第3話
「あの……ありがとうございました」
静かな声が背中に届く。リビングに向かっていた岳は足を止め、振り返った。彼女の真剣な眼差しが彼を見つめている。岳は一瞬ためらったが、軽く肩をすくめて微笑んだ。
「いいよ、別に。それより怪我してない?」
彼女は小さく頷き、静かに答えた。
「はい、大丈夫です。ただ……どうして助けてくださったんですか?」
彼女の問いに、岳は一瞬言葉に詰まった。どうしてと、自分の中でもはっきりした答えがないことに気づき、戸惑いが表情に現れる。
「え、どうして? いや、どうしてって言われてもな……」
岳は頭を掻きながら曖昧に笑い、過去の記憶を掘り起こすように言葉を継いだ。
「助けないとそん時の後悔を忘れられなくなるんだよ」
彼の視線がどこか遠くを見つめているのに気づき、彼女はじっと耳を傾けた。
「前地下鉄待ってる時盲目で杖持った人が、電車のドア開いてもすぐに乗り込まなかったのよ。まぁ少ししたらその人も電車乗ったから、別に何事もなかったんだけど」
ふと視線を戻し、岳は少し微笑んだ。しかし、彼の目はまだどこか過去を見ているようだった。
「なんかそーゆーの忘れられなくてさ。なんかすればよかったんじゃないかって。だから今回も助けなかったらめっちゃ後悔するような気がしたから……かな?」
自分の言葉が正確なのかどうか自信がないように首を傾げる。岳自身、あの場で本当にそんな深いことを考えていたわけではないと自覚していた。だが、言葉にしてみると、少しだけ自分の行動に納得がいく気がした。
「本当に、ありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げる。
「大丈夫だって。それより、あがって少し休んだいいよ。聞きたいこともあるし」
岳が軽く促すと、彼女は顔を上げるが、少し困惑した表情を浮かべる。
「あがりたいんですけど、その……」
言い淀む彼女の様子に、岳は首を傾げた。
「どうしたの?」
彼女の顔が赤くなり、視線が床に落ちる。
「あの、追いかけられてたときに、その……」
岳は怪訝な表情で彼女の言葉を待ったが、彼女は小さな声で、声を絞り出すように答えた。
「お、おもらし、しちゃって……」
一瞬の静寂。岳は驚きで目を見開いたが、すぐに状況を察し、大きく手を振った。
「あ、そういうことね!ごめん!そこの突き当たりお風呂だからそこ使って」
岳の気遣いの言葉に、彼女はほっとした表情を浮かべ、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます……」
彼女が風呂場に向かうのを見届け、岳はリビングに戻った。そしてソファに座り、スマホを取り出してSNSを開く。画面には混乱する日本各地、ゾンビから逃げ惑う人々の叫びや泣き声が耳元で再生されるようだった。
画面に映るのは、東京、大阪、名古屋だけではなかった。地方の小さな都市でも同様のことが起こっており、この混乱が一部の都市だけでなく、全国的に広がっていることが伺えた。さらには、海外の映像も次々と出てきて、この異常事態が全世界で同時多発的に発生していることに気づく。
「まじか……」
事態の深刻さを改めて実感した。これは映画やドラマではなく、現実だ。いつもの日常が、二度と戻らないものになりつつある。ずっと望んでいたはずだった。しかしいざ本当に起こると話は別だ。複雑な感情と現実が頭の中をかき回す。
岳は頭を抱え、背もたれにもたれかかる。その時、不意に頭をよぎったことがあった。
「あ、バスタオル」
慌てて立ち上がり、洗面所へ向かう。特に考えもせず、勢いよくドアを開けると、目の前に風呂から上がったばかりの彼女が立っていた。
一瞬、二人の時が止まる。
彼女の髪は湿ってしなやかに肩にかかり、赤く火照った頬が淡い光沢を放っている。女性らしい柔らかな体の曲線がはっきりと視界に入り、思わず息を呑んでしまった。全身から立ち上る湯気とともに、彼女の白い肌が浮かび上がって、瑞々しい若さを強調している。
思わず硬直する岳。少女も驚きに目を見開いたが、すぐに顔を真っ赤にし、手で体を隠した。
「あっ……!」
岳は慌てて顔を背け、持っていたバスタオルや部屋着を手探りで彼女に差し出しながら、何度も謝る。
「ほんとにごめん! そんなつもりじゃなくて……!」
「いいんです! 本当に気にしないでください。声かけれなくてここにいた私が悪いので……」
「えっと…着替えは俺のTシャツとスウェットしかないけど、それでよければ!」
彼女の声はかすかに震えていた。岳は逃げるように洗面所を後にし、リビングへ戻ると、深くため息をついた。顔の熱がなかなか引かない。
数分後、彼女が岳の部屋着を身に着けて洗面所から出てきた。服は彼の体格に合わせたサイズのため、彼女の小柄な体には少し大きく、袖が手を覆ってしまうほどだった。
「おまたせしました…」
小春が照れくさそうに笑みを浮かべ、岳の前に立つ。
「あ、うん……。適当に座って、お茶でも出すよ」
岳が微妙にぎこちない笑顔を浮かべながらそう言うと、小春は軽くうなずいてダイニングの食卓に腰を下ろした。岳も向かいに座り、コップにお茶を注ぎ、それを小春に差し出す。
「ありがとうございます」
小春は丁寧に礼を言ってコップを受け取り、両手で包み込むようにして口元へ運んだ。
岳も自分のコップに口をつけて、ひと息つく。しばらく二人は無言でお茶をすすり、それぞれの視線があさっての方向を向いたまま、気まずい沈黙が続いた。
岳は何か話題を見つけようと頭を巡らせるが、気の利いた言葉が浮かばない。先ほどの出来事が頭から離れず、思わず視線を避けてしまう。
沈黙が重たくなっていくのを感じ、小春が少し落ち着かない様子でコップを置き、ほんのわずかに唇を噛み締める。その動作が視界の端に映り、岳も内心で焦りを感じるが、何も言えずにいた。
しばらくして、ふいに彼女が顔を上げて、少し意を決したように口を開いた。
「あの!」
不意に彼女が声を張り上げた。
「私、夢野小春です。21歳の大学生です。お兄さんのお名前は?」
彼女の突然の自己紹介に頭が追いつかず、少しの間動けなくなってしまった。
小春は固まっている俺の顔を、首をかしげて覗き込むように見つめる。
「あ、そっか。ごめんごめん、俺は浅野岳。会社員だよ。23歳。そういえば名前も言ってなかったね」
岳が答えると、小春は安心したように微笑んだ。