新学期
七草高校には、普通科・生物生産科・環境工学科の三つの科が存在する。
一学年一クラスずつではあるが調理室、実験室、研究室、培養室など専用の部屋が幾つもあり、学校の校舎も敷地面積も生徒の数に対してとても大きく出来ている。
校舎から少し離れた場所には七原農場という学校が管理する農場があり、生物生産科の生徒達が実習で使ったり、実際に牛や馬や羊などの動物や穀物、果物、野菜などもそこで育てている。
校舎内の振り分けは一年生が一階、二年生が二階、三年生が三階と階が分かれており、普通科一年生は正面玄関を入り右手の一番奥に教室があった。
校舎自体も入り組んでいるので、何処にどの教室があるのか把握するまでに時間が掛かりそうだった。
下駄箱には既にそれぞれの名前が貼り付けられており、そこで新しい上履きに履き替えた。
きっとクラスが決まった時点で先生達が貼ってくれていたのだろう。
下ろしたての硬い上履きに足を入れ、爪先をコンコンと二回地面に打ち付けてから、歩き始めた。
下駄箱も廊下もたくさんある教室も、何もかもが大きくて重い圧迫感を感じてしまう。
ポイにすくわれた金魚みたいにうまく呼吸が出来なくて、ジタバタ踠きたい気持ちが押し寄せてくる。
それなのに、体は固まって動けない。
中学の時もそうだった。
入学初日、下駄箱で靴を履き替えて教室に入るまでにかなりの時間を使ってしまった。
だからこそ知っている。この違和感は徐々に馴染んでいくものだと。
それでも、中学の時は馴れるまでにかなりの時間を掛けてしまった。
でも今回は少し違う。
あの時は一人だったが、今は私の隣に二人がいてくれる。
上履きの履きなれない感覚も廊下の冷たい感触も、二人の話し声を聞いているだけで、薄れていくように思えた。
教室に入るとほとんどの生徒は集まっていた。
一クラス二十六名。男女共に丁度各十三名ずつだ。
それでも授業は選択制が多いので、ホームルームや総合学習、全員の共通授業などでしかクラス全員が教室に集まる機会はない。
とはいえ、中学では一クラス二十八名いたその殆どが小学校からのスライド式だったので、こんな人数の初対面は始めてだ。
名前や顔を覚えられるか一気に不安になってきた。
それと同時に、覚えられるか不安だなんて思っている自分がいることに少し驚いていた。
今朝までの私なら、覚えようなんて考えもしなかっただろう。
「咲、大丈夫か。もしかしてまだ緊張してんのか?」
教室の入り口で止まっていた私に、春が心配そうに声を掛けてきた。
どうやらまた自分の考えに没頭してしまっていたらしい。
少し緊張しながらも「大丈夫。…春と花もいるし」と言うと、春はニッと嬉しそうに笑ってくれた。
その笑顔を見ると、張っていた緊張の糸が緩んでいくみたいだった。
体はまだ固いけど、教室の空気はちゃんと吸えている。
鞄を横に掛け、何ヶ所かある机の傷を確かめながら椅子を引き腰掛けた。
古い傷に新しい傷。大きさも形もそれぞれで、これまでここに何人もの人が居た証だ。
そして今日から私もその中の一人になる。
私の席は、窓側の前から三番目だった。
二十六名だと五×五で座り、窓側の縦列だけ六名の席になる。一人だけ飛び出るような形だ。
少し寂しいような席だけど、出来るなら私はその席が良かった。だけどその飛び出した席には、ボブカットの可愛らしい女子生徒が座っていた。
それでも、窓側というだけでも有り難い。
窓からは、校門の周りに咲くソメイヨシノが丁度見える位置だった。
ピンク色の花びらが風に吹かれて舞い上がり、まるで生きているみたいに不規則な動きを繰り返していた。
少し開いた窓の隙間からは心地良い春風が頬を凪いで教室に入って来る。
その新鮮な空気を吸い込むように、小さく深呼吸をしてみた。
肺を満たした空気がゆっくりと外へ流れ出ていく。
同時に、体が少しだけ軽くなったような気がした。
「はーい、みんな席に着いて!」
いきなり教室のドアが開き、ショートカットで薄いグレーのスーツを着た女性が入ってきた。
「おはようございます。今日からこのクラスの担任を務める、葦有 由実です。教科は数学を担当します。まぁ、ちゃんとした自己紹介は後でするとして、早速だけどこれから入学式だからみんなで体育館に移動しましょう。廊下に二列に並んで」
軽く挨拶を済ませると、手際良く指示を出し生徒達を教室の外に整列させてゆく。
流れるような早さに着いていくのがやっとだった。
二十代前半に見えるが、私が思うよりもっと年を重ねているのかもしれない。そう思わせるくらい、手慣れた指示の仕方をしていた。
体育館に集められたのは新一年生総勢六十三名と教師、生徒会役員のみだった。どうやら二、三年生は午後からの登校らしい。
高校生といっても数週間前まで中学生だった生徒達がいきなり二、三年生が大勢いる中に混ざるのは怖いだろうという教師の配慮のようだった。
確かに今の私達が二、三年生の中に混ざるのは、車でサファリパークを回るのと似ている。安全だと分かっていても、視線や行動の一つ一つを意識してしまう。
中学校までとは違い、学年が一つ違うだけで弱肉強食の動物のようにヒエラルキーがはっきりと別れているのが高校生だ。
入学式は校長先生の話、生徒指導の先生からの注意こと項、生徒会長の挨拶、校歌斉唱と続き最後に新入生代表の挨拶があった。
それはなんと春が務めることになっていた。
さっきまでそんな素振り全く見せていなかったのに。
新入生代表の挨拶は例年入試試験の首席が務めている。と言うことは、春がそうなのだ。
七草高校の偏差値は周りと比べても平均値だが、それでも六十三名いる中での主席である。
壇上に立ち堂々と挨拶する姿は、さっきまで話していた春とはまるで別人みたいだった。
「人は見かけによりませんね」
教室への帰り道、花がそっと話しかけてきた。
「私も試験頑張ったんですよ」と頬っぺたを膨らませながら「首席だって目指していたのに。春さんに負けるなんて、なんか悔しいです」なんて言いながらも、花はそんなに悔しがっている感じには見えなかった。
寧ろ春のことを誇らしく、そして喜んでいるように見えた。
「花も春も凄いよ。私なんて、そんなこと考えたこともないのに…」
この学校に合格した時でさえ喜べなかったのに…。
「なんだー、俺の話してるのか二人とも!」
いきなり足音もなく春が現れた。
そして続けざまに「さっきの俺の有志見てたかよ、バッチリ決まってただろ!かっこよかっただろ!家ですげぇ練習したんだよ。笑わないようにするの大変だったんだぜ」と少し捲し立てるように言った。
「笑わないようにですか?」
花が小首を傾げながらそう尋ねた。
「そう、笑わないように!だってみんな真剣に俺の話聞いてるんだぜ。先生もまだ顔も合わせたことのない生徒も、先輩達も。俺はただ紙に書かれた文字読んでるだけなのに。ザ、入学式!って感じで面白くね?新入生代表の挨拶なんて、高校生活楽しむぞ!だけでいいと思うのにさ」
さっきまで壇上で真面目に話していたのは誰だったのかと疑いたくなる程の変わりようだ。
けれど、こちらの方が春っぽいだなんて、今日出会ったばかりなのに考えていた。
それに「高校生活楽しむぞ」だけで終わる新入生代表の挨拶も少し見てみたかったかもしれない。
「そんなことより。いいか、これから楽しい高校生活がスタートするんだ!何をするにも全力で楽しむべし!だ」
右手で力強くガッツポーズを決めた春の背後には、葦有先生が腕を組みながら控えていた。
「菜砂君、楽しむのはいいけど移動中は騒がないように」
後ろから注意を受けた春は「やべっ」と呟くと脱兎のごとく教室に向かい走り出した。
しかし後ろから「走なー」と葦有先生の鶴の一声で、春はその場でビシッと立ち止まり、今度は姿勢を正して教室まで歩いて行った。
周りのクラスメイトもクスクス笑っていて、入学式の緊張が少しだけ緩んだみたいだった。
「春さんは真面目な感じよりもこっちの方が似合っていますね。何だか楽しくなりそうです」
花も楽しそうに笑っている。
「そうだね」と返した私の声もいつもより弾んでいた。
妙に姿勢のいい春の後ろ姿を花と二人で眺めながら「高校生活楽しむぞ」と言った春の言葉がもう一度頭の中で再生されていた。
体育館を後にする時、ふと合格発表の帰りに見た桜の木のことを思い出した。
冬の寒い中、体育館裏で気まぐれに咲く一本の桜の木。
あれから二ヶ月。
あの花はもう散ってしまっているだろう。
それでも、今度見に行ってみよう。
その時は、花と春も一緒に来てくれるだろうか。
教室に戻り教材を受け取り連絡こと項を聞き終えると、今日は下校となった。
一年生は入学式のみで、午後の授業は無いらしい。
「部活動に入りたい人は今週中に入部届けを提出して下さい。部活見学は明日から始まるから、見たい所があれば今のうちに考えておくように。それじゃあ、また明日!」
葦有先生が帰りがけにそう言った。
七草高校には三つの科があるため、テニス部、野球部、バレー部、弓道部、陸上部などの他に果実部、馬術部、園芸部など数多くの部活動が存在する。
中には、環境改善ゴミ拾い部、おにぎり研究部、動物ふれあい部など変わった部活動もあるみたいで、これがこの学校の特徴の一つでもあった。
貰った教材を鞄にしまっていると先に準備を終えた春と花が私の席までやってきた。
そして「準備終わったか?一緒に帰ろうぜ」と春が声を掛けてきた。
私は「うん」と短く返し、急いで準備を進めた。
その間も「そんなに急がなくても大丈夫だぜ」「もう、春さんが急かすからですよ」「いや、別に急かしたわけじゃ…。ごめん、咲。ゆっくりでいいからな!」と、二人の会話が聞こえていた。
帰り道、やはり話題は先生が言っていた部活動の話になった。
「とりあえず、咲も花も部活動を決めてないんだな」
春が確認するように聞いてきた。
「どこも楽しそうな部活ばかりで何をしようか迷っています」
花が顎に手を当てながら答えた。
私は「あまり、入るつもりがなかった…」と正直に答えた。
中学でも帰宅部で、誰かと何かをやることが苦手な私は部活動なんて考えたこともなかった。
「おっけー分かった!俺、考えてることがあるんだけど、一緒にやってくんねぇかな!?」
「いいですよ、春さんと咲さんと一緒ならどこでも楽しそうですから」
花の返ことは即答だった。
しかも、その返答の中に私の名前まで入れて貰えている。
「咲はどうだ?入るつもりがなかったってことは、入りたくない訳じゃないんだろ。もし、嫌じゃなかったら一緒にやりたいんだけど、ダメかな?」
確かに考えたことがないだけで、絶対に入りたくないという訳ではない。
だけど部活に入れば否が応でも人と接することになる。
春と花だけならまだしも、違うクラスや先輩達もとなると憂慮してしまう。
それでも、花が私の名前を入れてくれたり、春が一緒にやりたいと言ってくれることが後ろ向きの考えを拭い去ってくれていた。
「ダメ、じゃない。私も二人と一緒に何かやりたい」
私の返答に春は「よっしゃー!」と両手を挙げて飛び跳ねながら喜んでいた。
その喜び方が幼くて、これじゃあ高校生には見えないな、なんて思っていた。
「ところで、春さんは一体どの部活動に入部するつもりですか?」
この話題で一番気になる問題を花が聞いた。
男女で一緒にできる所なんて運動部だとほとんど無いから、文化部だろうか?
それとも、乗馬部や調理部などの専門的な部活動なのか。でもそれだと少し困るかもしれない。
それとも何か他の特殊な部活動とか…。
春だから、そちらの方が有り得るかもしれない。
「私、料理とか物作りは苦手なんだけど…」
私は先んじて、それだけは伝えておくことにした。
「咲は料理出来ないのか?俺、チャーハンなら得意だから教えてやるよ!」そう言うと、なにか企んでいそうなニヤついた顔に変わり「それと、何に入るかはまだ内緒な。後でのお楽しみだ」と言った。
春のことだから、きっと私達が予想もしない部活を考えているのだろう。
電車の中でも何度も何に入るのか、花と一緒に聞こうとしたが春は一向に口を割らなかった。
意外と強情な性格に根負けして、結局何も聞き出せないまま帰宅することになった。
少しの心配はあったが、不安な気持ちは不思議と湧いてこなかった。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、ピンク色のゴム手袋を填めたままの母が出迎えてくれた。
「おかえり。咲ちゃん新しい学校はどうだった?」
どうやらお風呂掃除の途中で来てくれたらしく、手袋に泡が少し残っていた。
きっと今日一日、ずっと心配していたのだろう。
私の性格も今まで友達が出来なかったことも知っているから、新しく始まる高校生活を上手くやっていけるのかどうか。
だから私は少しだけ胸を張って報告することが出来た。
「…あのね、お母さん。友達が出来た」
それを聞いた母の笑顔を見て、今まで本当に心配を掛けていたんだなと改めて思い知った。
薄ら涙まで浮かべながら「良かったわね」と私を抱き締めようとしてくれたが、直前で手袋のままであることに気づいたらしく「ふふふ、これじゃあダメよね」と恥ずかしそうに笑っていた。
中学までは人とろくに話さなかったから、友達なんて出来るはずがなかった。
だから私の口から「友達」と言う言葉が出たことなんて一度だってなかった。
それでも両親は何も言わず見守ってくれていた。
ただ、夜中に一度、両親が話しているのを聞いてしまったことがある。
楽しい学校生活は送れているのか、何かしてあげられることはないか、あの子が幸せでいてくれればいい。
そう話す母の顔は辛そうで、私はすぐにその場を離れてしまった。
きっと私が知らないだけで、何度もそんな話しをしていたのだろう。
その晩のことを思い返す度、何も変わらない自分が酷く情けなかった。
それでも性格だから仕方ない、と心の中でその言葉を免罪符にして目を背けていた。
ところが入学初日に私の口から「友達」と言う単語が出たのだから、母は相当驚いたに違いない。
そして、凄く喜んでくれていることも伝わってきていた。
晩ご飯は今までにないくらい豪華な食ことだった。
「高校入学のお祝いだから」と言っていたが、きっとそれだけではない想いがたくさん詰まっているのだろう。
鼻歌交じりに台所に立ちながら、私の好きなエビグラタンやサーモンのマリネなどを作ってくれていた。
夕方に帰ってきた父は食卓に並べられた豪華な食ことに驚いていたが、母のいつもより高いテンションに何かを感じ取ってくれたみたいだった。
やっぱり長年連れ添っていると言葉にしなくても伝わることがあるのだろうか。
それでもきっと、私の知らないところでまた二人は話をするのだろう。
その時は辛い顔をさせずにいられるだろうか。
少しの懸念は、穏やかな気持ちで迎えられた晩ご飯によって払拭されていた。だって、父も母も私の話をこんなに嬉しそうに聞いてくれているのだから。
学校に行くのが楽しみだなんて、初めて思った。