雨の日の通学中に
奈緒美がまだ電車通勤しているときの話です。やっと言葉を交わすようになった時期かなと思います。
奈緒美はあまり出てきませんが、しっかりいますよ。
雨の日は特に嫌いというわけではない。だが通学中に降るのは本当にやめて欲しいと思う。なぜなら普段は気にしなくていいはずの靴元に注意して歩きイヤフォンから聞こえる音楽に集中できないし、ただでさえ苦しい電車内に普段より人が増え、加えて空気が湿っていて苦しく、傘も忘れないように見張っていなければならない。
(…………駅は過ぎたのに)
それでも大谷衛がいつもの席に座れたのは、同じ電車が目的の誰よりも駅のホームで待ち、電車に乗る際誰よりも早く席を獲得できたからだ。
そして彼女、雨野奈緒美はいつもここで、彼のもとに来ているはずだったのに。
(人が多すぎて、ここまで来るには身動きが取れない状態か)
そうか。きっとそうなんだろうな。そう思い、衛は切り替えて好きな曲を聞くことに専念した。どうせなら英語の単語帳でも開くか、今日小テストあるし。
(…………“move over”で席を詰める。いきなり電車内で窒息しそうな今の状態にふさわしい単語が出てきたな。是非とも隣の人に“move over”してほしいな。……“take up”で、「(必要以上に)……(空間・時間など)を取る」。例文は──)
その時電車がガタンと揺れた。これは大したことない、いつものことだったが、ひとつだけ違うことがあった。
その声はやはり向こうから聞こえた。
「おっと!お嬢さん、大丈夫?」
「い、いえ、すみません──」
「え!?大丈夫じゃない!?どこかぶつかって痛いとか!?」
「いえ、そういう意味では!すみません!」
…………彼女の声だ。
恐らく今の揺れでふらついた子を支えて心配しているという構図なのだろう。どこか酷い誤解をして困らせているようだが…………ん?
そこではたと衛は単語帳の次のページを捲る手を止めた。自分は走る電車の中にいて、人は押しつぶされるかというくらいに乗っている。そしてさらに彼女は遠くにいて、自分は、イヤフォンを耳に付けて音楽を聴いているのだ。
(…………あの人、声がでかいんだな。いや、あの状況が確かなら声がでかくなって当然か)
なぜなら普段の彼女なら、本当に周囲の人ぐらいしか内容が聞こえないくらいの声量で、声を大きくするくらいなら顔を耳に寄せて話す人だから。
衛は急に右耳がくすぐったくなり、イヤフォンが外れないように擦った。もし隣に座っている男性が寝ずに起きていたら、彼の顔が今どんな感じになっているか、気づかないはずなかっただろうに。
そうこうしているうちに、彼女の降車先の駅に着いてしまった。
(…………いや、だから何?)
寂しいなんて、思ってない。これが普通。アナウンスを気にしているのも、自分の目的地を聞き逃さないため。単語帳の紙がなかなか捲れないのは、今日の小テストで緊張してるため。
だが、電車で在り得ないことが起こった。
「衛くーん!明日は話そうねー!」
「はっ、え!?」
そして、ドアが閉まった。
誰かが彼女に説教する以前に、誰もが唖然としてドアの方を振り向いていた。そして衛が反応した所為か、こちらに視線を寄越されて。
衛はいたたまれなさからスマホを盾にして額に付け、俯いてため息をついた。
(はあ?なんなの、なんなのあの女!大声で俺を呼んで、それが大人のやること!?)
「…………クソッ」
不思議なことに、口元がにやけたくて表情筋に逆らおうとしていて、そのことが彼の苛立ちを引き出す最大の原因になった。衛は変人の奇行に喜んでしまったのだ。そして周りからなんとなく生ぬるい視線を送られている気がして、彼はイヤフォンから流れる音量を更に上げた。音漏れなんてこの際気にするものか!
おかげで電車を降りても学校に着いても、その日衛は英単語が全く頭に入らなかった。最悪だ最悪だ、と思っているのに、つい彼女が衛会いたさにあのような奇行に走ったのだと、嬉しそうにこちらのほうを乗客越しに見つめて声を発した様子が目に浮かんで、学校に着いた衛は廊下の壁に頭を打ち付けて周りをドン引きさせてしまった。
読んでくださりありがとうございます!
良かったら感想を下されば励みになります。
「好きなんて言葉はまだ言わない」をお読みになっていない方は、別に短編としてあるので是非読んでみてください。