第6話
岳は異音に起こされ、薄暗い部屋の中で目をこすった。
隣に目を向けると、そこには抜け殻となった毛布だけがあり、小春の姿がない。
思わず起き上がり、辺りを見渡した。頭がぼんやりしている中で、次第に緊張感が胸を締めつけていく。
今も異音はなり続けている。どこかで聞いたことがあるような音。しかし、混乱している岳にはそれが何の音なのか考える余地もなかった。手近にあった掃除機をつかみ、注意深く音の発生源へ向かう。
暗闇の中、恐怖と焦燥に駆られながら最悪の状況を覚悟し、キッチンを確認する。
するとそこには、ゾンビに料理される小春の姿――――――――――――
ではなく、エプロン姿でフライパンを振るう小春だった。カチカチとフライパンを返す音と香ばしい匂いが空間を満たしている。
小春は振り返り、岳に気づくと、少し驚いた顔をしてから明るく微笑んだ。
「おはようございます!ごめんなさい、勝手にキッチン使わせてもらっちゃってます」
岳は数秒間呆然と立ち尽くし、次に来る言葉を探した後、ようやく掃除機を下ろした。心の中の緊張が、急速に解けていく。
「え、あぁ……料理か」
「ちょうどできたところなので食べましょう!」
テーブルの上に食パンとベーコンエッグが二人分並べられる。ご丁寧に牛乳の入ったグラスと皿には野菜まで添えられており、岳はしばらくの間、その丁寧な朝食の準備にただ目を奪われていた。半年以上ぶりに見るまともな朝食が、彼の言葉をしばし失わせる。
「あ、もしかして目玉焼きはソースはですか? 私塩コショウかけちゃいましたけど……」
気を使ったような小春の声が、岳の耳に届いた。彼はようやく我に返り、小春に視線を向けた。
「あぁ、いや、そういうことじゃないよ。女の子の手作り料理と食べるの初めてで緊張してるだけ」
その言葉に、小春は目を丸くした。
「え、そうなんですか?」
「まあね。いただきます」
「どうぞどうぞ♪」
岳が一口食べると、その口元に自然と笑みがこぼれた。
「美味しい!」
小春は照れくさそうに肩をすくめた。
「ベーコンと卵を焼いただけですから、誰でも一緒ですよ」
「いや、こんなちゃんとした朝飯食うの久しぶりだから」
二人の会話は、終末の世界にあるとは思えないほど穏やかで、どこか心地よいものだった。
「でも意外です。手作り料理初めてって。」
「そんな意外?」
「いえ、何となく女の子慣れしてそうな感じだったので」
「そう? 彼女すらできたことないけどね」
岳がぼそりと呟いた言葉に、ふと気まずそうな空気が漂った。
「絶対嘘だ」
小春は少し笑いながら反応する。けれど、その言葉にはほんのりとした疑いが滲んでいる。
「ほんとだって」
岳は肩をすくめる。
「小春ちゃんは? 大学に彼氏いなかったの?」
「いませんでしたよ。私ぼっち大学生だったので」
小春はさらりと言ってのけたその言葉の裏には、どこか孤独を受け入れたかのような響きがあった。
「なんで?可愛いのに。めっちゃ声かけられるでしょ?」
岳は素直な疑問を口にしながら、彼女の表情をちらりと盗み見た。けれど小春は特に気負った様子もなく、あっさりと答えた。
「私一人暮らししてて、大学の学費も自分で払ってたので」
その声色には、自分が歩んできた道を当然だと思っているような強さがあった。
「お……奨学金とか借りなかったの?」
親は払ってくれなかったの? という言葉が喉元でつかえた。詮索されたくない過去に踏み込まないように言葉を飲み込む。
「私、成績悪かったんですよ。高校の時からバイトばっかりしてて。まあ、そのおかげで一人暮らしして、大学費用も払えるくらいお金貯まってたので全然大丈夫でした」
小春は笑顔でそう語ったが、岳は顔に出さないまでも内心戦慄が走っていた。
大学なんて、入学金もろもろで初手で何十万も取られる。追加で半年ごとに50万はとられるし、一人暮らしだって、仮に月4万だとしても年に48万。食費やら光熱費まで考えたら恐ろしい金額になる。いったいどれだけ働いたらそんなに稼げるのか————
岳の頭の中でその計算がぐるぐると回り続けた。
思い返すと、出会った時の小春の服装は可愛らしく、よく似合っていた。けれどどこか着古したような印象もあり、その時は特に気にも留めていなかったが……今になって、その理由を思い知るような気がした。
「入試とかは大丈夫だったの?」
岳はようやくそう尋ねると、小春は明るく答えた。
「バイト中とか、合間に時間見つけて猛勉強したらギリギリ行けました!本当は国公立とか行きたかったんですけどね」
メンタル強すぎだろ
岳は内心で呆れるほどの感嘆を抱きながら、素直に言葉を漏らした。
「す…すごいね……」
「岳さんは大学どこだったんですか?」
小春の問いに、岳は少し肩の力を抜いて答える。
「俺も普通の私大だよ。AOだから入試受けてないんだけどね」
「AOですか!? すごいですね! スポーツとか何かやってたんですか?」
小春は純粋な驚きを込めて声を弾ませた。
「一応、水泳やってたよ」
「いいなー! 私泳げないんですよ。だから泳げる人かっこいいなーってずっと思ってました! 私も水泳やりたかったな~」
小春の顔がぱっと明るくなり、その言葉はどこか羨望と憧れが入り混じっていた。
「もし世界が元に戻ったら海でも行こうか」
岳は冗談めかしつつ、どこか心の底からその未来を信じたい気持ちでそう言った。
「はい!」
小春は満面の笑みを浮かべて頷く。その笑顔には、どんな困難にも負けない強さが宿っているように見えた。
その後、二人は朝食を終えると、物資を調達に行く準備を始めた。家にある食料はすぐになくなるほどではなかったが、一か月もこもれるほどの備蓄があるわけでもなかった。また、店が荒らされている可能性がまだ低いため、早急な行動をとりたいという岳の提案によるものだった。
装備は、A4ノート4冊を前腕と脛にガムテープで巻きつけた。軽量ながら、噛みつかれても破られない防御力がある。下着にTシャツ、トレーナーそのうえからボンバージャケットを羽織る。革ジャンとか、もっと頑丈な服を着たかったがないものは仕方がない。下半身は俺がジーンズ、小春はスキニージーンズを選んだ。そして口元には細長いタオルを顔の下半分が隠れるように巻く。マスクやハンカチよりも飛沫に染まりづらく、安全性は高いはずだ。目元は競泳用のゴーグルやスキーゴーグルなど考えたが、どちらも色付きで見づらいこと、どうしても視野が悪くなることを理由に断念した。
武器は物干し竿にハンガーとガムテープで包丁を括り付けた即席の槍とバットが2本。一人が槍でゾンビとの距離を保ちつつ動きを制限し、もう一人がバットで制圧する形となる。槍を持っている人間は全力で突進してくるゾンビを相手に受け止める必要があるため、俺が槍を持つ。小春がバットにて制圧する役割だが、不測の事態に備えて俺がもう一本バットを携帯する。
二人は玄関に立ち、準備を整えた。
初めてゾンビと遭遇した時の記憶が頭をよぎり、岳は槍を握る手に力が入る。肌に纏わりつく不安は、恐怖というよりも、責任の重さによるものだった。
ゾンビとはいえ、刺せるのか? 俺に
いや、でも俺が何とかしないと
岳の手は微かに震えていた。すると、ふと背中に暖かい感触を感じる。
小春が岳の背中にそっと手を添えていた。
「大丈夫ですか?」
彼女の声は静かで、けれど芯がある。岳は短く息を吐きながら頷いた。
「……大丈夫」
「岳さんがいなくなっちゃったら私生きていけませんから。死ぬ時は一緒です!」
その言葉に、岳は思わず振り返った。
「不吉な言い方するね……。でもちょっとだけ安心した。ありがとう」
ふと、小春の手が微かに震えていることに気づく。それでも彼女は笑顔を絶やさず、真っすぐ岳を見つめていた。
「絶対、生きて帰りましょうね」
その瞳の中には、わずかでも迷いや恐怖を見せない決意が宿っていた。
岳は槍を握り直し、小春に最後の確認をした。
「まず、俺のそばから離れないこと。そんで二匹以上とは戦わないこと。最後に……」
「どちらかが捕まっても相手が一人じゃない場合はすぐにここまで逃げてくること」
「……はい、大丈夫です」
言葉だけは互いに誓うものの、二人ともその最後のルールを守れる自信がないことを、内心で悟っていた。
「よし、行こう」
岳がドアを静かに開けると、ひんやりとした朝の空気が顔を包んだ。
街は相変わらず静まり返っていた。人の姿はなく、ただ冷たく広がる無音が二人を飲み込むように広がる。
目的地は200m先、角を二回曲がった先にある薬局。
岳が周囲を警戒しながら一つ目の角を曲がると、そこも異常なし。小春は背後からついてきているが、時折小さく「大丈夫」と自分に言い聞かせるように呟いているのが聞こえた。
二つ目の角に差し掛かる。そこは塀に囲まれた場所で視界が遮られていた。塀に背を預け、角の先を慎重にのぞき込む。
何もいませんように
その先に広がっていた光景は、二人の甘い期待を一瞬で打ち砕くものだった。