42話 深淵の化身
深い霧の中、何かが蠢いている。息を飲むほどの圧倒的な存在感が、全身を覆う緊張感を倍増させていた。
「…これが、試練の最終段階か。」
俺は剣を強く握り直し、冷えた空気を吸い込んで心を落ち着かせようとする。だが、それでも胸の鼓動は抑えきれなかった。
「何かが来る…準備して。」
葵が低い声で警告する。杖の先が淡い光を放ち始め、霊火が周囲に散らばって霧の濃さを薄めるように漂う。
突如、霧の奥から轟音が響き渡り、地面が揺れ動いた。空気が震え、世界そのものが異常をきたしているような感覚。霧が裂けた先に現れたのは、巨大な黒い影だった。
「……これが、深淵の化身。」
その姿は、体が闇そのもののようで、輪郭がはっきりしない。複数の腕のような触手が無数に伸び、漆黒の瞳がこちらを見据えていた。
「こいつが…最終試練の相手かよ。」
俺は汗を拭い、剣を振り上げる。だが、すでに肌で感じる圧力だけで、ただの敵ではないことが分かる。
深淵の化身が動いた瞬間、空間が歪む。影が一瞬で俺たちの目前に迫り、触手が一斉に襲いかかる。
「くっ!」
俺はすぐさま剣を振り、霊火をまとった斬撃を放つ。剣の光が触手を切り裂いたかに見えたが、すぐに闇が再生し、攻撃は無効化されてしまった。
「そんな…攻撃が効かない!?」
葵が驚愕の声を上げる。杖から放たれる魔法もまた、深淵の化身の闇に吸収されるように消えてしまった。
「こうなったら、全力で行くしかない!」
俺は剣を大地に突き立て、全ての霊火を引き寄せる。一瞬の静寂の後、剣から炎の爆発が広がり、周囲一帯を炎で覆い尽くす。
「『霊火拡張・烈波』!」
炎の波が深淵の化身に迫るが、それすらも闇の膜に阻まれる。
「葵、援護を頼む!」
「わかった!」
葵が詠唱を開始すると、大量の霊火が空中で集まり、巨大な光の柱が生成された。
「これならどうかしら!」
光の柱が深淵の化身に向かって放たれる。圧倒的なエネルギーが空間を切り裂き、大地を焦がす。しかし、深淵の化身は両腕を広げると、光の柱をも飲み込むように吸収してしまう。
「…まさか、あれも効かないの?」
葵の声に焦りが滲む。
「くそ…なら俺が!」
俺はバグ技「霧散」を発動し、霧の流れを制御して深淵の化身の動きを封じようとする。しかし、霧をも飲み込む闇の力が俺の技を無効化し、逆に霧が暴走を始めた。
「力が足りない…!」
俺の額から汗が滴り落ちる。強力な攻撃がすべて無効化される中、どうすれば突破口を見つけられるのか、未だに見えないままだった。
「…このままじゃ全滅する。」
深淵の化身は再び巨大な触手を振り上げ、俺たちを叩き潰そうとしていた。
暗闇が世界を覆い尽くしているかのようだった。深淵の化身の一撃が迫る中、俺たちは全力で防御に徹していた。
「このままじゃ、押しつぶされる…!」
俺は剣を振り上げ、全ての霊火を剣先に集中させて巨大な盾を作り出す。葵もすかさず魔法を放ち、霊火の防御を強化する。
「まだ持つ! 踏ん張って!」
葵の声が震えている。深淵の化身の攻撃はただの物理的な力ではない。闇そのものが意志を持ち、空間そのものを支配しているように感じられた。
俺たちの防御を容易に超える闇の触手が迫る。地面が揺れ、大地が引き裂かれたように感じられる中で、俺たちはわずかな時間を稼ぐために全力を注いでいた。
「攻撃が通じないどころか、こちらの防御すら意味がない…。こんなの、本当に勝てるのか?」
葵が呟く。だが、その声には諦めだけではなく、何か可能性を探ろうとする意志も含まれていた。
「何か方法があるはずだ…!」
俺は息を整え、これまでの戦闘の記憶を呼び起こす。深淵の化身は、俺たちの攻撃を吸収するだけでなく、霊火のエネルギーを取り込むことでさらに強大化している。それが奴の本質だとしたら――。
「葵、俺のバグ技を利用する。」
「…でも、それだと霧散も飲み込まれる可能性が高いわ!」
「いや、霧散を奴にぶつけるんじゃない。俺自身を霧と一体化させて、内部から奴を破壊する。」
葵の顔が驚愕で固まった。
「それじゃあ危険すぎる! あなたが戻ってこれなくなるかもしれない!」
「俺たちに時間はない。これ以上の選択肢はないんだ!」
俺の言葉に、葵は唇を噛み締めながらも頷いた。
深淵の化身が再び巨大な闇の波動を放とうとした瞬間、俺は剣を掲げ、全力で突撃を開始した。霧散の力を限界まで高め、身体を霧そのものと化す。
「…頼むぞ、持ちこたえてくれ!」
闇の中に飛び込んだ瞬間、全身が異様な重圧に包まれる。視界は完全に暗く、耳をつんざくような叫び声が響く。
内部は外部とは異なり、無数の闇の流れが暴れていた。まるで生きているかのように動き回る闇を掻き分けながら、俺は剣を振り上げ、最深部を目指した。
闇の中心部で、一筋の光を見つけた。それは、この化け物の核心部分であり、唯一の弱点のようだった。
「ここが奴の心臓部か!」
剣に全霊火を注ぎ込む。剣が光を帯び、周囲の闇を一瞬だけ裂いた。
「これで終わりだ――!」
剣を振り下ろした瞬間、世界が閃光で満たされ、闇が一瞬だけ引き裂かれた。
剣が閃光を放つ。全ての霊火を注ぎ込んだ一撃が、深淵の化身の中心部を貫いた瞬間、闇の流れが激しく乱れた。
「これで終わりだ…!」
俺は全力を振り絞り、剣を押し込む。その力が届いたのか、化身の内部に微かな変化が生じた。闇の触手が暴れ回り、その勢いで俺の身体は吹き飛ばされる。
崩壊の始まり
光と闇が衝突し、周囲が激しい爆発に包まれる。俺は辛うじて霧散の力で衝撃を吸収しながら、葵の元へ戻ろうとした。
「大丈夫!? 無事なの!?」
葵が駆け寄ってくるが、俺は全身に力が入らず、膝をつく。
「…ああ、なんとか。だけど、まだ終わってない。」
俺たちの目の前には、深淵の化身が再び形を成していた。中心部を破壊したはずなのに、闇が収束し、さらに巨大な姿へと変貌を遂げている。
「まるで…さらに力を取り戻したみたいだ…。」
化身の形状はより異質で異様なものになっていた。全身を覆う黒い結晶のような鎧と、無数の闇の触手が蠢くその姿は、圧倒的な絶望感を漂わせている。
「こんなの、どうすれば…。」
葵が震えながらも杖を握り直す。俺も剣を構え直すが、全身に力が入らない。この状態で戦い続けるのは無謀すぎる。
その時、遠くから光の弾丸が化身の背中を撃ち抜いた。
「大丈夫か、お前ら!」
振り向くと、地球から来た冒険者たちが駆けつけていた。
「君たちを放っておくわけにはいかないだろ!」
リーダー格の男が剣を掲げ、仲間たちも次々と魔法や弓矢を放つ。彼らの攻撃が化身の動きを鈍らせた。
「助かった…!」
俺は一瞬だけ気を取り直し、仲間たちと連携する形で再び戦闘態勢に入る。
冒険者たちの協力により、化身の動きが徐々に封じられていく。葵の霊火魔法も連続で炸裂し、俺たちの攻撃が次第に化身の鎧を砕いていった。
「これが最後のチャンスだ!」
俺は剣を掲げ、冒険者たちの魔法と霊火を全て集める形で一撃を準備する。
「全力で攻めるぞ!」
皆の力が剣に集まり、巨大な光の柱が空に向かって伸びる。そのまま化身へと振り下ろし、剣先が闇を貫いた。
激しい爆発と共に、化身の身体が徐々に崩壊していく。闇の触手が次々と消えていき、やがて完全に霧散した。
「…終わったのか?」
静寂が戻り、辺りには光が差し込んでいた。
「よくやったな。」
リーダー格の冒険者が肩を叩いてきた。
「いや、みんなのおかげだ。」
俺は剣を地面に突き刺し、崩れ落ちそうになる身体を支えた。




