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 眠気をこらえながら授業を受けていた。英語のリスニングではいくつかの単語を聞き逃して意味がわからなくなり、ライティングではスペルミスをしてしまい、教師から冷笑されてしまう。体育のサッカーでは何度もゴールを外し、しまいには古文の授業ではウトウトしてしまう有様だった。和人は今日一日完全に集中力を欠いていた。


 それでもやんわりと注意される程度だった。和人の成績が良好だからである。


 都立常盤台高校は区内の高校を統廃合して設立された学校である。三十十年ほど前までは進学率も低く、生徒の素行不良が目立つなど評判のいい学校ではなかった。しかしながら当時の教職員たちの努力の甲斐もあって、生徒の素行が大幅に改善し、毎年国立大学に数十人も合格するレベルにまで進学率も向上した。


 今の教職員もさらなる発展を目指して生徒の学力向上に力を入れていた。そのせいか、勉強のできる生徒には甘い傾向がある。分け隔てなく指導するのは担任の通山怜美ぐらいだった。


 今では性質の良い生徒が入学するようになって多少校則が緩くなった。とはいえ、不真面目に授業を受けていいわけではない。早朝の草野球のせいにはできず、和人はバツの悪い思いをしながら一日を過ごした。


 ただ、気がそぞろになっているのは、自分のせいだけでもない。隣に座っている紗智にずっと気を取られていたからだ。


 なにしろ紗智は毎時限居眠りをかましていた。和人が恥をかいているときも両腕を枕がわりに気持ちよさそうに寝ていた。その度に教師から怒声が飛び、和人が起こしていた。紗智は悪びれた様子もなく教師の説教をいなしては時間を持て余しているかのように何度も欠伸をした。


 ようやく帰りのホームルームを終え、掃除当番をこなしてから紗智を伴って部室へ向かった。


「ふあーあ、よく寝たぁ」


 今日一日を怠惰に過ごした紗智はすっきりした表情で伸びをする。


「寝たじゃねえだろ。まったく、先生に怒られてばっかじゃねえか」


「うっさいなぁ。テストで点とればいいんだし、細かいこと気にしなくていいでしょ」


「どこが細かいんだ。せいぜい赤点には気をつけろよ」


 口論をするのも馬鹿馬鹿しくなり、和人は強引に話題を打ち切った。


 靴を履き替えてグラウンドに出た。運動部が一緒くたに活動する共用のグラウンドである。ただし面積が広く、お互いの活動の邪魔にならないように造られている。二十三区内にある都立高校らしからぬ広さだった。常盤台高校が新設される際、運よく都が管理する土地が空いており、せっかくだから広い造りの学校にしようと計画が立てられ、建設されたという。


 そのおかげで、ホームランを打ったとしてもサッカー部や陸上部のスペースに球が転がることがない。しかも敷き詰められている砂は水捌けがよく、砂埃があまり立たない優れモノだ。


 野球部の部室はバックネット裏に建てられてある。OBの寄付と部費の積み立てにより数年前に建てられたものだ。ロッカールーム兼トレーニングルームにミーティングルーム、さらに監督部屋まである。都立高校にして贅沢な設備だ。


 折よく、入口から乃仁斗が部員と談笑しながら出てきた。


「よう。遅かったな」


 乃仁斗は軽い口調で言う。


「掃除当番。かったるくてしょうがない」


 と軽口をたたく和人。


「あれ? 鏑矢?」


 ここで紗智に気づく乃仁斗。


「ああ、わたし、今日から野球部に入ることにしたから。よろしく」


 紗智が手を上げて挨拶をする。


「ちょっと待て、和人」


 と、乃仁斗が腕を和人の肩に回して顔を近づける。


「なんだよ」


 思わず小声になる和人。


「マジで言ってるのか? うちの部、女子は入部禁止だろ」


 乃仁斗も小声で訊いた。


「ま、監督に頼んでみるよ。鏑矢の実力、おまえも認めているだろ」


「そりゃあそうだけどなぁ」


 乃仁斗は納得いかない様子。


「で、監督はいるのか?」


「ああ、監督部屋にいるよ」


「じゃあ、行ってくる」


 和人は乃仁斗の腕から抜け出て、紗智を部室へ案内する。


 監督部屋のドアの前で和人はノックをした。


「監督、副島です。お時間よろしいでしょうか?」


 和人は慇懃な口調で言う。


「おお、入れ」


 ドア越しに野太い声が聞こえた。


「失礼します」


 と声を出し、部屋の中に入る。


 壁際には野球に関する書籍やスコアブックなどが収められてある本棚があり、グラウンドに面した壁には窓が嵌められ、そこからバックネット越しに練習風景を眺められる。窓の前には椅子と机が並んでおり、隅の机には撮影用のタブレットが充電してあった。


 顧問の高梨秀太は回転椅子に腰掛けていた。体育教師なのに固太りした巨体の持ち主である。頬が膨れているせいで目が糸のように細くなっているが、パワーだけならほとんどの部員よりも上だ。社会人野球を経験したというが、その面影は微塵も感じられない。引退後に教員採用試験に合格し、あちこちの都立高校に赴任している間に不摂生な生活を続けてしまったという。三年前に母校である常盤台高校に着任し、去年弱小校をベスト8に導いたことで一部の野球関係者からひそかに注目を浴びている、と本人が自慢していた。


 高梨は椅子をくるっと回して二人と向き合った。


「おお、和人。草野球は勝てたようだな」


 高梨の声が腹に響く。


「ええ、何とか勝てました」


「謙遜するな。ホームランを二本打ったそうじゃないか。牧野さんと橋高さんも喜んでいたぞ」


 がははと笑い声をあげる高梨。


「それよりも監督、お願いがあります」


 和人は神妙な口調で言うと、隣にいる紗智を横目で見た。


「なんだ?」


 高梨は上体を屈めて膝に肘をついた。


「この鏑矢を野球部に入れてくれませんか」


 和人は高梨をじっと見据える。


「ほう、鏑矢か。ちょっと素行が良くないという噂が耳に入っているが」


 高梨の声音に変化はない。ぎしっと音を立てて椅子に座り直す。教師たちが情報を共有するぐらい紗智の素行は知れ渡っているようだった。


「女子が入部できないのはわかっています。しかし、鏑矢はすごいピッチャーです。東京、いや全国でもあれだけ投げられるピッチャーはいません。もし、鏑矢が入ればベスト4、いや、甲子園出場も夢ではありません」


「…………」


「現に俺も、三振に打ち取られました。彼女の巧みな投球術にしてやられたんです」


 和人は紗智の実力をアピールするため、振り逃げで出塁したことは隠した。


「ダメだ。入部は認められない」


 高梨はぴしゃりと言い切った。


「ですが、監督」


「和人、おまえもわかっているだろう。女子では男子のプレーについて行けないとな。先代の監督のとき、女子選手の顔に打球が当たり、骨折する事故があってな」


 高梨は機先を制するかのように語り始めた。


 その女子選手は中学までは攻守に優れた二塁手で、男子顔負けのプレイヤーだったが、強豪校の入部を断られて常盤台高校に進学したという。彼女はその屈辱をバネに試合で強豪校を破り周囲を見返そうと必死に努力を重ねた。当時の顧問も彼女のプレーに目を細めたらしい。


 だが、ある日の練習試合で、事故が起きた。


 相手打者の打ったライナーが顔に当たってしまったのだ。しかも当たりどころが良くなかったらしく、頬骨を骨折する大怪我だったという。


 当時の顧問は女子選手の限界を悟った。たとえ中学までは通用しても女子では成長の伸びしろが少ない。あのライナーでも男子なら反応できる。それができないということは彼女はここまでの選手だったと悟らざるを得なかった。


 この事故をきっかけに、女子選手の受け入れをやめるという判断を下した。野球部や学校側としても万が一のことがあっては責任の取りようがなかったからだ。


 しばしの間、監督部屋に沈黙が流れる。窓から部員たちの話し声が聞こえてくるだけだった。


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