかあった。まず魯に

関することでは、燮は、魯の(まいない)に見向きもしなかったとある。

 またあるときには、(しゅく)(そん)(しゅう)(きゅう)の曽祖父の兄が、()(そん)()の五世の祖の(こう)()を陥れようと、

晋の大臣によからぬ話を持ち掛け、行父が窮地に陥ったことがあった。それを知った燮は、

「行父は忠良の臣です。中傷の言を信じて善き人を棄てたりすれば、諸侯は離反します。

どうか考え直して下さい」

と、(らん)(しょ)に願い出て、欒書もこれを受け入れたとある。

 行父は三代の国君を輔佐しても、自家の蓄財が無く、正に忠良の人であったという。

 子貢は肥の顔を思い浮かべ、行父とはずいぶん違うなと思った。


 二十三 宋の()(げん)及び、(しょう)(じゅつ)()(かん)                


 そしてこの燮の『弭兵』に関する交渉が、景公の死去により滞った時、仲介の労を買   って出たのが、宋の宰相・華元である。華元は欒書のみならず、楚の(れい)(いん)(楚で最高位の大臣)とも仲が良かった。この時すでに三十年以上宰相を務め、国人の支持を得ていたとある。

 華元には、それより前の前五九四年、宋が、かの楚の(そう)(おう)に都を半年以上囲まれ窮地に陥った時、夜中に楚将の寝所に忍び込み、交渉したという武勇伝がある。

 だが、子貢はその武勇伝よりさらに十年以上前の、囚われていた鄭から逃げ帰った後日談のほうが好きになった。


 話はこうだ。

 前六〇七年、華元は、楚の命を受け進攻してきた(てい)(だい)(きょく)の地で迎え撃った。

 その最中のこと、御者の(よう)(しん)が、なぜか華元だけ兵車に乗せると、

「昨夕の羊は、あなたが取り仕切られた。今日の戦は、私が取り仕切ります」

と言って、鄭の本陣に駆け込んだ。そして華元を降ろすと、鄭の陣営が呆気に取られて  いる中、兵車を御して自分だけさっさと逃げ帰ってしまったという。

 結果、華元は捕らえられ、指揮官のいなくなった宋軍は大敗を(きっ)した。

 なぜ羊斟がそんなことをしたかにというと、開戦前夜に、華元が全軍に振舞った羊の肉が関係していると考えられている。

 その夜、華元は羊斟には羊の肉を与えないよう部下に指示したのだ。その名に羊が入  っているのが気になり与えなかったのだが、なにせ開戦前夜のこと、華元のその真意が羊斟

に正しく伝わらなかったようなのだ。戦地では羊の肉は大変なご馳走である。羊斟の所  業はこれを恨んでのことと考えられている。


 さて、囚われの身となった華元は、しばらくして何とか逃げ帰ることができた。

 城に入り、羊斟に会うと、

「あんなことになったのは、馬のせいであろう?」

と声をかけた。華元にしてみれば、行き違いが生じた経緯については自分にも責任がある

と思い、助け舟を出してやったつもりだったのかもしれない。

 それなのに羊斟は、

「馬のせいではありません。人のせいです」

と答えるやいなや、魯に出奔したという。

 そして、この話にはさらに続きがある。

 ある日、華元が城壁工事の巡視に出ると、人夫たちがこんな歌をうたっている。

   (かん)たるその目      《 その眼は出目金 》        

   ()たるその腹      《 腹は太鼓腹 》

   (よろい)を棄てて逃げ帰る   《 甲を棄てて逃げ帰る 》 

   ()()()()         《髭の立派なあの男 》

   (よろい)を棄てて逃げ帰る   《 甲を棄てて逃げ帰る 》 

 もちろんあの事件のことをからかっているのである。

 そこで華元は供の者に言わせた。

「牛から皮はいくらも取れる。(さい)()だっていくらもいる。甲を棄ててきても構わぬでは

ないか」

 人夫は言った。

「たとえ皮があったとしても、貴重な(たん)(うるし)はどうなさる」

 華元は言った。

「行こう。あやつらの口は多い。こちらは少ない」

 華元の苦笑いと、人夫たちの楽しそうな笑い顔が目に浮かぶような話である。

 ここまで読んだ子貢は(上に立つものはこうでなくっちゃ!)と、心の中で快哉(かいさい)を 叫んだ。そして、おおらかで度量が大きい華元が、国人に支持される理由と、『弭兵』とは直接関係のないこの話をあえて残した大史の気持ちもわかる気がした。

 それと、なぜ逃げ帰れたのかの記録はなかったので、はじめは単に外交上の駆け引きで、鄭がわざと逃がしたんだろう位に考えていた子貢であったが、ここまで読んで思った。もしかして逃げ帰れたのは、鄭の中にもそんな華元に心を寄せていた人物がいたせいもあるかもしれないと。

 ところで、燮が提唱し華元がまとめた『第一次弭兵の会盟』はわずか三年で破綻し、(えん)

(りょう)の地で晋・楚の戦いが始まってしまった。

 だがそれから三十三年後の前五四六年、その華元が育てた(しょう)(じゅつ)が諸侯に呼びかけ、『第 二次弭兵の会盟』を結実させることになる。


 経緯はこうだ。

 宋の(しょう)(じゅつ)は、諸侯間の停戦を取り持つことにより、華元のように名声を得ようとした。

 趙武は前々から『弭兵』のことを考えていたので、そのことを呼びかけられると、他の

卿大夫に相談した。

 韓起が言った。

「戦は民に損害を与え、財貨を食い尽くし、小国にとっては災難です。誰かが『弭兵』を

言い出せば、それが不可能とわかっていても、必ず同調する者が現れる。もし晋が同意  しなければ、楚の方が同意して諸侯を召集するかもしれない。そうなれば晋は盟主の地位 を失ってしまいます」

 晋の同意を取り付けた向戌は、楚の同意も取り付け、次に斉に赴いた。

 斉の多くは難色を示したが、(ちん)(しゅ)()が言った。あの(こう)の曽祖父である。

「晋・楚が同意した以上、斉が加わらないわけにはいかない。それに『弭兵』を呼びか   けられて同意しなければ、民の離反を招き、民を動員できなくなる」

 子貢はここでも、恒とは違うな、と思った。

 斉の同意を取り付けた(しょう)(じゅつ)は、秦の同意も取り付けた。

 その後、晋・楚・斉・秦の大国はそれぞれの属国に通告し、『第二次弭兵の会盟』が催

された。


 ここまで読んで子貢は思い出した。

 自分は呉の夫差と越の句践に、

「盟主になって『戦はやめよ! 仲良くせい!』と、諸侯に命じて下さい」

と、頼んだことを。

 そして思った。

(そうか、この会盟はみんなで「戦はやめよう! 仲良くしよう!」と呼びかけ、誓い合

うことなんだ)、と。

 どちらも目指すところは同じ平和な世だが、諸侯と民に、

「戦はやめよ! 仲良くせい!」

と命じ、帰服させることができる明王・聖王は、そうは現れない。それに、明王・聖王に  も寿命がある。

 だが、機運が高まれば、

「戦はやめよう! 仲良くしよう!」

と『弭兵』を提唱し、国君をはじめ周囲の人々を動かすことができる人間は、一国に一人

や二人はいる。

 そしてそれに共鳴し、『弭兵』のために力を尽くしたいと思う人間はもっといる。 

『弭兵』は不可能だと思っても、それに反対すれば信頼を失うという消極的理由で盟に加

わる国もある。

「戦はやめよう! 仲良くしよう!」の方が実現の可能性が高そうだと思っていると、大史が入って来た。


 大史は、子貢が『弭兵』の資料を手にしているのを見て、うれしそうに話しかけてきた。

「その史料の後の方に書いてあるのですが、『第二次弭兵の会盟』についてはいろいろな意見があります。お読みいただければわかるとは思いますが、せっかくの機会です。子貢さ ん、私の、いや、(こう)祖父(そふ)に続く私たち代々の史の『弭兵』に対する思いを聞いていただけますか? この前お話したことと重複する部分もあったりして、少し長くなるかもしれませんが……」

 大史の目は真剣そのものであった。

 もちろん子貢にとっても、願ってもないこと。力を込めて、

「はい、お願いいたします。ぜひ!」

と言った後ですぐ、この話は眞にも聞かせてやりたいと、大史に眞の同席を願った。

「もちろんです。実はここに参りましたのも、眞さんと『弭兵』についてお話しできれば

と思ったからなのです。子貢さんはお忙しいかと思いましたので、せめて眞さんに聞いて

いただければと思いまして……」

 子貢は、盟主・晋の大史が、ほんの若輩(じゃくはい)の眞のところにわざわざ、と驚くとともに、大

史の『弭兵』に対する並々ならぬ思い入れの深さが察せられ、これは真剣に聞かねばと気を引き締めた。

 子貢が大史との話の席に眞を誘うと、いつも控えめな眞の顔がパッと輝いた。

 大史は二人の本気を見て取り、長くなることへの気がかりが無くなったのか、にっこり

と微笑みながら、小さくうなずいて語り始めた。

「『第二次弭兵の会盟』については、どちらの属国からも朝貢を受けることになった晋・楚を利するものであり、小国は負担が増え大変になっただけだとか、このあと戦が無くなったのは別の事情があったからで、この会盟のおかげではない————などと、会盟の意義を(おとし)める意見もあります。ですが、私は思うのです。『第一次弭兵の会盟』がまとまったからこそ、『第二次弭兵の会盟』につながった。戦で事を解決するのではなく、外交で解決する。この考えを伝え広めることが大事なんだと。……この後、晋・楚間の戦は無くなりましたが、別の地域では次々と戦が起こっています。————そうであるからこそ、私は史として、第二、第三の燮や華元、向戌や趙武のような人物が現れることを期待して、『弭兵の会盟』のことを後の世に伝えたいと思っているのです。ところで、子貢さんは、宋の()(じょう)()(かん)のことはお聞きになったことはありますか? 子罕についてもこのあとよい話がいろいろ出てくるのですが、私が非常に良い印象を 持っている人物です。その子罕が、会盟成功の賞賜を宋公に願い出た向戌を諫めて、こんなことを言ったと記録にあります。『およそ諸侯のうちの小国は、晋・楚に武力で威圧されるがゆえに、それを(おそ)れて上下が和睦する。和睦すれば国家を安定することができ、それによって大国に仕える。これが小国の存する所以(ゆえん)です。威圧されなければ(おご)る。驕りが出れば乱が生じ国は滅ぶ。これが小国の(うしな)われる所以(ゆえん)です。その昔、兵器は無道を威圧し、文徳を宣揚(せんよう)するために作られた。要はその用い方にかかっているのに、あなたがそれを除こうとされたのは、()(じゅつ)ではないか。たとえ誰からも咎められなくても、この上賞賜を求めたりすれば、貪欲(どんよく)も甚だしいですぞ』と。これは、『弭兵の会盟』を否定する発言ではなく、晋・楚の脅威がなくなった後の国内の結束の乱れを心配しての発言だと思います。晋の士燮も外憂の有意性を語っていますし、楚の子西も国内の結束の乱れを心配しています。ただ、詐術という表現に関しては、会盟の何かに思うところがあったせいかもしれません。これは私の想像ですが、例えば調停のやり方や文辞の内容、それからもしかすると、向戌や他の関係者の内に垣間見えた動機の不純などです。そもそも子罕は『弭兵の会盟』に反対するような人間ではなく、むしろ高く評価していたと思うのです。で、あるからこそ、このような大業を成し遂げたという達成感と名声を得たことで満足し、賞賜を願い出るなんてことはするな! そんなことをすれば動機を勘繰られ、ひいてはそれが、後に続く『弭兵』という高邁(こうまい)な志を持った人々の熱意に水をさすことにもなりかねない、と、こう言いたかったのではないかと……」

 そのあとすぐ、

「まぁ、これは、私の『弭兵』と子罕に対する思い入れが強いため、そう思いたいだけ   なのかもしれませんが……」

と言って、少し()(ちょう)気味(ぎみ)に笑った。

 史料の解釈に、自身の『弭兵』と子罕に対する強い思い入れが影響しているかもしれないという大史の謙虚な人柄に、子貢は好感を持った、そして、それでも伝えたい! と語ってくれる大史に、史の良心と平和への強い思いを感じた。

 大史はというと、熱心に聞いてくれている子貢と眞に共感の思いを見たのか、意を強く

したように話を続けた。

「私がこのように思うようになったのは、子罕に関する好ましい話をいろいろ読んでいたからです。なお、これを伝え聞いた(しょう)(じゅつ)の族員は子罕を攻めようとしたのですが、向戌もさるもの、この諫言に感謝し賞賜の邑は辞退したそうです。たぶん、宋にいらしたお仲間もこの件についての話を持って帰られるとは思いますが、私は子貢さんに私たちの思いを知っていただきたいので、これもお話ししておきたい。お国に帰り、お仲間の話と照らし合わせれば、より深く理解していただけると思いますので。それと、これは宋を討伐するために発せられた晋の密偵の報告です。『子罕が、甲兵の死をいとも哀しく(こく)しましたので、民はみな喜んでいます。このように上下の間柄が密接ですから、宋は恐らくまだ討伐できないと考えます』と。それからこれは『第二次弭兵の会盟』の十年前、大宰(たいさい)が宋公のために高楼(こうろう)の工事を起こしたときのことです。子罕は、農事が終わってからにしてくださいと願い出ましたが聞き入れられませんでした。それを知った民は、

   (たく)(もん)の色白のお方(大宰)がよォ

   わしらを引っぱり出しただよォ 

   (まち)(なか)の色黒のお方(子罕)がよォ

   わしらを気づかって下さるよォ               

と、歌った。この噂を聞いた子罕は、みずから人夫の間をまわり、怠けている者を(ぼく)で打

ち、しかり飛ばしました。もちろん木の皮で作った(ぼく)でですので軽くだと思うのですが、歌はピタリと止んで、みんな一斉に働き始めた。こんなことは子罕らしくないと、不思議に思った人が理由を聞くと、子罕はこう答えたそうです。『ちっぽけな宋一国内で、嫌われたり褒められたりは、(わざわい)(もと)です』と。自分の評判よりも国内の融和を考えたんです。斉の晏嬰(あんえい)にも同じような話があります。真に国を思うと、人は同じようなことを考えるのですね。

それからこれは、不作により民が窮乏(きゅうぼう)したときのことです。鄭では子皮が、父親の()(めい)として、国人に毎戸一鍾(しょう)の穀物を支給しました。宋では子罕が、宋公に公室の穀物を貸し出すことを請い、大夫にも貸し出しを命じました。子罕は、貸し出しに際して証書を取らず、民に貸し出す穀物の無い大夫にも貸してやりました。結果、宋には飢餓(きが)(しゃ)がいなくなったそうです。晋の記録では、あの(しゅく)(きょう)が二人の対応をこう称賛したとあります。『鄭の子皮と宋の子罕は国政を握り、その家は後々まで残るであろう。民が()(ふく)するのは同様だが、()(しゃ)を売り物にせぬ点で、子罕の方が一段上だ。きっと宋と盛衰を共にするであろう』と」          


 これを聞いて子貢は思いだした。子路が邑の民と溝の修理をしていたときのことを。民

が大変そうなので、子路は飯と水を配ってやった。これを耳にした師が子貢を派して注意 した。

「自分勝手に配るのは、己の徳を誇ることで、ひいてはご主君に徳がないと民に思わせる

ことにもなりかねない。そんなことをやっていると、いずれ罰せられることになる。民が大変なら、なぜそのことを(こう)(ぎょ)に相談しない⁉」と。

 そんなことがあり、子路も孔圉に相談してその後のやり方を変えたのだろう。邑は   それまで以上によく治まり、結果ますます孔圉の信頼を得ることとなり、衛に残るよう懇願されたのだ。思えば、あのとき先生は孔圉の人柄をわかってそうおっしゃった。なぜなら、孔圉の死後、(おくりな)が最高位の孔文子であることに疑問を持った子貢が、師にその理由を尋ねると、

(びん)にして(がく)(この)み、()(もん)()じ(じ)ず(ず)、(これ)(もっ)(これ)(ぶん)()(なり)」と。

 もしかしたら先生は、子皮と子罕のこの話もご存知だったのかも。


 子貢がこんなことを考えたのはほんの一瞬のこと。まだ大史の話は続いている。

「他にも、献上された(ぎょく)を辞退したり、大きな火災が起きたときは、()(じょう)として見事な指 揮をとったり、処罰には族人かどうかなどは斟酌(しんしゃく)せず、公正な判断を下したというような

ことが記されています」

 大史はいったん話をここで締めくくったのだが、子貢も子罕にかなりの好感を持った。

 そして他国の司城のことにまで精通している大史に感心した。それに()(げん)や先生の  おことばについても。


そう思うと、晋の史料の多さに納得し、思わず周りの書棚に目をやった。

 一生懸命語ってくれている大史に失礼にならないよう、そっと見たつもりであったが、

大史は気がついたようで笑いながら言った。         

「子貢さん、初めてここの書庫をご覧になったとき、あなたは史料の多さに驚いたようで

したね。曲がりなりにも、晋は盟主です。各地からいろいろな情報が集まってきます。国の存亡に関わるような大きな戦や巧妙な(はかりごと)(きわ)どい駆け引き等々。しかしそれらは、立場が違えば正義も変わり、時代が変われば評価も変わることがあります。ですので、判断は後生(こうせい)に任せるとして、私たち史は、とにかく知り得たことは可能な限り記録しておくことを心掛けております。それと、これはと思う人物や出来事も記録しておくことにしています。後々、何かの判断材料になるかもしれないと思いまして……。なにしろ、情報が無ければ、判断のしようがありませんから。子罕についてのこれらの話も、二十年以上にわたる出来事で、どれも歴史的にはそんなに大きなことではなかったのですが、その振る舞いが大変爽やかで気持ちのよいものでしたので、代々の史が注目して記録しておいたのです。さきほどの子罕の兵器云々の解釈は、これらの逸話から私が推測したものです。これらが無ければ、私の解釈も今少し違っていたかもしれません。()(さい)なことが案外に真相を知る手掛かりになるかもしれないと思っております。それと、そんな些細な話を残すことには、もうひとつ別の理由もあるのです。子罕の場合もそうですが、なぜか不思議なことに、私たちはちょっとした人の(ふる)()いやことばに惹かれ、静かな感動を覚えることがあります。ときに優しく、ときに気高い、心が洗われるような、内なる善を呼び起こすような話。それから、ときに素朴で、ときに可笑(おか)しみのある、俗にいう〖ちょっといい話〗もです。そんな話は立場を越え、時代を超えて多くの人の心に残り、きっと世の中のためになると思うのです。文に携わる者として、そんな話も大切に残しておきたい! と思っております」 


 そう話すと、大史は伝えるべきことはとにかく伝えたと思ったのか、肩の荷が下りた  ように、フーっと息を吐いた。そして一呼吸おいてから、話を締めくくるように続けた。

「なんですか、 とりとめのない話になってしまいましたが、孔先生にはぜひ私たちのこん

な思いもお伝えいただければうれしいです。 長くなりましたが、私は孔先生のおことばが好きです。聞く者の心を奮い立たせます。孔先生がこれらの史料をどのようにまとめてくださるか、楽しみにしています」


 子貢は、使命感を持ってことにあたっている大史に、頭の下がる思いであった。

 それと同時に、それでは私の使命は?……と、改めて自分に問う子貢であった。

 そんなことを考えていると、突然何を思ったか、大史が「あっ!」と小さな声を発した。ほんの一瞬の迷いがあったようだが直ぐに心が決まったらしく、少し興奮気味に話し始めた。

「子貢さん、今思ったのですが……もしお(さし)(つか)えなければ、この件を正卿の趙鞅に話してみてもよろしいでしょうか? といいますのは、今、趙鞅は戦に明け暮れています。時勢が時勢ですし、趙鞅を取り巻く環境を考えれば、生き残るためには致し方ないかとは思うのですが……。それでも、もし高祖父である趙盾や祖父である趙武のことを思い起こしてくれれば、これからの行いが少しは違ってくるのではないかと……。」

晋の正卿にまで話を通すなど考えたこともなかったので、子貢は驚いた。

そんな子貢の様子に、大史は更なる説明の必要性を感じたのだろう。それと、あらためて自分の考えを整理する必要性も。そのためかはじめは少し途切れ途切れに、

「……おこがましいかもしれませんが、……私は趙鞅に、()()に(・)()を(・)刻む(・)、()を(・)()す(・)ということを意識して欲しいのです。威勢が衰えてきているとはいえ、盟主・晋の正卿の影響力はまだまだ大きい。その立場を考えて心して事に当たって欲しいのです。思うのですが、今、正卿が趙鞅でよかったです。その前の()(おう)であればこんなことは考えもしなかったと思います。記録によると、士氏は士会と()(しょう)はよかったのですが、()(かい)や特に士鞅は問題行動が多かった。士鞅の息子の()(きつ)(せき)は荀林父の玄孫の(じゅん)(いん)と行動を共にして何年も前に斉に出奔しています。荀寅も(さい)(こう)に財貨を求めたという記録があります。卿大夫の徳が衰えています。あの郤缺の一族も傲慢で問題行動が多く、孫の代に欒書に滅ぼされ、その欒書の孫も士匄により殺されています。子孫が劣化してますね。その点、趙盾・朔・武・成と続く趙鞅の家系は不祥事を起こしていません。むしろ良い話が多い。ここだけの話にしていただきたいのですが、実は私はこの家系にかなり好感を持っています。特に盾と武に。私の買い被りかもしれませんが、趙盾に続く郤缺から知罃の時代まで、多くの名宰相・名臣が生まれ晋を支えてきていますが、これは盾の功績が大きかったのではないかと思ってます。正卿として二十年の長きにわたり有能な部下を従えることができたのは、一途に国を思う盾の真情が下に伝わったからではないかと思っています。盾の息子の朔は早くに下軍の将になったのですが、その立場と境遇を妬まれ、不心得者(ふこころえもの)(はかりごと)により殺され家も取り潰されました。それでも(ひつ)の戦いの際には、欒書(下軍の佐)の、開戦に慎重な意見に賛成したと記録にあります。武は、朔が殺された後に生まれたのですが、盾に恩義を感じていた韓厥(かんけつ)に助けられて趙家を再興させました。正卿になると諸侯の礼物を軽減し、礼を重視して諸侯を安定させ、弭兵にも尽力しています。成も正卿・(かん)()の下で中軍の佐(正卿の次の位)を務め、周と晋のもめ事を和解に導いております。みな好戦的ではありません。この件を趙鞅の耳に入れようと思ったのは、そんな立派な祖先のことを思い起こし見習って欲しいと考えたからです」

と、最後の方は一気に話した大史であったが、ここでひと呼吸すると、子貢と眞を見て、

「自分でも驚いてます。私がこんなことを考えるなどとは。……たぶん孔先生や皆さんの影響かもしれませんね」

と、またチラっと子貢を見て悪戯(いたずら)っぽく笑ったが、すぐ真面目な顔に戻った。

「————私はこれまで史としてどちらの側にも肩入れをすることなく、唯々(ただただ)公明正大な記録をと心掛けてきたつもりです。ですが今、そこから一歩踏み出し、自分が大切に思っていることのために動いてみたくなったのです。もちろん、孔先生にはご迷惑をおかけしないようにします。趙鞅は大変有能ですが不粋ではないと思ってます。もしかしたら援助の話も出るかもしれませんが、それで孔先生に何かを要求したり介入したりすることはないと思います。それは私が責任を持ちますので任せていただけますか?」 

と、真っ直ぐ子貢を見た。眼には強い決意と自信が現れていた。子貢の脳裡に師の顔が浮かんだが、どう応じたらよいかはわからなかった。ただ子貢には、大史は信じるに足る人物だ! という確信があったので、無意識のうちに何度か小さくうなずいていた。そんな子貢の様子を見ながら、大史がまた口を開いた。

「子貢さん、これも今思ったのですが、私の息子と部下を何人か、魯にご同道(どうどう)願えませんか? 魯には、晋にはない周王朝建国時の貴重な史料が多々あると聞いています。その昔、我が(とう)()の祖先は、史官として周より遣わされました。その際、かなりの文献を持ってきたはずなのですが、五十年以上前に(かん)()が魯を訪れた際、初めて目にした文書類に驚いたとの記録がありました。魯は周公旦が封じられた国だけに、納得がいきます。 その記録を見て、私もいつか魯に行き、この目でそれらを見てみたいと思ったことがあったのですが……今となっては無理ですので、私の代わりに息子と部下をお連れくださいませんか? 部下は私が目をかけている者たちで、晋のみならず四方の歴史に通じております。きっとお役に立つと思います。息子はまだまだですが、経験させてやりたいのです。いかがでしょう?」           

と真剣な表情で子貢を見た。

「はい! ありがとうございます。ぜひ! 先生もきっとお喜びになると思います」 

 子貢の様子に、思いが伝わったと安心して気が楽になったのか、大史は、これまでとは

うって変わり、くだけた調子で言った。

「それにしても、孔先生の行動力は大したものですねぇ。私は、魯に行くことさえ実行で

きませんでしたのに……」

「はい、すごいんです、先生は。それに切り替えも早いんです」

 それからまた、互いに、問われるままに気の向くまま、時のたつのも忘れ心行くまで語

り合った。それは楽しくも充実したひとときであった。


 そして一ヶ月後、大史のひとかたならぬ協力のおかげで仕事がはかどり、子貢たちは晋

を後にして帰途についた。もちろん、大史の息子と部下たちも一緒である。

 帰り際、子貢は、いつかその時が来たら、岳が晋の史になれるよう大史に依頼した。


 二十四 通と玄


 魯に帰る途中、帝丘に立ち寄ることにしてある。馬車に揺られながら、清泉・通・一花

の顔を思い浮かべていると、突然、大史のことを思い出した。

「子貢さん、私の息子と部下を、魯にご同道願えませんか? 息子はまだまだですが、経験させてやりたいのです」

 その目は真剣そのものであった。それから次に続く言葉。

「そういえば子貢さんは、呉の大宰・()や宋の(かん)(たい)にあったことがあるそうですね。()

曽祖父の(はく)(そう)は晋の賢臣として、祖父の(はく)(しゅう)()は楚に亡命して軍師として、ともに名声が

高かったそうです。それから向魋はあの(しょう)(じゅつ)の孫です。やはり子孫が劣化してます。晋でもそうです。当時名臣と(うた)われた郤缺(げきけつ)(じゅん)(りん)()()(かい)(らん)(しょ)(しゅく)(きょう)祁奚(きけい)の家系は、晋ではすでに絶えているんですよ。————もっとも文公の子や孫でさえ弑されているんですからねぇ……。それぞれ事情があったとは思いますが、いずれにしても子の教育は大事ですね。あの当時、士会・燮親子の教育方針は有名でした。子煩悩でしたが、息子が出過ぎたことをしたと思ったら、容赦なく打擲(ちょうちゃく)したらしいです。それが家訓として残っていれば、絶えることもなかったでしょうに……」

(何だろう? 何でこんなことが気になるんだろう)

と思った子貢であったが、すぐ思い当たった。

 子貢には長い間、考えないことにしていることがあった。家族、特に通のことだ。通は

十四になっていた。

 長い間、家を空けている子貢に対して、なんとなく態度がぎこちない。

 その後また、息子に腹心の部下を同伴させて魯に送りこもうとしている大史の親心を思っていると、もう一人、懐かしい顔が浮かんできた。

 その人は、魯に遊学したいという跡取り息子を快く送り出してくれた。その息子が魯に

支店を開きたいというと、自身が最も信頼する照をつけてくれた。小さい時から、商人としての心構えや商売のイロハを教えてくれた。情報通で、乗馬の利便性を知るや、息子にその心得のある人をつけてくれた。それが、(ちん)(さい)(やく)のとき活きた。そして今も、しょっちゅう家を空けている息子を静かに見守ってくれている。思い出は次から次へと浮かんでくる。数え上げればきりがない。それに比べて、私は……。

 とにかく家に帰ったら清泉に相談してみよう、と思う子貢であった。             


 家に帰り、清泉に相談してみると、清泉もこのままではよくないと思っていたらしい。

 父ひとり残すわけにもいかないので、二人で相談の結果、とりあえず通だけ曲阜に連れていくことにした。

曲阜での通の面倒は照がうまくやってくれるはず。またしても照の存在が心強く、ありがたいと思う子貢であった。。

 そして旅がはじまると、子貢は、自分がなぜ先生のもとに弟子入りしたのか、そして、なぜまだ先生のもとを離れられないのか、それから十四年にわたる諸国(しょこく)遍歴(へんれき)のこと、先生や子路、そして特に顔回に対する心境の変化などを正直に話した。

 通は、それらのことを清泉から聞いてはいたが、子貢の口から直接聞けたことがうれし

かったようで、いつの間にかぎこちなさは消えていた。


 旅の最終日、朝から浮き立つ思いの通であったが、まもなく父が初めて師と会ったあの茶屋で休憩と聞いて、胸はさらに高鳴った。

そこで休んだあと坂を下れば、いよいよ目的地である魯国の都・曲阜だ。


 思えばあの日、突然、滅多に帰ってこない父と二人で、しかも他国で暮らすことになると告げられ、通はビックリして何も言うことができなかった。

 そのあとも、内心、不安で不安でしようがなかったが、何も言えないまま言われるまま に、あわただしく帝丘を出発した。

 しかし、ここ何日かの旅で父と打ち解けたことにより、不安は消え、今では魯での生活

が楽しみになっていたのだ。


 茶屋に着き、急いで近くにある見晴らし台に立つと、眼下には曲阜の街並が広がっている。

 だが、(とお)()に見るその光景に、通は少しガッカリした。

 まだ十四歳の通には、生まれ育った衛の都・帝丘と比べ、曲阜の街はなんとなく    華やかさに欠け、どちらかといえば古めかしくさえ思えたのだ。 

 子貢は林のように、曲阜のことをまえもって通に話していなかった。通の感性(かんせい)にまかせてみようと思ったのだ。

(でも、お父さんはここで、一生を左右するような出会いがあった。自分にもこれから   どんな……)

と、曲阜での新しい生活を想像し、通の胸はまた期待で膨らんでくるのであった。


 そんなこんなを思いながら、これから下る道の先の方を見ると、ここでも、見るからに旅人とは異なる男たちが、荷物を背負ったり荷車や馬車を押したり引いたりして上り下りしている。この坂道だけ旅人の荷物を運ぶのを生業(なりわい)とする者たちだ。この坂を避けるためには、かなりの遠回りをしなければならないので、荷物の多い旅人にとって、かれらは誠にありがたい存在なのだ。帝丘からここまでにも、ちょっとした坂道にはいつも彼らのような存在があった。特にここは、国都に近いだけあって旅人の往来も多い。

 小さい時から祖父に、商家の跡取りとして、商人としてのものの見かた・考え方をしっかり教え込まれていた通は、すぐ気を取り直し、また、道行く人々や荷物の状況などをそんな目で眺めていた。


 すると突然、下の方から声がした。

「子貢さ~ん」

 みると、通より少し小さいくらいの男の子が五、六人、荷物を背負い上ってくる。みん

な笑いながら手を振っている。

 こどもたちは茶屋に着いて荷物を降ろすと、年長の一人を除きみな子貢の方に駆け寄   ってきた。その年長の子も、()(ちん)らしきものを大人から受け取ると、速足で子貢の方に  近づいてきた。

「おう、今日も来てたか」

と、子貢は、みんなの後ろでニコニコしているその年長の子に声をかけた。

「うん、お店の人がね、子貢さん着くの、今日あたりだろうって。ねぇ、何かやること   ある?」

「そうだな、他の人の荷物を代わりに背負ってくれるか。みんな疲れているし、馬車も下

り坂は意外と要注意だからな。学校まで運んだら降ろすのも手伝ってくれるか?」

「うん、いいよ!」

 その子はうれしそうに答えると、早速(さっそく)他の子どもたちに指示を出した。

 すぐにも荷物を担ごうとする子どもたちに、子貢は茶菓を馳走してやった。

 休憩も終わり出発すると、下り坂のため馬車から降りて歩くことになった通は、なんと

なく複雑な気持ちになった。

 通は、子貢と子どもたち、特に年長の子との自然なやり取りを聞いて、(うらや)ましさを感  じたのだった。

 通が、家を空けることの多かった子貢と普通に話せるようになったのは、ここ二、三日

のことであったから。

 ただ、その前に子貢から、人を好きになる喜び、人の良いところを認めることのできる

気持ちよさを聞いていたので、自分も積極的に事に当たってみようと子供心に決心した。

「ねぇ、ぼくもあの子たちみたいに荷物を背負いたい!」

「うむ、じゃあ、眞君の荷物を背負いな」

 子貢は通のことばを聞いて本当はうれしかったのだが、あえて事務的に、

「眞君、君の荷物、通に持たせてくれ」

と言った。

 荷物を背負った通は、静かに年長の子の少し後ろを歩き始めた。そして、しばらくして

横に並ぶと、その子に話しかけた。

「ねぇ、君、名前、何ていうの? いくつ?」

「んっ? おいら? おいら玄っていうんだ。十二だよ」

「そうか、玄君か。ぼくは通というんだ。十四だ」

「ふ~ん、玄でいいよ。おいらの方が小さいから」

「じゃあ、僕のことも通でいいよ」

「う~ん、でも……やっぱり通さんがいいよ。二つも上だし。それに……、通さん、おいら

の知らないこといっぱい知ってそうだし……」

「そんなことないよ。君も僕の知らないこと、たくさん知ってそうだよ。そうだ! お  互いに知ってること教え合おうよ。とりあえず、この街のこととかいろいろ教えて!」

 街中に入ると、玄は知ってる限りのことを通に説明しているようだった。

 子貢は二人の様子を見て、(連れてきてよかった!)と思った。

 玄は子貢の店の近所のいわゆるガキ大将で、仲間と一緒に荷物運びなどのちょっとした

(ちん)(かせ)ぎをしている。みていると、子供ながら仕事ぶりは真面目(まじめ)で、駄賃の分け方もなか  なか公平で気持ちがいい。子貢は何かと目をかけていて、いつかは店で雇おうかと考えて  いたのだが、今二人の様子を見て(玄はそのうち、自分ではなく、通の片腕にいいかも)

と思った。

 そして、学校に着いて荷物を降ろすと、子貢は玄に駄賃をわたした。

 玄は子貢からのも含め、今日一日の駄賃を仲間の前で広げた。そして駄賃を分け合って

から通のほうに駆け寄り、

「ハイ!」

と、右の握りこぶしを突き出した。

 通が、わけがわからず首をかしげると、玄はニコニコしながら、

「ハイ!」

と、再度握りこぶしを突き出すので、通は手を出してみた。

 通の手のひらに、一枚の小銭が置かれた。

「通さんはみんなより時間が短かったから、今日はこれだけね」

 玄は、そう言ってから、近くにいた子貢に挨拶をし、笑いながら通を見ている仲間   のほうに駆けて行った。

 初めての手伝い、初めての駄賃、うれしくて少し興奮気味に報告する通の様子に、改め

めて(連れてきてよかった!)と確信した子貢であった。


 二十五 『春秋』編纂


 子貢たちが学校に帰ったのと相前後して、他国に派遣された弟子たちも次々と帰ってき

た。学校の書庫は史料でいっぱいになった。

 その膨大な史料をみなで忙しく整理している最中、孔子の留守を預かり、学校を守って

きた孔子の息子の(こう)()が亡くなった。

 孔子はその悲しみに耐え、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の編纂・整理に没頭した。次から次へと発せられる師からの指示で、弟子たちはみな大忙しであった。

 晋から来た大史の息子と部下たちも、子貢の思った通り、みんなから頼りにされ大いに役立った。


 そんな中、子貢が(先生の態度がこれまでと違う)と思う場面がたびたび出始めた。

 それは『春秋』を編纂しているときである。        

 かつて司寇として訴訟を処理していた頃から、孔子は他の人ともよく相談して文辞の内

容を決めていた。しかし『春秋』の編纂にあたっては(これは書く。これは書かない)と、

取り上げる内容から文辞に至るまで、すべて一人で決めている————ように見える。

 顔回も含め、文学に優れた才ありと孔子が評価している()(ゆう)()()にさえも、手    伝わせこそすれ相談はしてないようである。

 子貢は(回さんはきっとその理由を知っている!)と思ったが、何となくそっとして  おいた方がいいような気がして聞かなかった。

 のちに孔子は語った。

(こう)(せい)(きゅう)(孔子の名。孔子は自分のことを丘という)を()(もの)は『(しゅん)(じゅう)』を(もっ)てせん。

(しこう)して(きゅう)(つみ)する(もの)(また)(しゅん)(じゅう)』を(もっ)てせん」、と。


 二十六 顔回


 そんななか、子貢や他の弟子たちもそうであるが、特に顔回は師を支えるべく、持てる

力のすべてをそのために費やした。

 そのせいもあってか、しばらくすると顔回に疲労の色が見え始めた。そのうち、学校に

来る時間が遅くなったり、早く帰る日があったり、あげく休む日も増えてきた。

 心配になった子貢は、通と玄を伴って、何度か顔回を見舞った。ときに眞を伴う    こともあった。

 子貢が忙しくていけないときは、通と玄に()(よう)のある食べ物を持たせて見舞わせた。

 秋も深まってきたある日、子貢は温かい布団を馬車に積み、眞と通と玄を伴って顔回を

を見舞った。

 いつになく弱った様子の顔回は、何を思ったか、真剣な表情で聞いてきた。

「子貢、おまえ、まだやりたいこと見つからないのか? 早く見つけてくれないか? で

きれば少しは役に立ちたいからな」        

 子貢はことばに窮した。

 そんな子貢を見て、顔回は仕方なさそうに話題を変えた。

「もしも私に何かあったら、私の書物や、書きなぐった雑文の始末、お前に頼んでもいい

かな? ————そういえば、これを見てくれ。先生のことを書いてみた。私がいなくなった

ら先生に見せてくれないか?」 

 そこには、

(これ)(あお)げば(いよ)いよ(たか)く、(これ)()れば(いよ)いよ(かた)し。(これ)()るに(まえ)()り、(こつ)(えん)として(うしろ)に ()り。(ふう)()(孔子)は(じゅん)(じゅん)(ぜん)として()(ひと)(いざな)う。(われ)(ひろ)むるに(ぶん)(もっ)てし、(われ)(やく)するに(れい)(もっ)てす。()まんと(ほっ)すれど(あた)わず。(すで)()(さい)()くすに、()(ところ)()りて   (たく)()たるが(ごと)し。(これ)(したが)わんと(ほっ)すと(いえど)も、()()きのみ》とあった。                                   それを読んで、子貢はまた、

(やっぱり回さんにはかなわない。私も先生のことを聞かれたとき、いろいろな比喩(ひゆ)を用

いて説明したが、私の言葉はただ先生を普通の人と比べて讃えただけだ。回さんのは先  生への称賛とともに、ひたすら先生に追いつこうと励む(がく)()の気概と情熱にあふれている。

やっぱり回さんは凄い!)

 と、素直にそう思った。


 子貢がそれを読み終わったとみると、顔回はまた別の文章を見せた。

「これも見てくれ。この前曾(そう)(せき)さんと昔語りをしていた時に出た話だ。なんでもずっと以

前、先生が、一緒にいた子路さん、冉求さん、(こう)西(せい)()曾晳(そうせき)さんに、『もし用いてくれる   人がいたら、おまえたちは一体どんなことをしたい?』と、それぞれの抱負を尋ねられた

そうだ。皆それぞれ、らしい抱負を述べている。ただ曾晳さんは、自分のやりたいことは、この話の趣旨と違うので発言を遠慮したいと言ったそうだ。ところが先生は『それでもかまわんから、思うところを言ってみなさい』と。そこでそれを言ってみると、先生は曾晳さんに一番共感して下さったとえらく喜んでたよ。確かに曾晳(そうせき)さんのは、一篇(いっぺん)の詩のようで本当に美しかった。で、そのまま書いてみた」

 読んでみると、子路は相変わらず気負って大げさ、冉求と公西華はいつものように控え

めながら、らしい抱負である。

 曾晳のを読みながら、曾晳さんらしいなと思っていると、顔回が、

()(しゅん)には、(しゅん)(ぷく)(すで)()る。(かん)(じゃ)五六人、(どう)()六七人、()(よく)し、舞雩(ぶう)(ふう)じ、(えい)じて   (かえ)らん」    

と、気持ちよさそうに詠じた。それから、その情景を思い浮かべ、そんな()(せつ)到来(とうらい)を夢

見たのだろう。子貢の共感を求めるように言った。

「いいよねぇ~これ、まさに平和そのもの。そうは思わんか、子貢? 先生もきっと……」


そうこうしているうちに、顔回に疲れた様子が見えたので、いくつかの書き物を預か  って帰路についた。子貢は、眞に御者をまかせて後ろに座り、今日の顔回とのやり取りを  思い出していた。そのときふと、そのむかし顔回が

「そうなれば本望だ……」

と、どこか遠くを見ているような目をして呟くように言ったことを思い出した。子貢は顔回の書き物の内容が気になり読み始めた。


 二十七 答えを見つける


 しばらくすると、黙って子貢の様子を見ていた玄が、

「子貢さん、なんかすごく真剣そう。そんなに大事なものなの?」

と、不思議そうに、子貢の読んでいる書き物を覗き込んできた。

「ああ、これらの書き物は、私が最も尊敬する人が、後の世のために、病を押して書き残

してくれたものだ。ここには人間にとって大切な、どんな宝物よりも価値のあることば(・・・)が書かれているはずなんだ」

「ふ~ん。————ねぇ! もしかしてこんなの?」 

というと、大きな声で(そらん)じはじめた。

(あやま)ちては(すなわ)(あらた)むるに(はばか)ること(なか)れ 

 (あやま)ちて(あら)めざる、(これ)(あやま)ちと()う(う)。

 (とく)()ならず、(かなら)(となり)()り(り) 

 ()()(いま)せば、(とお)(あそ)ばず。(あそ)ぶこと(かなら)(ほう)()り(り)  

 (おのれ)(ほっ)せざる(ところ)は、(ひと)(ほどこ)すこと(なか)れ  

 ()ぎたるは(なお)(およ)ばざるが(ごと)し 

 (ひと)(おおれ)()らざるを(うれ)えず、(ひと)()らざるを(うれ)うる(なり) 

 (たと)えば山を(つく)るが(ごと)し。(いま)一簣(いっき)()さざるも、()むは()(やむ)(なり)(たと)えば()(たい)らに

……(たと)えば()(たい)らにするが(ごと)し……う~ん。なんか、ちょっと違うな。え~と、なんだ

っけ?」

と、気持ちよさそうに諳んじていた玄が通を見た。

(たと)えば()(たい)らかにするが(ごと)し。(いっ)()(おお)うと雖も、進むは吾が()(なり)

と、通が兄のように教えてやると、

「あっ、そうそう。(たと)えば(やま)(つく)るが(ごと)し。(いま)(いっ)()()さざるも、()むは()()(なり)

(たと)えば()(たい)らかにするが(ごと)し。(いっ)()(おお)うと(いえど)も、(すす)むは()()(なり)。————通さん、    すごい! みんな暗記してんだ」    

「ぼくは布に書いておいたからだよ。何もなくてこれだけ覚えてるなんて、玄君のほうが

すごいよ」

「いいなぁ、今度おいらにも書いたものおくれよ。そうすれば通さんいない時でも、字             が読めるやつに読んでもらってちゃんと覚えるから……」

「うん、いいよ。今度読み方も教えるよ」

 二人の会話を聞いていた子貢は驚いた。

「お前ら、どうしてそんなことば(・・・)を知ってんだ⁉」

「うん、まえ子貢さんに頼まれて、通さんと一緒に回さんに食べ物を届けた時にね、あの

人具合悪そうだったんだ。それでね、おいらたち飯炊いてやったんだ。あの人具合悪いのに一生懸命なんか書いてんだよ。それでね、おいら『具合悪いのになに書いてんの?』って聞いたんだ。そしたらあの人『先生や友達の言ったいい(・・)ことば(・・・)書いてる』って! おいら『体より大事なの?』って聞いたら、『命より大事』だって! それでおいら『どんなのか教えて!』って頼んだんだ。本当はね、もっと教えてもらったんだけど、よく覚えられなくて忘れちまったんだ。これね、声にだして言うと気持ちいいんだ。なんかカッコイイ気がすんだ」

 子貢はうれしくなった。

「そうか! 気持ちいいか、カッコイイか⁉」

「うん。気持ちいいよ。いつか他のやつらにも教えてやりたいと思ってんだ。きっと気に入ると思うんだ」

 そんな玄を見ていて、一瞬何か(ひらめ)いたような気がして、子貢の心臓がドキッとした。

(んっ?)と思う間もなく、ある情景が子貢の(のう)()に浮かんだ。

 小さな()(ならい)(どころ)のような所で、貧しくて郷校(きょうこう)に通えない玄のような子どもたちが、楽しそうに字を習ったり、先生のおことば(・・・・)を元気な声で朗読したりしている。

(そうだ! これだ!)

 興奮を抑え、玄に聞いた。

「玄、もしすぐ近くに、読み書きを教えてくれる()(ならい)(どころ)のようなところがあれば、おまえ、

通いたいか?」

「うん、通いたいけど……、家の手伝いがあるし……、お金もかかるんでしょ?」

 子貢の気持ちが決まった。

「眞君、悪いが引き返してくれるか?」

 子貢は目をつぶり深く息を吸った。


 長い間探し求めていた答えが、とうとう見つかった。

 思うに、それは回さんのおかげだ。

 回さんが語ってくれた、()(しゅん)にはに始まるあの一篇の詩のような情景。(かん)(じゃ)五六人、  (どう)()六七人、()(よく)し、舞雩(ぶう)(ふう)し、(えい)じて(かえ)らん、とあった。

 そこに玄の暗誦場面が重なった。

(回さんは体調が悪いにもかかわらず、こんな子どもにもわかるように、心をこめて先生

のおことば(・・・・)を伝えようとした!)

 子貢は頭の下がる思いだった。

(回さん、あなたはやっぱり凄い!)

 他の三人は、子貢の様子がいつもと違うので(何かが起こる!)と感じて黙っていた。


 顔回の家に着くと、子貢は、

「回さん、見つけました!」

 顔回は、何のことかすぐわかったらしい。

「そうか! 見つかったか! ————でっ? 何をするんだ?」

「はい! 郷校(きょうこう)に通えない子どもたちのために、小さな()習所(ならいどころ)のような学校をたくさん作ります。そこで先生のおことば(・・・・)と字を教えます。ことばと字を知れば、人は広く深く、よくものを考えることができます。計算も教えれば、生活の役に立ちます。子どもだけでなくやる気のある人間は誰でも通えます。働きながらでも学べる学校です。そして、志のある人間は、さらに先生のところに送り込みたいと思います。————どうでしょう⁉」

 顔回は顔をほころばせながら何度も(うなず)き、最後に深呼吸をし、

「いいねぇー」

(うな)るように言った。それから、

「子貢、私も何か手伝いたい。――そうだ! 教材作りなら私にもできる。私に()(あん)を     作らせてくれ!」

「ありがとうございます! ぜひお願いします!」

「うん、先生も喜ぶと思う。早く知らせに行ってこい!」


 子貢からこれを聞いた師は、手放しで喜んだ。

 いつもの辛辣(しんらつ)さやからかいは()(じん)もなかった。

「回が教材を作るなら、安心だ。……あやつ、お前がやりたいことが見つかったら、力に

なりたいと言っておった。……さぞ喜んでおることじゃろう。間に合ってよかった……」

と、最後はしんみりとつぶやいた。

「先生! 私は(うつわ)になります。先生と回さんの、おことば(・・・・)と思いを(きょう)する()(れん)に!」

 子貢は以前、師に「なんじは器也」と言われ、複雑な気持ちになったことがあった。

 しかし子貢は今、自ら進んで(先生と回さんの、ことば(・・・)と思いを供する瑚璉になりたい!)

と思った。


 二十八 通と清泉


 顔回の手伝いを申し出た眞と玄に後を託し、翌朝、子貢は通と共に帝丘に向けて出発した。

 とにかく一刻も早く清泉に自分の口からこのことを伝えたかったからで、それが済んだ

らすぐ曲阜に戻るつもりであった。

 道中、子貢の頭のなかは学校のことでいっぱいだった。

 通は、はじめは父の思考の妨げにならないよう静かにしていたが、そのうち、自分にも

思うところが生じた。

 明日は帝丘という日の夜、通は心を決め子貢に言った。

「お父さん、私は帝丘に残ります。お父さんはこれまで以上に学校のことで忙しくなるで

しょう。私は、家業を守ることで、お父さんを応援したいと思います。前の学校に通いな

がら、おじいさんに商いの基本を教えてもらおうと思います。おじいさんがお年なことも

ありますが、私にはお父さんのような才覚もありませんし、なにより、おじいさんの()(みち)

で手堅いやり方があっていると思います」

 子貢は通の出した結論に納得した。


 清泉は子貢がとうとう答えをみつけたこと、そしてそれは清泉にも納得のいく答えで あったこと、そして、それを知らせるためだけに遠路わざわざ来てくれたことを喜んだ。

が、その後、誰に言うともなく小さな声で残念そうにつぶやいた。

「私もその場に立ち会いたかった……」

 そんなことは思ってもみなかった子貢は、不意をつかれた思いであった。 

「でも……通が立ち会えてよかった! あの子にとって一生の思い出になることでしょう」

と、すぐ母の立場に戻った清泉を見て、子貢はホッとした。が、同時に、清泉のこれまでの子育てを思い少し気が咎めた。

その後、清泉は通の決心を聞くと今度は息子の成長を喜んだ。


 翌朝、子貢は曲阜にむけて出発した。

 この十ヶ月、いつも(かたわ)らにいた通がいなかった。

 そのとき、自分のなかに突然湧いたある感情を自覚して、子貢は一人苦笑した。

 そして、いつか、一区切りついたら拠点を帝丘に戻そうかとも考えた。


 二十九 顔回死す


 曲阜が近づいてくると、頭の中はまた学校に関する段取りでいっぱいになった。

 子貢は学校を、なるべく早く、そしてたくさん作りたかった。そのためにはかなりの資

金が必要で、子貢はそれを多くの有力者から引き出すつもりであり、その自信もあった。

 しかし、顔回が素案を作り、師が手直しした教材を持って有力者のところを回ることを想像したとき、一つ気がかりなことが頭に浮かび、不安になった。

 その教科書は、豪商、豪農程度の有力者には受け入れられるであろう。しかしその上、

つまり国君や卿大夫のような権力を持つ支配層にとっては、不都合で好ましくない言葉が

入っている可能性がある。

 完成する前に何とかしなければ————と、子貢は焦った。             

 いつもなら、曲阜に帰るとまず師のもとに挨拶に伺う子貢であったが、今回は顔回の

家へと急いだ。

 しかし、家を訪れると、顔回はすでに学校に着くころだという。

 嫌な予感がした。子貢は焦って学校に向かった。


 ニコニコしている顔回と、ニヤニヤしている師を前に、子貢は緊張した。

「あのー、教科書のことですが……」

と、子貢がやっとの思いで切り出すと、師は、

「おう、もう出来てるぞ」

と、まだニヤニヤしながら、隣にある二つの書簡の山を見せた。

 子貢は、あまりの早さに驚くとともに、師の意味ありげな表情が気になった。顔回は

相変わらずニコニコしている。

「あのー、その教科書の内容のことなんですが……」

「なんじゃ?」

「なにぶんにも子どもの教材ですし……それに、権力者を刺激するような内容はさけた ほうがよいのではないかと……」

「なぜじゃ?」

「はい、まずは多くの人に受け入れてもらって、数多く学校をつくるのが先決かと……」

「そうじゃのう。おぬしの言う通りかもしれんのう」

 師から、厳しい叱責を覚悟していた子貢は、拍子抜けしたような気がした。

 師はまだニヤニヤしている。

「今日出来上がって、回が届けにきた。わしが手直しする所はなかった。見てみぃ」


 子貢はおそるおそる最初の一枚をめくった。   

 先ず出てきたのは、

   (まな)んで(とき)(これ)(なら)う、(また)(よろこ)ばしからずや。(とも)(えん)(ぽう)より(きた)()り、(また)(たの)しからずや。

 それを見て(やっぱり最初はこれだ!)と思ったが、その次を見て驚いた。次はなんと弟

子の一人である(ゆう)(じゃく)のことばであった。

   ()(ひと)()りや(こう)(てい)にして、(しか)(かみ)(おか)すことを(この)(もの)(すくな)し。(かみ)(おか)すことを(この)

  まずして、(しか)(らん)()すことを(この)(もの)は、(いま)()()らざる(なり)(くん)()(もと)(つと)む。(もと)

  ()ちて(みち)(しょう)ず。(こう)(てい)なる(もの)は、()(じん)(もと)()るか。

 意外であったがとにかく最初の一山を読んでみた。権力者を刺激するようなことばは見

つからなかった。

 もう一山(ひとやま)の方を見ると、あった!

   (くに)(たも)(いえ)(たも)(もの)は、(すく)なきを(うれ)えずして(ひと)しからざるを(うれ)う。(まず)しきを(うれ)えず

  して(やす)からざるを(うれ)う。(けだ)(ひと)しければ(まず)しきこと()く、(やわ)らげば(すく)なきこと()く、

  (やす)ければ(かたむ)くこと()し。 

   ()()(あら)ずして(これ)(まつ)るは、(へつら)(なり)()()()さざるは、(ゆう)()(なり)  

   (おし)えざるの(たみ)(もっ)(たたか)う、()(これ)()つと()う  

   ()(せい)(とら)よりも(たけ)し  

   (たみ)(これ)()らしむ()し。(これ)()らしむ()からず。  

   志士(しし)仁人(じんじん)は、(せい)(もと)めて(もっ)(じん)(がい)すること()く、()(ころ)して(もっ)(じん)()すこと

  ()り 

 子貢はこれを見ながら聞いた。

「これは?」

「うむ、回が言うにはな、これらはいずれ折を見て取り上げるように————とな。 最初は無難なこちらの方だけ使用するようにと。こやつ、おまえと同じことを言っておったワ。まずは学校をつくることが先決だと。そのためにはかなりの資金が必要で、おまえがそれを多くの有力者から引き出すには、警戒心を抱かれる内容は得策ではない。二番目に(ゆう)(じゃく)のことばを入れたのは、権力者を安心させて協力を得るため————とな。それに、何よりこれは子どものための教科書であるとも言っておったワ。……回の口から得策などという言葉を聞くとは思わなんだ。わしを説得しなければと、具合が悪いのに無理してきたようじゃったが、わしがあんまりすんなりと承諾したので、今のおまえのように拍子抜けしておったワ」

 子貢は師のニヤニヤの意味がわかったので気が軽くなり、思わず軽口になった。

「はい、私も今日は、(ちん)(さい)(やく)のときのように叱られるとばかり思ってました。先生、今

日はいつもと違いますね。何だか調子がくるってしまいました」

「ふむ、老いては子に従えと言うじゃろ?」

「そんなことば、ありましたっけ? でも先生には似合いません。先生はいつも意気(いき)軒高(けんこう)

()いの(まさ)(いた)らんとするを()らず、で、いてくださらないと」

 となりで二人のやり取りを聞いていた顔回も(ほほ)()みながらうなずいた。

 しかし、教科書の素案作りと久々の外出で疲れが出てきたのか、顔回は眞と玄に支   えられて先に帰っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、師は子貢にしんみりと語り始めた。

「……あやつ、最後の力を振り絞ってきたようじゃ。……回がな『自分は、この教科書と

賜のなかで生き続けられるような気がする。賜のおかげで由や求とも仲良くなれた。楽し

かった! 賜と出会えてよかった!』と、言っておったぞ。よかったなぁ。間に合ってよ

かった……」

 最期の方は自分自身に言っているようであった。

 子貢は下を向いたまま、師に返事をすることができなかった。

 ただ(回さん、私の方こそありがとうございました。それにしても、あなたはやっぱり、

本当にすごい!)と、心の中でまた称賛し感謝した。そして回さんのためにも学校作りを

急がねば……と、改めて心に誓った。

 そんなことがあってすぐである。子貢は、孔子が『春秋』の編纂にあたって、すべて一

人で決めている————ようにふるまった理由がわかったような気がした。いや、実際一人で

決めたのかもしれないが、あえて周りにそう思わせたのは、自分がいなくなった後の孔門

のことも考えてのこと————と。

(回さんは、きっとわかっていた。先生もきっと、回さんがわかっているのをわかって  いた。あのとき聞かないでよかった)

と、思った子貢であった。


 子貢は最初の学校を、自分の店のすぐ近くに作った。

 生徒の第一号は玄である。玄は、子貢の店で働きながら学校へ通うことになった。

 通の勉強道具を譲り受け、いつか通に会える日を夢見て、勉強に、仕事にと頑張ること

にしたのだ。


 それから半年、子貢は曲阜の近郊に()習所(ならいどころ)のような小さな学校をいくつか作った。生徒

の年齢は問わなかった。

 利に聡い豪商は、使用人に、商いに直結する読み・書き・計算を教えてくれる学校作り

に協力的だった。

 もちろん教科書は、顔回のいわゆる〈無難な方〉である。

 すでに体の弱ってきた顔回は、新しい学校ができても見には行けなかったが、報告を  受けて喜んだ。そして夢見るように語った。

「なぁ、子貢。魯の学校がある程度軌道に乗ったら次は衛と陶だな。衛と陶にはおまえの

拠点がある。それに、衛には子路さんの邑もある。子路さんは仕事が早い。あっという間

に学校がいくつもできるぞ。子路さんと一緒に学校を作るのはきっと楽しいだろうよ」

と、そこで一瞬言葉が途切れた。子貢は顔回の気持ちを思うと、何と言っていいのか言葉

が見つからなかった。それを察したのであろう。顔回はすぐに明るく続けた。

「それから陶は、交通の要衝(ようしょう)で交易が盛んだ。どちらでもおまえの思いはきっと受け入れ

られる。その次は斉かなぁ。もともとあの国は商業が盛んで、進取(しんしゅ)()(ふう)に富んでいる。だから、おまえの学校は斉でもきっと受け入れられる。衛や陶、そして斉でもうまくいけば、肥も魯の(じょう)(けい)としての面目にかけて、魯での学校作りに力を入れざるを得なくなる。先生も冉求さんもきっとやりやすくなると思う。 ……なぁ子貢、想像してみよ。中原のいたるところで、小さな子供たちが先生のおことばを朗読している光景を! はじめは実用のための読み書き・計算でよい。そのうちことばを知れば、人間は必ず考えるようになる。そして志を持つ人間が必ず出てくる。楽しみだなぁ。おまえのおかげでいい夢を見させてもらった。ありがとうよ」


 それからしばらくして、顔回が亡くなった。                 

 それは、ただただ師を鑽仰(さんぎょう)し、その師の教えである〈(こっ)()(ふく)(れい)〉にひたすら努めた一生

であった。

 息子の(こう)()に続く愛弟子の死である。

(ああ)(てん) (われ)(ほろ)ぼせり、(てん) (われ)(ほろ)ぼせり」

と、孔子は嘆き悲しんだ。

 そんな師を、弟子たちは心配した。子路も衛から駆けつけてきた。そして、衛での職を辞し、このまま魯に留まるとまで言い出した。

 しかし、学校に出られるようになった孔子は、顔回が、邑の民と面白くもうまく付き  合っている子路の様子を楽しげに思い浮かべ、いつかはかの地を訪れたい! 子路さんと子貢の作った学校を見てみたい! と何度も言っていたと伝えた。そして、自分は大丈夫だ

からもう帰れ! と命じた。

 こうして子路は、後ろ髪を引かれる思いで衛に帰っていった。


 その後、孔子は折に触れて、

「回が私の所に来てからというもの、門人たちは日に日に、ますます私に(なつ)くようにな  ったものだ」

と、顔回の死を惜しんでしみじみと述懐(じゅっかい)した。 


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