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一騎打ち

「鏑矢ぁ! なに勝手なことしてんだ!」


 怒号を飛ばしたのは相手の捕手である。


 せっかく気持ちを固めて打席に立とうとしたのに、水を差された格好となってしまった。和人は張った肘を緩め、肩にバットを乗せた。


「心配ないって。一発食らうようなヘマはしないから」


 怒りもどこ吹く風というふうに紗智は平然と言ってのける。


「冨中さん」


 捕手はベンチに助けを求めた。監督の冨中が申告敬遠をしてしまえば、紗智の意思に関係なく和人は一塁に歩かされる。


 ところが、冨中は腕を組んだまま動こうとしない。なぜかうすら笑いを浮かべているだけだ。


「鏑矢」


 冨中が言う。


「なにさ?」


 紗智が怪訝な声音で答える。


「打たれたら、わかっているよな」


「わかってるって」


 紗智は面倒そうにしっしとグラブを振る。


 ――バイト代のことだな。


 さっき聞かされた話を思い出した。基本給五万、ワンアウト一万の契約で紗智はマウンドに立っている。もし失点でもすれば、ペナルティが発生するのだろう。


「和人」


 と、いきなり紗智が声をかけてきた。


「どうした?」


 和人は紗智に向き直る。


 彼女は球を真上にふわりと投げた。


「遠慮はいらないよ。さ、勝負しよ」


 落ちてきた球をパシッと小気味のいい音を立ててキャッチした。


「言われなくとも」


 相手の事情なんか知ったことじゃない、と和人は胸の内に言い聞かせ、紗智との勝負に集中力を向けた。


 和人は脚を開いて軽く膝を曲げ、軸の右脚に体重をかけた。バットは背中と九十度になるよう寝かせる。


 打席から紗智の投球を見るのは初めてだ。傍から見る限りだと多彩な球種を操り、打者を手玉に取るぐらいのイメージしかない。せめて2ストライクに追い込まれるまでに、紗智の投球術の正体を掴んでおきたいところだ。


 紗智が投球モーションを起こす。左脚を曲げて、球を握った右手がマウンドにつくほど沈んだ。


「しっ!」


 右腕をぶん回して球を放ってきた。女とは思えないほどのダイナミックな投球フォームだ。

 速度以上に球威があるストレートだった。しかも内角高め、コース一杯のところに放ってきた。


 和人は軽くバットを振ってカットした。バックネットに球が飛んでいった。


 ――なんちゅうやつだ。


 遠慮なく内角を抉ってくる紗智の度胸に感心さえ覚えた。


 審判から新しい球が紗智に投げ渡された。


 バットを構え、紗智の動作を備に観察しようと目を凝らせた。


 紗智は間を置かずに、モーションを起こした。和人に考える隙を与える気はないようだ。


 今度はカットボールに狙いを定める。今までの紗智の配球だと同じ球種を続けて投げることはないと推察した。


 問題はコースだ。一打席目で和人がホームランを打っているのを考えると外角には投げないのが普通だ。


 それでも、和人は外角に狙いを絞った。紗智なら和人の成功体験を逆手に取り、あえて外角に球を放ると考えたのだ。手元で変化する球を投げるなら、バットに引っ掛けてゴロを打たせることができる。


 紗智から球が放られた。


「なにっ」


 思わず声が漏れた。


 読みが完全に外れた。もう一度内角高めのストレートを放ってきたのだ。

 踏み込んでスイングをしようとした和人は、バットを止めて大きくのけ反って球をかわした。


「ストラーイク!」


 審判がコールする。


 和人は捕手に目を向けると、彼は後ろを振り向いていた。捕手にとっても紗智の球は予想外で捕球できなかったのだろう。ミットには球がなかった。


 これで2ストライク。追い込まれてしまった。


 紗智は球を受け取るとすぐにプレートを踏んだ。


 それに呼応するかのように和人はバットを構えた。


 そして、紗智が投球モーションに入る。


 ――あっ!


 なんでこのことに気づかなかったのか。紗智の脚の下から右手が見えた。球の握りが丸見えで何の球種が来るか簡単にわかる。


 紗智は人差し指と中指で球を挟んでいた。


 ――スプリットだ。


 和人は落ちてくる球に備え、左脚を上げた。


 ところが放たれた球は和人の予想とは違っていた。スプリットとは思えないほどの緩い球。おそらく100キロにも満たない球速だ。


「くっ!」


 完全にタイミングを外された和人はバットが出てしまった。


 紗智が投げたのはスローカーブだ。見逃せば高めに外れるボール球だが、振ったバットの勢いがなかなか止まらない。


 和人は全身に力を入れ、必死になってようやくバットを止めた。


「ボール!」


 審判の手は上がらなかった。和人のバットはハーフスイングすれすれのところで止まった。ちなみに捕手はまたしても捕球できずに後ろに逸らした。


「ふー」


 と和人は安堵のため息を吐く。


 ――まさか……。


 腕を振っている途中に握りを変えたのか、と和人は内心驚いていた。あの投球フォームでは握りが丸見えなのは本人もわかっていたのだ。


 ――バケモンか、こいつ。


 信じがたい技術だった。仮にできたとしても握りが甘くなり球がすっぽ抜けてしまうはずだ。


 しかし紗智の放った球はコースから外れたものの、打ち気を誘うには充分の威力を発揮した。その気になればストライクゾーンに放れたに違いない。


「やっぱ、簡単にはいかないみたいね」


 審判から球を受け取った紗智が言う。


「……俺がスプリットを狙っていたのをわかっていたな」


 試合中に話しかけるべきではない、と理性が訴えるも、どうしても訊きたくなってしまった。


「もちろん」


 それだけ言う紗智。すぐにプレートを踏む。


 ――こうなったら……。


 何も考えずに必死に食らいつくしかないと割り切った。悔しいが読み合いでは相手の方が上手だ。無心になってバットを振るしかこの手強い投手を攻略できない。


 それから二人の対決はすさまじい攻防を見せた。紗智は多種多様な球を放った。ストレート、カーブ、スプリット、カットボール、どれも上下左右のストライクゾーン一杯に投げられ、見送れない球ばかりだった。


 和人はなんとか食らいついてカットする。左脚を上げないノーステップ打法に切り替え、ファウルボールを連発する。


 一度高めのつり球に手を出しそうになるも、ギリギリでバットを止めボールカウントを勝ちとった。


 この打席だけですでに十球投げられた。和人は緊張のあまり、身体中から汗が噴き出て、動悸が止まらないほどに体力を使った。


 一方の紗智も、帽子を脱いで額の汗をアンダーシャツで拭って間を取った。


 カウントは二―二。依然として紗智が有利なのは変わらない。


 和人は大きく息を吐いた。それから、周りの音が一切耳に入らなくなった。いつしか、和人の集中力が極限まで高まったらしかった。


 目に映るのは紗智の姿だけ。


 フィールドを照らしている朝日が紗智の姿だけを浮かび上がらせているようにしか見えなかった。


「………」

「………」


 二人の視線が宙で絡み合った。


 紗智は顎を引いて、上目遣いで和人を見つめ、笑みを浮かべた。かわいいとか美しいというわけでもない。むしろ悪ぶって見えた。この状況を楽しみながらも、どうやって和人を仕留めるかと考えを巡らせているらしかった。


「次で、決めるよ」


 紗智は予告した。


 揺さぶりにかかったと和人は推測する。


「フェンスの奥にぶち込んでやる」


 和人は低いながらも強い口調で紗智の挑戦を受けて立った。


 後で紗智に聞いたところ、このときの和人も笑みを浮かべていたという。鏑矢紗智という凄い投手を相手に全力で挑める喜びが和人の胸を浸したようだ。


 紗智がプレートを踏み、すぐに投球モーションに入った。


「っらぁ!」


 気合の入った声とは裏腹に、緩い球を放ってきた。内角高めのストライクゾーンに決まりそうだ。


 球種をチェンジアップだと感じ、バットを振った。タイミングは合っているはず。


「なっ!」


 和人は自分の目を疑った。途中までチェンジアップの軌道を描いていたはずが、いきなり球が揺れ始めた。無回転で放られた球は、一瞬外角に曲がったかと思うと、すぐに内角低めに球が落ちてきた。


 そのとき、和人は球種の正体がはっきりとわかった。


 以前、紗智が教室で言っていたことがある。


 最近、爪が荒れちゃってさあ。


 紗智はこの球種を持ち球にしているせいで、爪が荒れるのだ。


 ――ナックルだっ!


 爪で球を弾き、無回転で放たれるナックルは、投げた本人でさえどう曲がるかわからないという。紗智は一か八か、この切り札を使ったのだ。


 信じがたい光景だった。ナックルは、ストレートやスライダーなどの一般的な球種とは違い、独特の感覚を要すると聞いたことがある。ナックルを投げてしまうと指先の感覚が変わってしまい、他の球種を投げるとコントロールが定まらなかったり、球威が落ちるなどの悪影響を及ぼすらしかった。だから、ナックルボーラーは必然的にナックル一辺倒にならざるを得ない事情があるという。


 それなのに、紗智はナックルを放ってきた。しかも不規則に揺れる完璧なナックルだ。彼女の異才ぶりがまた一つ和人の目に映ったのだ。


 バットが止まらない。


 和人はこの球に触れることすらできないと悟った。


 ――三振はくれてやるっ! だが!


 アウトはやらねえ、と狙いを切り替えた。


 和人のバットは空を切る。


 三振を取られたと確信した。


 しかし和人は、脇目も振らずに一塁へ全力で走り出した。


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