第4話
「そうか……みんな噛まれてああなったんだ」
口元を引き結び、つぶやくように言った。自分の中でようやく事態の深刻さが形を成し始めているのを感じる。日常があっけなく崩れ去り、映画や漫画の中の「非現実」が目の前に迫っている。その恐怖が、ひしひしと実感として胸に押し寄せてくる。
小春が緊張した表情で問いかける。
「あの、これってやっぱり……」
「ゾンビだよね。多分」
岳の言葉に、小春は小さく息を呑んだ。戸惑いと恐怖が入り混じった表情を浮かべている。
「でも、ゾンビって走れないんじゃないですか?」
「まあゾンビの設定なんて作品によってバラバラだから。最近の映画じゃ大体走るよ」
「え、そうなんですか?」
小春の驚きに、岳は少し肩の力を抜き、努めて穏やかに答えた。
「ゾンビも現代に合わせてる感じ?死人が墓から蘇るんじゃなくて、ウイルスが原因だったり。能力も走ったり喋ったり色々あるし」
「喋るんですか!?」
小春は驚きで目を丸くするが、岳は手を振りながら答えた。
「映画の話ね。でもこれ現実だし、今後のために一匹とっ捕まえてやつらに何ができるのか調べたいところではあるんだけど」
岳の何気ない言葉に、小春は青ざめた顔で身体を小さく震わせる。岳はその様子に気づき、しまった、と思った。
「……あれを、捕まえるんですか……?」
小春の細い声が耳に届いたとき、岳は一瞬言葉に詰まる。彼女の恐怖が、彼自身の心にも重くのしかかるように感じられた。このままではまずいと悟り、岳は咄嗟に話題を変えようとした。
「そうだ、小春ちゃん一人暮らし? 家族はどこにいるの?」
その質問に、小春は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を消して答えた。
「……いません」
短く切られたその返事に、岳は戸惑いながらもそれ以上追及するべきではないと察した。彼女が視線を逸らす様子は、どこか鋭い棘のような拒絶を感じさせた。
「……ごめん、変なこと聞いたね」
「いいえ、気にしないでください。私、家族のことは……もうどうでもいいので」
小春の声は静かだったが、その奥に何か触れられたくない感情が潜んでいるのを岳は感じ取った。それ以上は何も言わず、ふたりの間に気まずい沈黙が流れる。
岳は一度深呼吸し、気を取り直して立ち上がった。
「……とりあえず、今できることをしよう。何から手をつけるか決めないと」
小春は顔を上げ、少し力なく頷く。
「そうですね」
「情報収集から始めようか。今から2人で片っ端からゾンビの行動とか必要なものとかの動画を見てリストアップしよう。みんな動画あげてると思うから」
岳がノートパソコンを開きながら言うと、小春も手元のスマホを握りしめた。
「それが終わったら、明日以降の計画を立てよう」
「……分かりました」
小春の声には少し力が戻っていた。岳は彼女の様子を確認しながら、画面に向き直った。
夜になるまで、二人はパソコンやスマホを駆使して、ゾンビについての情報をひたすら集めた。しかし調べた時間の割に、明確に分かることは少なかった。
まず、感染について。ゾンビに噛まれることでウイルスが伝染するのが基本らしい。それ以外にも、引っかかれる、唾液や血液が体内に入ることで感染することが確認された。発症までの時間は短く、早ければ数秒、長くても数分といったところだ。ただし、この情報はあくまで現段階でのもので、サンプル数が足りないことを考えると、まだまだ調査が必要だろう。
次に、奴らの行動についてだ。基本的にはうろちょろして、獲物を見つけたら走る。ネットに投稿されている動画やニュース記事をいくつも確認したが、それ以上の能力は確認できなかった。ただし、奴らの行動について、いくつか重要と思われる特徴が見つかった。
一つ目は、階段をスムーズに登れないこと。段差を認識できないのか、奴らは必ず躓き、そのまま倒れる。立ち上がる個体とそのまま這い上がろうとする個体が見られるが、どちらも明らかに非効率な動きだ。
二つ目は、反射的な行動をすることだ。たとえば、誰かがゾンビをバットで殴ると、その部分を一瞬手で押さえるのだ。まるで痛みを感じているかのような仕草。しかし、それ以上の行動は見られない。一瞬手が動く程度で、本当に痛みを感じているのかは疑問だ。反射程度に過ぎない。それでも、この動きは何かを示唆しているように感じられた。
「分からないことが多すぎる」
岳はリストを睨むように見つめた。彼らが何者で、どこまでの能力を持っているのか。ひとつひとつの情報が霧の中に浮かぶ点に過ぎず、全体像は一向に見えなかった。
「痛がるみたいに抑えるの、生きてる人みたいで怖いですね」
小春が不安そうに言う。
「ああ、そうだね……」
岳は生返事を返しながら、じっと画面を見つめた。彼の意識は、別のところに向いていた。少ないながらも得られた情報から浮かび上がるある仮説――それはやがて人々を分断する引き金になるかもしれないもので、考えれば考えるほど背筋が冷たくなった。しかし、今この場で小春に話しても、混乱を招くだけだとわかっている。
「大丈夫ですか?」
小春が心配そうに顔を覗き込んできた。
「え、ああ……」
岳は思わずぎこちない返事をしてしまう。
「お水、のんでください」
小春は差し出したコップの中身を覗き込むようにしながら、少しだけ笑顔を見せた。
岳はそのコップを受け取り、口をつける。冷たい水が喉を通り抜けると、少しだけ頭の中の熱が引いた気がした。
「ありがとう」
そう呟くと、小春は少しだけ微笑み、頷いた。