早朝の草野球
早朝四時、和人は自転車に乗って区営の球場に向かった。
霞がかった幹線道路は交通量が少なく、たまに和人を追い越していく車がいる程度だった。明け方の空が白みを帯びて朝の訪れを告げようとしていた。
二十分ぐらい自転車を飛ばし、横道にそれる。片側一車線の道路を道なりに行くと、左側に球場の入口が見えてきた。
駐輪場に自転車を停め、フェンス越しにグラウンドを見る。すでに何人か集まっていて、ストレッチやキャッチボールを始めていた。
先輩たちを待たせてはいけないと思い、和人は足を速めてグラウンドに行こうとした。
「お、和人じゃん」
と、後ろから男の声がした。
和人は足を止めて振り向く。浅黒い肌に大きな瞳の男子高校生が立っている。
「よう、乃仁斗」
和人は手を上げて応える。
穂山乃仁斗はこの時代には珍しくない東南アジア系三世の日本人である。母親が世界で活躍できるようかつての偉大なボクサーにあやかって名付けたという。和人のチームメイトで右投左打の一番打者だ。俊足を生かし、常盤台高校をベスト8に導いた立役者の一人でもある。
「そうそう。こんなおっさんどもの草野球なんて練習にもならねえな。これなら朝練で走っていた方がマシだ」
乃仁斗はあまり乗り気ではないようだ。
「そんなこと言うな。お礼だと思ってつき合ってやれ」
「はいはい。ふわ、あーあ」
乃仁斗は大きな欠伸をする。
二人はグラウンドに入って三塁側のベンチへ足を向けた。今は相手チームの守備練習の時間らしく、OBのチームはベンチに座って談笑したり、隅でキャッチボールをしたりと思い思いの時間を過ごしている。
「なんか、すげえチーム名だな」
スコアボードに目を向けた乃仁斗が呆れ交じり言う。
和人もスコアボードに目を遣る。
なにしろ、和人と乃仁斗が入るチームの名前が『常盤台ミニスターズ』。大臣とは恐れ入ったという気持ちがわく。
そして相手は『光龍デストロイヤーズ』。もはや反社会勢力のチーム名にしか読み取れない。
「字面はカッコよくって感じなんだろ、きっと」
苦笑を交えつつおざなりな感想を漏らす和人。
「おお、来たか、高校生」
一塁側、常盤台ミニスターズのベンチから声がかかる。がっしりとした身体つきの男が手招きをしていた。
二人は駆け足でベンチに近づいた。
「おはようございます。橋高さん」
和人は深々と頭を下げた。
橋高暖心は若くして親の地盤を継いだ国会議員だからというのもある。若い和人はその肩書に敬意を覚え、必要以上に恭しくなってしまうのだ。
ちなみに暖心と書いて「はーと」と読む。初当選したとき、この名前のせいでバツの悪い思いをしたと聞いたことがある。
「おうおう。今日はよろしくな。えーっと、穂山くんはセンター、そして副島くんはキャッチャーだったな」
と、別の男の声がした。
頭を上げると、長髪に髭面の男が橋高の横に近づいているのが目に映る。実業家の牧野信だった。橋高とは同期で、大学在学中に起業し、やり手の実業家として注目を浴びている。この男も独特の名の持ち主で、信と書いて「とらすと」と読む。
橋高と牧野はかなりの野球好きでちょくちょく部下を引き連れて草野球を楽しんでいる。彼らを扱った特集記事には必ずそのことが書かれているぐらい有名な話だという。二人が直々にチームを率いているあたり相当な熱の入れようだ。
「牧野さん、橋高さん。色々と便宜を図っていただき、ありがとうございました」
和人は改めて礼を言う。乃仁斗も同調して頭を下げた。
「いいって、後輩たちが活躍してくれるように応援するのがOBの役目だよ」
と、橋高は議員らしくおおらかに振舞う。
和人と乃仁斗は挨拶もそこそこにユニフォームを受け取ってベンチの裏で着替えを始めた。
「なあ、和人」
乃仁斗が不安げな声をかけて来る。
「どうした?」
着替えを終えて、スパイクに穿き替えてから答えた。
「なんか、あっちのチームヤバくね?」
乃仁斗が控えめな仕草で指さした。
その先には『光龍デストロイヤーズ』の面々が空いてベンチの前で屯している光景が映る。
「あ、ああ。別に気にしなくてもいいんじゃないか」
和人も彼らの姿が気になっていた。黒地のユニフォームに金色のロゴ、ツーブロックの金髪、日サロで焼いたような肌にコーンロウの髪型、鼻ピアス、金のネックレス、日差しが強くないのにかけているサングラス等々、とても真っ当な連中の格好とは思えない。
極めつけは腕組みをしている監督らしき男である。人を刺すような眼光を放ち、首筋には刺青をのぞかせていた。選手に睨みを利かせながら作戦を告げているようだった。『光龍デストロイヤーズ』は議員と実業家のチームの相手としてはふさわしくない気がする。
「ま、そうだな。あんな格好してる堅気だっているもんな」
いきなり楽観的になる乃仁斗。この男、気持ちの切り替えが速いのだ。
ベンチに戻る途中、相手側のベンチにちょっとした違和感を覚えた。円陣を組んで作戦会議を開いているのに、選手の一人がベンチに座っていた。足を組んで背もたれに両肘を乗せて顔を見上げている。その顔には帽子が乗せてあった。周りの選手たちと比べて小柄に見える。
――態度でけぇなぁ。
と思ったが、さして気に留めずチームに合流した。
軽くウォーミングアップしたあとミーティングが始まった。『常盤台ミニスターズ』の選手たちの中には、高校や大学で野球を経験した人もいる。特に、三番を打つ宇田川は名門の清明大学野球部でクリーンナップを務めたほどの選手である。今では橋高の秘書を務めている。謹厳そうに髪を七三に分け、黒縁眼鏡をかけている姿からは往時の姿が想像できない。
ただ、そんな宇田川でも現役時と比べてかなり力が落ちているらしい。そこで橋高は、助っ人に来た和人と乃仁斗に期待をかけ、打順を組んだ。
乃仁斗を一番、和人を二番に据えた。その後に控える宇田川でランナーをホームに帰す考えだ。
「二人にはなるべく多くの打席に入ってもらいたい。いわゆる、最強打者二番説と言うやつだな。穂山くんに出塁してもらって、副島くんに打ってもらい、チャンスメイク。そして三番の宇田川でランナーをホームに帰す。もちろんホームランを打ってもいいぞ」
得意げに語る橋高だが、ライトな野球ファンでも知っている戦略である。選手たちは特に異論を唱えることなく首肯した。
ざっくりと相手チームの監督やメンバーについて聞いたあと簡単にサインの確認をし、ミーティングが終わった。
それから特に整列することもなく、試合が始まった。これも草野球特有の緩さらしい。
「じゃあ、行ってくるよ」
一番打者の乃仁斗は軽く素振りをしてから左打席に向かう。
和人はネクストバッターズサークルでバットを構えた。相手投手の投げるタイミングを計っておきたいので打席に立ったつもりで素振りをするつもりだった。
相手の投手を見遣る。がっしりとした長身で、黒目の小さい男だった。
「プレイ!」
と審判が高らかに宣言すると、乃仁斗が左打席に入った。
「ソウタぁ、しっかり押さえろよ」
空いてベンチから声が飛ぶ。投手の名前らしい。
ソウタはベンチの声を無視するかのように両手を大きく振りかぶった。
一球目、高めに浮いたストレートを乃仁斗が見逃す。
――大したことないな。
と和人は見て取った。ソウタは全身の力をフルに使って球を放ったが、せいぜい130キロを超える程度の球速だ。『光龍デストロイヤーズ』には名門野球部に在籍していた選手が多いと聞いたが、思いのほか力が落ちているらしかった。
二球目、またストレートだった。
乃仁斗はバットを振った。金属の甲高い打球音がグラウンドに鳴り響く。鋭いゴロが二塁手の横をすり抜けた。
「よーし、いいぞ!」
牧野が声を飛ばす。『常盤台ミニスターズ』のベンチからも拍手と歓声が沸いた。
「へへん、こんなもんよ」
乃仁斗が一塁ベースの上で、手を上げた。
「くそっ!」
ソウタは憎々しげに顔を歪める。
それらの様子を一通り眺めてから、和人は二回素振りをして右打席に入った。
「なめられたもんだなぁ、おい」
相手捕手の声が聞こえた。和人の持つ木製バットに気づいたのだ。
和人は捕手を無視してバットを構えた。両膝を軽く曲げて右脚に体重をかける。バットは右肩に乗せ、背中と九十度になるよう寝かせた。
視線の先にいるソウタは眉根をひそめ怒りの色を露わにした。
「ふざけんじゃねえぞ、ガキが」
「おいおい、ソウタぁ。バカにされていんぞ」
「バットへし折ってやれよ」
「ぎゃはは、いっそのことぶつけてやれよ」
語彙力のない野次が相手ベンチから飛んでくる。脅しのニュアンスも含んでいるらしい。
――チンピラかよ。
和人は呆れていた。ヤジを浴びるのは珍しいことではないが、ここまで下品なものは経験がない。
と思っていると、ソウタが投球モーションに入った。和人はバットを肩から浮かせつつ左脚を上げてタイミングを計る。
が、ソウタの放った球は、和人の眼前を襲って来た。
打者を威嚇するブラッシュボールだ。
和人はのけ反ってそれをかわす。
「おいおい、ビビっちまったかぁ」
また相手ベンチからヤジが飛ぶ。それに呼応して嘲笑も湧いた。
和人はその声に構わず、バットを構え直した。ソウタの表情にはニヤケ面が浮かんでいた。
――となると、次の球は……。
和人は配球を予測した。
ソウタが首を縦に振り投球モーションに入った。ランナーがいるのにも関わらず、大きく振りかぶった。
放られた球は緩いカーブだった。しかも外角に放たれている。
だが、和人はこれを読んでいた。
――ブラッシュボールの後には、アウトコース。ありふれた配球だ。
胸の内でつぶやき、和人は球目がけてフルスイングをした。
木製バットの乾いた音がグラウンドに響く。
十分な手ごたえを感じ、和人はバットを捨てて一塁へゆっくり走りだす。
打球はセンターの頭上に高々と上がった。全員が打球の行方を見守る中、和人はゆうゆうと一塁ベースを回る。
「ホームラン!」
審判が頭の上で右手を回した。
味方ベンチが湧きたつ中、和人はあまり喜びが湧かなかった。強豪校のOBだからと聞いていたせいか拍子抜けした気がした。大したことの無い投手からホームランを打っても、何の勲章にもならないと感じている。
ホームベースを踏んでベンチに帰ると、みんなからハイタッチを求められた。
「さすが和人だな」
乃仁斗は和人よりもうれしそうに見えた。
「ああ、うまくいったよ」
和人は祝福を受けてから、相手ベンチに目を向けた。険悪な雰囲気の漂う中、平然と脚を組んでいる選手がいた。ミーティングに参加していなかった小柄な選手だ。帽子を目深にかぶっていた。顔つきはわからないが、口元には笑みが浮かんでいる気がした。
――なんだ? あいつ。
味方が打たれているのにもかかわらず、この状況を楽しんでいるようにしか見えなかった。
一種の不気味な感覚を味わいつつ、ベンチで試合の行方を見守った。