不可解な采配
四回裏、『光龍デストロイヤーズ』の猛攻が始まった。
『板橋ミニスターズ』の投手牧野の球威が明らかに落ちたからだ。
和人はどうにかして牧野をリードしようとしたが、コントロールが定まらない。変化球はストライクゾーンに収まらず、ストレートは甘いところに入って痛打される。それらの繰り返しだった。
四回裏を終えて、五対六。『光龍デストロイヤーズ』にリードを取られた。
牧野の部下たちはどう労っていいかわからないようで、おざなりの慰めを投げかけるだけだった。打たれた牧野は荒れた気持ちを隠そうともせず、ベンチにグラブを投げつけ、どかっと腰を下ろした。
「ん?」
と、ベンチに戻った乃仁斗がマウンドに目を向けていた。
「交代か?」
和人もマウンドに目を遣る。前の回までノーヒットだった紗智は一塁の守備についていた。
どう考えても腑に落ちない。好投を続けていた紗智をなぜそのまま投げさせないのだろうか。早くもスタミナが切れたのか、とも考えたが、キャッチボールをしている紗智からその気配は感じられず、むしろ不満げな表情を浮かべていた。
「なんとかなりそうだな」
乃仁斗が安堵の声を漏らす。彼も紗智が厄介な相手であると勘づいているようだ。
「ああ。鏑矢が投げないなら、なんとかなりそうだな」
投球練習をしている鼻ピアスのピッチャーは、これといった武器のない相手に見えた。紗智のような得体のしれない雰囲気が一切感じられない。
和人の予感通り、鼻ピアスは大したことなかった。
五回表、四番の牧野は打たれたお返しとばかりに二塁打を放った。
さらに橋高も続き、早くも点を取った。
その後、ワンアウト取られたものの、四球とヒットでもう一点入り、あっさり逆転した。
「監督ぅー」
満塁の場面になったところで、紗智がタイムをかけて監督の冨中に声をかけた。
「なんだ」
冨中は苛立ちを露わにしながら答える。
「交代ね。これ以上点やったらまずいでしょ」
「くそっ、仕方ねえ」
冨中は投手交代を告げ、再び紗智をマウンドに送り、鼻ピアスを一塁の守備につかせた。
「なにやってんだかなぁ」
敵の不可解な采配に呆れそうになる和人。初めから交代なんてしなければいいのに、と相手チームの選手たちに同情しそうになった。
とはいえ、再びマウンドに上がった紗智は、打者にゴロを打たせて6―4―3のダブルプレーに打ち取った。
紗智は喜びを露わにすることなく、不満げに顔をしかめてベンチに戻った。
五回裏では満塁のピンチに追い詰められたもの、なんとか点を取られることなくしのぎ切った。
そして六回表、敵がまた不可解な采配に打って出る。紗智を一塁に回し、またしても鼻ピアスがマウンドに上がる。
この回、先頭打者の乃仁斗がヒットを打ち、続く和人は敬遠気味の四球で塁に出た。
「おっす」
と、一塁で待っていた紗智に声をかけられる。
「なんでおまえが投げないんだ?」
和人はしっかりベースを踏んでから訊いた。
「さあね。ケチってるんじゃないの?」
「ケチってる?」
何を言いたいのかさっぱり理解できなかった。マウンドには紗智以外の内野陣が集まっていた。しばらくゲームが中断されるので、少し突っ込んだ話ができそうだ。
「わたしね、このチームの助っ人なの。んで、ギャラが支払われているってわけ」
「まさか、出来高払いか?」
「ご名答」
と紗智はグラブを叩いてわざとらしい称賛を送る。
「それぐらい想像つくっつうの。だから変な采配してるわけか」
「そう。基本給五万、ワンアウトにつき一万の約束」
「……マジかよ」
草野球の助っ人のアルバイトの話は耳にしたことはあるが、その金額は高すぎる気がした。紗智が取ったアウトの数は、たしか十一。すでに十六万稼いでいる計算になる。
「どうしても負けたくないからってんで呼ばれたんだけど、あのバカ監督、お金をケチって負けているんだから世話ないよ、ホント」
紗智は腕組みをしてため息を吐く。チームが負けているというよりもバイト代を稼げない恨み節が滲み出ている気がした。
「なあ、鏑矢」
ふと、和人は訊きたいことが頭に浮かんだ。
「なに?」
「それだけの実力があるのに、なんで高校で野球をやらないんだ? 女子でも受け入れてくれる学校はいくらでもあっただろ」
和人がそう言ったのは、常盤台高校野球部は女子選手の受け入れをしないと入学説明会で告げられ、学校のウェブサイトにもそのことが記載されているからだ。受験生のときにそれらのことを調べなかったはずがない。
詳しくは知らないが、先代の顧問は女子が男子に混ざって硬式野球をするのは危険であり、万が一事故が起きた場合の責任は誰にも取れないと言い張って女子の入部を認めなかった経緯があるらしい。
紗智ほどの実力があればどこかの野球部に入部できてもおかしくない。東京はもちろん、埼玉、千葉、神奈川と女子を受け入れてくれる野球部はあるはずだった。
「うーん、ふふ。いくつか強豪校のセレクションは受けたんだけどねぇ」
紗智はなぜか視線を逸らして苦笑する。
「おまえ、まさか問題起こしたんじゃないんだろうな」
「仕方ないじゃん。セレクション受けた奴ら、わたしを見くびるんだからさ。しかも無様に三振したくせにいちゃもんつけてくるし。それから売り言葉に買い言葉の口喧嘩。ホント、頭にボール当ててやろうかって思ったわ」
「……そりゃあ、落ちるわな」
心底納得した。普段の素行にマウンド上の振る舞い。実力があっても人間性に問題がある以上、強豪校が落とすのは当たり前だと思った。
一方で、紗智の投球術に関しては和人も一目を置かざるを得ない。
――もし、鏑矢がうちに入ってくれたら……。
今年もベスト8は夢ではない。それどころかもっと上を目指せる可能性だってありうる。
この女を御するのは並大抵の苦労では務まらないだろう。だが、それを差し引いても投手としての魅力が紗智にはあった。監督の高梨に紗智の投球を見てもらえば、彼の考えも変わり、女子の入部を許可してくれる可能性だってありうる。
「ふわーぁ」
紗智は大口を開けて欠伸をする。
「なあ、鏑矢」
和人は覚悟を決めて話しかけた。
「なに?」
うっすら涙目を浮かべる紗智。
「もしよかったら――」
と言ったところで、マウンドの円陣が解かれた。そろそろゲームが再開される。
「話ならまたあとでね」
紗智はゲームに集中し始めた。
打席に立つ宇田川が鋭い素振りをしている。前の打席でダブルプレーに倒れた汚名返上に燃えているようだ。
そして宇田川がヒットを打ったのを皮切りに、『常盤台ミニスターズ』の猛攻が始まる。単打と四球、進塁打の積み重ねで一挙三点を奪った。九番打者の伊山がゴロに打ち取られてようやく攻撃が終わった。
六回裏に、『光龍デストロイヤーズ』が一点を返すものの、『常盤台ミニスターズ』が一点リードのまま七回表を迎えた。
打順は先頭に戻り、乃仁斗の出番となった。
ここで、『光龍デストロイヤーズ』の監督冨中は後がないと感じたのか紗智をマウンドに送った。
「今度こそ、フェンスを越してやる」
と、息巻く乃仁斗。このまま紗智のいいようにやられる気はないようだ。
しかし、乃仁斗は初球の変化球に手を出してしまいセカンドゴロに倒れた。
「へえ、当てられたか」
紗智は三振に仕留める気だったらしく、納得のいかない声音で言った。
――やっぱり……。
手元で変化している。紗智はまるで打者がどのコースに手を出すのかを知っているかのように変化球を投げる。バットの芯を上手くかわし凡打に打ち取る術を持っているのだ。
「惜しかったな」
和人は引き上げてくる乃仁斗を慰める。
「芯でとらえたと思ったんだけどなぁ。上手いこと変化しやがる」
乃仁斗は信じられないというふうに横目で紗智に目を向ける。
和人も紗智を見遣った。
その気配に気づいたかのように、紗智はこっちに向き直った。例によって何度も球を上に浮かせている。そして不意に挑むような笑みを漏らして和人を見据えた。
――何を考えているんだ?
もう一度和人を敬遠し、ダブルプレーを取る気でいるのか、それとも……。
和人は軽く素振りをしてから右打席に入った。
「和人」
マウンドから紗智の声がした。
「なんだ?」
また何か企んでいるのかと勘繰る和人。
「この打席、敬遠はなし。真っ向勝負よ」
紗智は右手に掴んだ球で和人を指して宣言した。
今までの紗智からは想像もつかない仕草だった。なにしろ彼女の顔には陰りのない微笑が浮かんでいたからだ。
――わからねえなぁ。
策を弄するタイプかと思いきや、純粋に野球を楽しむ気持ちを持ち合わせている気がした。
紗智の本性が掴めないまま、和人は彼女と対峙することになった。
たとえ紗智が何を考えていようともこの打席、絶対塁に出てやると心に決めた。