願いは遠く
三学期というのは次に進むための準備期間だと思う。
約二ヵ月間の間に次の学年へ上がる準備、三年生はこの場所を旅立つ準備に入る。そうして心の準備も進めていく。
卒業式の準備も始まり、三年生と過ごす時間の短さを感じながら一日一日が過ぎていった。
そして生徒会は完全に二年生が主導となり、生徒会活動も滞りなく進行出来るようになっていた。
変わってしまった時の寂しさや不安は、今に慣れてしまうと薄れてゆき、頑張っていこうという気概が強くなっていた。
***
それぞれが、それぞれの準備を進めてゆき、卒業式を迎える頃にはすっかり雪は溶け、春の気配が訪れていた。
校舎の至る所で桜のコサージュを付けた先輩たちが卒業証書を片手に写真を撮っている。
最後までふざけ合っている先輩、泣きながら別れを惜しんでいる先輩、両親と共に喜びを分かち合っている先輩。
でも、その中に藺草先輩の姿は見つけられなかった。
「きっと、あそこだな」
春がそう指さしたのは、体育館裏だった。
青々と生い茂る葉だけになってしまった寒桜。その木の下に藺草先輩は立っていた。卒業証書を片手に、揺れる葉を愛おしげに見上げている。
あまりに優しい顔だったから、泣いているのではと思ってしまい一瞬声をかけるのを躊躇ったが、一歩前に出た春が声を発した。
「藺草先輩、ご卒業おめでとうございます」
春のあとに続き私と花も「おめでとうございます」と頭を下げた。
こちらを見た藺草先輩の瞳に涙はなく、優しい笑顔を湛えていた。
「ありがとう。…最後にどうしてもこの場所を見ておきたかったんだ」
ここは藺草先輩と華さんの大切な場所で、私たち三人にとっても大切な場所でもあった。
優しく寒桜の幹に触れながら、藺草先輩は尋ねてきた。
「寒桜の花言葉って知ってるかい?」
その質問に花が答えた。
「はい。早咲きの桜で冬に咲くことから気まぐれだったと思います」
「そう、よく知ってるね。でももう一つあるんだ。冬の寒い時期に寒桜を見て春を思い、ほっと顔をほころばせることから、あなたに微笑む。とも言われているんだ」
あなたに微笑む。その花言葉はこの桜にとても合っていて、それ以上に私の心にしっくりとくるものだった。
「素敵な花言葉ですね」
幹に触れていた手は離れていたが、それでも視線は寒桜に向けられている。
「華と一緒に植えたあの時から、ずっと僕たちを見守ってくれているんだな…なんて。君たちに出会えて、諦めていた花火が実現可能になるなんて思いもしなかった。本当にありがとう。初めての収穫祭、素敵な花火が打ち上がるといいね」
最後に寒桜を見上げ「ありがとう」と告げ、藺草先輩は校門の方へと歩いていった。
私たち三人は寒桜と共に藺草先輩の背中を見送った。頭上では、葉擦れの音がいつまでも続いていた。
***
二年生に上がったからといって特段変わることなどないと思っていた。教室が変わるだけ。学年が上がるだけ。後輩ができるだけ。授業内容が少し難しくなるだけ。ただそれだけ。
いつものように授業を受け、生徒会の仕事をして、春と花と毎日を過ごしていく。そう思っていた。
実際二年生になり一ヶ月が過ぎた今も、私の想い描いていた日々と変わらない。
だけど、ただ一つだけ…。
最近、花の様子がおかしい。
具体的に何処が、と言う訳ではないのだけれど話していて少し違和感を覚えることが度々あった。
「は、春さん。今日の放課後、生徒会で収穫祭のことについて話し合うみたいなので、以前まとめた資料を人数分用意しておいて欲しいみたいです」
「分かった。じゃあ、昼休みにでもコピーしてくるかな」
「私とあの、咲さん…でその間に花火の打ち上げの方進めておくので…」
何となく言葉がぎこちなかったり、私たちの様子を伺っているようだったり。
それでも他はいつもと変わらない花だから、中々聞き出せないまま季節は梅雨に入っていた。
六月に入ってから一週間連続で雨が降り続いている。そのせいか、何となく気持ちも重く湿っぽくなっていた。
今日も朝から降ったり止んだり、止んだかと思ったらいきなり強く降り出したりと嫌な天気だ。朝のニュースの週間天気予報のコーナーで太陽のマークを見たのはいつが最後だろう。いい加減紫色の傘マークを見るのも嫌になってくる。
せめて虹色の傘だったなら、もっと違う気持ちで天気予報が見られたのだろうか。
梅雨時期は湿気も大敵だ。春なんて特に癖毛だから毎朝湿気と寝癖で芸術的なくらい髪の毛が跳ねていた。それでも「梅雨時期はいつもこうなんだ」と、以前寝癖を気にしていた時とは別人なくらい開き直った様子でカラカラと明るい春を見ていると、沈んだ気持ちも軽くなるように思えた。
四時間目の授業が終わりみんなが昼食の用意を始めた時、いきなり教室に葦有先生が入ってきた。いつもより真剣な面持ちに、みんな何事かと注目した。
すると教壇の前に立ち一度クラス全体を見回し、みんなに視線を送り、そして。
「突然だけど午後から休校になります。雨が夕方から更に強くなるみたいで、このままだと危険との判断が出ました。幸い明日は土曜日で雨も明後日には降り止む予報だから、月曜日は普通登校が出来ると思います。来週またみんなの元気な姿見せて下さい。それじゃあ、気を付けて帰るように!」
聞かされた途端、軽く歓声のような声が上がった。さっきまでの、どんより湿っぽい雰囲気は嘘のようにみんなこの時間に帰れることに浮かれていた。
本来授業である時間に家に帰る、降り続く雨の危険さ。そんなちょっとした非日常感を楽しんでいるようだった。
先に帰る支度を終えた花が私の机にやって来た。
「授業無くなっちゃいましたね。これだと、放課後に予定していた生徒会も来週に持ち越しですね」
生徒会にも新一年生が加わり、ようやく本格的に始動してきて、今日は収穫祭についての話をまとめる会議のはずだった。
「私、帰りに少しだけ生徒会室に寄って資料をまとめてから帰ろうと思います」
「花がやるなら私も一緒にやるよ。人手が多い方が早く終わるし」
私たちが話していると、春もやって来た。
「なら俺も一緒にやるぜ。二人より三人だろ!学校も先生たちの会議が終わったら閉めるみたいだしサクッと終わらせて帰ろうぜ」
降り続く雨は朝に比べて次第に大粒になり、校舎に打ち付ける音も更に大きくなっていた。
三人で黙々と作業したお陰か、一時間もしないうちに資料は完成した。そして、先生たちが会議を終えるタイミングには校舎を出ることができた。
校舎を出た途端、今までに体感したことのないほどの強い雨と風に、私たちは息を飲んだ。
傘を指していても吹き付ける風や雨を防ぐことが出来ないくらい、天候は悪化していた。
恐怖を感じるほどの雨と風。視界の悪い中、足元に気をつけながら、それでもなるべく早足で駅まで急いた。
駅に着く頃には、髪も鞄も制服も水が滴るほど濡れてしまっていた。
電車は予定の時刻より遅れているようだった。
それでもプラットフォームに生徒の姿はなく、乗り込んだ車両にも人の姿は殆どなかった。
電車に打ちつける雨音は、電車が出発するとその大きさをさらに増した。
『お客様にお知らせします。当電車は大雨の影響により、徐行運転をしながらの運行となります。到着時刻に変更がございますが、ご理解の程よろしくお願い致します』
流れるアナウンスを聞きながら、私たちはいつもの席に座って雨で濡れた髪や鞄を拭いていた。制服はブレザーだけ脱いで、手すりの所に掛けておくことにした。
早めに拭き終わった春は、窓の外を眺めていた。
「雨すげぇ強くなってきたな…」
花が軽く俯いた。綺麗な長い黒髪からツーっと雨が滴り落ちた。
「すみません、私のせいで遅くなってしまって…」
「そんなことないよ、私も作業進めておきたかったし」
「そうだな!これで来週の作業が格段に楽になったことだし!」
すると、少し顔を上げながら。
「さ、咲さんと春、さんのお陰で無事終わらせることが出来ました。ありがとうございます」
そう言った花は、なんだか居心地が悪そうだった。
やっぱり気になる。
最近の花の言葉遣いが何だか…。
「なぁ、花。もし何か悩んでいるなら俺たちに話してくれないか?」
春がついにその言葉を口にした。
だから、私も続けて言葉を出した。
「そうだよ。もし私たちで力になれることがあるなら言って欲しい」
三人の間に数秒の沈黙が落ちた。
そして、静謐にウィンドチャイムを奏でるように、花が静かに口を開いた。
「…はい、ありがとうございます。えっと悩み、と言いますか、変えたいことなんですけど。…聞いて貰えますか?」
「「もちろん!」」
春と重なった声が静かな車内に響いた。
花は一つ大きく息を吸い込み、ふぅーっと小さく吐き出すと、私たち二人を真っ直ぐに見据えた。
「実は、お二人のこと……」ゴゴッ
その異変に最初に気づいたのは花だった。
「……あの、何か変な音が聞こえませんか?」ザザッ
「確かに、なんの音だ?」
「この音、山の方から…」ザザザザッ
それは一瞬の出来事だった。
窓の外を見ると、目の前の山が迫ってくる。
何かを考える時間なんて、なかった。
「土砂が…!」ザザザザァァァ「逃げろ!」ドンッ「きゃーー!」ゴゴゴォォ「危ない!」ガガガガガガ「うわぁぁあ!」「はる」「さく」ドドドォ「いやぁ!」「はな」ガンッ「ぐぁっ」「きゃぁあああ!」助けて──…
誰が発した声なのか。
何も分からない。
ただ、轟音の中で微かに、私を呼ぶ声が聞こえていた。
私は声を上げているのだろうか、誰かを呼んでいたのだろうか。
分からない。
何も分からない。
激しい揺れと、体が投げ出される程の強い衝撃。体に感じる不快な土と泥と雨の冷たさ。そして全身に感じる痛みと圧迫感。
痛くて、寒くて、怖くて。真っ暗だ。
何が起きたのだろう…
動かない体からゆっくり、ゆっくりと、体温と意識が抜け落ちていく。
もう、何も考えられない…
最後に雨粒が私の顔に落ちたのを、微かに感じた。
────私たちの乗った電車は連日降る雨の影響により、緩んだ地盤が産んだ土砂崩れに巻き込まれた。
三両編成の電車の、後ろ一両に土砂が直撃。そして横転。
前二両は横転はしたものの、土砂に巻き込まれることはなかったという。
そう、私たちが乗っていた車両だけ、いつも乗る車両だけが土砂崩れに巻き込まれたのだ。
***
目覚めたのは白く清潔な病院のベットの上だった。
体は重く、至る所に包帯が巻かれ腕からは点滴に繋がるチューブが伸びていた。
それでも手を思い通りに動かすことも、布団に包まれた暖かい足の感覚もある。
私の意識が戻ったことに気づいた母は泣きながら優しく抱き締めてくれた。その温かさでようやく、思考が私の元へ戻って来たみたいだった。
直ぐに医師の診断を受け異常なしと分かり、ようやく落ち着いて話ができる状態となった。
母はまだ泣きながら私の手を優しく摩っていた。
「良かった…本当に良かった。一週間も目を覚まさないから、本当に心配したのよ」
一週間、そんなに寝ていたなんて。どおりで体が重いわけだ。両親にも随分心配をかけたことだろう。
心配かけたことを謝ったり、ずっと看病してくれたことに感謝したり、伝えたい言葉はたくさんある。
だけど、それでも、その事よりも私の知りたいこと…聞かなきゃいけないこと…。
「お母さん、春と花はどこにいるの?」
言葉を呑んだ音が聞こえた。
目を逸らした母の横顔に、少し重くなったこの場の空気に、本能的に何かを感じたのか鳥肌が止まらなかった。
大丈夫だった。
その言葉が聞ければ十分なのに、どうして何も言ってくれないの?
何でそんなにつらい顔をしているの?
聞きたいのに、この先を知りたくない。矛盾した心が私に警告している。聞いて大丈夫なのか、と。
体から体温が抜けていくのを感じる、小刻みに震えているのを感じる、息の仕方が分からない。
「お母さん…」
差し伸べた震える手を、優しく両手で包み込んだ母の手は何かを決心しているようだった。
「咲ちゃん、落ち着いて聞いてね。春くんは意識不明のまま東京の大きな病院に移って行ったわ。花ちゃんは………亡くなったわ」
目の前が、歪んでいく。
音が 匂いが 感触が 視界が 全てが離れていく。
声を上げているはずなのに、耳に届く音は壁があるみたいに遠くに聞こえて、喉ははち切れそうなくらい熱くて痛くて、空気が上手く吸い込めない。
もがき、叫んで、暴れている。
なのに、その感覚すらも遠くに感じる。
自分が自分でなくなる。
感情も 心も 体も バラバラになって崩れ落ちていく。
その中で、ただ抱き締めてくれた母の温かさだけが私を繋ぎ止めてくれていた。
積み重ねていると思っていた時間は、いつの間にかカウントダウンへと変わっていた…。
変化は唐突にやってくる。
自分の知らない内に始まり、いつの間にかその渦に呑み込まれている。
大きい小さいを問わず。
望む望まざるに関わらず。
常に私たちの周りを取り巻いている。
当たり前だと思っていた日常が、一瞬にして奪われていった。




