第9話
「荷物を下におろして来るよ」
小島がそう言い残し、荷物を持って部屋を後にした。
男の後を追うように歩き出そうとした岳の袖の裾を、まだ小春が掴んでいる。
岳の心の中で、未だ小春の言葉がぐるぐると回る。
岳さん、他人に甘いですよね
たしかにそうだ。他人を疑うのは苦手だし、小島だって命の危機を感じて飛び込んできた。ただ、確かに小春に対する視線は気になる。男ならあの程度は普通と思いたいが、女性の勘は鋭いと言うし、小春の警戒は無視できない。
「小春ちゃん、大丈夫?」
裾を掴む手に手を重ね、彼女の顔を見る。その手は冷たく、微かに震えていた。顔を覗き込むと、小春は少し眉を寄せながら、じっと岳を見ていた。
「……大丈夫です。ごめんなさい、私男の人が怖くて」
「え、俺も男だけど……?」
その言葉に岳は一瞬驚き、困惑したように首をかしげた。
「岳さんは大丈夫です。でも、あのぐらいの歳のおじさんが怖くて」
言葉の中に滲む重さと過去の影に気づいた岳は、それ以上の追及を控えた。
「それにそれとは関係なくても、あの人はなんか怖いです」
小春の手がさらに強く袖を掴む。その小さな手には、不安と警戒がはっきりと伝わるほどの力が込められていた。
「岳さんも気をつけてくださいね」
「うん、分かった」
「私、少しここにいます」
小春の声には、まだどこか不安が混じっていた。岳は軽く頷き、彼女を安心させるように微笑んだ。そして、彼女がそっと袖を離したのを確認してから、リビングへ向かった。
リビングに戻ると、小島が窓の外をじっと見つめていた。その背中には何か考え込むような陰りが見える。
「外、大丈夫ですか?」
岳が声をかけると、小島は窓辺に立ったままゆっくりと振り返った。彼の顔には飄々とした笑顔が浮かんでいた。その笑顔は自然体のようで、どこか計算されたものにも思えた。岳はわずかに眉をひそめたが、それを表情には出さないように努めた。
「あぁ、あいつらはどこかへ行ったみたいだね」
小島の声には軽い安堵がにじんでいたが、その安堵の色合いが妙に薄いようにも感じられる。
「そうですか、良かったです」
岳の言葉は平坦だったが、少しほっとしたような響きも混ざっている。彼の視線は小島の背後の窓に向かい、外の様子を探ろうとするようにわずかに揺れていた。
「いやぁ、大変なことになっちゃったねぇ。岳君、ご家族は? 一緒じゃないのかい?」
「あぁ、はい。連絡はしてるんですけど返信がなくて、多分…もう……」
岳の声は次第に低くなり、最後の言葉は消え入るようだった。その目は床に落ち、声にもどこか後悔や諦めの色が浮かんでいる。それでも、感情を隠そうとするかのように、すぐに口元を引き締めた。
「そうか、それはすまなかったね」
「いえ、大丈夫です」
沈黙が一瞬流れ、小島がその場を軽く払うように口を開いた。
「ところで、これからどうするんだい?」
どこか明るい調子の声が、さっきまでの空気を切り裂くように響く。
「そうですね……とりあえず1か月はここにいたいと思ってます。物資がなくなったら考えますけど」
小島は「なるほど」と小さく頷き、考えるように目を細めた。
「賢い選択だよ。外は大パニックだからね。下手に動くと混乱に巻き込まれる。知ってる?総理大臣が死んだって。避難したんだけど渋滞で身動きがとれなくなってそのままパンデミックに巻き込まれたって」
「一応ネットニュースで見ました。政府要人のほとんどが死亡か行方不明だって」
小島の話を受けて、岳はすぐに反応する。だが、その声にはどこか現実感を伴わない乾いた響きがあった。彼の中で、ニュースで見た映像と自分の身近な世界との間に大きな隔たりがあった。
「日本政府は完全に機能停止したよ。これじゃ自衛隊の救助は絶望的だね。まあ最初から期待はしちゃいないけど」
「早すぎますね。正直、日本が崩壊したなんて実感湧かないです。この辺は何にもない住宅街の真ん中なんで、ゾンビ見たとはいえ、救急車のサイレンすら聞いてないですし」
「にしては、よくすぐに避難しようってならなかったね」
小島の言葉には軽い驚きが混ざっていたが、それが本心からのものかどうかは掴みにくかった。岳は少し苦笑しながら答える。
「ゾンビ映画が好きで昔から結構見てて。どこが安全かもわからないのに走り出してもパニックに巻き込まれるだけだと思ったんです」
「それで1か月か」
「どのくらいで収まるかよくわからなかったので。でも感染の拡がりが早すぎるんで、落ち着くのももっと早いと思います。なのでまあ、二週間くらいで本格的に動き出した方がいいかなとは思ってます。あまり遅すぎると生存者がいなくなってしまいますし」
小島はあまり興味のないそぶりを見せた。
「ところで、小春ちゃんは大丈夫かな?まだ若いし、こういう状況じゃ怖い思いも多いだろう」
その言葉に、岳は一瞬戸惑いを覚える。
「え?あ、あぁ……あの子は強いですよ。俺なんかよりもしっかりしてるくらいで」
なんで急に……いや、さすがに考えすぎか。こんな状況だし女の子を心配したってそんなにおかしくはない。
「小春ちゃんは人に対する警戒心が強いみたいだね。逆に岳君は、あまり警戒心がないように見える」
小島の言葉には、軽く冗談めかしたような響きがあったが、岳の胸には妙な違和感が残った。その違和感を払拭するように、岳は即座に答えた。
「いえ、俺も警戒はしてるつもりですよ。でも、正直今はゾンビだけで手いっぱいです。それに今後のことも考えると、人手はいくらあっても足りないと思います。だから正直、小島さんが来てくれたのは助かります」
小島は満足げに笑いながら椅子の背もたれにもたれかかる。その姿勢には、どこか周囲を見下ろすような余裕が漂っていた。
「任せてよ、困ったときは助け合いだ」
小島の言葉には笑顔が添えられていたが、その裏にあるものを見透かすのは難しかった。
「もう日が暮れるね。明日はどうするんだい?」
「明日は近くの薬局に物資を調達しに行く予定です。本当は今日行く予定だったんですけど、トラブっちゃって」
岳が少し苦笑しながら答えると、小島は顎に手を当て、考える素振りを見せた。
「そうか、なら明日に備えて早めに準備しなくちゃね。何か簡単なものでいいから、一緒に食べようよ」
その提案に岳は軽く頷いた。
3人が簡素な食卓を囲むと、どこかぎこちない空気が流れた。小島が箸を取ると、軽い調子で話しかける。
「こういう状況だから、ちゃんと食べておかないとね。特に若い子は体力が資本だから」
その言葉に岳が相槌を打つが、小春はほとんど箸を進めず、表情は硬いままだった。
「小島さんはこうなる前、何してたんですか?」
岳が尋ねると、小島はすぐに穏やかな笑顔を浮かべた。その笑顔には、どこか慣れた調子が混じっている。
「僕は高校の教師でね。これが始まったときも学校にいたよ。思春期の子たちはコントロールが難しくてね。学校はすぐにパニックになったよ」
軽く話すその声色には、日常的な仕事の苦労を話すような落ち着きがあった。
岳はその言葉を自然に受け入れつつも、パニックになった学校の混乱や、それを乗り越えるための想像を絶する苦労を思い描く。
小春は会話に参加することはなかったが、小島を上目に一瞥した。
「それは大変でしたね……」
「まあね。僕は運よく何人かの生徒と逃げられたんだけどね」
「生徒さんたちは今どこに?」
「ここに来るまでにみんな死んでしまったよ」
岳の問いに、小島の顔には短い間が生じた。だがそれは特に深刻そうなものではなく、彼は微かに眉を下げながら答える。
「そうですか……」
その言葉に岳は息を呑み、短い沈黙が流れる。岳の頭には、必死に生徒を守ろうとした教師としての姿が思い浮かび、それが何の結果も得られなかった現実に胸が締め付けられた。
岳の声は沈み、小島は軽く笑って答えた。
「それはもういいんだよ。気にしないでくれ」
岳には空気を暗くしないための配慮に思えたが、小春はそうは思っていなかった。
「小春ちゃん元気ないね? 大丈夫かい?」
小島はふと話題を変えるように、小春に向き直った。その声色は柔らかく、小春を気遣うものだった。だが小春は、視線をテーブルに落としながら短く答える。
「はい、大丈夫です」
岳がそのやり取りを見て、小春の体調を心配しようとしたが、それより先に彼女は席を立った。
小島の視線を避けるように、小春は短く答える。
「私、先に寝ますね」
その声はどこか硬く、岳は少し戸惑いながらも「分かった。ゆっくり休んで」と優しく声をかける。
小春が席を立つと、小島の視線が彼女をじっと追っていた。
残された二人は、食事を終えると明日の準備を始めた。武器の確認や持ち物の整理を進める中で、小島がふと口を開いた。
「いつも見張りは立てないのかい?」
小島が軽い調子で問いかける。
「そうですね、静かにしてれば問題ないので。それに二人しかいなかったですし」
小島は肩をすくめ、笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「じゃあ今日は僕が見張りに立つよ」
岳は思わず眉をひそめた。小島の申し出はありがたかったが、明日も動く予定がある以上、休むべきだと考えるのが自然だった。
「でも明日は外に出ますし、寝た方がいいんじゃないですか?」
岳の言葉は理にかなっていたが、小島は軽快に手を振って否定した。
「大丈夫大丈夫! 徹夜で仕事するなんてザラだったからね。三徹くらいまでなら元気に動けるよ」
その言葉には、どこか自信過剰にも聞こえるほどの勢いがあった。岳は小島の無理をする姿勢に疑問を抱きながらも、再度説得を試みる。
「え、でも――――
「いいからいいから。岳君はゆっくり休んで明日に備えなさい。若い男の子は一番の戦力だからね。明日は期待しているよ。見張りは僕に任せて!」
小島の声は明るく、強い押しのある口調だった。その言葉に圧倒された岳は、半ば諦めるように返事をする。
「はあ……じゃあ、お願いします」
岳は了承したものの、心の中に微妙な引っかかりが残った。小島の申し出自体は善意からのものだと感じる一方で、あまりに自信たっぷりな態度が、どこか現実離れしているように思えた。彼の振る舞いには特に問題がないように見えるが、それでも何かが欠けているような気がしてならなかった。
小島が部屋を出ていく背中は軽快そのものだった。岳はその姿を見送りながら、小さなため息をつく。