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花より咲春へ  作者: 丈乃井 想
1/13

出会い

 

  ─鍵開け─


「もしもし、お母さん。受かってた。うん、ありがとう。…大丈夫一人で帰れるから。それじゃあ…」


 ──もっと喜べるかと思ったのに…


 口から零れた呟きは周りの喧騒に負け、放たれてすぐに掻き消されていった。

 それもそうだ。こんな大勢いる中で、私の呟きなんて誰も気に留めないだろう。別に誰に言った訳でもないから構わないのだけれど。


 通話終了を押した携帯はスリープモードに入り暗くなっていた。画面を一度タップし、時間を確認してから鞄に閉まった。十一時八分。

  この場所に来てから、まだ八分しかたっていない。


「ふぅ」と小さく溜息をつき、また少し考えを巡らせた。

 例えさっきの呟きを聞かれていたとしても、こんな嫌味な言葉、ただ軽蔑されてしまうだけだろう。

  必死になって、それでも結果と努力がイコールに繋がらない人がいる中で「喜べるかと思ったのに」なんて…。

 それでもつい零してしまったのは、私の中に少しの期待があったからだった。

  誰かに、ではなく自分に対する少しの期待。

 周りにいるこの人達みたいに、私にも心が動く瞬間があるのではないかと。

  けれど手元の番号と掲示板の番号が一致した時、喜びも安堵も感じることはなかった。ただただ、同じ番号がある。そう思っただけだった。番号を照らし合わせるだけの確認作業。そして、その作業一環であるように母に電話をかけていた。


 周りでは泣きながら誰かに電話を掛けている人、友達と抱き合い喜ぶ人、肩を落とし帰って行く人、必死に自分の数字を見つけようとしている人。こんなにたくさんの人がこの掲示板に貼り出された数字によって一喜一憂している。


  喜ぶ人もいれば悲しむ人もいる。


  そんな言葉でしか言い表せないけれど、その性質はどれ一つとして同じものは無いのだろう。きっと枝分かれした想いや感情がここには渦巻いている。

 そんな中「喜」も「憂」も感じない、感じたとしてもそれを表すことが出来ない。そんな私がここに居るのは場違いな気がしてならなかった。


  そうやって勝手に居心地の悪さを感じていた。


  中央玄関の脇に簡易的に建てられた白い掲示板。教室にある黒板ほどの大きさのそれは、周りの雰囲気とはミスマッチで、まさにこの為だけに現れた感じだ。

  そこにポスターサイズの紙が三枚貼られている。掲示板の大きさに対して貼られている紙も書かれている数字もやけに小さく、近づかなければ見えないほどだった。だからだろう。この小さな数字を見る為だけに、これだけの人がこの場所にひしめき合っているのは。入れ替わりの激しい掲示板の前では、ただ立っているだけでも人とぶつかってしまうほどだった。


  混まないうちにさっさと帰ってしまおう。

  そう思って振り返ると、後ろでは帰ろうとする人と掲示板に向かってくる人で来た時よりも更に込み合っていた。通り抜けるのに一苦労しそうな人混みに辟易しながら、なんとか帰ろうとする人の後を追いゆっくりと歩き出した。

  途中、人とぶつかる度に一方通行の「すみません」を何度も繰り返し、鞄を三回、足を一回引っ掛けながらなんとか人混みを抜け出すことが出来た。

  実際に経験したことはないが、都会で聞く通勤ラッシュとはこんな感じなんだろうか。押して押されて、ぶつかって、それなのに無関心に自分の行きたい方向へ進んで行く。

  まだマフラーや手袋がないと寒い時期なのに、人混みを抜けた額にはうっすらと汗をかいていた。

  やはり時間をずらして見に来るべきだったかもしれない。冷えないうちにハンカチで汗を拭いながら、慣れない人混みに酔った頭で無意識に静かな方を選びながら進んでいた。

背中に感じていた喧騒は次第に小さくなっていき、気がつくと入ってきた正門とは別の場所に辿り着いてしまっていた。


  目の前には広いグラウンド。その向こうにはテニスコートと弓道場があり、その隣には大きな体育館が立っている。

 急いで学校案内の地図をカバンから取り出し確認してみると、ちょうど学校の中心付近に来てしまったようだった。どうやら正門とは逆方向に歩いてきてしまったらしい。地図上で外へ出られる場所を探してみると以外にもたくさん出口はあるようだった。そしてこの場所からだと体育館裏の出口が一番近い。グラウンドを挟んだ向こう側にある大きな体育館だ。


  学校見学でもないのに敷地内を彷徨い歩いて大丈夫だろうか、とも思ったが当たりを見回してもグラウンドや体育館、校舎内も学生や教職員の姿も気配も感じられなかった。学校自体は冬休み期間中だが、前期試験の合格発表日ということもあり部活動も休みになっているのだろう。教職員は掲示板の近くに待機していたから、こちらに来ることはまずないはずだ。


  広げていた地図を元の形に折り畳み鞄にしまう。そして、目の前の大きなグラウンドへと視線を向けた。

  体育館裏へ行くにはこのグラウンドを通るしかない。この綺麗に整備されたグラウンドを。

  グラウンドの隅の方にトンボが何本も置いてあったので、きっと野球かサッカー部の部員が綺麗に慣らしたのだろう。彼らの頑張りに足跡を残さないよう、なるべく端の均されていない部分を選んで歩いて行くことにした。

  所々に生えている雑草の上なら安全地帯だろう。

  つま先立ちをしたり、大股になり雑草から雑草へ飛び移ってみたり。


  「こうして場所を選びながら進んでいると、影渡りゲームを思い出すなぁ…」

  それは私が小学生だった頃、帰り道に一人でしていた遊びだった。

  他の子達が何人かで影踏み鬼をしているのを見て、自分もやってみたくて作った遊びだ。


  ルールは簡単で、影の上しか歩いてはいけない。

  影のない所は十秒しか居てはいけない。

  ただそれだけ。


 小学校から家までの道のりをそうやって帰ってみることにしたのだ。

 けれど、やってみてすぐに分かった。一人でやることは虚しいだけなんだと。

 他の子達は鬼をやる子と逃げる子に分かれて、影から出た子をタッチして最後まで逃げ切れるかを競っていた。だから影の中から外に出るだけで、あんなに楽しそうにはしゃいでいたのだ。


  陽向から逃げて影の中にしか居られない私にとっての鬼は時間だった。いくら頑張って走っても実体がない物に追われるだけで、全てが私の中で完結してしまう。

  逃げる楽しさも捕まる緊張もまるで感じない。


  そのことが寂しかったのか、楽しそうなみんなが羨ましかったのか、今となっては覚えていない。

けれど、それ以来影渡りは一度もやっていない。


  そんなことを思い返しながらグラウンドを渡り終え、体育館の正面に到着した。

 遠くから見ても大きいと思っていたが近くで見ると更に大きく圧迫感がある。

最近建て替えられたらしい壁面は白いペンキが真新しかった。それでも所々にあるボールをぶつけた跡や、剥がれ落ちている部分を見つけながら裏側にある出口へ向かい壁沿いを歩いていった。


 やっと着いた体育館裏で最初に見つけたのは目的の出口ではなかった。

目に飛び込んできたのは、一本の木だった。

普通の木であれば、立ち止まることなんてないまま直ぐに出口へ向かったはずなのに。立ち止まらずにはいられなかった。


 暦は二月中旬でまだ雪が降りそうなほど寒い季節。


それなのに、今、目の前で舞っているのは雪ではなく、花びらだ。


しかも、桜の花びら。


 校門の周りに植えてあったソメイヨシノはまだ蕾すら眠っているのに、この桜の木だけは淡紅白色の花を満開に咲かせていた。

 こんな寒い季節に、誰の目にも触れることなく咲き誇る姿が目の前にあった。


 息を飲むほど綺麗で力強い一本の桜の木。


 吹き付ける冷たい風も気にならない程に、この狂い咲く気まぐれな桜に、私はいつまでも目が離せないでいた。




 一 出会い



 昨日までの暖かさが嘘みたいに、春冷えのする朝を迎えた。

降り注ぐ日差しは柔らかいのに、風が吹くと鳥肌が立つくらいに、今朝は冷え込んでいた。

 こんなことならお母さんに言われたように、マフラーを巻いてくればよかったかもしれない。

どうせすぐ電車に乗るから要らないと断ってしまったことを少し後悔しながら、少し歩調を速めた足で駅に向かって歩いていた。


駅の入口に着いた頃には、風に晒された肌はすっかり冷たくなっていた。

 せっかく昨日までの暖かさで桜の花が開き始めていたのに、これではまた成長が止まってしまう。

 冷えた手を口元に当て温めながら、駅の入口に咲いている桜の木を見上げた。大体七分咲きといったところか。硬そうな蕾が、まだちらほらと見受けられた。


 構内に入り改札前の電光掲示板を確認すると、電車の出発する時刻が迫っていた。速い歩調で進んできたと思っていたのに、悴んだ体では思った程のスピードを出せていなかったみたいだった。

悴んで動きの鈍い手で定期券を探していると、風で舞い上がった桜の花が私を追い越して改札口を通り抜けていった。

きっと冷たい風で散ってしまった入口の桜だろう。桜に先を越されたことに少し焦りを感じながら、鞄の中を更に掻き回した。

 どうせならちゃんとリール付きのパスケースを買っておけばよかった。そうすれば、鞄に付けておくだけで直ぐに改札を通り抜けられたのに。

財布の中に入れておけばいいやと考えていたれけど、これから毎日使うとなると一々出し入れするのはやっぱり面倒かもしれない。後でパスケースを買いに行くことを決意しつつ、ようやく探し出せたICカードを改札機にタッチした。

 最近ようやくICカード式になったばかりで、木造の古い駅の内装にこの改札機は不釣り合いに思えた。

だからかだろうか。この新しい方式には未だに少し違和感を覚えてしまう。初めて使った時はタイミングを間違え、改札機に反応して貰えなく、変な扉にガードされてしまった。

 それでも、今日は成功した。ピッ、という音と共に改札が開き、扉に拒まれることもくスムーズに通り抜けられた。

先に入った桜の花の後を追い掛けるように、少し足早に中へと入って行った。


 田舎の小さな駅なので、ホームは階段を登った一箇所にしかない。

電車の本数も朝の通勤、通学の時間帯と夕方の帰宅時間帯以外は一時間に一本走っている程度だ。

だからか駅員さんも一人か二人常駐しているだけでこと足りてしまう。これから平日は毎日通うのだから、直ぐに顔を覚えてしまいそうだ。


 ホームへ向登る階段の手前で、ふと足が止まった。気持ちは電車の時間が近づき急い(せい)ているのに。

それでも足を止めたのは、階段の手前に桜の花が落ちていたからだ。

さっき私を追い越して行った桜の花が。まるで今度は私を待ってくれているみたいに。そんな風に見えてしまった。

風にそよぐその花を手に取って見てみると、花びらが何枚か破けてしまっていた。それでも開花するまで木になっていた力強さをまだ携えているようだった。

 私は制服のブレザーのポケットからハンカチを取り出し、そっと桜の花を包み、カバンの中へとしまった。

なんとなく、この力強い桜の花を持っていたくなったのだ。


 そしてようやく一段目に足をかけ、階段を登り始めた。四角く切り取られたホームの先の青空は、雲ひとつなく澄んでいた。


 ホーム中央の階段から出ると、既に電車は停車していた。

 寒さと共に少しの緊張を感じながら乗り込んだ電車内は、ずっと開けっ放しのドアのせいか外とあまり変わらない温度だった。

始発駅ということもあり乗客の姿も疎らだ。こんな車内では温かさが溜まるまでに時間が掛かりそうだ。

悴んだ体のまま、私は電車内を歩いていた。

寒さを紛らわす為ではない。ある席を目指す為だ。

元々乗客も少なく、尚且つ始発駅であることも相まって、殆どの席は空いている。だから、好きな席に座ることが出来るのだ。


 私は電車に乗る時、決まっていつも同じ席に座っている。

それは、最後尾の車両の四人がけのボックス席。

その中でも、進行方向とは逆向きの窓側の席だ。 

 どうしてそんな席なのか。理由はいくつかある。

 自分の後ろから作られていくように、風景が流れるのを見るのが好きだ。

前に進んでいるのではなく、後ろに吸い込まれているような、あの感覚も。

それに車両が後ろに続いていないからこそ見える、通過した後の真っ直ぐに伸びた線路。

それを見る度、自分は正しい道を進んでいるのだと思っていられる。なぜか心が落ち着く。

敷かれたレールの上を進んでいる。そう言うと、何となくマイナスなイメージが連想される。

けれど、私はあまり嫌いではなかった。


 車内にアナウンスが流れると同時にドアが閉まり、いよいよ電車は走り出した。

 徐々に加速して流れ去っていく景色をぼんやりと眺めながら、進行方向へ吸い込まれて行く。ドアも閉まり、暖房が効いているはずなのに、電車内の温度は中々温まらないでいた。


 ── ガタン、ゴトン ガタン、ゴトン


 頭の中で無意識に繰り返される音と体に感じる振動。この感覚も、嫌いではない。

 この電車のリズムにも、流れる川のせせらぎを聞いている時や揺らめく炎を見ている時と同じように、心をリラックスさせる『F分の1のゆらぎ』があるのだと聞いたことがある。

 だからなのか、こうしていると何も考えずただこの揺れと音に身を委ねていられる。



 新しい生活が今日から始まる。

 四月五日 、少し寒い春の日。

 私、鈴城 咲(すずしろ さく)は県立七草高等学校の一年生になった。



 七草高校までは電車で約一時間程だ。

見上げる程の大きなビルや、レモンやミントが入った水が出てくるようなお洒落なカフェなんてない田舎の村なだけに、駅と駅の間隔も広く乗り込んでくる人もさほど多くない。

この時間帯だと大抵は学生か、車を持たない老人達だけだろう。

ほとんどの人は高校を卒業すると同時に県外か大きな町か市にある大学や専門学校へ行き、寮に入るか独り暮らしを始めてしまう。

例え村やその近くに就職したとしても電車移動はしない。大抵が一人一台車を持つことになるからだ。

だから電車に乗る人は、年々少なくなってきているそうだ。車内が静かで私は良いと思うけれど、それで電車の本数が更に減らされたり、あまつさえ廃線になってしまうのは、さすがに嫌ではあった。


 そんな思いを巡らせていると、いつの間にか電車は速度を落とし始めていた。

どうやら次の駅に着いたようだ。

 完全に動きが止まりドアが開くとせっかく暖まり始めていた空気は一気に外へ逃げて行ってしまった。

その流れに逆らうように数人の乗客が乗車して来た。そして再びアナウンスと同時にドアが閉まり、電車は動き出した。

 外の冷たい空気を纏いながら乗り込んだ乗客は、一人また一人と自分の居場所を見つけて座っていく。


「おはよう。今日寒いな」

そんな中、突然話しかけてきたのは、栗色の髪で少し童顔な男の子だった。

 身長も私とあまり変わらなそうだから、百六十cm前半位だろうか。声も少し高めで童顔と呼ばれるような顔立ちに中学生かと思ったが、直ぐに違うと分かった。

七草高校の生徒だ。男子用の制服でどこの高校かなんて私には見分けられないけれど、彼の襟元に光る七草高校の校章が目に入った。

「え、あの…」

 こちらを向いているから、私に掛けられた言葉だろうことは分かるのだけれど。それに呼応する返答が出てこない。

目の前の出来ことにどう対応していいのか迷ったのは久しぶりかもしれない。

すると彼は続けざまに話しかけてきた。

「あのさ、一緒に座っても良いかな?俺と同じで七草高校の一年生だろ」

 やっぱり同じ高校だったようだ。

それにしても、高校だとみんなこんなにフレンドリーなのか。それとも彼が特殊なだけなのか。友達のいない私には、これが普通なのか特殊なことなのか測りきれなかった。


しかし突然話しかけられたこともそうだけど、その後の言葉にも驚いた。彼は、俺と同じでと言っていた。

「どうして、私が一年生だって…」

 すると彼は満面の笑みを浮かべた。そして倒れ込むように私の向かいの席に座り込みながら「あ〜良かった、当たってた。さすが俺!ほぼ勘だったんだよ!」と、これまた驚くことを言った。

 勘、って。そんなので当てられてしまうくらい、私は一年生っぽい見た目をしているのだろうか?

 しかし、彼は少し得意げに言った。

「でも、少しは確信あったんだぜ!ローファーとか傷もなくてピカピカだし、リボンも開花してないし。それに、ちょっと緊張してるように見えたから」

「そっか…」

 少し妙な言葉も出てきたけれど、そんな不確かな要素だけで話しかけられるなんて。

積極的な人はあまり得意ではないのに、なぜか彼のことはそんな風に思わなかった。寧ろ、普段あまり感情が表に出なくて相手にも伝わりずらい私の緊張を分かってくれたことが、ほんの少し嬉しいような気もしていた。

だからだろうか。もう少し、話してみたくなったのは。


「あの、開花って?」

 少し妙な言葉とはこの言葉だ。

 開花といえば花の蕾が開くことだが、リボンの開花とは一体なんなのだろう。

 すると彼は私の胸元にあるリボンを指差した。

「その制服のリボン。上と下の羽がくっついた蝶みたいな形してるだろ。もしくは萎れた蕾みたいな。実はそれ、上と下のくっ付いてる部分を切り離して広げると、ちゃんとしたリボンの形になるんだよ」

 そう言って彼は手で蝶の形を作って見せた。

私は視線を彼から胸元にあるリボンに落とした。

 確かにこのリボンは不自然に萎んだ形をしている。制服を渡された時も変な形だとは思っていたけれど、そんな方法があるなんて知らなかった。

でも、どちらかと言うと蝶というより蛾に近いような気がする。けれど、その言葉は呑み込んだ。


「最初は蕾で、切って開くと開花するんだ。でも、初めは先輩にやって貰ったり、学校に慣れたら開く人が殆どなんだよ。一応、校則違反だからさ。だから一年生なのかなって思ったんだ!」

 そうだったのか…と、普通に納得しかけたが彼も一年生だとすると何故こんなに詳しいのだろう。しかも女子ならまだしも、彼は紛れもなく男子高校生だ。

「君、何でそんなに詳しいの?」と聞くと「菜砂なすな はる」と、噛み合わない返答が返っきた。

 それでも最初から続くインパクトのせいか、そこまで驚かなくなってきていた。

「君じゃなくて、菜砂春って言うんだ」

 そういうと人差し指を突き出して宙をなぞり始めた。

 私はそんな彼の言葉を聞きながら、目の前で鏡写しに書かれる漢字を目で追いかけていた。

 綺麗に伸びた指先が、直線や曲線をリズミカルに描いていく。

「菜っ葉の菜に、砂場の砂、四季の春で菜砂春。春って呼んでくれよ!」

 言い終えると締めくくるかのように、ニッと笑ってみせた。

私はコクンと小さく頷いたあと「私は鈴城咲」と、あまり抑揚のない声で自己紹介をした。


 出会ってたった数分でこんなに話しかけてきた人は初めてだった。

いつもなら、話しかけられたとしてもこんなに会話が続くことはない。

私の愛想のない返答にすぐに飽きらるか、諦められるか、気まずくなるかしてみんな離れていくばかりだった。

 私自身、そのことをあまり悲しいとも、申し訳ないとも思っていなかった。寧ろ一人の方が気楽で良いとさえ思っていた。


 だけど春は違った。どんなに素っ気ない返答でも、次の言葉を掛けてくれる。

こんなこと、初めてだ。

そして私はそのことを嫌じゃないと思っている。

いつもとは何か違う。そんな気がしていた。


「鈴城咲か。どんな漢字書くんだ?」

 春は私にも宙に書けと言わんばかりに、指を促してきた。

私はそっと浮かした指で宙をなぞり始めた。

今度は春が私の指先が書く鏡写しの漢字を目で追っている。たまに指につられて顔まで動かしながら。

 自分の名前をこんな風に教えるのは始めてだ。

私が書き終えると「いい名前じゃん!あのさ、咲って呼んでもいい?」と、言ってきた。

いきなりの名前呼びに戸惑いつつ「良いけど」と答えると、春は嬉しそうにニッと笑った。


 飽きられるでも、諦められるでも、気まずくなるでもなく、笑ってくれる。


「咲はさ、この駅からじゃないってことは始発駅から来たんだろ!いいよな、始発だと好きな席座れんじゃん」

「うん。私もそこは気に入っている」


 春からは言葉がどんどん出てくる。

私が次の話題に繋げられなくても、春が次を繋げてくれる。


「じゃあさ、この席に座ってるってことは、ここがお気に入りの席?」

「そう…」きっといつもの私ならここで言葉を終わらせていた。

でも、今はなぜか春にこの席に座っている理由まで話したくなっていた。

「いつもこの車両の、この席に座るんだけど…」気づけば次の言葉を出していた。


 慣れない口調で話をする私に、春は口を挟むことなく最後まで聞いていてくれた。

そして聞き終えると少し興奮気味に「何そのかっこいい理由!咲はさ、きっと感性が豊かなんだろうな。俺はいつも先頭車両行って真ん中の扉から運転席見てるな。自分も運転してるみたいで楽しくてさ!」と言った。

 確かにあの扉から見る景色は、運転手だからこそ見れる景色だ。

でも、だとしたら、少し引っかかった。


「じゃあ今日はどうして最後尾に乗ったの?」

何気なくした質問だったのに、春の反応は意外なほど大きかった。

「えっ!あ〜えっと、寝坊したんだ!危うく乗り遅れるとこだったけどギリギリセーフ!あぁ〜でも、そのお陰で咲に会えたんだから寧ろラッキーだったな!」

 少し焦っているようにも見えた。

寝坊したことがそんなに恥ずかしかったのだろうか。


 それにしても、会えたことがラッキーだなんて、そんな言葉初めて言われた。

他人の言葉なんてただの情報で、それで感情が動かされることなんてなかったはずなのに。

今は少しだけ、春の言葉と笑顔が嬉しいと思っていた。


 電車は徐々に減速していき、次の駅のホームが見えてきていた。



──── 中学までの私は何に興味を示していいのか分からなかった。

というより、無関心、無感動、無表情で誰からも興味を持たれたことがなかった。

 好きなアイドルや漫画、ゲーム、休日どこに出掛けるか、クラブ活動、勉強、好きな人……。

周りの皆が話している中、私はどの会話にも参加出来ないでいた。

誰かとする雑談。他愛のない会話。それをどうやってしたらいいのか、分からなかった。


 勉強はできる方だった、と思う。学年順位は常に一桁代だった。けれど、それにやり甲斐を感じていた訳ではなく、ただ黙々とこなすだけだった。

 学校では教室か図書室にいることがほとんどで、授業が終われば部活動にも委員会にも入っていない私は、ただ家に帰るだけだった。

 家と学校の往復。教室と図書室の移動。授業を聞いてノートに写して、お昼は一人食堂で食べる。なにも起こらない変わらない日常に、感情は漸進的(ぜんしんてき)に薄れていった。


 いつからそうだったのかなんて覚えていないけれど、記憶にある限り小学校三、四年の頃からはもう、今の自分のままだった。

 それでも、せめてもの救いはいじめがなかったことだ。

誰とも話さないから無視されていただと判断の仕様がないが、それでも物が無くなったことも、上履きに画鋲が入っていたことも、黒板消しが上から降ってくることもなかった。

 班別行動になれば気を利かせて声を掛けてくれる子はいたし、修学旅行でもどこかしらの班には入れて貰えていた。

けれど、そこで仲良く会話が出来るわけではなかった。

周りと歩調を合わせて着いて行くだけだった。

 そんな私をみんながどう思っていたのかは分からないが、私は決してクラスメイト達を嫌いではなかった。



「あーー、やばい!肝心なこと聞くの忘れてた!」

 突然の大声で思考が一気に現実に引き戻された。

「咲は、何科だ?」

その質問の意図はすぐに分かった。

 私達の行く七草高等学校には三つの科が存在する。普通科、生物生産科、環境工学科だ。

 普通科は通常の授業のみを行う科だが他の二つは違う。

 生物生産科は動物・植物・食品を取り扱い将来、食料生産や地域振興を行う産業人を育成する科。

 環境工学科は地域環境の保全や設備に関する知識と技術を習得し、農業と自然環境が調和した生活の実現に向けて取り組む人材を育成する科。と、高校のパンフレットに書いてあった。

 つまり、一年生の中でもそれぞれ三つの科に別れているのだ。

「私は普通科だけど…」少し探るような声になりながら答えた。

 すると「よかったー、俺も普通科!せっかく友達になれたのに違ってたんじゃ寂しいもんな。一クラスずつみたいだから、三年間一緒だな。改めてよろしくな、咲!」

そういいながら、春は右手を差し出してきた。

 私も呟くように「よろしく」と言いながら右手を握り返した。その声はいつもより明るく自分の耳に入って来た。

 手を離し、何気なく窓へ目をやるとそこに映る自分の横顔を見て驚いた。自覚なんてなかった。それでも自然に、私の顔は笑顔で綻んでいた。

 視界の右端に見える春はこちらを見ているようだった。

 笑顔なんて久しぶりだったから、ぎこちなくて変に見えているかもしれない。それが少し恥ずかしくて、もう少しこのまま窓の外を眺めていようと思った。

 いつの間にか止まっていた景色を眺めながら、いつもの表情に戻れるまで。


 電車は仏駅に到着していた。

私が乗車する始発の芹駅から七草高校のある七草駅までは、春が乗ってきた箱部駅、そしてこの仏駅の二駅しかない。

駅から駅までの間隔は広く芹駅と箱部駅の間は十五分程で、そこから二十分程して仏駅に到着する。

何故そんなに広いのかと言うと、理由は簡単で途中に山しかないからだ。全く山しかない訳ではないのだが、集落が数箇所に点在しているので、そこに一々駅を作るには予算も時間もかかり過ぎてしまう。

 という訳で、主要な町にのみ駅を作った結果、駅と駅の間隔が広くなってしまったのだ。


 アナウンスと共にドアが閉まり、再び電車は動き始めた。

「おはようございます。私もご一緒してよろしいですか?」

 風に揺れ音を奏でるウィンドチャイムのような、透き通る声が聞こえた。

 話しかけてきたのは、艶のある長い黒髪に赤いハーフリムのメガネを掛けた七草高校の制服を着た女子生徒だった。

何気なく見たリボンは、まだ開花していなかった。


 二度あることは三度あるはよく聞くけど、一度あることは二度あるも、ことわざとして存在するらしい。

 一度あることは、もう一度同じようなことが起こるから注意せよという戒めの言葉らしいけれど、今回は少し違うかもしれない。

だって起こったことが僥倖(ぎょうこう)なら戒めは快諾(かいだく)に変化するのだから。


「突然すみません。御形 花(おぎょう はな)と申します。私もお二人と同じで七草高校普通科の一年生なんです。よろしくお願いします」

「おぉ、そうなのか!よろしくな。取り敢えず座れよ」

 話し掛けられた直後は驚いていた春も、すぐにこの状況を受け入れたらしく、さっそく二人は話し始めた。

「俺の名前は菜砂春。春って呼んでくれていいぜ!だからさ、俺も花って呼んでいいか?」

 ぜひ、と笑った花の微笑みは凄く柔らかくて名前の通り花のような笑顔だ。

 春はさっき私にやったみたいに、宙に名前を書かせどんな漢字で書くのかを聞いている。どうやらこれが、春なりに相手と打ち解ける方法のようだ。

 私はといえば、再び訪れた新しい出会いに困惑して息を飲むことしか出来ずにいた。

 話す言葉も笑顔も出てこないまま、頭の中では笑った時に花は笑窪が出来て可愛いな、なんて考えていた。

すると「おーい、咲も自己紹介しろって」と、春が声を掛けてくれた。

 その言葉に促される形で、ようやく言葉を発することが出来た。

 けれど出て来た言葉は「鈴城咲です。よろしく」と、ただそれだけ。自分でも、本当に芸がないなと思ってしまう。

 それでも花は「よろしくお願いします」と優しい笑顔で返してくれた。


「俺達もついさっき友達になったばっかなんだ。つーか、花すげぇな。なんで俺たちが普通科の一年生だって分かったんだ?あ、もしかして、花もリボンの開花のこと知ってたとか?」

「リボンの開花…、は何か分かりませんが、普通科だと話しているお二人の会話が聞こえてきたんです。せっかく同じクラスになれるんですし、他の皆さんよりフライングで仲良くなっちゃおうと思って声を掛けさせて頂きました。よろしければ私もお友達の仲間入りさせて下さい」

花はまたニコッと微笑んだ。

「もちろん!俺も一気に友達が二人も出来て、すげぇ嬉しいわ!」



 二人のやり取りを聞きながら私はそっと目を閉じてみた。

 今まで友達と呼べる相手なんて居なかった。


 そんな私が本当にこの短い時間で二人も友達が出来たのだろうか?

 まだ自分の名前を言っただけで、ただこの場に居るだけの私もそう呼んで良いのだろうか?


 現実であることが未だに信じられないでいた。

もしかしたらこれは理想や願望が見せる夢で、私はただ電車の心地よい揺れでいつの間にか眠ってしまっているのではないか。

そして目覚めてしまえば、また一人きりのボックス席で窓の外を流れ去る景色を見ることになるのではないか。

考える程にそうではないかと思えてくる。

だってその方が有り得そうで、この有り得ない展開にも納得がいく。

 そして今ならまだ、私は一人で座っていた時の自分に戻れる。

どうしてもネガティブな方向に思考のベクトルが向いてしまうのは、このまま行くときっと一人でいる自分に戻れなくなってしまいそうだと思ったからだ。


 瞼が重たく感じた。電車の揺れも周りの雑音も今は感じず、瞳に意識が持っていかれる。

開こうとする意思が、思い浮かぶ想像に邪魔される。

 何も変わらなくていいと思っていたのに、突然の眩いばかりの変化を心のどこかで本当は望んでいたのかもしれなかった。



「咲まだ眠いのか?それとも緊張してんのか?」

重たかった瞼から力が抜けていった。

 ゆっくり目を開けると、春の心配そうな顔が私を覗き込んでいた。

「大丈夫だって、俺と花もついてるし、何かあれば助けてやるからさ。心配すんなよ!」

 明るくて元気な声だ。

「そうですよ。私も初めましての学校は緊張しますけど、お二人と一緒なら心強いです」

 それに花のゆったり穏やかな声。

 目の前の二人があまりにも眩しくて、また目を閉じてしまいそうだった。

「それより二人とも、俺はすげぇことに気づいてしまった!」

春はまた一段と明るい声で言った。

「何ですか、すごいことって?」

「俺たちの名前だよ!今の季節にぴったりじゃね!しかも花、咲、春。それぞれがそれぞれに影響してるんだよ。いいか…」そう言うと春は一つ咳払いをして、続きを話し始めた。

「春になると花が咲いて、花が咲く頃春が来て、咲く春を花は待ってるんだ。ほら、お互いに影響し合ってるんだよ。俺達の名前。だからさ、この三人が出会えたのはきっと、運命なんだ!」

 そう強く言い切った春の瞳は煌々と輝いていた。

 初対面で運命だなんて。

しかもそれを恥ずかしげもなく言える高校生は、そうそういないだろう。

 それでも、春ならそれが許される気がした。

そしてこの二人といる空間は、嫌いではない。

寧ろ居心地が良いとさえ思えていた。


 いつの間にか車内の空気も暖まっていて、冷えていた指先も熱を取り戻していた。



 変化は唐突にやってくる。


自分の知らない内に始まり、いつの間にかその渦に呑み込まれている。


大きい小さいを問わず。


望む望まざるに関わらず。


常に私たちの周りを取り巻いている。


 興味のなかった日常が、少しだけ違うものに変化してきていた。



 やがて電車は七草駅に到着した。


 駅を出ると通りの向こうに商店街が広がっている。

そこを横切り長い坂道を登って行くと、七草高校に到着する。


 白い校舎と門の両脇に聳え立つ大きなソメイヨシノは、私を見てと主張するように満開に咲き乱れていた。


 ここから、新しい学校生活が始まっていく。



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