91 出雲1
出雲についたのは、昼過ぎだった。
ナンテンは、三人を砂浜に下ろすと、「疲れたぁ」と言って、突っ伏した。ゼェゼェ言っているうちに、身体がみるみる小さくなって、そのまま眠り始めた。
千鶴は、ナンテンを両手で抱えて、懐に入れる。
「・・・海。」
すぐ側で、比丘尼がポツリと呟いた。
つられて視線を巡らせると、出雲の海は黒くうねりながら、不気味に波立っていた。
いや、よく見ると、海面から立ち上っているのは、波しぶきではない。
海の中から何かが起き上がろうとして、しかし起き上がれずに、その残滓が煙となり霧散しているかのような、そんな畝だった。
「こっちです。」
公賢の案内で、浜辺を歩いていくと、そこには檜で作られた舞台があった。
「これって、踊るための・・・?」
祭事のときでも使うような立派な木組みの舞台が、浜辺に設置されていた。
「頭中将が伏龍を探していると聞いたときから、手配して作らせていました。」
公賢は、伏龍の正体を知っていたのだ。そして、そんなにも早くから手を打っていた。
「・・・あれは?」
千鶴は、再び、荒ぶる黒い海に視線を向けた。
「あれが、ヤマタノオロチ。頭中将と道満庵が呼び起こし、しかし、力が足らずに、硬い殻を破ろうと藻掻いています。」
「まだ、完全に封印を解かれてはいないのですか?」
「完全に蘇るには、贄が必要です。」
「贄・・・。」
「贄は、かつて、ヤマタノオロチが封印される前にしていたように、若い乙女が望ましい。さらに欲を言えば、活力を与えるような血統のもの。」
「・・・それは、わたし・・・ですか?」
公賢が頷いた。
「あなたは、優秀な生贄です。」
なんと答えて良いのか、返答に困って苦笑いすると、公賢が、
「しかし同時に、比肩する者のいないほど、強力な盾です。」
「はい。分かっています。」
千鶴は、強い決意をもって頷いた。
「そして、私が、封印するのですね。この舞で。」
「左様。」
千鶴は、両手に抱いた白拍子の衣装をギュッと抱きしめた。
「あなたに初めてお会いしたとき、陰陽道について、話をしましたね。」
鶯とともに、公賢の釣殿を訪れた日のことだ。
たった数ヶ月前のことなのに、もう、遥か昔のことのように感じる。
「陰陽道とは、万事が相反する陰と陽から成るものと考える、ですね。」
例えば、太陽が陽であるならば、月は陰。また、植物が陰であるなら、動物は陽といった具合に。そして、人は、男が陽であるならば、女は陰となる。
「白拍子は、陰である女が、陽である男装束を身につけるのだ、とおっしゃいました。」
公賢が、「そうです。」と頷く。
「では、なぜそうなのか。それは、そもそも、白拍子の起源は巫女だからです。陰であり、陽であるのは、その身に神の力を憑依させるためなのです。」
千鶴はそれまで、白拍子の起源など、考えたこともなかった。
だけど、あの踊るときの、どこまでも、自然と、周囲と、世界と一体化するような感覚。
自分が、自分でなくなるような・・・あれはーーー
「あなたが、白拍子になったのは、偶然でしょう?」
「はい。菊鶴に拾われたから、です。」
「しかし今、その偶然が、この窮地を救うのです。あなたは、その身に神を降ろし、そしてオロチを再び、封印するのです。」
この身体に神を降ろす。
自分に、そんな力があるとは、信じられない。
でも・・・
千鶴は、手に持った白い水干と緋の袴をギュッと抱きしめた。
やる、と決めたのだ。
◇ ◇ ◇
「千鶴。」
木の陰で着替えを済ませた千鶴に、比丘尼が剣を手渡した。
「これは、あなたの祖にあたる者から、託された剣です。」
公賢が黄金の山犬の側で拾ったのだという。
比丘尼から受け取った剣の柄を握ると、剣がそれに応えるように、じわりと熱を持った。
「あなたが、今日、この日に振るうために、我々はそれを託されたのでしょう。」
千鶴は、剣と自分の繋がりを確かめるように、もう一度、強く柄を握った。
「懐のナンテンは、私が預かりましょう。」
比丘尼に言われ、千鶴は懐からナンテンを出した。疲れているナンテンの眠りを妨げぬよう、両手で優しく比丘尼に渡す。
「よろしくお願いします。」
比丘尼も、両手の平でそっと受けとった。
一瞬、ふるふると首を動かしたナンテンは、比丘尼の手のひらに鼻をこすりつけたかと思うと、すぐに、すやすやと安心したように鼾をかき始めた。
「頭中将と道満庵の本体は、未だ見つかっていません。都にも幻影しかいなかった。しかし、あなたがオロチを封印しようとしたら、必ず出てきます。」
公賢が言った。
「ですが、貴女は何も気にしなくていい。貴女は、貴女の為すべきことをしてください。」
「はい。」
比丘尼とナンテンは、戦力にはならないはずだ。公賢一人でどうやって、頭中将と道満庵の二人を止めるのか。
疑問はあったが、不安はなかった。
今の自分は、公賢を信じている。心の底から。
公賢が、懐から何かを取り出した。
「これを、貴女に返します。」
「これ・・・どこで?!」
公賢の白い手のひらには、菊の意匠の櫛が乗っていた。どこで失くしたのかと思っていたのだが・・・。
「権大納言邸の近くに落ちていたのを、惟任が拾ったのです。」
「惟任さまが?」
そうか。
やっぱり、惟任は、あの日、千鶴を迎えに来てくれていたんだ。
そのまま攫われ、ひどく心配しているかもしれない。
「以前も言いましたが、櫛には、女性の御霊が宿る。この櫛は、あなたを守ってくれますよ。」
「女性の御霊・・・?」
比丘尼が、公賢の手のひらに置かれた櫛に、そっと指で触れた。
「きっと貴女の母でしょう。」
そして私の娘、と愛おしそうに撫でる。
「でも、それだけでは、ありません。この櫛は、私も私の母から受け継いだもの。母は祖母から。この櫛は、貴女に繋がる数多の祖先たちの加護なのです。」
千鶴は、受け取った櫛をぎゅっと胸に押し抱いた。
櫛がそれに応えるように、じわりと熱を持った。
剣と櫛。
それは、かつて抱いた疑問ーーー私が何者なのか、その答えを教えてくれているように感じた。
千鶴は、櫛を懐にしまうと、
「いってきます。」
自分でも驚くほど、しっかりとした声が出た。
二人に深々と一礼して、舞台のほうへの踵を返した。その瞬間、ドンッという大きな音ともに、突き上げるような揺れが起こった。
「地震っ!?」
海面が、一際大きく波立った。
「ふっはっはっはっは・・・」
不気味な笑いとともに、突如、頭の禿げ上がった狸のような男が一人、現れた。
「来ましたね、道満庵っ!」
公賢が、大きく九字を切る。
「千鶴は、行きなさいっ!」
「させるかぁっ!!」
道満庵が、大きく手を振り上げると、何百枚もの真っ白な紙が、凄まじい勢いで千鶴に向って襲いかかる。
「眠りから覚めたばかりのオロチが、殻を破るためには、まだ力が足りぬ。お主は、上質な生贄となるのだっ!!」
紙が千鶴を取り囲もうとした瞬間。シュンっと言う音ともに、空から大量の木の葉が舞い落ちた。
木の葉は、ユラユラと揺れるような動きで、紙をはたき落としていく。
「走りなさいっ!舞台まで!!」
公賢の指示が飛び、千鶴は駆け出した。
「無駄だっ!」
今度は、3匹の大蛇と数十匹のカエルがどこからともなく現れ、千鶴を追う。
千鶴は、必死で走り、舞台を駆け上がった。
すると、追ってきた大蛇が一つに合わさって、黄色と黒の縦縞の動物に姿を変えた。中華にいる、虎という動物だ。
虎が獰猛に舞台を駆け上がり、千鶴に喰い付こうとした、そのとき。
虎と千鶴の間に、木の葉が集結して、9つの尾がついた狐に姿を変えた。九尾の狐は、襲いかかる虎を尾で叩いた。
虎が飛ぶ。
千鶴は、その隙をついて、舞台に立った。
腰に佩いた剣を鞘から抜いた。
ズドンという突き上げるような地震が起こり、海から黒い竜巻があがる。
アレが起き上がろうとしている。
早く!!暴れる前に押さえつけないと!
千鶴は、深呼吸を一つして、ゆっくりと踊り始めた。
厚い雲が空を覆っていた。
「やはりっ!」
道満庵の叫ぶ声が雑音のように千鶴の耳を刺激する。
「あの娘、国つ神の血を引いていたか。」
神には、その昔、天上から地上へと下った天つ神と、国土に土着の国つ神がいる。
ヤマタノオロチを倒したスサノオは天つ神であり、彼が見初め結婚したクシナダヒメは、国つ神の娘だ。
「さすが、ワシの見初めた最高の贄よっ!!」
九尾の狐の横をすり抜けた虎が、千鶴に襲いかかった。千鶴は、咄嗟に舞う手を止めて剣を虎に向けた。
虎は、下から上に振り抜いた刃を躱し千鶴の左肩めがけて喰いかかる。
後ろに飛びながら逃げる千鶴の肩を、虎の牙が掠めた。
檜舞台を囲む太い梁の上に着地した。
千鶴の肩から飛び散った血痕が、砂浜に数滴落ちた。
バチッと、火花が飛んで、砂浜の血痕は、みるみるうちに吸収され、消えた。ブルリと地面が細動する。まるで砂浜が、千鶴の血に喜び、打ち震えているかのように。
道満庵が、クンッと鼻を鳴らす。
「やはり」
ペロリと舌で唇を舐め、
「皇族の血も濃い。」
ギクリと肩を震わせた比丘尼を、道満庵目玉だけをギョロリと動かして、見遣った。
帝は天つ神の血を引いている。比丘尼が、帝の縁者だと、気づいている。
虎が再び、千鶴に飛びかかる。
千鶴はひらりと、隣の梁へと身を移した。
また肩の傷から血が飛び散った。
バチっという大きな破裂音とともに、空から浜に、雷が落ちる。
凄まじい雷光に目を覆った。
「千鶴っ!足元に気をつけてっ!!」
比丘尼の声。
目を開けると、血が飛び散った場所の地面が断裂し、ポカリと暗い口を開けていた。
九尾の狐が、虎をその裂け目に落とそうと、飛びかかった。しかし、虎はするりと避け、少し後退した。
「早く・・・早くしないとっ・・・」
しかし、舞台上では、虎と狐が団子のように揉み合っていて、降りられない。
狐がその大きな尾で虎を叩くと、避けざまに虎が2つに分裂した。
左右に、別れて飛び上がった虎は、両側から尻尾にくらいつき、引きちぎる。9本の尾のうち、2本が消失した。
空には頻繁に雷鳴が轟き、道満庵の不気味な経文が聞こえてくる。
あの虎をなんとかしないと、舞を舞うことは出来ない。
千鶴は意を決して、虎に狙いを定め、刀を振りあげ、飛び込んだ。
しかし、カンッという甲高い音とともに、千鶴の剣が弾かれた。
身体が後ろに吹っ飛ぶ。さらにギラリと光るものが、千鶴めがけて突進してくる。
虎の影から突如、現れた頭中将だった。
手には剣を、持っている。
「お前をっ!」
剣先を千鶴に向け、激しく突きながら、
「お前を、あの穴に落とすのだ。そして、ヤマタノオロチは復活するっ!!!」
頭中将は、近衛府の左中将。
中将は大将に次ぐ役職だが、高位の貴族の子弟が、出世の通り道として就いていることも多い。
武官とは名ばかり、ということも、往々にしてあるのだが、しかし、頭中将は本当に強かった。
千鶴は、剣を弾くのに精一杯で、こちらから攻撃に転じることができない。
あっという間に、元の梁の上に、押し戻された。
勢いにのった頭中将が、さらに一太刀を浴びさせる。
「ーーーっ?!」
どうしようもなかった。
この太刀を躱すだけで精一杯。
それには、後ろに逃れるしかなかった。
千鶴は、頭中将の一撃から逃れるために、後ろに飛びあがり、ぽっかりと待ち構えるように空いた穴の中へ真っ逆さまにーーー
墜ちるっ!!!
次の瞬間、千鶴の身体はふわりと浮いていた。
何かに支えられ、ザッという着地音ともに、砂が舞う。
砂煙が晴れた、その先にはーーー
「惟任さまっ?!」
自分を抱きかかえる惟任がいた。
千鶴をみて、ニコリと笑う。
「今度こそ、間に合いました。」
惟任が、千鶴ギュッと抱きしめた。惟任の手の先が、少し震えていた。
「本当に、今度こそ・・・間に合いましたよ。」
呟くように、繰り返した。