お互いの話
食事の後片付けをしたあと、三人はリビングで勉強していた。
一番熱心なのは優奈である。来年、和人と同じ常盤台高校を受験する予定だ。マイペースな性格ながらも、やることはきちんとやるタイプである。教科書の英文を繰り返し音読したあと、塾の教材を使って英作文の問題をこなす。わからないところがあれば和人に訊いてきた。
和人も優奈と紗智に教えつつ宿題をこなし、自主的に数学の傍用問題集に取り組んだ。和人は数学が得意なこともあって基本問題、標準問題とそつなくこなした。より理解を深めるために解説を読み込み、解法の要点をチェックする。
次に英語の復習に取りかかる。今日の授業ではいいところがなかったので、やり直しの意味も込めたつもりだ。辞書と文法書で間違えたところを修正し、正しい知識を頭に叩き込む。
一通り終えたところで和人は気が緩んだ。ふぅとため息を吐き、紗智に目を向ける。耳にイヤホンをつけて、音楽を聴きながら勉強しているようだ。
――そろそろ帰すか。
気が散っても仕方ないと思ってあえて紗智を放置しておいた。数学の宿題はとっくに終わっており、すでに時計の針が十時近くを示していた。さすがにこれ以上帰りが遅くなるのはまずい気がした。
「紗智」
と、和人は声をかけた。
紗智は声が聞こえたらしく、右耳のイヤホンを外して和人を見遣る。
「なに?」
「帰ったらどうだ? もうこんな時間だぞ」
「もうちょっと待って。今、いいところだから」
紗智はイヤホンを耳に差し、机に広げた教科書に目を戻す。
――ん?
その姿に違和感を覚えた。紗智は教科書に視線を落としているが、字面を追っている感じがない。どことなく視線が定まらず、内容を理解しながら読み込んでいないようだ。
と、和人は紗智のイヤホンから漏れてくる音声が耳に届いた。
音楽ではなく、人々の歓声だった。
和人は何も言わずに紗智の耳からイヤホンを引き抜き、自分の耳に差した。
《……ここで八神監督、投手交代です。神戸パンテオンズとしてはこれ以上の連敗を避けたい場面でしょう。さて、延長十二回裏、北海道カムイウルブズの攻撃、二アウトランナー二塁――》
「……おい」
和人はイヤホンを外し、紗智を見据えて言う。
「いやぁ、二人ともあまりにも熱心だからさ。野球中継見せてなんて言えないでしょ」
紗智は苦笑して後ろ頭を掻く。
「さっちゃん、女の子が人前で頭掻かないの」
優奈が場違いなツッコミを入れる。
「少しは勉強に身を入れろ。試合は見逃し配信で観ればいいだろ」
「だって、気になるじゃん。スポーツはリアルタイム観戦が基本なんだし、ニュースで結果を知るなんて味気ないっしょ」
「優先順位っつうものを少しは考えろ。まったく、来月のテスト、本っ当に大丈夫なんだろうな?」
「へーきだって。わたしが苦手なのは数学だけだし、他はバッチリ――ってちょっと待った」
紗智は右手を突き出してラジオ中継に耳を傾ける。
数十秒間、リビングに沈黙が流れた。
「おお、カムイウルブズがサヨナラ勝ち。えーっと町井の失投を見逃さずに、宇山がフェン直のサヨナラヒットだって」
紗智は目を輝かせて結果を伝える。
「おお、やったー」
優奈が両手をあげる。
「なっちゃん、カムイウルブズのファンなの?」
「うん。お母さんが北海道出身だし、その影響で」
「おー、そっかそっか」
「いえーい」
「イエーイ」
紗智と優奈がハイタッチを交わす。
――なんなんだろうなぁ。
釘を刺すつもりがすっかりペースを崩されてしまった。これ以上言っても効果がなさそうで、ため息を吐きたくなった。
「とにかく、明日も朝練あるんだから、もう帰って早く寝ろ」
おざなりな語調で諭したあと、にわかに眠気が襲ってきて欠伸が出てしまった。朝早く起きて草野球、授業、部活動と忙しい一日だった。ここに来て疲れが一気に押し寄せてきたようだ。
「うっさいなぁ。わかってるっての」
紗智が口をとがらせて言うと、勉強道具を鞄の中にしまい始めた。ファスナーを閉めたあと彼女は人目をはばからず大口を開けて欠伸をした。
「お兄ちゃん」
と、優奈が声をかけて来る。
「ん?」
「さっちゃん、送ってあげたら? こんな時間だし、あぶないよ」
「そうだなぁ」
和人は腕を組んで、ちらと時計を見た。すでに十時を回っている。
――こいつが普通の女子だったらの話だ。
正直なところ、面倒だった。容姿に優れた紗智を連れていると頭の弱い輩に絡まれる恐れがある。下手したら警察沙汰のトラブルに巻き込まれる可能性もありそうだ。
だが、紗智である。女子離れした身体能力がある。二、三人に囲まれる程度なら相手を手痛い目に遭わせて上手く逃げおおせるかもしれないと思った。
――それなら……。
別に紗智を一人で帰しても問題ない、と都合よく考えるのだった。
「ちょっと」
と、紗智が背伸びをして和人に顔を寄せた。
「なんだよ」
「今、変なこと考えたでしょ」
「変なこと?」
うっとうしさを隠さずに訊く和人。
「わたしが襲われるのを想像してたんでしょ。なにしろわたしって理想的な女性アスリートの身体してるし、肌もつやつやで胸もお尻も形良いからね。暴漢にひん剥かれて下着姿になったのを想像して興奮したんでしょ」
「……おまえのたくましい想像力には舌を巻くよ。将来芸人にでもなったらどうだ?」
見当違いの妄想をぶつけられて身体の力が抜けた。思わず猫背になってしまう。
そんな和人の様子にかまわず、紗智はニヤニヤ笑っている。
「お兄ちゃん、それを言うなら芸人じゃなくて作家」
どうでもいいツッコミを入れる優奈。
「そんなことはどうでもいいから、さっさと送って」
紗智は鞄を肩にかけて、さっさとリビングの出口に足を向けた。
「お兄ちゃん。行ってあげないと」
優奈がさっと背後に近づいて、和人の背中を押す。
「わかったわかった。押すなよ、もう」
なんとなく押し切られた形となってしまい、結局紗智を送る羽目になってしまった。
◇◆◇
曲がりくねった路地を照らす街灯がさみしげな灯と民家から漏れる部屋の灯がさみしげにアスファルトを照らすだけの狭い路地だ。建物の合間を縫うように首都高が見え、それに向けた歩を進めれば幹線道路に突き当たる。
東京の空はどこも狭いな、と父親が言っていたのを思い出す。父親は山形のさる中都市出身で、そこでは繁華街でも背の高い建物は少なく、どこでも開けた空が見えるらしかった。和人も小さいころに連れて行ってもらったので、手あかのついた表現でも共感できる。生まれも育ちも東京の和人には地方の風景が新鮮に感じたのを思い出す。
妙な感傷が湧いたのは、さっきから紗智が一言も話さずに自転車を押していたせいかもしれない。彼女はまっすぐ前を見ながら口角を上げて、どこか楽しそうに歩を進めている。
――なにが嬉しいんだかなぁ。
ただこうして歩いているだけなのに、笑みを浮かべているのが理解できなかった。他人の家でたっぷり晩飯を食べ、宿題を終えてほっとしている感じでもない。
――デートってガラじゃないよな。
と思ったとき、すぐに心の中で首を横に振った。仮に紗智が和人に好意があったとしても、とてもつき合い切れない。四六時中振り回されるだろうと予想するだけで疲れがたまってしまいそうだ。恋愛感情はお互いにないと考えた方が良さそうな気がする。
平然を装ったまま路地を進んでいく。この辺の地理に明るくない紗智を誘導して角を何度も曲がった。
すれ違う赤ら顔の社会人が恨めし気に二人を一瞥すると、ちっと舌打ちをした。夜遅くに高校生カップルがしけこんでいると勘違いしているようだった。
「感じ悪いなぁ、あのオッサン」
と、紗智が毒づく。
「気にすんな。こんな時間に高校生が歩いているんだ。正義面したい奴だっているもんだ」
和人は意に介さない。
「ねえ」
と、紗智の口調が変化する。
「ん?」
「和人の親って何やってる人?」
「唐突だな。気になるのか?」
「ん、まあなんとなく。なっちゃんってさ、スポーツやってる感じしなかったし」
「ああ、優奈は吹部。両親の影響で音楽に興味を持ったんだよ。親父はスタジオミュージシャンのサックス奏者だし、お袋はプロの楽団でラッパ吹いてるよ」
「マジ?」
紗智は心底驚いたらしく、声を張り上げた。
「みんなそういう反応するよ。俺だけが野球やってんのかって」
「和人は音楽やらなかったの?」
「あんまり興味持てなかったんだよ。小学生の時まで野球やりながらピアノも習ってたけど、音楽の方はモノにはならなかったな」
「ふうん。なんだか音楽家一家って、みんな音楽しかやらないイメージがあるけどね」
「そりゃあ偏見だな。親父は、子どもが親と同じことする必要ないっつって野球に専念させてくれたんだ。親父も中学までは野球やってたって言うし、筋は悪くなかったんだけど、それ以上に音楽にのめり込んだっていう感じだな。お袋も賛成してくれたし、時どき仕事の合間を縫って応援に来てくれたしな」
「そっか。いい親だね」
紗智の声音が柔和に聞こえた。
ちらと彼女を見遣ると、力のなく微笑んでいた。
いつものふてぶてしさが鳴りを潜めている感があった。
「なあ」
「ん?」
「紗智の両親って、どんな人なんだ?」
何とはなしに訊いた。こっちの家庭事情を話したのだから、訊いても差し支えない気がした。
「あー、わたし、母子家庭なんだ」
「あ……、悪い」
和人は視線を外し、顔を俯けた。デリケートな問題に触れてしまい、自分の無神経さを呪いそうになった。
「うちのお父さん、あちこちで女を作ってさ。んで、お母さんにわたしを押し付けて他の女のところに行ったってわけ」
重い話のはずだが、紗智の口調は明るい。
和人は横目で紗智を一瞥した。複雑な家庭事情が絡んでいても、すでに彼女の中では済んだことと割り切っているのかもしれない。ただ得意げに話す姿には彼女が弱味を糊塗しつつ振舞っているような気もする。
「悪かったな。変なこと聞いて」
「なあにぃ。和人、心配してくれてるの?」
紗智はにやけ面を寄せて見上げてくる。
「そんなんじゃねえよ。ただ、野球やるにも金が要るだろ。母子家庭って生活大変だって言うだろ。だから……」
その先の言葉が出なかった。紗智は平気そうな顔をしていても、複雑な家庭事情がちらと見え、どんな言葉も紗智の心を引っ掻いてしまうのではないか。男子選手と対等に渡り合うほどの精神力を持つ紗智にだって、触れられたくない事情があるだろう、と和人は慮るのだった。
「それは大丈夫。お母さん、わりかし稼いでいるし、慰謝料も振り込まれているから」
紗智は指で輪を作った。口角を上げていたずらっぽく笑う
「そうか」
としか、和人は言えなかった。
紗智は気にすることないというふうに前を向いた。
けたたましいバイクのエンジン音が轟いた。気づけば、路地の出口に差し掛かるところだ。上に見える首都高から深夜のドライブで爆走する車の音が聞こえてくる。下の幹線道路には一台も車が走っていないのに、エンジン音だけが耳に届くものだから、つい横を向いて車が来ていないかを確認してしまう。生まれてから何度もこの道を歩いているはずなのに、未だに慣れないのが不思議だった。
「じゃあ、ありがとね」
と、紗智は自転車に跨った。
「もういいのか?」
「うん。ここまでくれば十分。朝練って何時から?」
「七時から」
「りょーかい。和人、遅刻しないでね」
「おまえに言われたくねえよ」
と、和人は苦笑い交じりに言い返す。
「にひぃ」
紗智は和人の反応が面白かったのか、笑みを見せる。
それからさっと自転車を漕ぎだして車道に出るとあっという間に紗智の姿が小さくなった。
――わからねえなぁ。
和人は紗智が一瞬見せたさみしげな微笑が頭から離れなかった。気ままな彼女でも脆い部分があるらしく、気を遣わなければならないところもあるようだ。
――ま、少しずつ、わかっていけばいいか。
考えても無意味だと思ったとき、また欠伸が出た。早く帰ってシャワーでも浴びよう。
和人は踵を返し、来た道を戻った。




