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四月のある日

 野球部の朝練をこなし、グラウンドの整備を終えてから校舎に入った。


 ホームルームまであと少しだというのに、何人もの生徒が廊下で友達と喋っている。男子たちは流行りの漫画の話や下ネタ交じりのバカ話をし、女子たちはスマホをのぞき込み、イケメンアイドルが歌っている姿を観て高い声をあげる。


 副島(そえじま)和人(かずと)は彼らの話に耳を傾けることなく、二年B組の教室に入った。前の席に座る女子たちに軽く挨拶をしてから窓際にある自分の席につく。


 二十一世紀末になっても、教室の風景は大して変わっていない。せいぜい黒板が大型ディスプレイになった程度だ。事前に教師が用意した資料を画面に映すため、板書の手間が省けて効率な授業を展開できる。


 クラスメイトと話す時間もなくチャイムが鳴った。生徒たちは気怠そうに自分の席について担任の登場を待つ。


 ふと、和人は隣の席をちらと見遣った。まだその席の主は到着していない。


 またか、と思ったとき、教室のドアが開いた。担任の通山(とおりやま)怜美(れみ)がつかつかと足音を立てて教壇に立つ。


「はーい、みなさんおはよう」


 と陽気な声で怜美が挨拶をする。三十過ぎとは思えない若々しい声音だった。眼鏡越しに見える柔和な目つきと、すらりとした身体つきのせいか、一部の生徒から人気がある。


「おはようございます」


 とみんなが声を揃えて挨拶を返す。


「それじゃあ、ホームルームを始めるわね。まず――」


 いきなり前のドアが無造作に開けられ、怜美の言葉が遮られた。


 廊下から女子生徒が入ってきた。ブラウスの第一ボタンを開け、リボンを外している。制服の袖をまくり、鞄を肩に担ぎ、しかも右手はポケットに突っ込んだままだ。たぶん足でドアを開けて入ってきたのだろう。マナーが全くなっていないのは相変わずだ。


 彼女は鏑矢(かぶらや)紗智(さち)、和人の隣の席に座る女子生徒である。


「ああ、おはよ。せんせ」


 紗智は面倒くさそうに右手を上げて挨拶をする。


「鏑矢さん、今月で何度目ですか?」


 担任の怜音から険のある声が飛ぶ。


「だから、ごめんってば。朝早く起きたのは良いんだけど、二度寝しちゃってさ。実質遅刻していないってことにならない?」


 紗智は悪びれた様子もなく肩を丸めて片手拝みをする。


「バカ言わないの! ちゃんと時間通りに教室に来て――」


「ああ、はいはいわかりました。でもさ先生、ちょっとぐらいの遅刻、大目に見てよ。これぐらいで怒っているとさ、眉間に皺が増えて老けちゃうよ。もしかしたら血圧が急に上がって脳の血管がパーンって破裂したりして」


「私はいたって健康体です! あなたが怒らせるようなことするからでしょうが」


「だからさぁ、カリカリしていると早死にするよ」


「やかましい! 今日という今日は――」


 怜美の怒号が激しさを増す。一方の紗智はけんもほろろにひらひらと手を振っていた。不毛な言い争いは終わりそうもない。


「ねえ、聞いた?」


 と、女子生徒の声が聞こえてくる。


「なにが?」

「鏑矢さん、池袋で夜遊びしているらしいよ」

「ああ、なんかそれっぽいもんな」

「おまけに怖―い人も連れてるって」

「マジ? 反社じゃん、それ」

「あんまり関わりたくねえなぁ」 


 無責任なひそひそ話が飛び交う。


 和人は気乗りせずに、窓の外に目を遣った。今日は晴れだな、としか思い浮かばない。


「ええい! もう結構! 今度遅刻したら承知しませんからね」


 怜美が強引に話を切り上げたようだ。


「はいはい」


 意に介している様子もなく、紗智は自分の席に向かう。


「まったく……」


 いつも通りに光景とはいえ、ため息を吐きたくなる和人。両肘をついて項垂れた。


「おっす」


 と紗智が声をかけて、隣の席に座った。


「おはよ」


 横目で素っ気なく返す和人。


 一年生の時は違うクラスで特に交流があったわけではないのに、同じクラスになってからなぜか紗智は時と場所に関係なく和人にちょっかいをかけてくるので迷惑に思う時がある。


 半ば呆れていると、紗智が鞄を開けて中から小瓶を取り出したのが目の端に映った。怜音に見つからないように鞄の影に小瓶を置いてキャップを開けた。


「最近、爪が荒れちゃってさぁ」


 どうやら和人に声をかけたらしい。顔がこっちを向いている。


 和人は首を回して紗智を見遣る。ガラの悪い着こなしをしているが、顔だけは紛れもない美少女なのだ。勝ち気で冴えた目に、整った眉、潤いのある桜色の唇。顔のパーツが的確な位置に配置されていて、美人の黄金比っていうのはこういう感じなんだなとちょっぴり思ったりもする。


「ホームルーム中にマニキュアを塗るな」


 和人は小声で注意する。


「仕方ないじゃん。爪が割れたら痛いんだしさ。今からちゃんとケアしておかないと」


 こそこそと、鞄の影でマニキュアを塗り始めた。無色なので本当に保護用のマニキュアらしかった。爪を塗ってはふっと息を吹きかける。


 ――ほんとに遊んでいるのか?


 不意にそう思ったのは、紗智の身体つきに違和感を覚えたからだ。まくった袖からのぞく前腕が引き締まっていて、太腿やふくらはぎに無駄な肉が全くついていない。トレーニングを積んでいる証が紗智の身体から見て取れた。

 夜遊びしながら作れる身体ではないと感じた。


「なによ?」


 紗智が怪訝な声をあげる。和人は自分でも気づかないうちに紗智の身体を眺めまわしていたようだ。


「別に。鏑矢がジムにでも通っているのかって思っただけ」


「ほお、和人くん。アスリート女子が好みかね?」


 紗智は目元に歪んだ笑みを浮かべる。


「は?」


「いやあ、そんなエロい目でわたしのこと見るもんだからさ。そっかそっか、鍛え上げられたわたしのこの身体、そんなに魅力的?」


「おい。エロい目ってなんだ? エロい目って」


 心外なことを言われてイラつく和人。


「別に気にしてないって。和人も健全な男子、そりゃあわたしみたいな美少女をエロい目で見たってしょうがないじゃん」


 紗智が確信ありげな笑みを浮かべる。自分の容姿を自覚しているぶんタチが悪い。


「そんなふうにおまえを見てねえよ。自意識過剰にもほどがあんぞ」


「んな怒んなくていいっしょ。和人がエロいのは事実なんだし」


「事実無根だ、んなもん!」


 和人は大声を上げてしまった。


「副島くん、静かにしなさい!」


 怜美の怒鳴り声が耳を打った。まだ怒りが収まっていないらしかった。


「す、すみません。以後、気をつけます」


 と、和人は立ち上がって素直に頭を下げて謝る。


 周りからクスクスと笑いが漏れる。


 一方紗智は我関せずと、隠れてマニキュアを塗っている。


 ――こいつ……。


 かわいい顔に似合わず、ふてぶてしい態度をとる紗智を恨めしく思った。


 紗智を見下ろしていると、彼女は和人の視線に気づき、


「にひぃ」


 と、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


 ――男だったら……。


 一発殴ってもおかしくないな、と物騒な発想が頭をよぎる。


 不機嫌になった和人はどかっと椅子に座り、頬杖をついた。


「でさ」


 懲りずに紗智が小声で話しかけてくる。


「なんだよ」


 無視しようとしたが、どうせうるさく声をかけてくると思い、応じるしかなかった。


「今年の野球部、どうなの?」


 紗智の声が真面目さを帯びる。


 横目で見ると、紗智がまっすぐこちらを見ている。


「さあな。今年は良いピッチャーがいないし、去年みたいに上手くいかないだろうな」


「ふーん、和人の打撃でもカバーできないくらいなの?」


 紗智が顔を寄せてくる。


 去年、和人の所属する都立常盤台(ときわだい)高校硬式野球部は快進撃を見せた。今まで一回戦勝てばいい方だと言われるほどの弱小校だったのだが、和人を筆頭に素質のある部員が揃っていた。和人が打ちまくり、去年の主将が好投し、いくつかの幸運が続いた結果、東東京大会のベスト8まで駒を進め、強豪の加賀学園と戦って敗れた。


 しかし今の野球部は、力のある投手がいない。秋季大会、春季大会と続けて結果を残せなかった。打線はそれなりに機能したものの、それ以上に失点重ねてしまったのだ。


 今年入ってきた一年生に投手はいるが、夏の大会までにどれだけ成長するか未知数だった。


「野球は第一に投手力だからな。俺がいくら打っても相手にもっと打たれたら意味がないさ」


「そっか、そうだよね」


 と、紗智は納得いった様子。


 ――野球に興味があるのか?


 紗智の口ぶりは野球を知っているかのようだった。訊いてみようと思ったが、怜美の目が光っている今、無駄話をする隙がない。


「ところでさ」


 紗智は構わず声をかけて来る。


「ん?」


 仕方なく応じる和人。


「わたしね、いいピッチャーを知っているんだけど」


「マジか?」


 思わず声が大きくなった。ちらと怜美に目を遣ると、こちらに構わず話を続けていた。


「誰だかわかる?」


「いや。誰なんだ?」


 和人は急かすように訊いた。


「同じ学年の女子よ」


「なんだ、女かよ」


 肩透かしを食らってげんなりした。


「いけないの? 今の時代、女の子でも甲子園目指せるじゃん」


「無理無理。うちは女子選手の入部を認めていないんだよ」


 と、和人は規則を盾にした。


「とか言って、プレーに集中できなくなるからじゃないのぉ?」


 紗智がからかうような口ぶりで言う。


「どういう意味だよ?」


「和人ったら汗だくになって頑張る女の子に欲情をそそられちゃうからね。で、息を切らして喘いでいる女子選手に優しく接しているうちに興奮して、あわよくばいかがわしい恋仲に発展させようと策を弄する、と」


「……おまえ、俺を何だと思ってるんだ」


 変態のように扱われて腹が立ちそうになる和人。


「だからさぁ、和人は健全な男の子ってだけの話よ。今まで彼女も作らないでストイックに野球に打ち込んできたんだから、どこかで性欲が暴発しちゃうでしょ。だから、女子部員の入部には反対してるわけ。いやあ、えらいえらい。自分の性癖を知ってブレーキをかけてるんだからねぇ」


「憶測で人を変態扱いするな。ケンカ売ってんのか、おまえ」


「副島くん」


 異様にドスの利いた声がした。


 和人はおそるおそる教壇の方へ首を回す。


 怜美がこちらを見据えている。眼鏡が光に反射して目の奥が全く見えない。一つわかるのは尋常ではない怒りを湛えているというだけだ。


「す、すみません。先生」


 またしても立って詫びる和人。


「まったく。部活でちょっといい成績を出したからって勝手が許されるわけじゃないのよ。天狗になったまま大人になると、いつか痛い目を見ますからね」


「本当に、すみません。以後気をつけます」


 弁明の余地がなく平謝りするしかなかった。


「今度無駄話したら、承知しませんからね。それに鏑矢さんも、ちょっかいかけないの」


「はいはーい」


 紗智は手を振って応える。まったく反省の色がなかった。


 周りの視線が痛い。


 紗智にからかわれては怒声を上げ、怜美や他の教師に叱られることがしょっちゅうある。今や和人と紗智は問題生徒だと思われている始末だ。


 ――これから絶対無視してやる。


 学校生活の安寧を願いつつ、紗智に構わないでおこうと決めた和人だった。


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