昼休み
四時限目、二-Bの教室では数学の授業の真っ最中だった。数式をビジョンに映しだし、生徒たちが各々板書を取る。この時代では旧来型の紙のノートに書き写す生徒もいれば、手っ取り早くタブレットやスマホで撮影する生徒もいる。
常盤台高校は進学率が高いとはいえ、特別な授業を行っているわけではない。二年生までは教科書通りの基本問題を徹底的にこなし、三年生からの受験対策に力を入れていた。旧態依然の退屈なスタイルとも言えるが、これで進学実績を挙げてきたのだからあながち間違いとも言い切れないようだ。
和人は教師の目を盗んで傍用問題集の基本問題に取り組んでいた。すぐに復習して解き方をマスターしておきたかったのだ。それに加え、数学は毎時限必ず宿題が出される。早いうちに理解を深めておくことで宿題を解くスピードが上がり、自宅学習の時間を効率よく使えると考えている。
数学教師の木本の指導は厳しい。明日からゴールデンウィークということもあって基本問題はおろか、今までの範囲内で解ける大学受験の問題も用意してくると睨んでいた。理解を速めておくに越したことはない。
問題を解いている最中、こめかみに何かが当たった。気づくとノートの上に、丸まった紙が置かれてある。たぶん手紙だろう。スマートフォンにメッセージを送っても無視されると思ったらしかった。
和人はちらと横を見た。紗智が頬杖をついて笑顔でこちらを見つめている。邪魔されて少しイラついたものの、声を出すわけにはいかない。
しょうことなしに和人は丸まった紙をそっと開いた。
〈個人練習の件だけどさ、和人はどんな練習してんの?〉
と書かれてある。ホームルーム前に訊きそびれたのを思い出したらしい。
授業中なので無視しようと思ったが、紗智の視線がうとましかった。返答しないと何をするかわかったものではない。
〈素振りに筋トレ、たまに優奈に手伝ってもらってキャッチングの練習〉
殴り書きをし、紙を丸めてノールックで紗智に投げた。
問題に目を戻し、手を動かして解答を再開する。
しかし、またしても紙が机の上に投げられた。
今度は一回り大きい。
開いてみると、白紙の紙一枚とメモがある。
〈詳しく教えて〉
とだけ書かれている。白紙の紙に書いてほしいらしい。
〈後にしろ。昼休みに教えてやるから〉
和人はそう書いて、紗智に投げ渡す。
そんな和人の反応を読んでいたかのように、紗智はすぐに返答してきた。
〈ひまなんだもん。教えてくれたっていいじゃん〉
と、わがままなことが書かれてある。
――無視だ。
和人はそう心に決め問題演習に取り組んだ。
紗智がこちらを見つめているのには気づいていたが、それに構わず問題を解く。と、ようやく諦めたのか紗智が正面に顔を向けたのが横目に映った。
ようやく諦めてくれてほっとした。
だが、甘かった。
「ごわっ!」
教壇に目を移そうとしたとき、和人の横顔に衝撃が走った。
なにが起きたか一瞬わからなかった。反射的に紗智の方へ目を遣ると、彼女はこちらを見ながら右腕を下ろしていた。
床に目を移すと、紗智の鞄が落ちていた。
周りの生徒たちからざわめきが起きる。紗智が和人に鞄を投げつけたのを目撃した生徒が何人もいるらしかった。
「どうした?」
と、数学教師の木本が睨みつけてくる。柔道部の顧問も務めている大柄のいかつい男である。常に迫力のある眼光を携えているので生徒たちから畏怖の念を持たれていた。
「すみませーん。副島くんにわからないところを聞いてたんですぅ」
と、紗智は猫を被って甘ったるい声を出した。
「今は授業中だ。質問があるなら授業が終わったらいくらでも俺が聞いてやる」
「はーい、すみませーん」
紗智は大人しく引き下がる。
ざわめきが収まり、授業が再開された。
和人は紗智に怒りの視線を浴びせるも、彼女はツンと取り澄まして舌を出した。
授業が終わるとすぐに和人は紗智を呼び寄せて廊下に出た。
「なにしてくれてんだ、おまえ」
和人は声のトーンを抑えて言った。下手に怒鳴ると衆目を集めかねないぐらいの理性は残っている。
「和人が無視するからいけないんでしょ。メモ書いて渡すぐらいのことできないの?」
「TPOっつうもんをわきまえろ。授業中にやることじゃねえだろうが。鞄投げつけやがって」
和人は首筋を押さえる。
「おお、どうしたぁ? 痴話喧嘩か?」
と、二人に声をかけてきたのは乃仁斗だった。隣には佑もいる。
和人は二人に事の経緯を話す。
「そりゃあ、和人が悪いんじゃね?」
佑が冗談っぽい口調で言った。
「なんでそうなるんだよ?」
まったく理解できない和人。
「授業中に問題やってるぐらいだし、それぐらいの余裕あるだろ」
乃仁斗も紗智の側につく。
「にっひっひ」
紗智がいたずらっぽい笑みを浮かべる。
和人の味方は誰もいなかった。
「さて、学食行こうぜ。混んじまうよ」
佑はみんなを誘って学食へ行こうとする。常盤台高校は公立にしては珍しく学食がある。
――こいつら……。
胸の内に恨み節を吐きつつ、学食へ行く三人の背中を睨む。乱暴な足取りで和人は後に続いた。
一階にある学食は大学のそれと見まごう施設だった。壁際には自動販売機が数台並び、全校生徒が座れるだけの席が用意されている。和洋中の多彩なメニューがあり、味付けも生徒から評判が良い。ただし、大勢の生徒の食事を供さなければならない関係上、麺類や白飯を除いて業務用の冷凍食品を使用している。その代わり提供スピードが速いので生徒たちからありがたられていた。
和人は生姜焼き定食を頼み、ご飯を大盛りにしてもらった。あらかじめとっておいた窓際の席に定食を置いてから自動販売機で紙パックの緑茶を購入。遅れて乃仁斗、佑、紗智が到着した。
「佑、相変わらずよく食うよな」
乃仁斗は佑の隣に腰を下ろして言った。
「食わなきゃ体力持たねえからな。その分、きっちり動いてやるさ」
機嫌良さそうに言う佑のメニューは、唐揚げ定食に醤油ラーメンである。アスリートの食事には適さないが、和人はあえて何も言わない。食事トレーニングという方法もあるが、強引にたくさん食べさせてたり、逆に徹底管理されたメニューしか口にしないとなると精神的苦痛を引き起こし、却って練習や試合、場合によっては日常生活で悪影響を及ぼすかもしれないと考えているからだ。せめて日々の食事ぐらいはストレスなく楽しみながら食べさせたいと思っているのもある。食ったぶん運動し、足りない栄養素はサプリメントで補えば良いと考えている。
ところが紗智は身を乗り出して佑のメニューを眺め出した。明らかに眉根をひそめている。
「なんだよ?」
佑は不機嫌そうに言った。
「ねえ佑、体脂肪率はいくつ?」
紗智は真面目な口調で訊いた。
「え、ええと。いくつだっけな? 最近計ってないし」
佑は助けを求めるように乃仁斗に顔を向けた。
「俺が知るかよ」
乃仁斗がスプーンに手を伸ばし食べようとする。彼のメニューは大盛りカレーである。
「わたしが見たところ、二十五は超えているんじゃない?」
紗智は確信ありげに言い切る。
「紗智、あんまりうるさく言うなよ。飯ぐらい好きに食わせてやれ」
和人が窘める。
「ううん。別に食べるなって言わないよ。わたしも堅苦しいことは嫌いだしね」
紗智は背もたれに寄りかかる。
「なら良いじゃねえか。いちいち文句言うなよ」
佑は口を尖らせる。箸に手を伸ばして麺をすくった。
「鏑矢だってけっこう食うじゃないか」
と、乃仁斗は口を動かしながらスプーンで紗智の手前を指す。
サラダチキン、パスタという女の子らしいメニューだが、それぞれ二皿と量が多かった。
「あれじゃね? 鏑矢、胸が小さいから育てようとしてんだろうぜ」
佑が箸で唐揚げをつかんでから言った。
「たしかに。脚と腕ばかり太くなって胸が小っちゃいままだったら男にモテないもんな」
「おまけにあれだけ練習すりゃあケツだってでかくなるぞ」
「ははは、そうそう」
と、時代錯誤のエロオヤジのように好き勝手会話を繰り広げる佑と乃仁斗。
「ほう」
紗智の顔に微笑が浮かぶ。だが、顔にはうっすら影が刷かれている。
「さて、食うか」
場の空気を察した和人は、生姜焼きを口に運んだ。紗智が怒るのは当然なので、二人には制裁を食らうべきだと思えてくる。
――擁護する気はねえけど……。
と、和人は茶碗を持ちながらちらと紗智の胸元を見遣る。トレーニングを積んでいるわりにはある方だと思った。むしろそこらへんの女子よりも豊かで形がいいとさえ見えた。
「乃仁斗はちょっと痩せっぽちでパワーが足りなさそうだし、佑はその逆かぁ」
紗智は背中を丸めてテーブルに両肘をつく。
「体質なんだよ、俺は。どれだけ食っても太らねえし」
乃仁斗が言う。
「おまえの体質、女子たちが羨ましがってたぜ。な、鏑矢もそうだろ」
佑はからかい混じりのニヤけ面を浮かべる。
「わたしさ、いいトレーニング知ってるんだけど、放課後試す気ある?」
紗智は両手を組んでニコッと笑う。
その提案を聞いて、二人はお互いに顔を見合わせた。
「やってみたらいいだろ。紗智があれだけの球を投げられるのはトレーニングのおかげでもあるし、上手くなると思うぞ」
和人はちょっとした悪意を秘めて勧めた。
「そ、そうか」
「まあ、和人が言うならな」
二人は多少の疑念はありつつも受け入れる気でいるようだ。
「にひぃ。じゃあ、放課後を楽しみにしててね。特に佑はそれだけ食べてるんだし、やりがいはあると思うわよ」
紗智の笑みに悪意が滲んでいた。
だが、和人は何も言う気はなかった。
――セクハラしたおまえらが悪いんだからな。
言い訳を胸の内に吐いた。いくら紗智相手でも言っていいことを悪いことがある。
そして間違いなく紗智はトレーニングにかこつけて仕返しを企んでいるはずだ。ただし、内容によっては将来的に二人のためになる可能性もある。
ちょっとばかりの厳しい教育もアリだなと都合よく考えるのだった。




