第5話
「これから、どうしますか?」
小春が不安げに問いかける。岳はスマホの地図を指でなぞりながら答えた。
「とりあえず全体的な動きとしては、一か月はここを拠点に狭い範囲で生活しよう。ここら辺は静かだけど、まだ始まったばかりだから外は混乱してると思う。道路状況もどうなってるか分からないし落ち着くまで大規模な移動は避けた方がいい」
岳はやや固い表情で小春を見た。
「かといって、この家を一歩も出ずに一か月耐えるには物資が少ない。集めるのは早い方がいいし、ゾンビの情報も集めたいから調達には積極的に行こう。人がいるかもしれないし」
その言葉に、小春は顔を曇らせた。少し考え込むような素振りを見せてから、小さな声で尋ねる。
「人がいたら、どうするんですか?」
「助けるよ。人は多い方がいいから」
「誰でも助けるんですか……?」
小春の問いかけには、わずかながら震えがあった。彼女の中で、過去の記憶がふいに蘇る。岳はその様子に気づいたが、あえて気づかないふりをして、慎重に言葉を選びながら答えた。
「危険な人もいると思う。けど、それでも二人だけじゃやっていけないと思う。どうしても人手が必要だよ」
小春の目が揺れる。明らかに納得できていない表情だった。
「でも、信用できる人なんて、そんなにいませんよ?」
彼女の声は低く、弱々しかった。
その様子に、少し考え込む。
「そうだね。助けるにしても慎重にいこう。助けたら終わりじゃなくて、その後もちゃんと見極める。もし危ないようなら……そのときは距離を置く方法を考えるよ」
岳の言葉には覚悟が滲んでいた。小春はその真剣な表情を見つめ、しばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
二人の間に沈黙が落ちる。だがその静けさには、次に何をするべきかを共有した者同士の小さな決意が宿っていた。
「俺はもうちょっとゾンビについて知りたいから観察してくるよ」
そう言いながら、小春に視線を向ける。
「お風呂は自由に使って。冷蔵庫の中も好きに食べていいから」
「私も行きます」
岳が驚いて小春を見たが、すぐに軽く頷く。
「そっか。じゃあ、二人で行こう」
彼女の意思を尊重し、小春と一緒に階段を上がった。
ベランダから一時間ほど観察を続けたが、ゾンビの行動は単調そのものだった。ただ突っ立っているか、たまにふらふらと動く程度で、特異な動きは見られない。生前の記憶や行動に基づいて動いている様子もなさそうだ。
「陸上部がぶっ飛んでくることはないか」
岳がぼそりと呟く。
「陸上部?」
小春が首を傾げる。
「いや、なんでもない」
岳は苦笑いを浮かべ、窓を閉めた。
「明日に備えて寝ようか。二階のベッドどれ使ってもいいから」
「岳さんはどこで?」
「俺はリビングで寝るよ。なんかあってもすぐに対処できるように」
小春は少し考え込むようにしてから、静かに言った。
「あの、一人は怖いので私もリビングで寝てもいいですか?」
「え、あぁ、おっけー。じゃあソファ使って」
二人で一階に降りた。
小春がソファに寝転び、毛布を手繰り寄せる。
岳はリビングのドアにもたれかかり、毛布にくるまる。
「あの、辛くないですか? ソファ余裕あるので一緒にこっちで寝ませんか?」
「大丈夫。やつらが玄関から来ても、俺がこのドアふさいでたらすぐには入ってこれないでしょ。俺のことは気にしないでいいから、明日に備えてしっかり寝よう」
岳の声は穏やかだったが、小春にはその声の中に隠れた疲労と不安が感じ取れた。彼女は一瞬、何かを言いかけたが、そのまま言葉を飲み込む。
「電気消すよ」
部屋の明かりを消すと、二人を闇と静寂が包み込んだ。普段とは違う不気味な雰囲気と緊張感が室内を満たしている。
「岳さんはどうしてそんなに落ち着いてるんですか?」
「んー、何でだろう。自分でもあんまよくわかんないんだけど」
岳は少し考え込むようにしてから続けた。
「まあ昔からゾンビとか好きだったし、色々妄想とかしてたから、なんとなく備え方ぐらいは分かるってのもあると思うけど」
小春がじっと耳を傾ける中、岳はぽつりぽつりと話し始めた。
「正直に言うとね、俺実は働いてなかったんだよ。休職中でさ。色々あって、なんか辛くなっちゃって。ここ2週間くらい家に引きこもってて」
「え……」
「色々考えたんだよ。本当にいろんなことを。人生ってそりゃ楽しい時もあるけどさ、ほとんどは辛いことばっかじゃん? 生きてることってさ、ものすごく辛いことなんじゃないかって。世界が終わったかもしれないって、目の前でゾンビ見て実感しても、不思議と絶望しなかったのは、その、なんていうかさ、俺にとって人生の辛さってそんなに変わってないんじゃないかなって————————
ソファから起き上がった小春は話している岳を強く抱きしめる。
突然のことに驚き、固まってしまう。
「あ、いやごめん。そこまで深刻な話のつもりじゃなくて! 別に自殺願望とかあるわけじゃないよ。昔からこういう哲学チックな考えが好きなだけで、そこにちょっと病み期が重なっただけの話だから」
慌てて振り解こうとするが、小春の抱擁はびくともしなかった。
「私、岳さんがいてくれて、本当に良かったと思います」
彼女の言葉は優しく、温かかった。
その後、二人は毛布にくるまり、リビングのドアにもたれかかった。
「ここで寝るの?」
「二人の方が開きづらいです」
小春が微笑む。
「そうだね」
岳も微笑み返す。
数分後、小春の首がころりと岳の肩に倒れ、静かな寝息が聞こえ始めた。岳はその様子を見て、小さく安堵の息をついた。