89 謁見
千鶴と比丘尼を背に乗せたナンテンが、大内裏の南端、朱雀門の上に、ふわりと降り立った。
門の上から見た都は、あちらこちらから、火の手が上がっていた。
「これ・・・・が、都?」
ナンテンの背から降りた比丘尼が、千鶴の横で呟いた。
街には近衛や検非違使たちがいるが、人々はどちらに行けばいいのかわからず、逃げ惑って右往左往している。
千鶴は、その様を呆然と眺めながら、
「酷い・・・」
中には、どうしていいかわからず泣き叫ぶ者、呆然と道に座り込む者、さらには、すでに動かなくなった者まで。
まるで、これは・・・これではーーー
「・・・地獄の入り口のよう。」
ポツリと口にした途端、足元が大きく揺れた。
「また地震っ!?」
「オイラに捕まって!」
千鶴は、比丘尼を庇うように抱きこんで、ナンテンの背を掴む。
「公賢さまと合流しよう。早くオイラに乗って!」
「お願い!」
二人が再び背に乗るとナンテンは、後ろ足を蹴って、宙に舞い上がった。
◇ ◇ ◇
公賢は、大内裏の一番内側、内裏に入る手前に立っていた。
「公賢さまっ!!」
待っていたのは公賢一人。
菊鶴や鶯、唐錦、それに・・・惟任は無事だろうか?
ナンテンの背から降りて駆け寄る千鶴に、
「無事に戻ってきましたね。」
こんな時でも、いつもと変わらぬ淡々とした口調で言った公賢だったが、千鶴の横に立つ人物を認めた途端、細い目が僅かに開いた。
「・・・・貴女も?」
「えぇ。来てしまいましたわ。」
公賢は、スッと顔を逸らして、
「・・・都は酷い有様です。怪我をされぬよう。」
公賢の言葉に、比丘尼が「ありがとう。」と、柔らかく微笑む。
その短いやり取りで、千鶴は、二人が知り合いであることと、単なる知り合いではないことの両方に気がついた。
公賢は、すぐに落ち着きを取り戻し、千鶴に顔を向けた。
「千鶴、貴女を待っていました。」
「私を?」
尋ねる千鶴ではなく、比丘尼に向かって
「それで、いい・・・のですよね?」
「えぇ。」
比丘尼が、強い、意志のこもった目で応えた。
「これを止められるのは、千鶴しかいません。」
「っ?!」
千鶴は驚いて、比丘尼を振り返った。
「あの・・・あなたは一体・・・? 私のことを知っているのですか?」
尋ねようとした千鶴を、公賢が遮るように、
「千鶴。」
と、呼ぶと、「ついてきなさい。」と言って、身を翻し、大内裏のさらに内側、内裏の方へと歩き始めた。
「えっと・・・あの?」
公賢と比丘尼は、勝手に何かを承知しているようで、千鶴一人だけが、どうしていいのか分からず、戸惑っている。
躊躇う千鶴の背に、比丘尼の手がそっと添えられた。
「行きなさい。」
「でも・・・」
なぜ、自分が待たれていたのか。
なぜ、当たり前のように内裏の中に導くのか。
そして、なぜ、その全てを比丘尼が承知しているのか。
わからないことだらけで、どうしていいのか、困惑していた。すると比丘尼が、
「千鶴。伏龍が発動した今、これを止めることは貴女にしかできません。さぁ、貴女はこの先に行くのです。」
母親というには年上すぎる比丘尼の、しかし、母のような眼差しに励まされ、千鶴は頷いた。
戸惑いながらも、自らの足で歩くと決めた子どものように、一歩を踏み出す。
◇ ◇ ◇
初めて足を踏み入れた内裏は、人気がなく、しんとしていた。それは今が有事だからで、普段はもっと華やかなのかもしれない。
強い緊張を孕んだ空気に、自然と腹の下に力が入り、気が引き締まる。
公賢に連れられた先には、立派な御殿があって、一段高くなったところに、小さなーーー千鶴よりも小さな少年が、御簾も下げずに、鎮座していた。
公賢が、その前に座り、両手をついて拝頭したので、千鶴もそれに倣った。
「面をあげよ。」
ハッとして、顔をあげた。
少し高めの声には、聞き覚えがあった。
視線の先で、あどけない顔した男の子が、こちらをみて、はにかんだ。
「久しぶりだな、千鶴。直接、顔を見て話すのは初めてだが。」
「一条の・・・お屋敷の?」
少年が、静かに頷いた。
千鶴は、以前、公賢の依頼で、様々な貴族の邸宅に出入りをしていた時期がある。
その時に、左京の一条に、印象的な屋敷があった。品の良い調度品で、綺麗に整えられているが、どことなく生活感のない屋敷。
誰かが、お忍び用の別宅にでもしているのだろうと思ったが、まさか・・・まさか、この人が?!
「あそこは、私の母方から譲り受けた家だ。たまに御所に疲れると、抜け出して行くのだ。」
だが、あのとき、御簾の向うに鎮座していた影は大人のものだったはずだ。
すると、その疑問に答えるように、
「御簾ごしに影を映していたのは、信頼のおける側近だ。」
子どもの声で、いたずらっぽく笑う少年。
けれど、相対する者に、どこか底しれぬ、畏怖の念を抱かせる。
この人は紛れもなくーーー帝だ。
そのことに気が付いた千鶴が、慌てて頭を下げると、
「よい。そんなことをしている時間はないのだ。」
帝は、面を上げるように再度促した。
千鶴の顔をしかと認め、
「千鶴。其方、今、何が起こっておるか、知っているか?」
「頭中将が、伏龍を・・・?」
「そうだ。」
頷いてから、すぐに、
「いや、伏龍といっても、龍ではない。今、伏龍と呼ばれるものーーーあれはヤマタノオロチのことだ。」
「ヤマタノ・・・オロチ? あの古事記の・・・スサノオノミコトが倒したオロチですか?」
千鶴は、そこで初めて、伏龍の正体を教えられた。
伏龍は、宋から輸入した呪具などではなかった。
その名のとおり、この地に伏せる龍。
かつてスサノオノミコトに倒され、この地に封印された、この国の龍ーーーヤマタノオロチなのだ。
「そのオロチに、長い時を経るうちに、いつの間にか龍という唐物の名がついたのだ。そして、その正体に行き着いたのは、頭中将が初めてではない。」
「平清盛ですか?」
帝が頷く。
「だが、しかし、清盛はその正体を得、呼び覚ます術を手に入れて、尚、行使はしなかった。あれ程憎んだ源氏に追い詰められても、だ。なぜだかわかるか?」
千鶴は首を横に振った。
「伏龍が、この地を無に帰す術だからだ。」
「この地を無に帰す術・・・」
この地に眠るオロチが一度目を覚ませば、大地は割れ、山々は火を吹き、海に飲まれる。さすれば、人々はそれに飲み込まれ多くが死するという。
「あるいは、人々は、それに飲まれまいと必死で逃げ惑い、争い、この世は地獄と化すだろう。」
「そんなに・・・酷いこと?」
そんな術が本当にあるのか?
今でさえ、もう、都は地獄のような有様なのに。
「清盛は、権力欲は強いが、その目は常に未来に向いていた。この国を、発展させることに己の正義を得た。だから、どんなに追い詰められても、この地に築いてきたものを無にするような術は使わぬ。」
帝の口調には、どことなく、かつて、この国の覇権を握った人物への敬意が込められているように感じられた。
それから、少年王は、真っ直ぐな目で千鶴を見つめ、
「私は、人々が権力のために争うことを否定せぬ。」
子どもの口から出るには、不釣り合いな言葉を、凛とした声で紡いだ。
「争いは、古くからあった。大きな戦乱はここ十数年のことだが、それ以前も、地方には諍いは常にあった。戦となれば、苦しむ民もいるだろう。そのことには、心が痛む。しかし、歴史の中で、争いは簡単にはなくならぬ。権力を奪い合いながら、人の歴史もまた、発展していくのだ。」
「頭中将は、なぜ・・・何のためにオロチを起こしたのでしょう?」
「頭中将の理想は、少数の特別な力を持った者たちが国を導く、というものだ。もちろん、その筆頭は自分だと考えているが・・・しかし、それは単なる野心ではなく、それこそが、この国を、真に正しく導けるのだと考えているのだ。」
なるほど。
帝の言うことは、分かる気がする。
頭中将は、確かに得体のしれない男だったが、単なる我欲に溺れた者にはみえなかった。
「太古から、特別な力を持った者たちは政治的主導者であった。ヤマタノオロチは、その時代に戻すための、いわば荒治療のつもりなのだ。」
頭中将の考え方は、この国の成り立ちやあり方を踏まえれば、その方法はともかく、そこまで突飛な思想とはいえない。
現に、神の血をひく帝を中心に、国は回っているし、呪術は人々の心を操る力を持っていると、皆、信じている。
「帝は、頭中将とは、お考えが違うのですか?」
「違う。」
帝は短く、だが鋭く言い放った。
それから、小さくため息をついて、肩の力を抜いた。視線を遠くに巡らせ、ポツリと、
「私は・・・月詠の鏡をみたのだよ。」
「月詠の鏡っ?!」
「そうだ。千鶴も知っておるだろう?」
以前、唐錦が、自身の生い立ちを知るために使ったことがある。千鶴は側で見ていただけだが、どういうものなのかは、よく知っている。
この世の真実を映すのだ。
「私は公賢に頼み、月詠の鏡を使った。そして、見たのだ、この国の行く末を。」
「行く末・・・ですか?」
「まだ見ぬ時代。それも5年後や10年後のことではない。百年、二百年、いや、千年先のことかもしれぬ。」
「そんなに先を?見ることが・・・できるのですか?」
一年先だって、どんな災害や飢饉があるかもしれない。そんなに先ものことなど、全く想像できない。
千年先の世界は、どんなふうになっているのだろう。
「その姿形を直に目にすることは出来なかった。当たり前だ。まだ、あまりにも遠い先の話で、確かなものなど何もないのだから。だが、薄ぼんやりと、観念的なものを感じ取ることはできた。」
「・・・はぁ?」
自分より年下の帝の言葉が、千鶴には、いまいち理解できなかった。
「その、行く末というのは・・・どのようなものだったのでしょう?」
「少なくとも、頭中将が理想とするものとは違った。」
「世を支配するのは、呪術的な力ではない・・・ということですか?」
「少数の特別な生まれの、高貴な血の者たちが政を行うのではなく、出自に関わらず、意欲や能力のあるものたちが、この国に関わるーーーそれは政だけでなく、民ならば皆、この国の一員として、この国を作っていく。そんな未来に、私には見えた。」
今、民が武力を行使することで権力に近づくのは、そういう時代に移行するために必要なことなのだと、帝には言った。
「そんな・・・そんなに先のことなど・・・私には想像できません・・・。」
「それで良い。百年先も千年先も、今の皆の一日の積み重ね。だから、今を生きる者たちは、それで良いのだ。」
「民は良いが、帝は違う、と?あの・・・」
千鶴は、恐る恐る尋ねた。
「帝は、ご自身の権力が奪われても構わないーーーと考えているように聞こえるのですか・・・?」
「その者が、本気で民を思い、この地を統治するのであれば、私は退く。」
少年王はきっぱりと言い放った。
「頭中将の理想とする治世は前近代的なものだ。ヤマタノオロチを起こして、この国を、この国の築いてきた全てを、壊して、古い時代に戻そうとする企みを、私は認めぬ。」
帝と頭中将。
千鶴には、二人のどちらが正しいのか、わからなった。
頭中将の伏龍は、良くないことだと思えたけど、帝が口にしていることも、穏当な内容だとは思えない。
「千鶴、ヤマタノオロチを鎮めることは、其方にしかできぬ。」
「私に?・・・なぜ、私が?」
「其方の血だ。」
答えてから、ハッと何かに気づいた様子で、公賢を見た。
「そうか、まだ知らぬのか。」
公賢が頷くのを確認して、
「其方には、私と同じ血が流れている。」
「・・・・・・はい。」
公賢からも以前、似たようなことを言われた。
自分は、皇族の血縁だと。
「しかし、それだけではない。其方は・・・」
「・・・?」
千鶴は、首をかしげ、続く言葉を待った。しかし、帝は黙りこみ、再度、公賢の方を見ていた。
「・・・あの?」
帝は軽く首を振って、
「いや。これは、公賢から話したほうが良い。」
「公賢さまから・・・?」
「ともかく、これは其方にしかできぬこと。どうか、やってくれぬか?」
信じられないことに、帝は千鶴に向かって、頭を下げていた。
この世で最も身分が高い人が、一介の白拍子に対して、低頭しているのだ。
しかし、それにも関わらず、千鶴は、即答できなかった。
話が壮大で、得体のしれないものを自分の肩に乗せられている。
困った千鶴は、横の公賢を見た。
公賢は、一瞬だけこちらに視線を巡らせた。
いつもどおりの涼しい顔でーーーいや、少しだけ柔らかく笑った気がする。
「帝の言うとおりにすればいい」と言われている気もするし、自分で決めなさいと叱咤されているような気もする。
大事なことなのだ。この国の先を左右するほどに。
私にしかできないと言われた。
私が心を決めないと、いけないのにーーー私は今、迷っている。
すると帝が、先程より柔らかい口調になって、
「本当は、月詠の鏡で、そんな先の時代を見ることなど、できないそうなのだ。・・・なぁ、公賢?」
「えぇ。その筈です。」
公賢が頷き、補足した。
「月詠の鏡は真実を映します。しかし、あまりに遠い未来は、まだ多分に不確定で、変化する可能性が高いから、映すことなど不可能なはずなのです。」
「では、なぜ私に見えたと思う?」
まるで気楽な問答でもするみたいに、帝が、今度は千鶴に問うた。
「・・・・・わかりません。」
千鶴が、おそるおそる答えると、
「私が、繋ぎの帝だからなのだよ。」
「繋ぎの帝?」
「そうだ。没落した平の後に立った。繋ぎの帝。これといった力もなく、年も若い。たぶん次の勢力が争いが本格化したら、退くことになるだろう。」
帝の口調に、未練や悔しさは感じられなかった。ただ、あるべき事実を語るように言う。
「そんな時代の間隙を縫うように頭中将が現れた。それを抑えるのは、繋ぎの私の役目なのだ。」
「頭中将を抑える役目・・・ですか?」
「頭中将の過去に誘う企みを潰し、次代へと繋ぐ。それが、私に課せられた責務なのだと思う。」
少年の幼い声は、淡々としているが、確信に満ちて、少しの揺らぎもない。今、ここは、風一つ立たない水面のように、凪いでいる。
「千鶴。時代は変わる。今、そうである者たちが、この先も、永遠に導かれ支配される者たちではない。皆、もっと自分の思うように生きられるのだ。」
ふいに、鶯の顔が頭に浮かんだ。
好奇心旺盛なのに、貴族という身分故に、女であるが故に、自分の望むままには生きられない。いつも悔しい想いをしている。
では、唐錦はどうだろう?
藤袴はどうだろう?
唐錦は納得して、宮中に出仕した。彼女は聡明だから、内裏でも力量を発揮するだろう。彼女の人生はまだまだ先がある。しかし、だからといって、自分の望む未来をどこまで、自分で切り開けるだろうか。
一度は公賢との結婚に逃げようとした。それは、他に自分で成すべき手がなかったからではないか。
藤袴は、帝の落し胤。しかし、女であるがゆえに、人々に見捨てられたら生きていけない。
だから、彼女はずっと、必死だった。人に愛されるために。
ーーー今、そうである者たちが、この先も、永遠に導かれ支配される者たちではない。
帝の言葉が、不思議なほどに、すんなりと千鶴の心に染み込んだ。
「頼む。其方に、オロチを再び封印してほしい。」
帝の再度の要請に、気がついたら、千鶴は頭を下げていた。
両手を揃えてつき、深々と拝頭し、
「そのお役目、謹んでお受けさせていただきます。」