第5章:秘められた影、梨華の過去
雨上がりの校舎には、淡い桜の香りが漂っていた。事件から数日が経過し、生徒たちの間では噂と憶測が絶えなかったが、梨華と勇輝の心には別の焦りが芽生えていた。死体のポケットから見つかった謎のメッセージ──『薄紅の花が咲く夜に』──それは梨華にとって、忌まわしい記憶を呼び起こす合図のようでもあった。
その夜、梨華は夢を見た。まだ小学五年生だった頃、夜の道場で一人稽古をしていた自分の姿。道場の奥には母が立っていた。白い柔道着に身を包み、笑顔で手を振る母。その表情が一瞬、何かに引き裂かれたように苦痛に歪み、次の瞬間──闇に飲み込まれる。
目を覚ますと、梨華の額には汗がにじんでいた。時計の針は午前四時を指している。静まり返った部屋。窓の外では風が桜の花びらをかすかに揺らしていた。
「──お母さん……」
その一言が、梨華の唇から静かにこぼれた。
* * *
放課後の図書室。梨華は勇輝とともに、千代田学園の旧記録を調べていた。
「この学校、戦後すぐの頃は道場として使われてたんやな」
勇輝が見つけた古い新聞記事には、旧千代田道場設立の記事と、初代指導員の名が載っていた。
「この名前……」
梨華は記事の隅に書かれていた名に目を留めた。
『白井 椿』──それは、梨華の亡き母の名前だった。
「まさか……ここに通ってたってこと?」
勇輝が目を丸くする。
「それだけじゃない。母はこの道場で“何か”を守っていた。でも、それが何だったのか……」
その時、図書室の奥から不意に声がした。
「それ以上は、詮索しない方がいいわよ」
静かな声。現れたのは、天久弥生警部だった。
「公安出身って話、ホントだったんだ」
勇輝が呟いた。
天久はゆっくりと近づき、ふたりの座る机に手を置いた。
「白井椿……彼女は10年前、公安の極秘調査に協力していた人物。通っていた道場が、“ある組織”の連絡所だった可能性がある」
「組織……って?」
梨華の瞳が揺れる。
「それはまだ言えない。ただ、今回の事件とあなたのお母さんが無関係ではないのは確かよ」
天久の眼差しは真剣だった。彼女の言葉が、梨華の胸に重くのしかかる。
* * *
その晩、梨華は勇輝を自宅に招いた。父は出張で不在。夕食をともに取り、片付けを終えると、ふたりは静かな部屋で向かい合った。
「ここ、私の部屋……あんまり見られたくないけど」
「大丈夫や。俺、見た目気にするタイプちゃうし」
「……そういうことじゃなくて!」
顔を赤らめながら抗議する梨華。部屋には少女趣味のぬいぐるみや、ピンクのカーテン、そして机の下には──ごく小さな道着が丁寧に畳まれていた。
「これ……」
「私が……昔、大会で使ってたやつ。お母さんが作ってくれたの」
梨華は手に取った小道着を胸に抱きしめた。
「これ、可愛い柄やな……ウサギと桜、か。ええやん、めっちゃ似合いそうや」
勇輝は微笑みながら言った。
「やめてよ、笑ってるでしょ」
「笑ってへん。本気や」
勇輝の声は、真っ直ぐだった。彼の瞳に浮かぶ光が、梨華の心の壁を崩していく。
「私ね……この道着のせいで、全国大会の前にからかわれて、出場辞退したの。すっごく悔しくて、恥ずかしくて……それ以来、自分を見せるのが怖くなった」
「それでも、お前は空手を続けたんやろ?」
梨華はこくりと頷く。
「だったら、お前は強い。誰がなんと言おうと、俺には一番かっこええ女や」
気づけば、ふたりの距離はすぐそばにあった。勇輝はそっと梨華の肩に手を伸ばす。
「勇輝……」
「梨華……俺は、お前の全部を受け止める」
その言葉は、過去に縛られていた梨華の心をほどいていった。
ふたりは静かに抱き合った。梨華の頬に涙が流れ、それを勇輝の指がそっと拭った。過去の傷が癒えていくように、桜の香りが部屋を包み込んでいた。
──そして、ふたりは結ばれた。
それは、痛みの先に咲いた一輪の薄紅の花だった。
* * *
翌朝。新しい日差しの中で、梨華は鏡に向かって髪を整えていた。目の奥には、昨日までの迷いが消え、静かな決意が宿っていた。
「行こう、勇輝。お母さんのこと、そしてあの事件の真相を──絶対に突き止めよう」
ふたりの瞳が重なる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
届けられたのは、一通の封筒。
差出人不明のそれを開くと、中には一枚の紙片が。
『次は、“大阪”だ──』
ふたりは顔を見合わせた。
物語は、再び動き出す。