朝練の前
午前六時、カーテンの隙間から漏れる朝日が顔に投げかけてくる。
目覚まし時計が鳴るまえに起きた。昨日の疲れがまだ抜けきっていないらしく、紗がかかったように頭がはっきりしなかった。
怠け心が頭をもたげてきて二度寝の誘惑に襲われそうになるも、重い身体を起こした。目覚ましのアラームを解除し、カーテンを開ける。日の光が一気に部屋に降り注ぎ、和人の目が一瞬眩んだ。
制服に着替え、肩掛けカバンを手に取る。練習用具は部室に置きっぱなしにしてあるのでその点は楽だった。
部屋を出てリビングに足を運んだ。優奈はまだ寝ているらしく物音ひとつしない。その代わり、冷蔵庫の中にラップで包んだおにぎりが二個置いてある。優奈特製の大型おにぎりで、塩コショウで焼いた鶏肉が入っている。昨日の夜、作っておいたおものだ。
優奈の気遣いに感謝しつつおにぎりをカバンに入れてから、リビングのゴミ袋を縛った。今日は燃えるゴミの日なので昨日あらかじめまとめておいたものだ。ゴミ出しをしてからもう一度家に戻り、洗面所で顔を洗い、寝癖を直した。
すべての支度を終えて家を出た。ガレージから自転車を出し、学校へ向けて漕ぎだした。ゆっくり自転車を進め、路地を抜け出た。首都高に沿った幹線道路の自転車レーンで一気にスピードを上げた。途中の信号で左折し都道に進入する。この時間帯はまだ道路が空いていた。和人は遠慮なく無酸素運動をするつもりでペダルを漕いだ。途中、赤信号に引っかかり足を休める。信号が青に変わるとまた懸命に漕ぎだした。
少ない時間の中でなるべく負荷をかけたトレーニングがしたいと考え、毎朝全力で自転車を漕ぐことにしている。効果のほどは定かではないが、これをやらないと一日が始まった気がせず、野球部に入部して以来ずっと続けていた。
都道から路地に入るところでスピードを緩める。しばらくゆっくり自転車を進めるとフェンスが見えてきた。その奥には常盤台高校のグラウンドがある。
校門に回り、駐輪場に自転車を停めてまっすぐ部室へ向かった。
グラウンドではすでにサッカー部が活動を開始していた。何人かの部員がゆっくり走っている。そのうちに一人がコースから外れてこちらに向かってきた。
「よう、和人」
と、声をかけたのは同じクラスの岡部友也である。
「おう。一生懸命だな」
和人は右手を上げて応えた。
「そいつはお互いさまだろ。和人が教えてくれた筋トレのおかげで足が速くなったし、身体も軽くなってよ。おかげで今年はいけそうだ」
「ふーん。役に立ってよかったよ」
和人は軽い口調で言った。
以前、友也がサッカーに役立つトレーニングはないかと訊いてきたことがある。野球とサッカーでは使う筋肉が違うため、役に立つかわからないと断ったが、友也がどうしても教えてほしいと食い下がった。ネットでは情報が氾濫しており、取捨選択に困った末での相談だった。
そこで和人はハムストリングス、つまり腿の裏を鍛えたらどうだと助言したのだ。地を蹴る力が増し、足が速くなると付け加え、とりあえずそれに決め打ってトレーニングしたらいいと後押ししたのだ。
――この程度の知識もないのか……。
と、当時の和人は呆れたのだが、サッカー部の顧問は競技経験がなく、専門的なトレーニング知識に乏しかったので、その点は仕方ないのかもしれない。
「でよ、さっきおまえの彼女が野球部の部室に行ってたぞ」
「彼女? 誰のことだよ」
「あれ? おまえ、鏑矢とつき合ってんじゃねえの?」
「バカ言うな。あいつが一方的にちょっかいかけてくるだけだっつーの」
「はーん。おまえら仲良さそうだからなぁ。てっきりつき合ってんのかと思ったよ」
「あいつの性格を知ってつき合いたいなんていう奴、いると思うか?」
和人は真面目な口調で言った。
「ま、確かになぁ。あの性格はちょいときついか。でもよ、鏑矢って顔はめっちゃいいじゃん。けっこう人気があるみたいだぜ」
「いやいや、いくら顔は良くても性格面で思いっきりマイナスだ。昨日だってうちの一年と揉めたし、大変だったんだぞ」
「ん? 鏑矢のやつ、マネージャーにでもなったか?」
「プレイヤーだよ。どうしても野球やりたいっていうから監督に頼みこんで許可してもらったんだ」
和人はちょっぴり嘘を吐いた。さすがに紗智が高梨を脅したことを話すわけにはいかない。
「ふーん。そうか、そうだよなぁ」
友也は何かに納得したかのように和人の肩に手を置いてうんうん頷いた。
「なんだよ?」
「なんでも。せっかく入ったんだし、仲良くやれってこと」
と、友也は口角を上げて目を細めた。
「おまえねぇ」
反論する気が失せる和人。色恋の勘違いを解くほど難しいことはない。この場で何を言っても曲解されてしまうと予測できるので、言葉が出てこないのだ。
「おーい、友也。やるぞー」
と、遠くからサッカー部員の声がした。
「はーい。じゃあ和人、またあとでな」
「ああ。がんばれよ」
和人がそう言うと、友也は背を向けて部員たちのところへ走って行った。
――つき合ってると思われてたのか……。
友也の冗談だとはわかっていても、そう見られてもおかしくない雰囲気を和人と紗智は醸していたのかもしれない。同じクラスになってから何かと紗智が話しかけて来ては、和人も無視することなく会話していた。和人本人は素っ気なく接していたつもりでも周りはそうは思ってくれないようだ。現に紗智に構われているせいで担任の怜音や同級生たちからほぼ同類だと思われている有様だ。
――なんとかしないとなぁ。
周囲の勘違いを解きたかったのだが、具体策が思い浮かばない。無視したらしたで、紗智がまた変なちょっかいをかけてくるかもしれない。
ましてやバッテリーを組む仲だ。無下に扱うことはできない。紗智がへそを曲げてしまうと、サイン通りに投げてくれない恐れがある。普段から適度な距離を取りつつ、コミュニケーションを取っておきたいのだが、紗智の性格上それも難しい気がした。
あれこれ考えているうちに、部室の近くまで来た。ドアノブに手を伸ばそうとしたとき、中から声が聞こえてきた。
「……け。さっさと」
くぐもった声が耳に届く。何をしゃべっているのかよく聞き取れない。なにやら紗智が揉めているようだ。
嫌な予感が芽生え、和人はドアを開けようとした。
「のわぁっ!」
いきなりドアが開き、和人はさっと横によけた。
中からつんのめるように人が出てくる。脚の踏ん張りが利かず地面に倒れてしまった。
「鏑矢のやつ……あいたた」
宏次朗だった。恨み節を吐きつつ立ち上がろうとした。
「大丈夫ですか?」
和人は手を貸して宏次朗を起こした。
と、中からまたしても人が飛び出てきた。
今度はよけきれず和人とぶつかってしまった。
「あ、すいません」
あやまったのはマービンだ。
「マービン、どうしたん――うわぁー!」
次々と部室から部員たちが出てきた。和人は人波に押しつぶされそうになりながら足に力を入れて受け止めた。が、さすがに一人の力では無理だった。和人は押し負けて地面に尻餅をついてしまう。
「和人さぁーん」
と、虎次が泣きそうな声を上げた。
「なにがあったんだ?」
和人はのそっと立ち上がりながら訊く。
部員たちを見回すとみんな着替えの途中だったらしく、上半身裸だったり、パンツ一丁の姿だったりしている。
「いや、いきなり鏑矢が入ってきてよ」
「それで僕らに出て行けって」
「しかも、バーベルで俺たちを押し付けてさ」
「無茶苦茶っすよ、ほんと」
口々にあった出来事を言う部員たち。
「ああ、なるほど。みんなが着替えている途中に、紗智が入ってきて追い出したと」
簡単に予想できた。
「俺たちの着替えが済むまで外で待ってればいいじゃねえか。なんで追い出されにゃならんのだ」
三年生の副主将、丞三郎が文句をたれる。目が小さくごく平均的な風貌で印象に残りにくいが、バントが上手く、きわどい球をカットしてファウルを打つといった小技に長けていた。
和人はため息を吐いてドアを見遣ると、いつの間にか閉まっていた。さすがに着替え中の部員を追い出すのはやり過ぎだと思った。和人は立ち上がってドアをノックした。
「紗智、着替えは済んだか?」
「まぁーだだよ」
かくれんぼのような言い方で応える紗智。
「和人、何とかしろよ」
後ろから佑の声がした。
「そうっすよ。和人さんの嫁じゃないですか」
虎次が笑いながら軽口を叩く。
と、和人はばっと振り向いて虎次の姿を目で捉えると、早足で近づいた。虎次の肩に手をポンと置いて顔を引き攣らせた、
「虎次、言っていいことと悪いことがあるだろ。あの性悪が誰の嫁だって?」
「あ、あは、あはははは。すみま、せん」
虎次は右手を後ろ頭に当てて乾いた声を上げた。
「和人、目が怖いぞ」
とツッコむ佑。
「それはともかく、鏑矢を連れてきたのは和人なんだから、ちゃんと面倒見てくれ。あいつのペースに合わせていたら俺たちの調子がくるってしまう」
宏次朗が言う。
「わかりましたよ。ちゃんと言い聞かせますから」
とはいえ、和人にはその自信がない。今まで担任の怜美や和人がいくら言っても態度を改めることはなかった。今さら自分がモラルやマナーを説いたとしても矯正することができるのだろうかと、頭を悩ませる。
部員たちがガヤガヤいう中、ドアの開く音がし、Tシャツとハーフパンツ姿の紗智が出てきた。
「紗智、ちょっとこい」
和人は手招きをした。
「なによ?」
と言いながらも素直に近づく紗智。
「おまえ優先で物事が動いているわけじゃねえんだ。せめてみんなが着替え終わるまで外で待っていればよかっただろ」
「しょうがないじゃん。女子更衣室がないんだし、早く着替えて練習したいしさ。だいたいこいつら、着替えに何分かけてんのよ」
と、紗智は部員たちに目を向ける。
「いや、まあそうなんだけどな。でも練習開始までまだ時間あるし、急かすわけにもいかなしなぁ」
宏次朗は紗智の言い分にも一理あると思ったようだ。
「でも、鏑矢さん。なんで校舎の更衣室使わないんすか? 体育の授業で使うでしょ」
虎次がもっともな意見を出す。
「あそこ朝は閉まってて使えないんだよ」
代わりに乃仁斗が答えた。
「でもどうします? いつまでもこんな感じじゃ不便っすよ」
マービンが訊いた。
「そうだなぁ……。ん?」
和人は何気なく首を振って考えると、遠くで誰かが走っている姿が目に入った。石灰を引いただけの簡素な陸上トラックで何人かの女子生徒が練習しているらしい。
「陸上部って女子更衣室あったっけ?」
と、和人は訊いた。
「うわぁ、和人ったらスケベ。盗撮でもする気でしょ。警察に通報してやらなきゃ」
紗智が胡乱げな目つきで和人を見る。
「たくましい妄想駆使して、冤罪おっかぶせようすんな。そうじゃなく、しばらくのあいだ、紗智に使わせてもらえないか頼みこんでみようと思っただけだ」
「なるほどな。そいつはいい案かもな」
佑が感心めいた口調で言う。
「じゃあ、俺が交渉してくるよ」
と、宏次朗は主将らしく率先して行動する。彼は着替えを終えているので、動いても問題ない。
「お願いします」
和人は紗智に目配せをして礼を言うよう促す。
「まったく、最初からそうしてよね。気が利かないんだから」
「……おまえ、いつか痛い目に遭うぞ」
意図とは違う言葉を言わせた気がして、和人はため息を吐きたくなった。
女子選手の受け入れは容易ではないと、改めて感じた。いつまでも陸上部に間借りするわけにはいかないので、どうにかして野球部の女子更衣室を造らねばならない。
部費が限られているのはもちろん、部員たちが勝手に増築するわけにはいかない。ましてや、そんな知識や道具など持ち合わせているはずもない。
とりあえず先送りにするしかない。空いている時間に少しずつ話を詰めて女子更衣室問題を解決しなければならなかった。
「そもそも、わたしを受け入れるんだから配慮して当然でしょ。だいたい、今どきどこの野球部でも女子更衣室ぐらい――」
紗智がつらつらと文句を連ねているが、途中から耳に入らなくなった。
――早くなんとかしねえと、うるさくてかなわねえや。
とは思いつつ、紗智の言い分にも一理あるのでなにも言い返せない和人であった。




