咲の話
「──これからの学校生活が素敵なものとなるよう共に励み学んでいきましょう。三年生代表、生徒会長 鈴城咲」
静まり返った体育館に、私の声だけが反響する。まるで温かさを感じない無感情な声だなと改めて思いながら、言葉を並べていく。
春がいないこの学校で、花がいないこの世界で、私は生きていく。
あの事故から私の世界は色も温度も感情も、全てが急進的に零れ落ちていった。
春と花のことを聞かされたあの日、暴れて泣き叫んだ病院のベットで母がいつまでも抱きしめてくれていた。信じられなくて、信じたくなくて、どうしようもなく自分を傷付けたかった。そして、心も体もどこか遠くへ捨て去りたかった。
それでも、母の温かさだけが遠く離れようとしていた私を繋ぎ止めてくれていた。
あれから目を瞑るたびに思い出すのは恐怖と不安、そして罪悪感だ。
土砂に呑み込まれたのは最後尾の車両だけだった。
私たちがいつも乗っていた車両。私が気に入っていた、最後尾のボックス席、四人がけで進行方向とは逆向きの窓側の席。二人がいつも私に合わせて座ってくれた席。
私があんな席に座っていなければ、お気に入りだなんて言わなければ、私になんて会わなければ、二人が事故に巻き込まれることなどなかったのに。
目を瞑るたびに何度も思い出す。
そして、あれから何度も同じ夢を見る。
いつもの席に私たちが座っている。
ダメだと思っても、違う車両に移ろうと言おうとしても声が出ない。体が動かない。私の前で、まだ二人が笑っていてくれるのに。今ならまだ、間に合うのに。
すると急に二人の顔が厳しくなり、こちらに向かい何かを叫んでいる。
だけど、私にその声は聞こえなくて。急に目の前が真っ暗になり、ようやく目を覚ます。
何度も何度も、私は二人を助けられない。なのに何度も何度も同じ夢を見る。
言葉が出ない、声が聞こえない、謝ることが、できないまま。
私の負った傷は右足の骨折と、数箇所の打撲と切り傷くらいだった。体はすぐに回復していったのだが、毎夜夢を見る度に暴れだしていたせいで入院は長引いた。
高校では夏休みが終わり二学期が始まった頃、ようやく退院の目処がたったのだ。
クラスメイトも何人かお見舞いに来てくれたみたいだったが、私が会いたくないと言っていたのでいつも面会せずに帰ってもらっていた。
しかし一度だけ葦有先生が病室まで来たことがあった。体調を聞かれたり、学校の様子を話してくれたり、プリントを渡されたみたいだが、ほとんど覚えていない。起きている間は、夢を思い出し暴れているか、ただ目の前の白い壁を一点に見つめているかしかなかった。直ぐに葦有先生は病室を出ていったみたいだが帰り際「鈴城さんの居場所はちゃんとありますよ」と言われたことだけは微かに聞こえていた。
退院しても学校へは行けないでいた。
それどころか、部屋から出ることもほとんどなくなり勉強・食事・睡眠、そのほとんどを自分の部屋で完結させていた。
カーテンすら開けないことを心配した母は、いつも何かと理由をつけて窓やカーテンを開けてくれていた。
今日も、空がきれいだからと開けてくれた窓の外では、紅掛空色の空にトンボが飛んでいるのが見えた。
それはどこか、見覚えのあるような空だった。
その日は、久しぶりの訪問者がやって来た。いつもみたいに会いたくないと母に伝えてもらったが、どうしても話がしたいと言われたらしく部屋へ上がってもらうことになった。
扉がノックされ入ってきたのは、蓮歌くんと葉澄さんだった。
クラスメイトと会うのは何ヶ月ぶりだろう。数ヶ月会わないだけで、何だか二人とも別人みたいだ。
ベットに座ったままの私の前に腰掛けるなり葉澄さんが話し始めた。
「咲ちゃん久しぶりだね!髪伸びたね〜。なんかその方が大人っぽいかも。しかも痩せたんじゃない?咲ちゃん元々細いんだから、ちゃんと食べなきゃダメだよ!それに」
「ストップ、葉澄さん。そんないきなり話したら鈴城さん驚いちゃうって」
「そっか〜。はっちーナイスフォロー!」
「ごめんね、鈴城さん。いきなり来ちゃって。今日はどうしても話したいことがあって、無理言って上げてもらったんだ」
二人の会話をどこか他人事のように聞きながら、久しぶりに家族以外と言葉を交わした。
「話って、なんですか」
家族との会話も必要最低限の返答しかしていなかったせいか、声は小さく少し掠れていた。それでも二人は特に気にする様子もなく、葉澄さんは私の目を真っ直ぐ見て言った。
「私たちいま、生徒会に入っているの」
生徒会…。その言葉に胸の奥がチリッと痛んだような気がした。
葉澄さんは更に言葉を続けた。
「でも、私たち二人じゃあどう活動していけばいいのかさっぱり。もうすぐ三年生も引退だから引き継ぎしてるんだけどやること多くて、も〜大変なんだよ。だからさ、咲ちゃん戻ってきてよ!」
人懐っこい笑顔のままに、葉澄さんが言ってきた。
「鈴城さんにとって学校に来ることや生徒会に戻ることはキツいことかもしれないけど。それでも、きっと今の鈴城さんにとっての居場所になると思うんだ」
蓮歌くんは少し迷いながらもそう言った。
確かに、ずっとこのままじゃいけない。そう思うことはあった。
だけど、いきなり生徒会に復帰するなんて。
「無理です。私には…」
「あ〜、待って!いきなり結論出さなくていいよ!三年生の引退までまだ時間はあるからゆっくり考えてよ!それと、咲ちゃん生徒会長になる予定だから、よろしくね!」
ゆっくり考えてと言った傍から、生徒会になる予定だなんて。矛盾している。
「だから、無理です。なんでそんな」
「河骨会長がね『生徒会長、副会長、書記は二年生三人の中から話し合いで決めてください』って僕たちに言ったんだ。この三人って言うのは、きっと鈴城さんも含めてのことだと思うんだ」
「私たちは生徒会に入ったばっかりだし、生徒会長とか正直何していいか分からないし。それに、私は書記がやりたいの!秘書みたいだし、出来る女って感じでしょ。私にピッタリ!だから、生徒会長は咲ちゃんにお願いしようって」
「いや、だから…」
「今日はいきなり来ちゃったし、そろそろ帰るよ。僕たちまた来るから、その時に返事聞かせて」
「じゃあ、またね〜咲ちゃん」
言うだけ言って、二人はあっという間に部屋から出て行ってしまった。
まるで嵐の後のように静まり返った部屋に残され、さっきまで聞こえなかった時計の針の音を呆然と聞いていた。また来るのだろうか。断ったはずなのに、返事を聞かせてと言われても…。
ふと窓の外を見ると紅掛空色の空からは紅が消え、濃い藍色に染まっていた。少し冷えてきたがカーテンは開けたまま、ベットに横になった。
あの日以降、二人は頻繁に家を訪れるようになっていた。何度会いたくないと母に伝えてもらっても、大事な話があるからと言って部屋までやってくる。そのうち母も、私に二人が来たことだけを伝え部屋まで上げるようになっていた。
しかし来て話すことと言っても学校のことを少し話すだけで、あとは隣町に遊びに行ったとか最近ハマっているアイドルの話とかを一方的に聞かされているだけで大事な話とは程遠かった。
しかも話しをするのはほとんど葉澄さんで、蓮歌くんは言葉が詰まったり言い淀んだりした時のフォローに回っている。たまに私に話を振ることもあったが、短い返答で答えることしか出来なかった。
そうして一時間くらいして二人は帰っていく。しかし部屋を出ていく時は必ず蓮歌くんが「生徒会に戻って来ない」と聞いてくる。私が横に首を振ると「また来るから、その時に返事聞かせて」と言って二人は出ていく。
それが何回も続いた。平日も土日も関係なく、週に三、四回のペースで。
ほとんど話すことのない私の所へ来たって楽しいはずがないのに。生徒会長だって、クラスにもっと相応しい人がいるはずなのに。私にこだわる理由が分からない。
それでも、二人が来た時は自分からカーテンを開けるようになってい。
しかし最近、二人の来る回数が減っていた。元々週三、四回なんて多いと思っていたけれど、今は一週間来ていない。いい加減、私の相手も疲れたのだろう。
締め切ったカーテンの外では、遠くの方から雷の音が聞こえていた。朝から鉛色の重苦しい空は、夕方になりとうとう溜め込んでいた水分を落とし始めた。
雨は嫌だ。
布団を頭までかぶり震える手で柔らかい枕を抱きかかえた。
今日は父も母も仕事で遅くなると言っていたから、一人で耐えるしかなかった。眠りたくないけど、瓦を叩きつける重く鈍い雨音も聞いていたくない。ギュッと固く目を瞑り、じっと空が水分を落としきるのを待つ。
どれくらいそうしていたのだろう。薄目を開けると、そこは電車の中だった。
またあの夢だ。私はいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
目の前で春と花が笑っている。それでも私は声が出ない。体が動かない。二人の顔が険しくなる。私に何かを叫んでいるのに、声が聞こえない。そして目の前が真っ暗になる。
いつもと同じ夢。
ほら、また助けられないまま、私だけ目を覚ます。
そう思っていた。なのに今回は違った。
「さく」
初めて声が聞こえてきた。
真っ暗な中、私を呼ぶ暖かくて優しい声。
目を覚ますと今度こそ布団の中だった。
一階からはお湯の湧く音が聞こえていた。母が朝食の用意をしているのだろう。ぼやける目を手で擦り時計に目をやると、針は六時になる少し前を指していた。
随分眠てしまっていたようだ。
少し上がっていた息を整え、力を入れて起き上がろうとした体は思ったりよも軽くて、すんなり立ち上がることが出来た。
カーテンを開けて外を見ると、雨に濡れた瓦に朝日が差しチカチカと揺れて目が眩んだ。雨はすっかり止み、空は薄水色が一面に広がっていた。
私はカーテンを開けたまま一階へと降りていった。
その日の夕方、久しぶりに葉澄さんと蓮歌くんが訪れた。しかも、今回は河骨会長まで引き連れて。
部屋に入るなり、葉澄さんは顔の前で科を作りながら話し出した。
「ごめんね〜咲ちゃん。なかなか来られなくて。収穫祭で大変だったんだ!」
収穫祭。また胸の奥がチリッと傷んだ気がした。そうか、もうそんな時期だったのか。
「初めての収穫祭だし、僕たちにとっても生徒会に入って初の大仕事だったからバタバタしてて」
「それは、お疲れ様でした」
「も〜、もっと労ってよ!すごく大変だったんだよ!雨まで降るし~」
昨日の雨なら打ち上げ花火は出来なかったのだろうか。
「まあ、朝から曇ってたから屋内でやる準備もしておいて正解だったね」
「そ〜だけど…。まぁ、けんちん汁も焼きおにぎりも美味しかったから多めに見てあげる」
「なんで上から目線なんだよ」
打ち上げ花火のことは気になったが、二人の楽しそうに話す姿を見て少し安心していた。
「良かったですね、収穫祭成功して」
「いや、成功には程遠いかな」
それまでニコニコと隣で話を聞いていた河骨会長が突然口を開いた。確かに雨に降られたみたいだが、屋内で準備を進めて出来たわけだからほぼ成功ではないのだろうか。
私の疑問を分かっているかのように、直ぐに続きを話し始めてくれた。
「咲さんは打ち上げ花火のことを聞いてこなかったね。それは、雨が降ったから打ち上げられなかったと思っているのかな?」
「…はい」
「そうだね。でもそれは、少し違うよ。確かに雨が降っていたから打ち上げられなかったと思うけど、そもそもの準備が間に合っていなかったんだ。みんな収穫祭だけで手一杯だったからね。だから例え晴れていたとしても、花火は打ち上げられなかったんだ」
そう、だったのか…。だから成功には程遠い、なんだ。
言葉に出来ない何かが、胸の中でザワついた。残念ですとも、次がありますからとも言えず、私はただ俯いた。
「だからね、この続きを咲さんにお願いしたいんだ。元々の立案者である君に」
河骨会長の穏やかな声は、子守唄のように硬い私の私の心にすんなりと入ってくるようだった。
「あの日、君たちのプレゼンを聞くだけだった僕には、この行事にかける想いの全てを理解することは出来なかった。それでも、春くんが最後に言った言葉は充分に気持ちが伝わってきたよ」
誰かの口から久しぶりに聞いた、春の名前。みんなが気を使って出さない中、河骨会長はなんの迷いもなくその名前を口にする。
「咲さんにとって生徒会は辛い場所なのかもしれない。きっとたくさんのことを思い出してしまうからね。それでも、春くん花さんと過ごしたことまで、辛い記憶にしなくていいんだよ」
そう言われて思い出したのはいつも見る夢だった。
毎回助けられず、声も届かない、ただの悪夢。そう思っていた。だけど二人の笑顔を見られるのもまたその夢で。それを悪夢だと思い込んでいたのは自分自身で。
「もし本当に嫌なら無理強いはしない。でも、まだ生徒会を大切な場所だと思ってくれているのであれば、僕は君に戻ってきて欲しい」
俯いた顔をゆっくり上げると、葉澄さんも蓮歌くんもグッと力を入れた表情でこちらを見ている。それでも河骨会長だけはにこやかに微笑んでいた。
「僕にとっても大切な生徒会なんだ。咲さんに託してもいいかな?」
私は小さく頷いていた。
***
学校へは三学期からから登校することになった。遅れていた勉強は家庭学習でなんとか取り戻すことができ、出席日数に関しては特別に免除してもらえることができた。
登校初日、身構え入った教室は思っていたよりもあっさりしたものだった。
クラスメイトから気を使われるか、遠巻きにされるかのどちらかだと思っていたのに。以前と何も変わらず、まるで梅雨の日の続きから始めたみたいだった。
きっと葦有先生が事前に話をしてくれたり、葉澄さん、蓮歌くんが気を利かせてくれたお陰なのだろう。
二人とも付かず離れず常にフォローをしてくれていた。
そして放課後になり、私は数ヶ月ぶりに生徒会室の前に立っていた。一度息を吐き、扉に手を掛けた。少し重く感じながら開いた先には、以前と何も変わらない生徒会室が待っていた。
コの字に並べられた机と椅子。過去の書類が詰め込まれた本棚。見慣れた生徒会の面々。引退している三年生も今日は特別に参加してもらっている。河骨会長に至っては、二学期いっぱい生徒会長を務めてくれていた。
そして今日からは、私がその籍を担っていく。
今まで河骨会長が座っていた席に着き、生徒会会議が開始された。右側にはルーズリーフを広げ記録の準備を始める葉澄さん。左側には今日の進行係を務める蓮歌くんがいてくれる。
会議前半は三学期の行事確認を簡単に済ませ、いよいよ生徒会長の引継ぎへ移っていく。
河骨会長の挨拶が終わると、みんなの視線が私へ移動するのが伝わってきた。俯きそうになるのを必死にこらえ、しっかり前を見据え、話し始めた。
「生徒会長を引き継ぎました、鈴城咲です。私は一学期に起きた事故からずっと、学校を休んでいました」
まさか私の口から事故の話が出るとは思っていなかったようで、空気が一瞬止まった。
一年生の方からは息を飲む音も聞こえてきた。それでも、構わず話し続ける。
「いきなり来て生徒会長になるなんて、納得のいかない人もいるかと思います。斯く言う私自身、本当に務まるのか未だに不安です。それでも、河骨会長から頂いた言葉や、葉澄さん蓮歌くんの手助けを借りて、今この場に立っています。みなさんもきっとそうであるように、私にとっても生徒会は大切な場所です。この場所から七草高校をより良くしていく為に、今日からみなさんの前に立ち、進んで行こうと思います。懸念する点もあるかと思いますが、どうか一緒に進んでください」
頭を下げると伸びた髪が邪魔をして、周りの様子が分からなかった。
それでも、聞こえてくる拍手の音は柔らかくて、顔を上げるのは怖くなかった。
***
生徒会長としての仕事は思った以上に多忙で慌ただしい日々が過ぎて行った。
そのなかで、この生活に慣れていく自分を許せなくもあった。だから更に仕事を増やし、勉強もこれまで以上に取り組んだ。
その甲斐あってか、三年生に上がる頃には成績首位を取るまでになっていた。それでもまだ足りない。そんな気持ちが拭えないまま、免罪符であるかのように話し方も敬語を徹底し勉強も生徒会活動も一心不乱に続けていた。
そして四月。雪のように真っ白な卯の花を咲かせることから名付けられた別名、卯の花月。
校庭には卯の花ではなく、真っ白なソメイヨシノが咲き誇っていた。所々ピンクに染まっている花もあり、まるで愛でられることに照れているようでもあった。
春風が暖かく、ソメイヨシノも満開に咲き、入学式を行うにはまさに最高の日和となった。
体育館には新一年生が緊張した面持ちで綺麗に整列している。
少し物寂しく感じるのは二、三年生が午後からの登校でいないからだろう。入学初日から上級生がたくさんいる中に中学校を卒業したばかりの一年生が入るのは怖いだろうと、この学校では毎年入学式は新一年生と先生方、そして生徒会役員のみで行われる。
校長先生の話、生徒指導の先生からの注意事項と続き生徒会長の挨拶の順番が回ってきた。
卒業式の時もそうだったが、人前に出て話をするというのは未だに慣れない。
壇上に上がる前に一度ゆっくり深呼吸をし、階段に足を掛けた。演台の前に立ち備え付けられているマイクのスイッチを入れる。一瞬ハウリングしかけたマイクはすぐに落ち着いたが、その耳障りな音で少しざわついていた空気が一気に静まり返った。
その静寂の中、言葉を発した。
***
入学式も無事に終わり、息付く暇もないまま新しく一年生を迎え入れ、新生徒会としての顔合わせの日がやってきた。
放課後、早めにホームルームを終えた私たちは先に生徒会室で一、二年生が来るのを待っていた。
「咲ちゃんもしかして緊張してる?」
隣でルーズリーフに今日の日付を書き込んでいた葉澄さんがこちらを覗き込みながら聞いてきた。
「そんなこと、ないです」
そう言って組んだ手の指先は冷たくなっていて、それを隠すようにギュッと握りしめた。
「大丈夫だよ、鈴城さん。僕と葉澄さんだって付いてるし」
「そうだよ。もうダメだ〜ってなったら、はっちーに丸投げしちゃっていいからさ」
「いや、丸投げは嫌だよ。そこは三人で頑張ろうよ」
そんな会話をしているうちに時間になったのか、扉がノックされ二年生と一年生が入ってきた。
二年生は生徒会について知悉しているので、そのまま自分たちの席に着いた。一年生へは蓮歌くんが指示を出し、それぞれ席へ着いてもらった。
今日からはこのメンバーで新生徒会が発足される。
まずは恒例の自己紹介から始めることとなった。
一年生で最初に立ち上がり話し始めたのは、落ち着いた様子の男子生徒だった。話し方や声に芯が通っていて、あまり緊張している風には見られない。
生徒会は主にそれぞれの学年をまとめることが多いから、彼のような生徒が居てくれるのはすごく有難いし頼もしくもあった。
その彼の挨拶が終わり、次に立ち上がったのは一年生唯一の女子生徒だった。
名前を聞いた途端、驚いた。
藺草灯。
彼女はそう名乗ったのだ。たまたま同じ苗字だろうかとも思ったが、兄が生徒会長をやっていたと聞いて確信した。彼女は私が一年生の時に生徒会長をしていた、藺草涼会長の妹だ。こんな偶然があるのだろうか。藺草会長に妹がいたなんて知らなかったし、その子がまさか生徒会に入るなんて。しかも彼女は入学式での私の姿を見て入ろうと思ったと言っていた。
あまりの驚きに凝視していると自己紹介を終えた彼女と目が合ってしまった。その意志の強そうな瞳が藺草会長と重なり、少しだけ懐かしい気持ちが湧き上がってきた。だが、直ぐに次の生徒の自己紹介が始まりそちらに視線を戻した。
一年生最後は少し日に焼けたスポーツ刈りの男子生徒だった。生徒会と言うより、どちらかとゆうと野球部の方が合っていそうだ。
彼の挨拶は短く端的だった。それでも、私にとってはすごく意味のある言葉を口にした。
「なんでも出来る生徒会」彼はそう言ったのだ。
生徒会に対する絶対的な自信。それは春がいつも言っていた「生徒会に出来ないことはない」そんな言葉と重なって、私の中に入ってきた。それは苦しくて懐かしい大切な言葉だった。
全員の自己紹介が終わり、最後に生徒会長である私の番が回ってきた。まだ少し冷たさの残る指先で机を押し、立ち上がった。これから共に活動していく生徒会役員たちの顔をぐるっと見回し、真っ直ぐ前へ視線を固定し話し始めた。
「生徒会長、三年の鈴城咲です。一年生は入ったばかりで分からないことも多いかと思います。なのでなにか困ったこと、聞きたいことなどあれば遠慮なく話に来てください。私たち生徒会の仕事は、全校生徒が勉学に勤しめるよう快適で、さらに楽しいと思える学校生活が送れるよう活動することです。大変なことも多いかと思いますが、共に務めていきましょう」
最後にニコリと微笑むことでも出来れば良いのに淡々と言葉を発することしか出来ない。
二年生はともかく、慣れていない一年生が萎縮してしまわないか少し気掛かりだった。
生徒会活動は多岐にわたるが、そのうちの多くが行事関係になる。
特に入学式、卒業式、文化祭、体育祭など大きい行事の時は時間をかけて取り組んでいる。
今回の生徒会会議では二学期に行われる文化祭についての話し合いが行われることとなった。まだ一学期も始まったばかりなのに何故かと言うと、今年は文化祭実行委員を各クラス一名ずつ選出するからである。
毎年生徒会だけで担っていた役割を生徒会役員プラス各クラス一名ずつの文化祭実行委員、計十八名で文化祭を運営していく。
理由は色々あるが、毎年生徒会への負担が大きいことと、今年は収穫祭と打ち上げ花火の両方を企画していて、その為の準備に人手も時間も掛かってしまうからだ。十八名ともなると役割分担が重要になる。なのでその話し合いが今日の会議の本題となった。
みっちり二時間半の話し合いを終え、何とか大まかな段取りを組むことが出来た。少し根を詰め過ぎて、休憩を取るのを忘れていた。
会議が終了するや否や、葉澄さんが大きく伸びをした。
「終わった〜。頭使いすぎてぐわんぐわんする。はっちーチョコ食べたい」
「そんなの持ってないよ。それより僕たちにはまだ、先生に渡す資料をまとめる作業が残ってるよ」
「わ〜ん。そうだった」
少し大袈裟に机に倒れ込みながらも、資料をまとめる手は止めずに動いていた。
「疲れているなら私がやっておきますよ」
「鈴城さん、葉澄さんを甘やかしちゃだめだよ。出来る女の書記なんだから、これくらい余裕だよね」
葉澄さんは口を尖らせながら応えた。
「う〜出来るもん、余裕だもん!」
「うん。もう少しだから頑張ろ!」
「会長、お疲れ様です。あの少しお聞きしたいことがあるんですが宜しいですか?」
私たちが資料を纏めているところへ話しかけて来たのは藺草さんだった。
終わるまで待ってもらうように言うと、葉澄さん蓮歌くんが気を利かせて作業を引き受けてくれた。
二人に感謝をし、藺草さんと二人で少し離れた席に移り腰掛けた。思い詰めたような真剣な顔。もしかして、生徒会に不満でもあるのだろうか。
少し身構えながら待っていると、出てきた言葉は意外なものだった。
「…リボンの開花ってしても大丈夫ですか!?」
緊張した声とは裏腹な可愛い悩みに思わず息が漏れてしまった。それでも一年生である彼女にとっては真剣な悩み。そして、私も覚えのある悩み。だから真摯に誠実に言葉を返した。
「リボン、開花して大丈夫ですよ」
それだけで終わらせるはずだった。
なのに、自分でも不思議なくらい自然と次の言葉を発していた。
──開けたいのであればやってあげますよ
そんな言葉、言うはずではなかったのに。
断られるかと思ったその提案は予想以上に勢いの良い返事で承諾をもらい、その場でリボンの開花をすることになった。
上下の留めてある糸を切り離し、綺麗に形を整えもう一度縫い合わせていく。
あの時、花がしてくれたように。
記憶をなぞって針を進める。
けれど、見様見真似では私のリボンのようにはならなかった。やっぱり私では綺麗に開花させることが出来ない。
それでも藺草さんは手渡されたリボンを見て、とても喜んでくれていた。
六月に入り、各クラスから文化祭実行委員も選出され本格的に文化祭に向けての会議が行われた。役割分担を決めてはいたが、いつもの倍の人数での打ち合わせは予想以上に苦労させられた。
生徒会役員は普通科のみだが、文化祭実行委員は生物生産科、環境工学科からも選出されるため接点のない科の生徒だと、どこまで踏み込んで話していいのか迷ってしまう。しかも人数が倍になれば、出る意見や聞く質問も自ずと増えてくる。その為、毎回会議は下校時刻ギリギリまで行われることが多くなっていた。
季節は梅雨。生徒会の仕事や勉強をどれだけ詰め込もうと、心のどこかでこの季節を意識してしまう。
考えは制御出来ても体が覚えている。この、じっとりとした空気の匂いや、纏わり付くような感覚を。
毎日が重たい雲に覆われて、もう何日も青い空を見ていない。早く過ぎて欲しいと願っていても、天気予報には紫色の傘マークと曇りマークが絶え間なく続いてた。
朝から大粒の雨が降っていると、学校へ行けない日も出てきてしまう。それでも生徒会がある日は両親に車で送迎してもらいながら、なんとか登校していた。
下校するタイミングで雨に降られることもあり、その場合は母が駅まで迎えに来てくれていた。一人では登校も下校も出来ない自分を情けなく思いながら、母の優しさに寄り掛かるばかりだった。
事故のことがあり電車通学は無理ではないかと言われていたが、雨さえ降っていなければ問題なく乗ることは出来ていた。
それでも、前までと同じ車両、同じ席に座ることだけはどうしても出来なかった。あれ以来、乗るのはいつも先頭車両だ。扉の脇に立ち、ただ進む方向だけを眺めている。後ろから流れ去る景色も、通過した後に残る線路も、もう見ることは出来ない。
ちゃんとレールの上を走っていた筈なのに、いつの間にか脱線してしまっていたことを、もう自覚したくはないのだ。
今年は例年に比べ長雨だったようで、梅雨が明けたのは夏休みに入って数週間経った頃だった。
***
夏休み明けの生徒会はほとんどの生徒が夏休みの余韻を引きずったまま集まっていた。こんがり焼けた肌に、少し脱色した髪。髪は海やプールで傷んだのか、夏休みだからと染めていたのか、見た目で違いは分からなかった。
クラスでは夏休みだからと羽目を外してピアスを開けていた人もいたが、今日集まった生徒会と文化祭実行委員の中にはそこまでの人はさすがに居なかった。もし開けていたら生徒会長として注意しなければならなかったから、少しほっとしていた。
それでも夏休みを満喫した思い出を、各々楽しそうに話していた。
一年生の小塙くんは特にこんがり焼けて、スポーツ刈りも相まって、まるでどんぐりみたいになっていた。部活動はやっていないはずだから、相当夏の日差しを浴びていたのだろう。
そのまま視線を落とし、ペンを握る自分の手を見てみる。不健康なまでに青白い肌。皮膚のすぐ下には青い血管の筋まで見える。
夏休み明け教室に入り葉澄さんから言われた最初の一言は「夏休みホラー映画見に行ったんだけど、井戸から出てきた幽霊より白いよ」だった。さすがに盛り過ぎではあるが、それくらい不健康そうに見えたのだろう。
もう一度自分の手を見る。日焼けの境界線は何処にもなく、白いと言うより青白い。殆どの日を家から出ることなく過ごしていたのだから仕方がない。
それでも、いつもは笑いながら話しかけて来る葉澄さんの少し驚いたような顔は、仕方がないで済ませる私なんかより、私の体のことを案じてくれているようだった。
今年は早めに長袖の制服に切り替えよう。
もう一度ペンを握る手を見ながらそう思った。
日に焼けないため、ではなくて青白い肌をなるべく見せないために。私に対する不安や心配の種は、なるべく自分で摘んでおきたかった。
季節は進み、秋が夏を塗り替えていく。
山の緑は紅葉色や黄檗色に染まり始め、暖かかった風も今は肌寒く感じるようになってきた。
文化祭はもう目の前だった。
***
私たち三年普通科クラスは、今年の文化祭でまたもやお化け屋敷をやることになった。
他の意見も出てはいたが、投票の結果クラスの大半以上がお化け屋敷を支持していた。前回が好評だった分、今回はもっとグレードアップして、今年から始まる後夜祭での売り上げ発表で一位を目指そうというのだ。
準備や役割分担は一度経験しているから、かなりスムーズに決められた。
そして前日になり、例の如く男女ペアでお化け屋敷を体験する時がやってきた。
偶然の巡り合わせか、私は今回も蓮歌くんとペアを組むことになった。怖がりなことは秘密。その約束がある分、蓮歌くんにとって私と一緒の方が気が楽なのかもしれない。それでも怖いに越したことはなく、ゴールするなり廊下の隅でへたり込んでしまった。
「はっちー、大丈夫?」
先にゴールしていた葉澄さんは座り込んでいる蓮歌くんを見るなり、少し笑いを堪えながら聞いてきた。
「だ、だいじょうぶ。ちょっと、おどろいたらけらから」
「あはははっ、全然呂律回ってないじゃん!大丈夫じゃないでしょ!」と、今度は堪えることなく笑いながらもその手は背中に当てられていた。その声とは裏腹に子供をあやす様な優しい手つきが葉澄さんの優しさを写しているみたいだった。
「蓮歌くん、立てそうですか?必要なら手を貸しますが」そう言いながら、この手は掴んで欲しくないと思ってしまった。葉澄さんの優しい手と比べたら、私の差し出す手はきっと冷たいだろうから。それを知られたくなかった。
「いや、もう大丈夫だよ。ありがとう、鈴城さん、葉澄さん」
まだ少し引き攣った笑顔を見せながら、蓮歌くんは首を軽く振って、もう一度「大丈夫」と言いながら私の手を断った。そして床に手を付き、自力で立ち上がった。
「はっちーは驚いたんじゃなくて、お化けとか苦手なんだよね!」
その言葉を聞くなり、蓮歌くんの顔が赤くなった。
「え、いや、違うよ!本当に驚いただけで、お化けが怖いとか、そんなんじゃないよ!」
焦りながら否定する態度が、寧ろ葉澄さんの言葉を肯定しているようだった。
「隠さなくてもいいよ〜。ってゆうか、結構前から知ってたし」
「え、え、何で!?結構前っていつから…。もしかしてみんなも知ってるの!?」
蓮歌くんは今度は首を勢い良く左右に振り、周りを確認した。しかし他のクラスメイトは自分たちの話に夢中になっているみたいで、こちらのことなどまるで眼中になかった。
「みんなはどうか分からないけど、お化け役の子とかは気づいてるかもね!」
「そう、だよね…。え、でも葉澄さんお化け役やってないよね?」
「やってないよ〜」
「じゃあ何で分かったの」
「え〜、秘密だよ!当ててみて」そう言いながら葉澄さんはこちらを見て「咲ちゃんも考えてみて」と、少し悪戯っぽい笑顔を向けてきた。
文化祭一日目。
校門の前では保護者や他校の生徒、地元住民がもう何人も開門の時を待っていた。
クラスではホームルームを早々に済ませ、それぞれの準備に取り掛かっていた。二回目ということもあり焦る様子もなく、手際良く準備が完了していく。
お化け役の生徒はそれぞれのポイントに着き、受け付けや呼び込みの準備も万端だ。最初の時間フリーの生徒はパンフレットを見ながら、何処の出店に行こうか相談している。
──これならば大丈夫だろう。
各教室の時計からチャイムの音が鳴り響いた。文化祭期間は始まりと終わりの時間のみ、チャイムが鳴るようになっている。
窓から外を見ると校門が開かれ、待っていた人たちが一斉に入場を始めていた。もうすぐここにもたくさんの人が来る。
クラスメイトたちの楽しそうな声を背に、私は教室をそっと離れた。
遠くでは色々な音が混じり合い響いている。
目の前の体育館は防音で、たまに音楽や声が聞こえるくらいだった。
今はちょうど演劇部が公演をしている時間帯のはずだ。今日の演目は確か『夏の夜の夢』ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇だ。妖精たちの森で引き起こる不思議な恋愛劇。けれどここにはパックのはしゃぎ飛び回る声も、ライサンダー、ハーミア、ディミートリアス、ヘレナの恋の行方も厚い壁に阻まれてほとんど聞こえてこなかった。
寒桜のゴツゴツとした幹に寄り掛かりながら空を見上げた。
枝の隙間から見える空は遠く、澄んだ水色にいわし雲が浮かんでいる。
久しぶりにこの場所に来た。本当に久しぶりに。
掌で地面の土の感触を確かめながら、そっと目を瞑る。この下にはまだ、思い出が眠っているんだ。
文化祭期間中、生徒会とクラスの手伝い以外はここに居ようと決めていた。
壁を挟んだ向こう側にはたくさんの人がいて、校庭にも校舎にも普段では考えられないくらいの人が溢れているのに、この場所は静かだ。
誰も体育館裏なんて来るはずがないし、行く理由もない。
だから華さんもこの場所にいたのだろうか。ふと、そんなことを思い出していた。
華さんもこの場所で一人、幹に体を預けながら遠くに聞こえるみんなの声を聞いていたのだろうか。
文化祭二日目もホームルームが終わり、クラスの準備を見届けてから体育館裏に来ていた。
昨日、生徒会での見回りに行った時と今朝のホームルームの前に葉澄さんと蓮歌くんからどこに行っているのか聞かれたが、何となく言えずに誤魔化してしまった。
この分だと午後の見回りの時にまた聞かれるかもしれない。そんな事を思いながら、また幹に体を預け空を見上げた。今日の雲はひつじ雲だ。いわし雲もひつじ雲も大して差はないが、今日の方がよりモクモクとしていて動物的だった。
ぼんやりと空を眺めながら、耳は体育館からかすかに聞こえる声に向いていた。演劇部の今日の公演は何だったろうか。『…約束を守ります。…──三日間だけ……。妹が待ってるんだ。セリヌンティウス…』
今日もまた有名な戯曲をやっている。太宰治の『走れメロス』だ。授業でも習う題材で、題名と冒頭はきっと誰でも知っているだろう。
「ちょっと、咲ちゃん!やっと見つけた!」
葉澄は激怒した。
一瞬そんな言葉が頭を過ぎった。
過ぎ去った言葉はそのまま消え、目の前には仁王立ちで両手を腰に当てた葉澄さんが立っていた。強く光った双眸が私を捕らえている。後ろでは両手で宥めるような仕草をする蓮歌くんの姿もあった。
突然来た二人への驚きと葉澄さんの勢いに呆気にとられて声を出せないでいると、葉澄さんは近づきながら更に言葉を強くした。
「どこ行くのって聞いても全然教えてくれないし、ホームルームの後も突然いなくなっちゃうし!私たちこの人混みのなか咲ちゃんのことすごく探したんだよ!」
確かに語気は強いけれど、怒りとは違った感情で怒られているみたいだった。
「えっ、あの、すみません。私に何か用事でしたか?」
私のこの返答が不味かった。
「違ーーう!用事とかそんなんじゃない。どうして一人でこんな所にいるの!昨日だって見回り終わったらすぐいなくなっちゃうし、それまでどこに居たのって聞いても教えてくれないし!生徒会室とか屋上とか校庭とか探しても全然見つからないし。せっかくの文化祭なんだよ。それなのに、何で一人で、こんな、誰も来ない木の下なんかに…」
それまでの強い口調から、スイッチを切り替えたように弱く力無い言葉に変わっていき、私を捉えていた双眸も見えなくなってしまった。
その変貌に声を掛けられず、ただ見ていることしか出来なかった。俯いてしまった葉澄さんに変わり、それまで心配そうな顔で見ていた蓮歌くんが代わりに話し始めた。
「僕も葉澄さんも心配してたんだよ、鈴城さんのこと」
「心配…ですか?」
「そう、心配。鈴城さんは文化祭楽しい?」
真っ直ぐ目を見て聞かれ質問に、同じように目を見て答えることが出来なかった。
外してしまった視線の行き場に困り、手についた泥を払い落とそうと地面に視線を向けた。そうしてようやく「…はい。楽しいです」と答えることが出来た。
だけど、こんな空台詞すぐにバレてしまう。案の定蓮歌くんに「嘘だよね」とあっさり否定されてしまった。
今度こそ言葉が出なくなってしまった。
本当は楽しくなんて、ない。けれど、それは文化祭に限ったことではなかった。
最近「楽しい」と思ったのはいつだろう。きっと登校を再開してから、その感情に出会ったことは一度もない気がする。今だってみんなの楽しそうな声は聞こえているけど、その感情が自分の中に生まれるかと聞かれれば、いいえと答えるだろう。
今までどうやってその感情を持てていたのかすら思い出せない。
底の見えない井戸みたいに、感情が湧いているのか分からず汲み取ることが出来ない。そんな状態がずっと続いている。
すると地面に向けたままの視界に何かが入り込んできた。それは葉澄さんの履いているローファーだった。
さっきまで俯いていたはずの葉澄さんが私の前に座り、顔を覗き込んできたのだ。そして同じ目線で話し始めた。
「咲ちゃんは楽しくないんじゃなくて、楽しいって感じたらいけないと思ってるんじゃない。だからこんな所に一人でいたんでしょ」
今度は目を逸らせなかった。言葉遣いや態度で必死に隠そうとしていた疵瑕を見抜かれてしまったのだから。
「そんなの間違ってるよ」
表情は固まったまま、心だけが波打つ。
「それって二人のことを言い訳にしているだけだよね。そして、そこへ逃げてる。本当は一人になんてなりたくないんじゃないの?でも、誰かといることも悪いと思ってる。もしかして咲ちゃん、春くんと花ちゃんの事を枷だと思ってるの」
「違う!そんなことない!」
そんなはず、ない…
絞り出した言葉は喉の熱さに焼かれて消えてしまいそうだった。それでも「二人のこと、そんな風に思ってない…」心は伝えろと叫んでいる。
葉澄さんに対してなのか、自分に言い聞かせる為なのか、分からない言葉を。
「…ごめん、咲ちゃん。言い過ぎたね…」
気付けば葉澄さんは辛そうな笑顔を作りこちらを見ていた。双眸に宿した強い光は、いつの間にか消えていた。
「ちょっとやけになったんだ。咲ちゃんがこんな所にいたから。この場所って春くんに告白して振られた場所だったから」
一年生の時の文化祭。春を探しに来たこの場所で、私は葉澄さんが春に告白する所を目撃してしまった。後で春から断ったと聞いていたから、それきり考えていなかったが、まさか葉澄さんの口からその話が出るなんて思いもしなかった。
「私にとって、この場所は特別なんだ…」
そう呟いた葉澄さんは、どこか懐かしんでいるようだった。
私には告白した経験も、された経験もないが、好きな人へ自分の想いが伝わらないことは辛いはずだ。それなのに、特別だなんて。それは何を意味しているのだろう。
私が言葉の意味を汲み取れずにいると、分かっているとでも言うように笑いかけてくれた。いつもの葉澄さんに近い笑顔で。
「振られたのに特別だなんて変だよね。確かに断られたことは悲しかったし悔しかったよ。どうして私じゃダメなのって言いそうにもなった。でも、告白したことに後悔はしてないんだ。私の恋はビターエンドだったけど、それまでの過程が全て苦かった訳じゃないし、むしろ楽しくてドキドキしてた。だからこの場所も出来事も特別だし、そう思っていたいの」
──春くんと花さんと過ごしたことまで、辛い記憶にしなくていいんだよ
河骨会長から言われた言葉を思い出した。
葉澄さんはそれを体現していた。
私が辛くて怖くて逃げていたことを、目を逸らさずに受け止めていた。葉澄さんの心の幹はすごく強い。
「咲ちゃん、前に私が考えてみてって言ったこと覚えてる?」
突然の質問だったが、何を言っているのかはすぐに思い当たった。
「えっと、はい」それは確か、蓮歌くんがお化けが苦手なことをなぜ知っていたのか。私にも考えてと、悪戯っぽい笑顔を向けて聞いてきたことだ。
「やっぱり、お化け役をしていたクラスの誰かに聞いたとか、ですか?」
考えてはみたが、それ以外で私が思い付くことがなかった。
「違うよ〜。正解は、春くんが咲ちゃんのこと見ていたからでした!」
「…え?」話の繋がりが読めず呆けていると、葉澄さんは聞いてきた時と同じ悪戯っぽい笑顔を向けながら言った。
「私と春くんがお化け屋敷から出た時、二人で話してたよね。廊下の隅で。春くん、クラスメイトのみんなから怖がりだってからかわれながら、二人の方チラチラ見てたんだよ。どちらかとゆうと、見ていたのは咲ちゃんだと思うけど。それが気になって私も見てたら、はっちーの手が震えてるのが見えたんだ。腕を後ろに組んで隠してたみたいだったけど、こっちからはバレバレだったよ!まぁ、みんなも春くんも気づいてなかったみたいだけど。だから分かったんだ。あぁ、はっちーも怖かったんだなって。そのあと二人でひそひそ話してたから、もしかして知られたくないのかなとも思って」
蓮歌くんの方をちらっと見ると「そっかー」と小さく呟きながら恥ずかしそうに頬を搔いていた。
「私、ちょっと悔しかったんだ。今一番近くにいるのは私なのに、春くんもお化け屋敷怖かったはずなのに、あの時春くんの頭の中を占めていたのは咲ちゃんだったんだよ。だから文化祭で告白したの。振られるって分かってたけど、春くんが私を一番に考えてくれる瞬間が欲しかったから」
葉澄さんは両手で私の両腕をしっかりと掴んだ。
「だから、こんな所に一人でいないで。春くんがいなくて寂しいのも、花ちゃんが死んで悲しいのも咲ちゃん一人じゃない。それが理由で文化祭を楽しんじゃいけないと思っているなんて、咲ちゃん身勝手だよ!きっと二人はそんなの望まないし、私もはっちーも許さない!河骨会長の言葉、覚えてるよね」
ゆっくりと、頭を縦に振った。
「だったら、何をすればいいか分かるでしょ?文化祭を楽しむんだよ!二人と過ごした大切な思い出があるなら、今咲ちゃんが過ごしている文化祭を辛い思い出にしたらダメだよ」
掴まれた両腕に落ちた葉澄さんの優しさが、腕をつたい身体中に流れ込んでくる。
蓮歌くんはポケットから青いハンカチを取りだし葉澄さんに手渡すと「さぁ行こう。早くしないと見回りの時間が来ちゃう」と優しい声で私たちを促してくれた。
遠くからは楽しそうな声が聞こえてくる。
今年は一年生がチョコバナナとチョコマシュマロを扱ったお店を出していた気がする。他にもスタンプラリーや動物触れ合い体験も企画されていた。
何もかもが前回と違う文化祭。
春も花も隣にはいないけれど、今は蓮歌くんが前を歩いて葉澄さんが手を引いてくれている。
久しぶりに胸の鼓動を聞いた気がする。ドクンと脈打ち、暖かい気を全身に運んでくれていた。
井桁型に組み立てられた薪に火が灯された。乾燥した木屑に火種が着くと、見る見るうちに弾ける音を立て薪を呑み込んでいった。火は大きく成長し炎となり、周りに集まった生徒たちの笑顔を照らしてる。
そんなキャンプファイヤーから少し離れた場所に生徒会は集まっていた。キャンプファイヤーの後片付けと校内の見回り。これが、生徒会に課せられた文化祭での最後の仕事だ。文化祭実行委員は後夜祭までとなっていたので、最後の仕事は生徒会の九名で行われる。それほど大変な仕事ではないから、九名でも十分事足りるだろう。それぞれに見回りの分担を振り分け、みんなは時間になるまで後夜祭へと戻っていった。
「終わっちゃうね〜、文化祭」
大きくなった炎を眺めながら、葉澄さんが言った。
その隣には蓮歌くんもいて、一緒に炎を眺めている。
「二日間なんてあっという間だったね。まぁ、準備期間はかなり大変だったけど…」
「だね〜。毎日遅くまで生徒会とクラスの準備に追われてたもんね。こんなに頑張ったんだから、二日間なんてケチケチしないで一週間くらいすればいいのに!」頬を膨らます葉澄さんに「はああ」と蓮歌くんが笑いかけた。
「そんなに長くやったら体力もなたいよ」
「はっちーは持久力がないんだよ。あ〜、それとも毎日お化け屋敷をするのは怖いのかなぁ」
最後の言葉はからかうように、わざと大きな声で言っているようだった。
「ちょっ、何言ってんの!」その言葉に焦ったように蓮歌くんは周りを見回していた。けれど、みんなキャンプファイヤーに夢中でこちらの話には誰も耳を向けていないようだった。
そんな二人のやり取りを隣で見ていると「ふぅ」と一息付いた蓮歌くんと目が合った。
「鈴城さん、文化祭楽しかった?」
あの後、体育館裏から二人に連れられて午後の見回りの時間まで文化祭を一緒に回った。
前回とは違う文化祭。楽しめないと思っていた文化祭。楽しんではいけないと思っていた文化祭。それでも、二人に連れられて回った文化祭は、私が思うよりもずっと居心地が良かった。
「…はい。楽しかったです」
「それなら良かった」そう呟いた蓮歌くんは大きく揺らめく炎を真っ直ぐに見つめていた。
薪を呑み込み、酸素を取り込み、限界まで大きくなった炎は圧巻だった。その周りではスピーカーから流れる音楽にのせダンスをする生徒が何人もいる。炎の周りをグルグルと、まるで追いかけっこでもしているみたいに。
「…あの、少しだけ抜けてもいいですか。一人で行きたい場所があって」
二人の少し心配そうな顔が炎に赤く照らされている。その顔に向かい「大切な場所なんです」と応えた。
葉澄さんと蓮歌くんは一瞬顔を合わせ「いってらっしゃい」と見送ってくれた。
ここは静かだ。誰も居ない校舎の中央玄関。春と花と先生から逃げてきた場所だ。三段ある階段の一番上に腰掛けながら、遠くに見えるみんなのシルエットを眺めていた。
何もかもが前回と違う文化祭だったけれど、ここから見る光景は変わらず同じに見えた。ただ二人が居ないだけで。
ぼーっとシルエットを眺めていると、誰かが声を掛けてきた。
こんな場所に来るなんて一体誰だろう。
そう思い目を向けると、そこには藺草さんが立っていた。意外な来訪者に驚いていると、彼女は隣に座っていいかと尋ねてきた。どうぞと応えると、なぜか嬉しそうに隣に腰掛けた。
どうしてわざわざこんな場所に来たのか分からなかったが、彼女の纏う明るさに当てられると素直な言葉が出てしまうようだった。
そして私の抑揚も脈絡も分からないような言葉にも彼女なりに応えてくれていた。だから、まさかこんな会話の中に思い出が潜んでいるなんて思いもしなかった。
焼きマシュマロを作らないようにと小塙くんが注意されたと聞き──あぁ、こんな場所にまで。と思ってしまう。
これが辛いのか嬉しいのか分からない。
それでも、私の周りには二人の証が至る所に潜んでいる。そこに触れる度、胸が締め付けられる。
いっそこのまま泣いてしまおうか。そうすれば、この気持ちも少しは楽になるんじゃないか。
頭に過ったそんな思考に首を振った。
そんなことをすれば、きっと藺草さんは戸惑ってしまう。迷惑はかけたくない。小さな葛藤を冷たくなった手で抱え込むように押さえ込んでいると、突然藺草さんが立ち上がった。
私の前に立ち必死に話す彼女の姿に、何故かどうしようもなく春の姿が重なった。どんなことにも全力で真っ直ぐな、あの姿が。
そして気づいてしまった。
また私は大切な場所で、辛い思い出を作りそうになっていたことに。そして、その気持ちが胸の奥まで冷たくしていたことを。
小さくなった炎の微かな明かりを背に立つ藺草さんの輪郭は、少しだけぼやけて見えた。それでも、見上げた藺草さんの優しい瞳は、はっきり見える。暖かい眼差しだ。
葉澄さんの言った通りかもしれない。
私は春と花と過ごして誰かといる暖かさを知って、一人でいる寂しさに気付いてしまったのだ。昔はそんなの全然平気だったのに。
葉澄さんと蓮歌くんの所に戻りたいな。
冷えて強ばった体は硬くなり動かしずらかった。吹き付ける風も冷たく、乱れた髪をかけた耳も指も頬も冷えきっていた。
辺りは徐々に暗がりが多く占め、文化祭の終わりを告げている。それでもキャンプファイヤーの炎はまだ揺れていた。
「そうですね。行きましょう。みんなのところへ。私も暖かいところは好きです」
悴んだ口元で、私はちゃんと笑えていただろうか。
文化祭も終わり週明けの月曜日。昼休みに葦有先生に生徒指導室に来るようにと言われていた。呼び出される理由に心当たりのないまま右手で三回扉をノックした。
扉の向こうから「どうぞ」と聞こえて来たので「失礼します」と言いつつ扉を右にスライドさせた。
そこには葦有先生と、もう一人。
長い黒髪の綺麗な女性が立っていた。
「鈴城さん、いきなり呼び出してごめんなさいね。さぁ、そんなとことで止まっていないで中に入って」
もう一度小さく「失礼します」と言いながら敷居を跨ぎ後ろ手に扉を閉めた。
「今日来てもらったのは先に彼女に会ってもらいたかったからなの。それに、彼女たっての希望でもあったからね。彼女の名前は…」
「葦有先生、すみません。私から直接、鈴城さんに挨拶しても良いですか?」
葦有先生の言葉を遮るように、隣の女性が申し出た。
「そうね。あなたからの方が良いかもね」
そう言うと葦有先生はこの場を目の前にいる女性に任せたかのように、一歩下がった。
「はじめまして、鈴城さん。貴重なお昼休みに呼び出したりしてごめんなさい。どうしても先にあなたに会っておきたくて、葦有先生に無理言って時間を取って貰ったの。私の名前は菜砂千夏。来週から教育実習生としてこの学校でお世話になります。菜砂春の姉です」
そう言うと、ニッと笑顔を向けてきた。春とそっくりな笑顔を。
春の、お姉さん…。
この学校の卒業生で元生徒会長。
どうしてここに…いや、教育実習生と言っていたから、母校に戻ってきたのか。でも、教育実習生が来る時期としては少し遅いのではないのか。
そんなことより、春はいまどうしているか、知っているのだろうか。聞いてもいいのか。私に聞く覚悟はあるのだろうか。何を聞いても受け止められるのか。
思考が纏まらない。あまりに突然の出来事に、言葉が出てこない。
そんな私の混乱した気持ちを察してか「落ち着いて」と私の肩にそっと手を置いてくれた。触れられた肩はじんわり暖かく、その場所から波紋のように思考が動き始めた。そして。
「あの…、春は今どうしてますか!?私、一度も連絡出来なくて…」
ようやく、その言葉を口にできた。
私の肩に置いた手をゆっくりと下ろし、そして言った。
「弟は今、東京の大学病院に入院しているわ。あの事故からずっと眠ったままだったのだけど、六月になってようやく意識を取り戻したの。今はリハビリに励んでいるわ」
知らなかった…。
いや違う。知るのが怖かった。
東京の病院に運ばれたことは聞いていた。だけど、そこから先は怖くて聞くことが出来なかった。春がどんな状態でいるのか、知ろうとしなかった。
「ごめんなさい。私、これまで何も知らずに。春が大変な時に、私だけ学校に通って、文化祭も、楽しんで……」
「咲、学校生活楽しめよ。だって」
「え…」
「弟からの伝言。私が教育実習に行くって言った時に頼まれたのよ。咲が辛そうな顔をしたらそう言ってくれって。必ずまた逢いに行くから、その時まで笑って待っていて欲しいんだってさ」
そう言ってまた、ニヤニヤと笑っている。小さく「青春だねー」と言いながら。
その顔がやっぱり春そっくりで、私と花がいつもワクワクさせられた大好きな笑顔に、涙が溢れてきた。
嬉しさと安堵でこんなにも胸が一杯になったのは久しぶりだった。足の力が抜け、経たり混んでしまった私の背中を千夏さんは何も言わず優しくて摩っていてくれた。溢れてくる涙を止めることが出来ないまま、遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムの音を聞いていた。そして微かに残る思考で、次の授業が葦有先生の数学であることに気付かされていた。
床に手を付き、なんとか立ち上がろうとする私を制すように「落ち着いたら来なさい。それまでは菜砂先生と話していていいから」と葦有先生がいってくれた。そして、そのまま扉を開け出ていってしまった。
まるで、こうなることが分かっていたみたいだった。
ようやく涙も落ち着き、元の思考を取り戻せるまでになってくると急に恥ずかしさが湧き上がってきた。
高校三年生にもなって二人の先生の前で号泣してしまうなんて…。泣いて顔が火照っているのとは別に、顔から火が出そうだ。
「咲ちゃん、落ち着いた?」
呼び方が鈴城さんではなく、咲ちゃんになっていた。
「葦有先生の許可も貰ったことだし、もう少しだけお話しようか」
それは先生と生徒としてではなく、鈴城咲と菜砂千夏として話しても良いと意味しているようだった。
生徒指導室には四つの机と椅子が向かい合わせに置いてある。そこへ対面になるように二人で座った。
「あの、春のこと詳しく聞いても良いですか?さっき言っていたリハビリって…。そんなに酷い怪我だったんですか。意識を取り戻したのも、六月って……」
口から出た言葉が急に怖くなった。
「大丈夫!咲ちゃんが思うほど酷い怪我ではないよ。頭を強く打ったみたいで、目覚めるのに時間が掛かっちゃたみたいだけど。リハビリは歩く練習をしているの。右足が、ちょっと複雑に骨折してたみたいだったからね…。でも毎日頑張ってるよ!病院食に飽きたって文句ばっかり言ってるけどね」
わざと明るく、何でもないように言っていることは明白だった。ここで私が暗くなってはいけないと思った。だから「春らしいですね」と私も明るく返した。
そうだ。春に笑って待っていて欲しいと言われたのだから。
「千夏さんやご両親も東京にいるんですか?」
「両親は東京にいたけど、弟のリハビリが始まったタイミングでこっちに帰って来たわ。仕事もあるし、そんなに付きっきりにならなくて大丈夫だって言われちゃったしね。私は大学の夏休みのタイミングでこっちに帰ってきたの。久しぶりの地元ってやっぱり落ち着くわね」
「そうだったんですね」
「ところで、咲ちゃんは長原神社に行ったことある?」
「はい、あります」
年越しの時に春と花と行った神社だ。
「じゃあ元々長原神社があった場所は知ってるかな?」
それも知っている。初日の出を見る為に花に案内されて行った、小さな祠のある場所だ。そして、そこは三人で初日の出に願った場所でもある。
「私、あそこに一人で登って景色を眺めるのが好きだったんだ。だから、夏休みで帰って来たタイミングで行ったんだけど、その日がちょうど長原神社の夏祭りの日だったんだよね。咲ちゃんは行ってたかな?」
「…いえ、夏休みは家に居ることが多くて」
「そっか…。私ね、その祠に花を添えてきたの。庭に生えていたクロウエアっていう花を摘んで。その花、ピンク色で星の形をしているから別名サザンクロスって言うんだって。形も星で、名前も南十字星の名前が付いているなんて、何だか願いが叶いそうじゃない。だからね、お願いして来たんだ。弟が早く良くなって、咲ちゃんに会いに来られますように。そして皆の願いだった打ち上げ花火を夜空に咲かせることが出来ますように、って」
少し欲張り過ぎたかなと笑う千夏さんの横で、私の届かなかった願いを思い出していた。そして今度は叶えばいいともう一度強く願っていた。
きっと千夏さんが言った「皆」とは、私や春や花だけでなく藺草会長や華さんも含まれているに違いない。
結局、千夏さんとの話は授業丸々一時間分使ってしまった。
授業を終えた葦有先生に二人で謝りに行ったが「予期していましたよ」と言われただけで、怒られることはなかった。
菜砂千夏先生は翌週月曜日の全校集会で、全校生徒に紹介された。
黒髪ロングの美人教育実習生が来たと周りの生徒が騒ぐ中、私たち三年普通科クラスの生徒だけは「菜砂」という名前に吃驚し、そして他のクラスとは違う意味の騒めきが湧き上がっていた。
全校集会終了後、私は千夏先生の元へ向かった。
この後の数学から葦有先生と共に担当になる訳だが、きっとクラスメイトから春との関係を聞かれるかもしれない。私がそうしたみたいに。
自分のこともありあまり強くは言えないが、授業初日から質問攻めにあっては大変だろうと思い、私から先に説明をしておきましょうかと提案してみた。
けれど「そんなに気を使わなくて平気よ。それに、授業が始まる前に私から直接みんなに言うつもりだから」とカラカラ笑いながら手を振られてしまった。
あっけらかんとした性格も、やっぱり春と似ている。「春と」ではなく、「春が千夏さんに」似ているが正解だろうな。
千夏先生が教育実習生としてこの学校に来てからというもの、私は昼休みや放課後など事ある毎に千夏先生の元へ相談に行っていた。
生徒会長の先輩として色々話が聞きたかったのだ。残り僅かな生徒会長としての期間をどう過ごせば良いのか、そして間近に迫った打ち上げ花火を成功へ導くにはどうすれば良いのか。
もう既に後輩への引き継ぎも順調に行われているし、打ち上げ花火の準備も恙無く進んでいる。だから相談していると言うよりも、本当はただ話を聞いて貰いたいだけなのかもしれない。
姉弟だからだろう。
ふとした仕草や喋り方に、時折春の面影を感じてしまう。近くにいるとまるで学校生活を一緒に過ごしている気分になれた。
だからつい甘えて、側に行ってしまう。
千夏先生も毎回行く私を煩わしく思う様子もなく、いつも笑顔で迎えてくれていた。
葉澄さんからは構って貰えてズルいと頬を膨らませながら言われたが、その後に少し真面目な顔で「前よりも明るくなったね」とも言われ、自分でもその変化に少しづつ気付いていた。
楽しむことが苦しくない。悲しかったことを忘れた訳じゃない。だけど過ごした思い出まで悲しさに塗り替えずに、ちゃんと受け止めて生きていける。
千夏先生に出会えて、春が託した言葉を聞けたことが大きなきっかけとなった。
けれどそれ以前から兆候はあった。
私を部屋から連れ出して生徒会長としての居場所を与えてくれた河骨会長や葉澄さん、蓮歌くん。そっと見守ってくれていた葦有先生。そして本人はきっと気付いていないだろうが、私が引いていた境界線を飛び越えてきてくれた藺草灯さん。
こんな私に関わってくれた、みんなのお陰だ。
***
今年の収穫祭は吸い込まれそうなくらい澄んだ青空に恵まれた。
雨で外での開催が困難だった去年とは打って代わり、今年は問題なく外で行えそうだ。そして、去年は出来なかった打ち上げ花火の準備も万全に整えてある。
私が生徒会長に就任して直ぐに取り掛かっていた『生分解性プラスチックを用いた打ち上げ花火』
この準備は想定以上に大変だった。
自由研究をしていた先輩は既に卒業しており、頼りは残っていた資料しかなかった。普通の打ち上げ花火よりもお金が掛かり、尚且つ生産者の数も少なかったため、資金調達や花火の確保にかなりの時間と労力を費やしてしまった。
本当はこの工程を三人でやる筈だった。そう思うことは何度もあった。それでも折れずに進めてられたのは、この打ち上げ花火に託された気持ちを知っていたからだ。
春や花だけではなく、藺草会長や華さん、そしてきっと千夏先生も。
途中からは葉澄さんや蓮歌くんの力も借りて、なんとか収穫祭に万全の形で間に合わせることができたのだ。
生物生産科が育てた野菜やお米、豚肉をつかった豚汁とおにぎりを食べ終え片付けを終えた頃には、もうすっかり日は沈んでいた。
いよいよ花火が打ち上がる。
雲もない、風もない。真っ暗な夜空。
それを見上げる、期待と興奮が入り交じった生徒たちの表情。
少し張り詰めた空気に、みんなが固唾を飲んで待ち望んでいる。
夜のしじまを破るように、カウントダウンが響き渡る。
本当は誰よりも、藺草会長と華さんに見て欲しかった夜空。
本当は一人ではなく、春と花と三人で見上げたかった夜空。
叶わなかった願いの分まで、私がしっかりと見届ける。
鼻をかすめる火薬の香り。
滑るように昇っていく銀笛の音。
そして一瞬にして夜空に花が咲き、少し遅れて聞こえてくる破裂音。
それが何度も繰り返される。
周りを明るく照らしてくれる。
生徒たちの歓声も至る所で湧き上がり、打ち上がる度、膨張していく。
この光景を忘れない為に、一瞬も逃さず焼き付けるように、瞬きも忘れて夜空を見上げていた。
感動 感謝 安堵 達成感。そして少しの喪失感。
湧き上がった全ての感情は、涙腺を通して瞳から溢れ頬を伝い乾いた地面へと落ちていった。




