第7話
「待って」
岳が小春に手をかざし、静かに制止を促す。言われるまま、小春も立ち止まった。
そこは一本道になっている。住宅街を抜ける直線の道路が薬局まで続いている。100mほど先、道の真ん中にこちらに背を向けたまま座り込む女性の背中が見えた。
「背中をつついてみる。立ち上がるようならそのまま突き刺すから、俺が刺したら頭か膝を全力で殴って」
「石とか投げてみればいいんじゃないですか?」
「もし生きてたら立ち上がっちゃうでしょ?気づかれたらこっちに向かってくるかもしれないから、後ろ向いて座ってるうちにこっそり近寄るのが一番いいと思う」
「わかりました」
「時々後ろ確認しといて」
「はい」
二人は音を立てないよう慎重に歩を進めた。風に揺れる葉音ですらフルボリュームのスピーカーのような煩わしさを感じる。
近づいてみて段々と分かった。その女性は確実に感染している。
横座りで動かない女性の背中。その右足のふくらはぎに小さな噛み跡があり、血痕が点々と続いていた。血の痕は道沿いの一軒家の玄関へ向かっている。
その噛み跡の主であろうか。女性の脇から小さな足が二本、無造作にはみ出しているのが見えた。どうやら女性は子供を抱きかかえるような体勢で座っている。
岳の中で最悪の想像が膨らむ。
もしあの子供が動ける状態であれば、相手は二人。しかも子供を相手にする可能性がある。
槍を握る手に自然と力がこもる。
小春に視線を向けると、彼女も状況を理解したらしく、硬い表情で小さく頷いた。
やがて女性まで数メートルのところまで近づく。
岳は女性の背中に槍の先をそっと触れさせた。槍を勢いよく引き、次の動作に備える。しかしその必要はなかった。つつかれた女性はピクリともせず、反応は見られなかった。
試しに何度かつついてみるが、どれも結果は同じだった。子供の足にも槍を触れてみるが、こちらも反応は見られない。
二人は緊張の糸がほつれ、静かながらも大きな安堵のため息を漏らした。そして慎重に女性の正面に回り込む。
その光景に、全身が凍りついた。
予想通り、女性は子供を抱えていた。3歳か4歳程度の女の子だ。女の子は死んだカエルのように女性の膝の上であおむけにひっくり返っている。女性の右手が女の子の顔を抱きかかえるように支えており、母親の愛を感じられる。
予想していなかったことがあるとするならば、それは女の子の腹部に包丁が突き立てられていたことだ。女の子の腕よりも太い包丁が、腹にまっすぐと突き立てられている。その包丁は女性の左手にしっかりと握りしめられていた。体の中心からあふれ出た血液が、女の子の小さな体のほとんどを真っ赤に染め上げている。
予想していなかったことはもう一つあった。白目をむく女の子の口が大きく開かれており、その中には嚙み砕かれた太いひも状の肉塊が詰まっていた。そのひもはちぎられたような無造作な端が女の子の肩口に垂れ下がっており、そこから口を通って、女の子同様に真っ赤に染まった女性の大きく裂けた腹の中につながっていた。
女性の虚ろな目は死後も開いたまま、無表情でどこかを見つめている。うっすら開く渇いた唇からは冷えて固まった血液の痕が顎まで伝い、今にも零れ落ちそうな状態で止まっている。
これらすべての情報が、一気に脳みそに叩きつけられる。
「ひっ!!」
小春が思わず小さな悲鳴を漏らす。
岳は声こそ我慢したが、腹の奥底からこみ上げる強烈な逆流感に抗えず、胃の中身を勢いよく地面にぶちまけた。びちゃびちゃと地面に跳ねる液体の音と嗚咽が静かな住宅街に響く。
その瞬間、どこからともなくうなり声が上がる。聞こえだした足音は次第に数を増し、手には負えないことを全身に感知させる。
「岳さん! 逃げますよ! 早く!」
小春がまだ吐きやまない岳に肩を組み、力強く引っ張る。岳は前傾姿勢のまま引っ張られるように走り出す。
二人は絶望の道を背後に、来た道を引き返した。
岳と小春は全速力で自宅まで駆け戻り、玄関のドアを閉めると同時にその場に崩れ落ちた。
二人とも肩で息をしながら、壁に背を預けるように座り込む。汗が顔をつたい、荒い呼吸が静かな室内に響く。
「くそっ…!!」
岳が苦しげに息を吐きながら、苛立ちを含んだ声で呟く。その表情には疲労と焦燥が滲んでいた。
小春も同じようにぜぇぜぇと息を切らしていたが、やがて口元に薄く笑みを浮かべて言った。
「2回目ですね」
「んぁ?」
岳が小春を振り返る。
「こうして二人で玄関に座り込むの、2回目です」
小春の言葉に、岳の頭に走馬灯のように最初の逃走劇がよぎった。あのときも必死で逃げて、家に駆け込んだ。だがそのときとは明らかに状況が違う。あの女性と子供の姿が、瞼に焼き付いて離れない。
「小春ちゃん、元気そうだね」
思わず口から出た言葉には、どこか棘があった。自分でも意図しない苛立ちが声に滲むのを感じた。
小春は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに声を張り上げて言い返した。
「元気じゃないですよ!」
その声に岳は少し驚き、目を合わせる。小春は真剣なまなざしで岳を見つめ返す。
「でも、私決めたんです。岳さんと一緒に絶対生き残るって」
岳は何も言えず、ただ小春の言葉に耳を傾けるしかなかった。
「それなのに、この程度で私がへこたれてたらダメじゃないですか」
彼女の声は震えていたが、その中には強い意志が込められていた。
自分のすべてが甘いと感じざるを得なかった。
「ごめん。俺が甘かった。覚悟してるつもりになってた」
戦うことばかりに気をとられて、簡単なことを想定してなかった。あんなことの方がこの先ごまんと起こりうる。
「あんなことでいちいち喰らってる場合じゃないよな」
岳が力なく呟くと、小春が優しい声で言葉を返した。
「大丈夫ですよ。私たち、まだ生きてますから」
小春が微笑む。その微笑みには、岳を励ますような温かさがあった。岳は彼女に命を救われたことを実感した。それに加えて、自分よりもはるかに強固な決意と覚悟をもって自分のメンタルのサポートまでしてくれている。さきほどまで嫌味を言っていた自分が、どうしようもなくちっぽけで馬鹿らしく感じた。
岳は無意識に小春を抱きしめていた。小春も驚いたように一瞬硬直したが、すぐに彼の背にそっと腕を回す。
「カッコいいところ見せてください」
小春が耳元で囁くように言う。その言葉に、岳は胸の奥から力が湧いてくるのを感じた。
俺がこの子を守らなければ……
岳は小春を抱きしめる手に少しだけ力を込めた。