他愛のない話
朝練の終了前、クールダウンとして遅いペースのランニングをこなしたあと、部室に足を向けた。
入口の脇で、紗智が制汗スプレーを首筋にかけていた。女子らしく汗のにおいが気になるようだ。すでに制服に着替え終えている。
「おつかれ」
と、声をかけて部室に入る。紗智が何か言ったようだが、耳に入らなかった。
朝練を終えた部員たちが雑談をしながら着替えをしていた。使い捨てのボディータオルで汗を拭き取ったり、鏡の前で髪型を整えていたりしている。常盤台高校はあまり身だしなみに厳しくないせいか、年ごろの男子らしくカッコつけたい生徒もいる。野球部とて例外ではなかった。
「こら、もうホームルームが始まるぞ」
と、高梨が監督部屋から出てきて、注意をする。
「はい」
「すみません」
「すぐ行きます」
部員たちは苦笑を浮かべながら返答する。
和人も手早く着替えて、部員たちと一緒に部室を出た。
「和人」
と、紗智が声をかけてきた。
「なんだ、待ってたのか?」
「まあね。じゃ、行こ」
紗智がくるっと背を向けて校舎に向かう。
和人も後に続こうとしたとき、視線を浴びたのに気づいた。部員たちに目を遣ると、彼らは足を止めたまま動こうせず、和人に目を向けていた。
「どうしたんだ?」
和人はそう訊くも、部員たちは乃仁斗を筆頭に頬が緩んでいた。
「いやあ、俺らちょっと用事があるから先に行っててくれよ」
佑が笑いを交えて言う。他の部員たちも頷く。
――こいつら……。
部員たちの意図はすぐに読めた。紗智を和人に押し付けて二人きりにさせる気だった。
「用事っつってもそろそろホームルームが始まるぞ」
呆れつつ促す和人。
「いいからいいから。鏑矢と先に行ってろよ」
佑も乗っかってくる。
「和人ぉー、行くよ」
と、紗智の声が耳を打つ。
怪訝な心持が晴れないまま、和人は紗智の後を追った。
二人はグラウンドのフェンス沿いを歩き、校舎に向けて歩いた。ふとグラウンドに目を向けると、サッカー部や陸上部の生徒たちはすでに朝練を終えたらしく、誰もいなかった。柔らかな朝日がグラウンドに降り注ぎ、そよ風が頬を撫でて過ぎ去る。部活にいそしんでいる風景とのギャップのせいか、だだっ広いだけの砂地が広がる有様に胸の奥が血を引いたようなさみしさを覚えた。
特に何も話すことなく校舎に入る二人。エントランスホールのベンチで何人かの生徒が雑談を交わしていた。明日からゴールデンウィークということもあって、どこかで遊ぶ計画を立てたり、アルバイトをしたり、予備校の集中講座を受講するといった話が聞こえてくる。
上履きに履き替えてエントランスホール東側の廊下に入り、奥の階段に足を向けた。二年生の教室は三階にある。
「そういえばさ」
と、紗智がいきなり口を開いて言葉を続ける。
「ゴールデンウィークの予定ってどうなってるの?」
「さあな。監督は何試合か練習試合を組むって言ってたけど」
そろそろ予定が決まってもおかしくないなと思った。高梨が去年の実績からしていろいろな学校が練習試合を組んでくれるはずだと嘯いていたのを思い出す。
「ふうん。ならさ、どっか強いところと試合できんの?」
「たぶん無理だな。ああいうところって地方の強豪と練習試合するために遠征したりするからな。たしか加賀学園と東仙学院、それに二本柳もそうだったな」
和人は同じ東東京地区の強豪校の名前を挙げる。
「でもさ、うちって去年のベスト8でしょ。さすがに加賀学園は無理でも東仙学院ならいけそうじゃない?」
どうやら紗智の中では加賀学園の評価が高く、東仙学院を低く見ているようだ。
「ま、監督次第だな。今日の放課後にでも聞いてみるか」
和人は話を切り上げようとする。これ以上話しても益のあることではない気がした。
「和人は、どこかに伝手はないの?」
「伝手?」
意外なことを聞いてつい足を止めてしまった。
紗智も二、三歩進んだところで足を止めて振り向く。
「そう。和人ならなんかあるでしょ」
「たかが都立の高校生にそんなもんあるか。仮にあったとしても生徒同士でなんとかできる話じゃないだろ」
「ふーん。ま、そうだよね」
紗智は軽い調子で答え、教室へ足を向ける。
――なんだってんだよ、いったい。
和人は紗智が何を考えているのか読めなかった。紗智はなんでもないふうな素振りを見せたが、和人の胸の奥を覗いてきた気がしたのだ。
――考えすぎか。
紗智がどう考えていようと関係ないと、もたげた疑問を打ち消して紗智の後を追った。
階段を三階まで登り、生徒たちが屯する廊下を通過して二―Bの教室についた。和人はドアを開けて中に入り、同級生たちと軽く挨拶をしようとしたとき、なぜかどよめきが起きた。
「めずらし。鏑矢が時間通りに来てら」
誰かが囁くような声をあげると。教室内がざわつき始めた。
和人はその反応に構うことなく自分の席につこうとした。
「よう、和人。ゴールデンウィークどうすんの?」
友也の席を通り過ぎようとしたとき、彼が声をかけてきた。他のクラスメイトと一緒に雑談している最中だった。
和人は輪の中に加わる。
「部活だよ。たぶんどっかの高校と練習試合」
「一生懸命だよなぁ。今年こそ甲子園か?」
バスケ部の長身、小上一心が感心したように言う。去年ベスト8の実績は和人が思っているよりも幅を利かせているらしかった。
「そんな簡単な話じゃない。強豪校にはプロ志望の連中がゴロゴロいるんだからな。そいつらに一矢報いるだけでも大変だよ」
和人は苦笑を交えて大げさに言った。
「そうかぁ。和人がいれば勝てるって誰かが言ってたぞ」
と、科学部の野島光夫が言う。
「俺一人頑張っても意味はないって。ま、他の奴らも結構頑張っているし大会までには格好はつけられるかな。で、おまえらはゴールデンウィークどうすんだよ。どっか遊びにでも行くのか?」
「ああ、俺も部活。近くの公立と練習試合」
と、友也。
「俺は部活と勉強。今から勉強しておかないと受験に間に合わなくてさ」
一心が気取って腕を組む。
「頑張るなぁ。どこ受けるんだ?」
和人が訊く。
「聞いて驚くなよ。東大だ」
「マジで?」
一斉に声をあげる和人たち。
「どうせなら上を目指すのも悪くないだろ」
「おまえの成績じゃ無理だって、せめて学年五位以内に入ってから言えよ」
光夫が茶化す。
「いいだろ。目指すのは自由なんだし、今から頑張れば行けるかもしれないだろ」
一心は途端に口を尖らせた。
「野島はどうすんだ? ゴールデンウィーク」
和人が訊く。
「家族総出で親父の実家。そこで勉強しながらゆっくり過ごすよ」
「親父さんの実家ってどこにあるんだ?」
友也が訊く。
「静岡の浜松」
「じゃあよ、お土産頼むわ」
と、一心がせがむ。
「浜松ってうなぎだよな。小っちゃいやつでいいから買ってきてくれよ」
友也も乗っかる。
「あんな高いもん買えないよ。パイで我慢して」
お土産を買う気でいるあたり、光夫の人の良さがうかがえる。
そんな他愛のない話をしていたとき、チャイムが鳴った。
和人は一言断ってから自分の席についた。隣にはすでに紗智が座っている。
「楽しそうじゃん」
紗智が何気ないふうに言う。
「普通だよ」
和人は平然と返す。
教室の中には話し声がそこかしこから聞こえてくる。職員会議が長引いているのか、担任の怜美がまだ来ないのだ。
「和人」
紗智は暇を持て余したらしく声をかけてきた。
「なんだよ」
「和人ってさ、個人練習やれてんの?」
紗智は両肘を机の上に乗せて妙に真剣な眼差しを送ってくる。
「やれるだけのことはやってるさ。紗智、おまえそのことで監督と揉めてたろ」
朝練中に、紗智と高梨が口論していたのを思い出す。
「まあね。高梨の奴、全然動かないくせに偉そうにしてさ。練習の手伝いぐらいしろっての」
紗智は手のひらを顎に乗せて悪態を吐く。
「ま、そのことは俺からも言っておくよ。トスや練習の補助ぐらいはしてもらうようにな。で、紗智は大希の面倒を見てたのか?」
朝練で大希の姿が見えなかったので聞いてみた。
「まあね。あの小僧、わりと根性はあるみたい。みっちりしごいたから、今ごろ教室でぐったりしてんじゃないかしら」
紗智がいたずらっぽい笑みを浮かべる。大希の成長を喜んでいるというよりは、美人局呼ばわりした恨みを晴らしてすっきりしているように映った。
「少しは考えろよ。大希がぶっ壊れたら紗智が大会で連投しなきゃならないんだからな」
「わかってるって。故障しないギリギリのラインを攻めているし、あとはピッチングの改善も必要ね」
紗智なりに大希の育成プランを練っているらしかった。
――そういや……。
あの投球技術といい、トレーニング知識といい、紗智はどこでそれを培ったのだろうかと疑問が湧いた。
高校に入ってからはもちろん、中学時代でも紗智の噂は一切聞かなかった。あの性格だから監督から教育上の観点から干されていたとも考えられる。しかし、女子があれだけの球を投げられるのなら、評判が立ってもおかしくないはずだった。
「紗智」
和人は疑問をぶつけてみる気になった。
「ん?」
「草野球やる前、どこで野球やってたんだ?」
と、和人は聞いた。
「硬式のシニアチーム。でも、監督と揉めちゃったせいで、試合になかなか出られなくてさ。だからほとんどチームの練習に行かないで自主練してたってわけ」
「……予想通りだな、おい」
意外な事実を期待した自分がバカみたいだと思った。
「なんの話よ」
「べつに。態度を改めた方がいいってだけの話だ。公式戦であんなことしてちゃお偉いさんたちに目をつけられるぞ。心証悪くしたら不利な裁定を受けかねないんだからな」
「心配しなくていいって。あとさ――」
紗智が言葉を続けようとしたとき、教室のドアの開く音がした。
「遅れてごめんねー。さ、出席って、あら」
怜美が教壇に上るや否や、紗智の姿を認めて意外そうに見つめた。
「ああ、先生。おはよ」
紗智は左ひじを突いたまま右手を上げた。
「ふうん。高梨先生に任せて正解だったわけね」
ほっとした様子を見せる怜美。どうやら職員会議で高梨が紗智の入部を取り付けてくれたようだ。
――たぶん、生活態度を改めるためってところだろうな。
なんとなく察しはつく。まさか賭け試合の件で脅されたとは言うまい。紗智の態度の悪さが入部に結びつくのは皮肉な話だと思い、和人は苦笑いの一つでもしたくなった。
状況が掴めない生徒たちからどよめきが聞こえる。
「まあーねぇ。わたしなりに先生の健康に気を遣ったつもりだよ」
「なんのこと?」
「先生さ。最近太ったでしょ。酒の飲み過ぎか、脂っこいものを食べているのかわからないけど、お腹のぜい肉がついちゃってさ。で、血圧も絶賛上昇中。だからわたしも先生を怒らせちゃいけないと思ってね。だって心臓が破裂してぽっくり逝っちゃったら責任とれないもん、わたし」
「鏑矢さん……」
怜美が教壇から降りて紗智の元に歩み寄る。眼鏡の奥に見える目から射貫くような光を放っていた。
「なに? わたし変なこと言った?」
「あなたって人はデリカシーってものがないの!? 同じ女性なんだから体型のこと言われたら傷つくって思わないのかしらね」
怜美は紗智の前に立つと机に両手をつけて迫った。
「ああ、図星だったんだ。ごめんごめん、適当なこと言ったら当たっちゃったみたい。よかったらさ、ダイエット計画立ててあげようか?」
紗智は悪びれた様子もなく言う。うっすら笑みを浮かべているあたり、最初からからかう気満々だったらしい。
「やかましい! 遅刻癖が治ったと思ったら減らず口は相変わらずかぁ!」
ホームルームそっちのけで怜美の長い説教が始まった。それに対して紗智はいなすに違いない。
――無視しよ。
面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ、と和人は外に顔を向けて、二人の言い合いから目を逸らした。ぎゃあぎゃあ喚く声が耳を打っても一切顔を向けず、流れる雲をじっと見つめていた。




