試合のあと
「バカ! なにしてんの!」
紗智の怒鳴り声が耳を打つ。
予測のつかない変化をするナックルを捕球するのはただでさえ難しい上に、『光龍デストロイヤーズ』の捕手の技術は拙い。和人は確実に取り損ねると予想した。
だから、空振りしたあと捕手を見ようともせずに一塁へ駆け出した。
つまり和人は、振り逃げに狙いを切り替えたのだ。
思惑通り、相手の捕手は球を弾いたらしい。一塁手はグラブを構えているが、球がくる気配がない。
和人は一塁ベースを駆け抜け、脚を緩めた。捕手は投げる構えを見せただけで、右手に球を握ったままだ。
振り逃げ成立。
記録は三振になるが、アウトカウントは増えない。
「副島くん、ナイス!」
と、宇田川の声が聞こえた。板橋ミニスターズのベンチからも激励が飛んでくる。今までいいようにやられていた紗智から出塁しただけでも御の字と言った感じだった。
「鏑矢ぁ! ちゃんと投げやがれ!」
と、怒鳴ったのは冨中である。
「うっさいなぁ。三振取れたんだからいいでしょ」
意に介することなく、紗智はマウンドを足で均していた。振り逃げされるのは織り込み済みだったようだ。
――さて、どうするか……。
もう一度盗塁を試みるかと考える。しかしベンチに目を向けると、橋高は帽子のつばに右手を触れていた。
動くな、のサインだ。さっきのピッチャーライナーが頭を過ったのだろう。下手に動くと相手の術中にはまってしまうと思ったらしかった。
仕方なく和人はリードを小さめに取って、マウンドに目を向けるだけにした。
試合が再開され、紗智は球を放った。
次の打者、宇田川は初球を引っかけてしまい、またしてもダブルプレーに打ち取られてしまった。
そして、七回裏。
『光龍デストロイヤーズ』は三安打放ち、一点を返した。だが、投手の牧野が最後の踏ん張りを見せ、逆転を許さなかった。
最終スコアは8―6。『常盤台ミニスターズ』の勝利だ。
「よーし」
と、牧野はグラブを叩いたプレイヤーたちにも安堵の表情が浮かんだ。
試合を終えるとすぐに片づけをし、和人は制服に着替え始めた。もうすぐ七時になろうとしていた。まだ時間に余裕があり、ゆっくり自転車を漕いでもホームルームには間に合いそうだ。
帰る準備ができると、乃仁斗を伴って板橋ミニスターズの選手たちに挨拶をした。勝利に貢献したとだけあってみんな笑顔で応じてくれた。
ところが牧野と橋高の姿が見えなかった。相手ベンチの方へ目を向けても二人の姿がない。それに冨中も席を外しているようだった。
「宇田川さん」
と、和人は声をかけた。
「どうしたのかな?」
試合のときとは違い、柔和な顔つきで応じる宇田川。
「先輩たちはどこへ行ったんですか?」
「ああ、冨中さんと込み入った話があるみたいでね。僕の方からよろしく言っておくよ。さ、これから学校だろう。早く行くといい」
「はあ」
どうも釈然としなかった。草野球の試合に複雑な事情が孕んでいるとは思えない。宇田川が二人を急いで帰そうとする意図がわからなかった。
深く突っ込んでも仕方ないと割り切り、宇田川に改めて挨拶をしたあと、球場を後にした。
「じゃあな、和人。俺はバスで学校に行くから」
「ああ。遅刻すんなよ」
和人は乃仁斗と別れ、駐輪場に足を向けた。鍵を外してからバッグを籠に入れ、自転車に跨ろうとした。
「おっす、おつかれ」
と、横から明るい声がした。
和人は右脚を浮かしたまま、首を回す。
「鏑矢」
和人は紗智の姿を認める。どこで着替えたのか、制服姿だった。
「にひぃ、どうしたの?」
「なにが?」
「わたしに見惚れてるじゃない。なになに、火照ったわたしを見て興奮しちゃった?」
紗智はどことなく悪そうな笑みを浮かべてからかってきた。
「……どんだけ自意識過剰なんだ、おまえ」
いつものノリが戻ってきた。こういう性格だからマウンドでもふてぶてしく振舞うんだな、と思ったりもする。
「ま、それはともかくさ。一緒に学校行かない? ちょっと話したいことがあるし」
「ああ、いいけど」
ちょうどいいと思った。和人も紗智に訊きたいことがある。
自転車を押したまま、二人は幹線道路沿いの道を歩いていた。出勤途中の自動車やツーリングのバイク、トラックやダンプが次々と車道を走って行く。歩道には友達と一緒に登校する児童や生徒、駅に向かう社会人が時おり二人とすれ違った。
「ふあーぁ」
信号待ちをしていたとき、紗智が大口を開けて欠伸をした。さすがに人目を気にしたのか、口を覆っている。
「鏑矢って、すごいピッチャーなんだな」
何とはなしに、和人は切り出した。
「あ、ん、まあね」
紗智は涙を浮かべて和人に顔を向ける。
「正直、打てる気がしなかった。どの球も球速以上のキレがあったし、いや、球速も女の投げる球とは思えなかったな」
言葉がまとまらないまま称賛した。
「そこらへんの連中相手に打たれるほど、ヘボじゃないよ。外野にフライを打たれたこともほとんどないし」
「ホントかよ?」
怪訝な声音で言うも、今日の試合で見せた投球内容だとそれほど不思議ではない気がした。
「なにぃ? 疑ってるの?」
紗智がいたずらっぽい笑みを浮かべて窺うように顔を近づける。
「べ、別に疑ってねえよ」
「ふーん、そっかそっか」
何に納得したかわからないが、紗智は頷く。
「なあ、鏑矢」
和人は気を取りなおして声をかけた。
「なに?」
「なんで、草野球の助っ人なんてやってるんだ? やっぱ、金か?」
「それもあるし、そうでもないっていうか」
紗智は前を向いて宙を見上げる。右手を顎に添えて考えるような仕草をすると、横目で和人に視線を向けて言葉を続けた。
「じつはわたし、野球部に入りたかったんだ。頭の固い高梨のアホデブが女は入れないって言い張ったもんだから諦めたの」
「……ちょっとは言葉を選べ。んで、仕方なしに草野球のアルバイトってわけか」
「ん、まあね。小遣い稼ぎには丁度良かったけど、どうも張り合いがなくてさ」
「張り合い?」
「草野球のレベルなんて大してことないし、抑えて当然だもん。だからさ」
と、紗智は言葉を区切ると、首を回して和人と向き直る。
「だから?」
「わたしはね、身体がヒリヒリして熱くなる勝負がしたいの。昔の栄光に縋って野球をやっているような奴らじゃなく、本気で練習をして、本気で試合に挑んでくるバッターをシャットアウトする。それがピッチャーの醍醐味ってもんでしょ」
「のわりには、盤外戦術みたいなこともするんだな。俺らを挑発してたろ」
バカにする意図はなかったが、思いもよらず軽口を叩いてしまう。
すると、紗智はうっすら胡乱げに目を細めて和人を見据えた。
「あんな挑発に乗る方が悪いんでしょ。別にルールを犯したわけじゃないし。球を放るだけが投手の役目じゃないっしょ」
「でもなぁ」
いまいち納得できない和人。
高校野球は建前上、教育の一環としても機能している。紗智が公式戦に出場してあの態度をとると、印象が悪くなるのは必至だ。あまりやり過ぎると何らかの処分を食らう恐れがあるかもしれないと和人は考えるのだ。
ただし、それらを差し引いても紗智の投球は目を見張るものがある。
――俺が目を光らせれば……。
なんとかなるかな、と腹を括った。
「ああもう。ごたごた言わないの。ちゃんと処分を食らわないように、絶妙なさじ加減でやっているんだからさ」
議論をする気はない、と言わんばかりに紗智はしっしと手を振った。
「鏑矢」
和人は口調を改めた。
「どうしたの? マジな感じになっちゃって」
紗智は心持ち身体を傾けて苦笑した。
和人はなぜか口が思うように動かなかった。紗智に交際を申し込むどころか、異性として好感を持っているわけでもない。ただ一人の野球人として認めているだけだ。
なのに、どうして言葉に詰まるのか。
その正体がはっきりつかめないまま、和人は深呼吸をして心を落ち着けた。
「野球部に、入ってくれないか」
ようやく言いたいことが言えると、和人は自然と頭を下げた。
紗智の声が聞こえてこない。ただ、車のエンジン音が轟くだけだった。
「にひぃ」
と、紗智の意地悪い笑い声が聞こえてくる。
「鏑矢?」
和人は頭を上げる。
すると、紗智の手が和人の手に伸びてきた。くしゃくしゃと音を立てて頭を撫でられ、紗智が視線の高さを合わせる。
「そっかそっか。そんなにわたしが欲しいのかい? なにしろあんたを三振に打ち取ったピッチャーだからね、わたし。そりゃあ、欲しがるのも当然だよ。ほらほら、もっと深ぁーく頭を下げたら考えてやってもいいよ」
異様にねちっこい口調で言いのける紗智。彼女の笑みが邪悪に映る。
さらに手に力を入れて和人の頭を下に押し込む。主従関係を強いるブラック企業の社長のように腹の虫をざわつかせる言動だった。
――この性悪が……。
和人は胸の内で呪詛を吐いた。なぜここまでしてこの女を野球部に入れてやらなければならない、と沸騰しそうな頭の中で思った。
技術は最高、性格は最悪。
和人は傍若無人な紗智をコントロールする自信を失いかけた。こんな目に遭ってまで紗智を入部させていいものなのだろうかと頭を悩ませた。
「ま、それはどうでもいいんだけどね」
と、紗智は手を離した。
和人はがばっと頭を上げ、歯をむき出しにして睨みつける。
だが、紗智はどこ吹く風とばかりに斜め上を見上げて顎に手を添えた。
「でさ、わたしを入部させるったってどうするのよ」
入部には前向きのようだ。目だけ動かして和人を見遣る。
「……俺が監督に頼みこむ」
爆発しそうな感情を必死に抑え、やっぱり紗智が必要だと胸の内で言い聞かせた。
「それだけじゃダメでしょ。ま、和人が必死こいて土下座をするんなら話は別だけど」
「おまえも頭を下げろ。野球部に入りたいんだろうが」
怒りをこらえたせいか喉に力が入り、嗄れ声になった。
「頭を下げるよりもね、もっといい方法があるってだけのこと」
と、紗智は口角を上げて企むような笑みを浮かべる。
「いい方法?」
「それはついてからのお楽しみぃ」
紗智の表情が一層怪しげに映った。
「変なこと考えているわけじゃないよな」
腹に一物を抱えているに違いないと思い、にわかに不安がよぎった。
「交渉には材料が必要だってこと。ほら、行くよ」
信号が青に変わると、紗智はさっとサドルに跨った。立ちこぎをしながらも淀みないペダリングを駆使し、通行人を大きく避けて車道の自転車レーンに進入した。
――材料ってなんだ?
どう考えても、嫌な予感しかしなかった。
和人もすぐに自転車に乗り、紗智の後を追って学校へ向かった。