花より咲春へ
──春になると花が咲いて、花が咲く頃春が来て、咲く春を花は待ってるんだ。
電車の中で聞いたこの言葉を、胸元に付けた桜のコサージュを見ながら思い出していた。
入学式に行く電車で、二人と初めて会った時、春が言っていた言葉。
あれから季節は巡り、卒業の時を迎えていた。
校門の周りではソメイヨシノが春風に吹かれて舞い上がり、花びらの雨を降らせている。
収穫祭が終わり生徒会も後輩たちに託し、大学入試の勉強や試験に追われ、気付けばあっという間に年を越していた。
千夏先生は収穫祭の日で実習期間終了を迎え、翌週の全校集会で挨拶だけして東京の大学へと戻って行った。
生徒会長としてだけでなく、授業でお世話になった一生徒として、代表で花束を渡す役を任された。
壇上に上がり花束を渡す際、千夏先生から「ありがとう」と言われたのが、私と千夏先生が交わした最後の言葉になった。
あれから、連絡はとっていない。
連絡先は交換していたが、春にも一度も連絡を取れていない状況で、千夏先生と連絡を取ることは出来なかった。
それでも千夏先生から聞いた春の言葉があったから寂しくはなかった。
私は四月から隣町にある大学に通うことになる。
東京の大学も考えたが、今は家から通える範囲の場所に居たかったのだ。
七草高校よりももっと遠く、この路線の終点、蘿蔔駅が大学の最寄り駅になる。
漢字は違うが読み方が同じで、少しだけ親近感が湧く名前の駅だ。
私が乗る始発の芹駅からだと約一時間半で到着する。また電車通学になるわけだが、それで良かった。
最後尾の車両のボックス席。進行方向とは逆の窓際の席に座り流れ去る景色、通過した後のレールを見ることはまだ出来ない。
それでも雨の日に電車に乗ることも、他の車両のボックス席に座ることも出来るようになった。
それに、最近はあの夢も見ていない。
きっとこれからも、こうやって少しづつ変わっていく。
いずれあの席にも座れる日が来るのだろうか。
「卒業式終わっちゃったね」
そう呟いた葉澄さんの言葉は、物が無くなった教室を更に寂しく見せた。黒板には「卒業おめでとう」の大きな文字の周りに、メッセージやイラストが所狭しと書かれている。けれどこれも今日中に消されて、本当に空っぽの教室になってしまうのだろう。
最後のホームルームも終え、ほとんどの生徒は校舎を出て桜や卒業式と書かれた看板を背に友達や部の後輩と記念撮影をしている。
みんなの賑やかな声がここまで聞こえてくる。
そんな外の様子とは対照的に、教室は時が止まっているみたいに静かだった。今この教室にいるのは、私と葉澄さんと蓮歌くんだけ。
二人に時間を貰い少しだけ残ってもらったのだ。
窓の外を静かに眺める二人の表情は、微笑んでいるようにも、涙を堪えているようにも見えた。引き止めておいて中々話し出せないでいる私を、二人は何も言わずに待ってくれていた。
壁に掛けられた時計の秒針を刻む音を聞きながら心を落ち着かせる。深く息を吸い、二人に目を向けた。
「あの、葉澄さん、蓮歌くん」名前を呼ぶと、二人がゆっくりと振り向いた。
最後なのだからちゃんと伝えなければならない。真っ直ぐに目を見て。
「ずっと言おうと思っていました。部屋から連れ出してくれて、居場所を与えてくれて、弱い私を隣で支えてくれて、ありがとうございました。今更だけど、ようやく自分の口から言えます。生徒会に入ったことも、生徒会長になって二人と過ごした時間も、春と花との思い出も全て心から大切だったと…、今なら自信を持って言えます!」
少し甘い春の匂い。
風に吹かれて白とピンクのチョークの粉が舞い上がり、教室の床や机に落ちてゆく。この教室を掃除することも、手に着いた粉を煩わしく思うことも、もうないのだ。こんな些細なことですら、なくなることに気づいてしまうと、少し物悲しい気持ちになってしまう。
蓮歌くんの腕にも薄らピンクの粉が着いていたが、あまり気にしている様子はなかった。
「お礼を言うのはこっちだよ。無理やり生徒会長を押し付けた形になっちゃったのに、それでも大切だと思ってくれてありがとう。支えてくれてって言っていたけど、鈴城さんはいつも不甲斐ない俺に手を差し伸べて助けてくれていたんだよ。だから弱くなんかない。鈴城さんの強さも優しさも、俺は、凄く尊敬してるんだ。だから、三年間ありがとう」
差し伸べられた蓮歌くんの右手に、私も同じように右手を差し出し、ギュッと握った。
私たちの手が離れるのと同時に、今度は葉澄さんが私に抱き着いてきた。
いきなり来た衝撃に思わず「きゃっ!」と、らしからぬ声を出してしまった。「咲ちゃん可愛い〜」と、からかい口調で言いながらも葉澄さんは私に抱き着いたままでいる。
「私ね、最初は生徒会なんて面倒だなって思ってたんだ。二年の夏休みが明けてすぐ、生徒会役員を決めないとってなった時、はっちーは立候補してたけど、私は友達の推薦だったから。他に誰もいなかったし、妥協してなった感じだったから。でもね、今は推薦してくれた友達に感謝してるよ。こうやって、咲ちゃんとはっちーと今を迎えることが出来たんだから!」私を抱きしめる腕に、少しだけ力が入った。
「私、生徒会に入れて良かった!ありがとね咲ちゃん!」そして私から離れ、蓮歌くんへと向き直り「ありがとね、はっちー!」そう言いながらほんのり赤い目元をした葉澄さんは笑っていた。
〜٭❀*〜
──教室には二人きり。
「はっちー、言わなくて良かったの?」
黒板に書かれた文字やイラストを一つ一つ記憶するように眺めていた蓮歌が葉澄に向き直る。
少しキョトンとした顔で小首を傾げながら「言わなくてって、何が?」と応える。
「咲ちゃんに好きだって」
その言葉を聞いた瞬間「えっ!」と目を真ん丸に見開き、固まってしまった。一瞬にして耳も首も真っ赤だ。
「な、なんでしっ…」知ってるの?と言おうとして、反射的に口を塞いだ。明らかにバレバレの反応だが、どうにか隠そうとしているようだった。
「そんなの見ていれば分かるよ〜。はっちーってほんと、隠しごと苦手だよね」
そう言われ観念したらしく「あははー、そっかぁ」と力無く笑いながら「言おうと思ってたけど、やめたんだ」と言った。
「それってもしかして、私がいたから?」
言葉の端に申し訳なさを携えながら、葉澄が聞いた。
首を横に振りながら、蓮歌が応える。
「違うよ。きっと俺があの場で告白していたら、鈴城さんすごく困るでしょ。例え返事はいらないって言っても、それは俺が気持ち伝えてスッキリするだけで、一方通行の気持ちを受け取った側はそれをどうすることも出来ないんだよ。最後にそんな思い出は残したくないよ」
「告白オッケーされる未来は考えなかったの?」
「ずっと一緒にいたんだもん。鈴城さんの好きな人くらい見ていれば分かるよ。葉澄さんもそうだったでしょ」
「な〜んだ、私みたいにはっちーも玉砕されれば良いと思ったんだけどな〜。はっちーは優し過ぎたよ〜」
そう言いながら、蓮歌の腕を叩く。言葉と声とは裏腹に、叩かれている腕は全く痛くなく、寧ろ慰めているようだった。
叩く度、腕に付いていたピンクのチョークの粉がヒラヒラと落ちていく。
「葉澄さんだって、充分優しいよ」
教室の窓から春の甘い匂いが、また立ち込める。
少し苦いこの気持ちを、春の甘い匂いに書き換えるように、蓮歌はゆっくりと息を吸い込んだ。
〜٭❀*〜
──最後にもう一度だけこの場所を見ておきたかった。
寒桜は既に散り、葉桜となっていた。せめて一輪でも残っていないかと、少し期待していたのだけれど。やはり寒桜に春は迎えられなかった。分かってはいたけれど、春に会えないまま、咲いた桜が散っていったことに胸の奥がチリッと傷んだ。
みんなの声が遠く、校門の方から聞こえている。
大半の生徒は、ここに桜の木があることすら知らずに卒業していくのだろう。そして、ほとんどの生徒は何故ここに桜の木が一本だけ生えているのか知らない。きっと、知る術がない。
前期入試の日にたまたま見つけた、寒桜。
藺草会長から聞かせてもらった、寒桜に託された想い。
木の下に今も眠っている、三人の思い出。
私はずっと迷っていた。今日この日に私だけで掘り出した方が良いのか。このまま眠らせておくべきか。
一人で掘り出したところで、きっと虚しいだけだろうな。
どうしようかと空を仰いでみても、見えるのは風に揺れる葉と、塗りつぶしたみたいな青だけの空。
──寒桜には気まぐれの他にもう一つ花言葉があるんだ。冬の寒い時期に、春を思いほっと顔をほころばせることから…
「……あなたに、微笑む」
唇が微かに震えていた。
卒業証書を受け取った時も最後のホームルームの時も、葉澄さんと蓮歌くんとお別れした時でさえ泣かなかった。それなのに、どうして今になって鼻の奥がツンと痛くなっているのだろう。見上げた青と緑が、滲んで見えているのだろう。
──春になると花が咲いて、花が咲く頃春が来て、咲く春を花は待ってるんだ。
「…だけど、春も花もいない時はどうすればいいの…。暖めることも、誰かを笑顔にすることも出来ない…。春と花がいてくれないと、咲くことなんて出来ないんだよ……」
「会いたい…春、花…」
ずっと言いたかった。
一度言ってしまえば、会いたい気持ちを更に自覚してしまう。だから我慢していたのに。
水風船に針を刺したみたいに、溜まっていた涙が一気に溢れ出てきた。
一粒、また一粒と乾いた地面に跡をつけてゆく。
濡れた頬も拭った手も、風に当たりどんどん冷たくなっていく。今は体育館が影になり日が当たらないから、更に寒く感じてしまう。すごく、寒い。
「咲」
不意に聞こえたその声に、弾かれるように振り向いた。
──必ずまた逢いに行くから
振り向いた先には、春がいた。
背が伸びている。百八十cmはないが、私の背は優に超えている。髪は栗色のままだけど、相変わらず少し寝癖で跳ねている。声が少し低くなっている。制服を着ている。右手で松葉杖をついている。
私の目の前には、春がいる。
「なんだよ。笑って待っていてくれって言ったのに、泣いてんじゃん!」
いつものニヤニヤ顔で笑う春がいる。
気付けばその場から駆け出していた。そして、その勢いのまま春に抱きつき、その場に二人で倒れ込んだ。
「はるっ……はる。会いたかった、春。ごめん、私、全然連絡出来なくて…、千夏先生から色々聞いて、春の伝言も聞いて、笑って待っていようって思って、それなのに、ごめん、会いたかった、ずっと会いたかった」
支離滅裂な言葉を言う私を、春はずっと「うんうん」と聞いてくれていた。背中に春の暖かくて優しい手を感じながら、涙はなかなか止まってくれなかった。
気付けば春の制服は私の涙で濡れて、強く掴んでいたせいで皺になっていた。
それを見て一気に冷静さと恥ずかしさが襲ってきた。そう言えば、春は松葉杖をついて…。松葉杖!
ばっと顔を上げ、春の足に目をやった。
「ごめん!怪我してるのに、私飛びついちゃって。痛くない!?大丈夫だった!?」
私の焦りを春は笑い飛ばした。
「あははっ。今更だなー。大丈夫!松葉杖は念の為持ってるだけで、怪我はもうほぼ完治してるんだ」
春のその言葉にほっと胸を撫で下ろした。
「良かった。でも、今日来るなら連絡してくれれば良かったのに」
「それはさ、サプライズだよ!驚いただろ」
そう言ってまた、ニヤニヤと笑う。私は春のこの笑顔が好きだ。春がこうやって笑うだけで、素敵なことが起こりそうで。
「ところで、咲がここに来たのはタイムカプセルのことだろ」
春は、寒桜の根元を指差した。おそらく、私たちが埋めたタイムカプセルが眠っているであろう位置を。
「うん。どうしていいか分からなくて…」
「掘り出そうぜ、二人で。元々卒業式に掘り出す予定だったんだし!」
二人で。その響きは、やっぱり少し寂しそうだった。
埋めた時と同様、少し探しただけでシャベルを二つ見つけることが出来た。
春と二人で、乾いた地面を掘っていく。私が落とした涙の跡は、とっくに消えていた。春に見られずに済んでほっとしたが、それ以上に号泣して慰められるとゆう恥ずかしい体験をしたことを思い出し、顔が少し火照っていた。
少し掘るとコツンと何かに当たる感覚があった。それから慎重に掘り進めると、淡紅白色の缶が土の中から姿を出した。ずっと眠っていた缶は、泥で少し汚れていたが、埋めた時と何も変わらず寒桜の花みたいに綺麗な色をしていた。
「開けるぞ」
春の合図で、あの日から止まったままの思い出の蓋が開かれた。
自分の手紙と桜の栞を手に取った。
春は、チェキで撮った三人の写真を見ていた。
「春、私にも写真見せて」
渡された写真に映る三人は、笑っていた。久しぶりに見た花の笑顔に、胸の奥がギュッとなった。
しばらく懐かしむように写真や自分の手紙を読んでいると、春が声を掛けてきた。
「あのさ、手紙交換して読まないか?」
春の提案に一瞬考えたが、私の内容は二人への感謝を書いたものだったから、了承してお互いの手紙を交換して読むことになった。
二つ折りにされていた春の手紙を開くと、そこには一行。
「気持ちを伝える」
とだけ書かれていた。
困惑した気持ちで春を見ても、まだ私の手紙を読んでいる最中だった。
声を掛けられなまま、春が手紙を読み終えるのを待っていた。
数分して手紙から顔を上げた春は、ゆっくりと話し始めた。
「俺さ、咲に会うの入学式の日の電車が初めてじゃないんだ」
それは、私の知らない、私と春の思い出だった。
「俺が初めて咲に会ったのは、前期試験の合格発表の日だったんだ。まぁ、咲は俺のことなんか気付いてなかったから、会ったって言うより俺が一方的に知っただけなんだけど。咲さ、掲示板の前で『もっと喜べるかと思ったのに』って言ってたろ。あの時、前にいてその言葉が聞こえてきたんだ」
誰にも聞かれていない言葉だと思っていた。それをまさか春が聞いていただなんて。
「受かったはずなのに何でそんなに残念そうなんだろうって思ったよ。そんで、入学式の朝、咲を電車で見かけて、話してみようと思ったんだ。あの時、咲が一年生だって分かったのは付けてたリボンもあったけど、本当はその前から知っていたからなんだ」
春から聞かされる事実に思考が置いていかれそうになりながらも、必死に次の言葉を追いかけていた。
「もっと喜べるかと思ったのに、って言ったのは、喜べなかったことへの失望じゃなくて、本当は喜びたかったって言う願望だったんじゃないかって。電車の中で話してて思ったんだ。だったら俺が楽しませてやるって」
「その電車で花にも出会って、三人での学校生活は本当に楽しかった。楽しませてやるって思ってた俺が、一番楽しんでた気がする」
「そうやって一緒に時間を過ごしていくうちにいつの間にか。咲のことが好きになってた」
そこで言葉を止めた春は、真剣な面持ちで私を見ていた。
言われた言葉を理解した途端、胸の奥からじわりと熱が湧き上がってきた。心臓がいきなり、自分はここに居ると主張してきたみたいに高鳴っている。
周りの風景はこんなに彩やかだっただろうか。
思考が心に追いついた時、ようやく理解した。
──私も、春が好き…
口から零れた呟きは、小さいけれど確実に春の元へ届いていた。
その言葉を言った途端、ほろりと涙が零れ落ちた。あんなに泣いていたのに、まだ残っていた涙があったなんて。それでも、頬に伝う涙はさっきよりも暖かく感じられた。
春は少し照れながら「今日はよく泣くな」と言いい、そっと抱き締めてくれた。
確かにそうかもしれない。今までこんなに泣いたことなんてなかったのに。
きっと今日、春と再会したことで今まで張りつめていた糸が一気に緩んでしまったのだ。
でもそれは、私にとって悪いことではなかった。
だって、今はこんなにも体が軽いのだから。そして、こんなに近くで春の体温を感じていられるのだから。
私の涙が落ち着いた頃、春がそっと口を開いた。
「なぁ、花の手紙開けてみないか?」
少し強ばった口調から、春の覚悟みたいなものが伝わってきた。
この手紙を書いている時の花は、当然今この現状など知る由もない。考えもしないだろう。それは、私と春も同様だ。だから、手紙の向こうの花は、今はいない花に向けて手紙を書いている。
その言葉を、ちゃんと受け止められるのか、不安だった。それでもこの手紙は、私たちが見るべきだと思った。だから、春の提案を私も了承した。
糊付けされた封を丁寧に、丁寧に開けていく。
そして二つ折りに入っていた手紙を取り出し「開くぞ」と少し硬い春の声を合図に開かれてたそこには、お手本のように綺麗な文字が並べられている。懐かしい。花の文字だ。
みなさん、ご卒業おめでとうございます。
そんな言葉から始まる手紙を、一文字一文字心に刻むように読み進めていった……
『まだ入学して間もないのに、こんな言葉を書くなんて思ってもみませんでした。何を書こうか色々悩んでみても、在り来りな言葉しか浮かんでこないのがちょっと悔しいです。それでも書きますね。
高校生活は楽しかったですか?
たくさん思い出は作れましたか?
だけど、そんなの聞くまでもなさそうですね。きっとお二人と一緒なら毎日が楽しくて、卒業してしまう今が淋しいんだと容易に想像がつきます。こんな気持ちを想像して書く事が出来るのも、お二人と出会えたからです。あの電車の中で、勇気を持って話しかけて本当に良かったです。
だから私は、私の持つ勇気を信じて、卒業式までに叶えているだろう事をここに書きます。
私は、両親が教師という事もあり昔から言葉遣いには厳しく、いつも丁寧な話し方を心掛けていました。そして、その事に対して疑問も不満もありませんでした。各有、今まで友達ともこの喋り方で苦労した経験もありません。もしかしたら、相手は少し距離を置かれているように感じていたかもしれないですが、私自身あまり気にしていませんでした。
気にしていないはずだったんです。なのに、お二人と話している内に、少しだけ敬語である自分に引っかかりを感じるようになっていました。お二人がしているようにお互いを呼び捨てで読んだり、タメ口で話したり。それが今になって、羨ましいと思ったんです。なぜ今になって、と思いましたが、答えは簡単に出ました。
私はお二人ともっと親しくなりたいと欲が出てきたんです。
それでも、今までの話し方全て変えることは、中々難しそうです。だって十六年この話し方だったんですもん。
だから一つだけ決めました。
私もお二人の名前を呼び捨てで呼べるようになりたいと。すぐには無理でも、せめて二年生の内には。そして最後の一年は、笑顔でそう呼び合っていられるように。
今これを読んでいる私は、そんな事もあったとお二人に笑って話が出来ていることを願って。ここに書きます。
そして、新しい便箋を三枚タイムカプセルに入れます。何年後に向けての手紙でもいいです。また三人で手紙を書いてタイムカプセルを埋めましょう。そうすれば、たとえどんなに離れていても、タイムカプセルを開ける為にまた三人で集まれますもんね。
我儘な私の願いを込めて。
花より 咲、春へ』
最後の言葉を読み終えると、途端に苦しくなって思いっ切り空気を吸いんだ。どうやら途中から息をするのも忘れて、手紙に集中していたようだ。
風に吹かれた目元と頬がひんやりと冷たかった。良く泣くなとまた言われてしまうかもと思い、横目で春を確認して安心した。春も同じだ。必死に手の甲で目元を拭っている。
花の手紙を読んで、ようやく気づいたことがある。
二年生に上がってから花の様子が少しぎこちなかったこと。それは、私たちを「咲」「春」と呼ぼうとしていたからだった。
あの日、あの電車の中で花はそれを言おうとしていたのだ。
変えたいこと。
少し緊張した面持ちで花はそう言っていた。
あのままでも、十分に親しくなれていると私は思っていた。けれど花はそれ以上を望んでくれていたなんて。
もしあの時、花からその話を聞けていたら、どれ程嬉しかっただろう。ウィンドチャイムのような透き通る声で「咲」と呼ばれる未来が本当はあったのだと思うと、体の芯が締め付けられるように苦しくなった。
「あのさ、事故が起きた時のこと覚えてるか」
唐突に、少し鼻声混じりの春の声が聞こえた。
「…うん、覚えてるよ」
視覚、聴覚、触覚。あらゆる感覚に恐怖として植え付けられた記憶は、忘れたくても中々消えてはくれなかった。
「あの時、土砂に飲み込まれてぐちゃぐちゃな電車の中で名前を呼ぶ声が聞こえたんだ。「はる」って。俺はずっと咲に呼ばれたんだと思ってたんだけど、違ってた。あれは、花の声だった」
恐怖として植え付けられたあの時の記憶を、もう一度思い出してゆく。
耳を劈く轟音と恐怖に満ちた叫び声。その中で確かに聞こえていた「さく」と呼ぶ声が。
そう、あれは花の声。確かに、花の声だった。
直後、花の悲鳴が聞こえて、私は「はな」と叫んでいた。恐怖の中、絞り出した声が届いたか分からないまま、私は土砂に呑み込まれていたのだ。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
「花はさ、最後に俺たちの名前を呼んでくれていたんだよ」
あの日から何度も同じ夢を見ていた。
いつもの席に私たちが座っている。ダメだと思っても、違う車両に移ろうと言おうとしても声が出ない。体が動かない。私の前で、まだ二人が笑っていてくれるのに。今ならまだ、間に合うのに。すると急に二人の顔が厳しくなり、こちらに向かい何かを叫んでいる。だけど、私にその声は聞こえなかった。
だけど、一度だけ「さく」と、私を呼ぶ暖かい声で目が覚めたことがあった。いつもは目覚めると心臓がバクバクしていて体は重たいのに、その時はいつもより体が軽くて、この日を境に夢を見る回数は減っていった。
花の暖かい声が、私を救ってくれていた。
死んでしまった花に、私たちが出来ることなんて何もない。何かをした所で、花に届いているかなんて分かりはしないのだから。
それでも、花ならきっと何処かで私たちを見守ってくれている。
そう思うのは傲りかもしれないけれど、そうであって欲しいと願っていたい。
だから──。
「春、手紙を書こう」
花が残してくれたまっさらな便箋。
二人になってしまったけれど、もう一度未来に向けて手紙を書こう。
そして、またタイムカプセルを埋めよう。
私たちには見えないだけで、花もきっと書いてくれている。
だって、それも花の願いなのだから。
そうすれば、どんなに離れていても、また会えるのだから。
葉っぱだけになった寒桜の木の下で、私と春は並んで座った。そして持っていた教科書を台紙替わりに膝に置き、ペンを走らせた。
何年後に向けてにするか?
書き出しはどうする?
内容は?
春と話し合いながら、ゆっくりと文字を綴ってゆく。
いつの間にか遠くで聞こえていたみんなの声も、どこかに消えてしまっていた。
春と私の声以外は、寒桜の葉擦れのカサカサとした音が残っているだけ。
悩みながら、時には笑い合いながら、便箋いっぱいに文字を書き入れた。
書き出しも、内容も、文字の大きさも、バラバラな二つの手紙。
だけど、最後の言葉は決まっていた。
──咲より 春 花へ
──春より 咲 花へ
生い茂る葉の中に、一輪だけ残された寒桜が、微笑むように私たちを見守っていた。
花より咲春へ
読んで頂き、ありがとうございました。
事実は小説よりも奇なり。
そんな言葉が、書いている途中で頭を過ぎっていました。
出会いも、別れも、偶然も、運命も。全て世の中に溢れていて、私たちは今までにたくさん経験している事だと思います。
それでも、虚構の小説の中にだって現実と遜色ないくらいの出来事が、せめて一場面でも書けたなら、とても嬉しく思います。
事実である現実も、虚構である小説も
どちらの物語も大好きだと改めて思いました。




