85 少年の憧憬3
その晩を境に、斎宮に会えなくなった。
公賢が、あの男の死を見届けて戻ったときには、館の蔀戸はきつく閉められていた。
以来、斎宮は姿を見せない。
それでも公賢は、仕事を終えると、毎日、必ず斎宮の館に行った。
心配だった。
そして、不安だった。
一目でもいいから、見たい。
見て、無事を確かめたい。
たとえ、今までのように笑いかけてくれることがなくても、見えないまま不安を感じているよりは良い。
しかし、いつ行っても、蔀戸は重く閉ざされ、外からは一切、見ることができない。
斎宮の女官たちも、ほとんど現れなくなり、様子を聞くことすら出来ない。
一度だけ、外を歩いていた馴染みの女官を見かけたので、捕まえて聞いてみた。すると、
「斎宮さまは、潔斎(心身を清めている)しておりますので、当分、お会になれません。」
すげなく言われ、以降、斎宮の安否を知ることは出来なかった。
そんな日々が続き、三月ほど経った、ある晩のこと。
いつものように斎宮の館に向かった。
月の明るい晩で、けれど、とても寒い日だった。
その日の斎宮の館は、珍しく、庭に面した蔀戸が開いていた。公賢は、少しだけ躊躇してから、以前していたように、庭から中を覗き込んだ。
一瞬、あの日、倒れていた斎宮の姿が頭をよぎって足が竦んだが、思い切って覗いてみると、中には誰もいなかった。
「・・・斎宮さま?」
暗い部屋の中に向かって、小声で呼ぶ。
「斎宮さま、いらっしゃいますか?」
やはり、返事はない。
嫌な予感がした。
以前と同じ部屋。
物の配置も、何も変わらない。
なのに、冷え冷えとした空気。
ここが、あの朗らかに笑う斎宮が暮らしていた部屋とは思えない。
部屋から出て、庭に飛び降りた。
地面には、僅かに残る足跡。館の外に続いている。
ヒュッと、凍えるような冷気が喉を鳴らした。
「斎宮さまっ?」
その足跡の向かう方にあるものに気が付き、公賢は駆け出していた。
ーーー探せ、探せ、探せ!!
「斎宮さまを、探せぇぇぇっ!!!!」
ありったけの力を放出して、有象無象の者たちを引き寄せ、彼らに命じる。
あの人も、見えるのだ。
だから、すぐに、捕まえられる。
大丈夫だ。
ちゃんと、見つけるから。
思ったとおり、すぐに、何体かが、公賢を導き始めた。
行き着いた先は、真っ暗な、真っ暗な・・・海だった。
ここまで駆けてきた公賢の肩は、激しく上下し、口からは、白い息が湯気のように吹き出している。
「さいの・・・宮さまっ!」
公賢は叫んだ。
泥のように濁った暗い海の中に、ゆらゆらと儚く浮かぶ、哀しいほどに眩い白。
襦袢(肌着)一枚を身に纏い、腰の少し下あたりまで水をつけた斎宮が、ゆっくりと振り返った。
暗い瞳。
まるで、彼女を引きずりこもうと、寄せて返す波のように。
精気のない虚ろな瞳は、公賢を捉えていない。
「斎宮さまっ?何を!!」
公賢は、駆けた。
斎宮のいる海に向って。
何度も足がもつれ、小さな歩幅がもどかしかった。
「斎宮・・・・さまっ!!」
ようやく追いついた斎宮の腕を、掴んで引き寄せる。
黄泉の国へと誘う海の企みを阻むように、公賢は、必死で掴んでいた。
「行かないで。行っては・・・駄目です。」
斎宮は、ぼんやりとした顔のまま、
「・・・狐の・・・坊っちゃん?」
耳を澄まさないと聞こえないほどの囁き声。
「戻りましょう。斎宮さま。お屋敷に、戻りましょう!!」
公賢が腕をひくと、斎宮の顔が、ハッと変わった。
「っ駄目!!」
振りほどこうと、激しく抗う斎宮の手を、公賢は必死で掴んでいた。
絶対に離さないつもりだった。
「駄目。もう、あそこには戻れないの。私は、もう・・・戻れないの・・・よ。」
今度は錯乱するかのように、激しく身体をくねらせると、
「私は・・・もう・・・・・」
悲痛に呟く。と、同時に、斎宮の身体が、ガクンと脱力した。
公賢は、慌てて抱きとめ、支えた。
冷たい。冬の海に、体温が奪われている。
公賢よりも一回り大きな身体を、少しでも覆えるようにと、一生懸命、その背に手を這わせた。
「斎宮さま?」
返事がない。気絶している。
公賢は、斎宮に背を向けると、身体に背負った。水を吸った襦袢は、ずしりと重い。公賢は、まとわりつく海水を退けるように、一足、一足、踏みしめながら歩いた。
◇ ◇ ◇
しゅんしゅんと湧く鍋を、竈門からおろし、湯を一匙掬った。
桶に汲んだ水の中に、それを3匙ほど入れると、ちょうど人肌くらいに落ち着く。
公賢は、そこに手拭いを浸して、桶ごと抱えた。
小さな小屋の板戸を、そっと開ける。
中には、薄い布団の上に、斎宮が、仰向けに寝ていた。
昨晩、気を失った斎宮を、公賢は一人で背負って、ここまで運んできた。
この小屋は、子どものいない受領(地方に赴任している国司)の夫婦の持ち物で、二人は、父親に碌に養育してもらえない、幼い公賢の境遇を憐れんで、何かと良くしてくれていた。
公賢は、斎宮の横に腰を下ろし、温水の中の手拭いを取って絞ると、その手拭いで斎宮の顔を優しく拭う。
火鉢を炊いているおかげで、部屋は温かい。斎宮の額は、薄っすらと汗ばんでいた。
公賢が、2度ほど顔と首筋を拭いてやっていると、斎宮がゆっくりと瞼を開けた。
「・・・・狐の・・・坊?」
「斎宮さま、気づかれましたか?」
公賢が、上から覗き込む。
「・・・・わたし?」
「入水・・・しようと、されていたのです。」
昨晩のことを思い出したようで、ハッと斎宮の顔色が変わる。
「ここ・・・は? わたし・・・わたしの部屋・・・・」
「違います!」
混乱して頭をかかえる斎宮に、
「ここは、斎宮さまのお屋敷じゃありません。貴女がここにいることは、誰も知らない。」
受領夫妻は、斎宮の顔を知らない。醸し出す雰囲気から、良いところの娘だとは推察できるだろうが、襦袢一枚しか身に着けていないのが幸いした。それ以上の情報を読み取ることはできないだろう。
だから大丈夫です、と背を擦る。
「戻りたく・・・ないのですね?」
斎宮が、ぐっと唇を噛んだ。視線を逸らす。
「・・・理由を聞いても?」
斎宮は、心細げに俯いた。
公賢よりも8つも年上の、憧れ続けた女性の、こんなにも不安げな顔を見たのは、初めてだった。
「やはり・・・言いたくない、ですか?」
桶に手拭いを戻すと、立ち上がった。
仕方がない。
生半可な気持ちで入水するわけはないし、今は、生きていてくれるだけで十分だ。
公賢が、聞くのを諦め、部屋を出ようと踵を返した瞬間、
「・・・・やや子が、いるのです。」
ポツリと言った。
外に向かう足を止めて、ゆっくりと振り向く。
「なん・・・ですって?」
「お腹に、やや子がいるのですよ。」
諦めたような、抱えた荷物をドサリと降ろすような疲れた言い方だった。
「それは・・・あのときの?」
口に出して、すぐに後悔した。
愚問だ。
この人は、斎宮なのだ。あの時以外に有り得るわけがない。
思わず、「どうするのですか」と言いかけた言葉を呑み込むと、すっと、斎宮の側に取って返し、横に座る。
斎宮の手を取って、包み込むように握った。
細くて、白い、美しい手。いつも公賢の頭を優しく撫でてくれる手が、弱々しく震えている。
公賢が言うべきなのは、そんな言葉じゃない。
この人にかけるべき言葉はーーー
「私が、守ります。」
斎宮の手を包む手のひらに、力を込めた。
精一杯。自分の小さな手では、はみ出してしまう彼女の手を、一生懸命握った。彼女の心の中に、不安の染みの一つでさえも、残したくない。全て消し去りたい、と思った。
「私が守りますから、ここにいてください。すぐに大人になって・・・誰にも、あなたを傷つけさせません。」
自分が、本気を出せば、すぐにでも高い地位を望めるだろう。元服こそ未だだが、出来ない年齢ではない。安倍の本家に乗り込んで、この能力を見せつければ、放ってはおくまい。
いや、都になど出ていかなくても、父のように、必要なときだけ、影武者のように力を貸してやればいいのだ。
そうすれば、ここで斎宮の側にいられる。
ずっと。
でも、もし斎宮が望むなら彼女も一緒に都にーーー
「狐の坊っちゃまっ!!」
思考を遮るように、斎宮が公賢の手を離して、上から握り直した。
なぜだか愕然とした顔で、目を見開いている。
「狐の坊っちゃま!駄目です。あなたは・・・」
「駄目とは?なんのこと・・・」
「今、考えていること、です。」
公賢に握られていないほうの斎宮の手が、ゆっくりと持ち上がり、公賢の頬に触れた。
「私のために、あなたの人生を費やすことは、なりません。」
「でも・・・」
「いけませんよ。決して。」
斎宮が、公賢の頭を引き寄せた。
公賢の額に斎宮の額がコツンと当たる。
「しかし、それでは、斎宮さまは・・・」
「私を、どこか遠くへ逃してくれませんか?」
「遠くへ?」
「そう。」
もう、ここへは居られないから、と俯いた。
子を成した以上、斎宮は勤められない。
しかも、どこの誰とも分からぬ者の子だ。将来は何の後ろ盾も得られない。
「それが、私があなたに望む、唯一のことです。」
それから斎宮は、女官にあてた手紙を書くと言った。
その間に公賢は、受領に頼んで、長距離の移動ができるような牛車を手配してもらった。どこに行くのか、斎宮は、公賢に教えてくれなかった。
牛車の手配が整うまで、数日かかった。
牛車が出る日の朝、斎宮は公賢に別れを告げた。
斎宮は、公賢の頬を両手で優しく包み込む。何度も何度も包んでくれた、あの温かい手で。
もう、これが最後なのだ。
そう思うと、今すぐにでも、斎宮の手を引いて、このままどこかへ行ってしまいたくなる。
たとえ、斎宮がそれを望んでなくてもーーー。
「狐の坊っちゃん、今まで、どうもありがとう。」
「・・・斎宮さま。」
どこに行くのか教えてほしい、と、最後のお願いをしたら、斎宮は首を横に振った。
「では、せめて・・・!!」
公賢は、自分を包む斎宮の腕を、両手で掴んで、ぐっと引き離す。
「せめて、私があなたを探すことは、赦してください。」
斎宮は、可とも不可とも言わず、ただ黙って微笑んだ。
「私は必ずっ・・・!必ず、あなたを探しますから。絶対に、絶対に、探して、見つけますから。」
その時は、私と一緒になってください、という言葉は、今はまだ言えない。
子どもの戯言と思われるだけだ。
でも、公賢は本気だった。
「坊っちゃんは、都に出てくださいね。その貴方の能力を、都に出て、活かしてください。そして、出来たら帝のお役に・・・この国と民のために。」
公賢は、頷いた。
頷くことで、斎宮との約束が成ると信じたから。たとえ離れていても、交わした約束は消えないと思ったから。
斎宮は、それを見届けると、牛車に乗った。
ひょっとしたら、物見を開けて、別れを惜しんでくれるのではないかと期待したが、そんなことはなかった。
斎宮が乗り込むとすぐに、牛車は動き出した。
公賢は、斎宮の乗った牛車が見えなくなるまで、ずっと、その姿を見つめていた。
「・・・斎宮さま」
泣かなかった。
これで終わりじゃない、と信じたかったから。
斎宮を乗せた牛車の姿が見えなくなると、公賢は、その足で、手紙を女官に届けに行った。
中に何が書かれていたのかは、知らない。
しばらくした後、伊勢斎宮は、病に倒れて亡くなったのだ、という話を聞いた。つまり、そういうことに、なったのだ。
近くに彼女の墓まで作られたが、そこに誰も眠っていないことを、公賢は知っている。
それから数年後、公賢は元服して、都に出た。
安倍の家では、能力を発揮して重宝され、さりとて、権力闘争に絡まぬ意志を見せることで、独自の地位を築いた。
斎宮との約束どおり、帝については、表沙汰にならぬよう、慎重に裏から手助けした。
今までは、あまり深入りすることはなかったが、今生帝に変わってからは、深く付き合うようになった。
少年王は聡明で、仰ぐに足る人物だった。
都での地位を安定させる傍ら、公賢は、斎宮を探した。
人と妖かしとーーー使える手は何でも使って、ようやく、宇治にその人を見つけた。
会いに行ったとき、斎宮は、かつてと変わらぬ優しい笑顔で、迎え入れてくれた。
彼女は尼になっていた。
山奥の寺で、一人で暮らしていた。
一人で。
子はどうしたのか、と聞くと、彼女は哀しそうに笑った。
産まれてすぐ、あのとき、世話になった受領に養子に出したのだという。
「・・・とても可愛らしい、女の子でした。」
あの受領は、斎宮がいなくなってしばらくした頃、伊勢での任期が終わり、都に帰っていった。その後、さらにどこか地方に赴任し、点々としたと聞くが、今はどこにいるのか、分からない。
斎宮が、あの地を離れるとき、すでに夫妻との間で、産まれた子を貰い受けるという約束が出来ていたらしい。公賢の知らないところで。
彼女は子の養育を頼み、代わりに、この地で出家するよう取り計らってもらった。
仕方がないのだ。
何の後ろ盾もない彼女一人では、良い教育も、豊かな暮らしも望めない。それどころか、食うもままならなくなるかもしれない。
一人で生きたこともない女が、たった一人で、子を育てあげられるはずはないのだ。
「入水しようと、海に入ったとき・・・」
斎宮は遠い目をした。
「死のうとした瞬間、何かに引き止められたのです。見えざる何か、に・・・。それで、思ったのです。何としても、あの子は生かさねばならない、と。」
この人も公賢同様、不思議な力を持っている。
だから、斎宮がそう感じたなら、それはきっと、何かあるのだ。
こうして、彼女の子は、消息不明となった。
公賢は、あえて探さなかった。斎宮がそう望んだから。
でも、きっと何処かで生きている。
それは、願いのような曖昧なものではなく、確信に近かった。
それからも、公賢は尼となった彼女の側にい続けた。もちろん、仏門に入った彼女と共に暮らすことは出来なかったが、それでも折りに触れて訪れては、見守り続けた。
そして、出会った。
夜の都で。偶然。
夜目の効く公賢は、旧鼠を頭に乗せた少女の顔を、はっきりと見た。
そして、一目で分かった。
巡り合った。
愛する人の面影残るーーー娘の、娘。
◇ ◇ ◇
公賢は、ゆっくり瞳を開けた。
目線の先に、薄暗い部屋の板壁が、うっすらと浮かびあがる。
大きく息を吸い込み、そして、大きく吐いた。
大掛かりな術を行使するために、何日間もずっと同じ姿勢をとっていたのだ。さすがに、疲れる。
しかし、本番はこれからだ。
伸ばした背筋を緩めると、胡座を解いて、立ち上がる。
蔀戸を開けて、外に出た。
たった数日で庭の秋はさらに深まっている。
思えば、千鶴に出会った、あの日、あの時から運命が動き出した。
あれは必然。
そして、動き出した以上、決着をつけねばならない。
じっと外を眺めていると、庭にひいた毛氈の上にいた菊鶴が、公賢に気付いて、足を止めた。
「なんだい?もう、いいのかい?」
菊鶴の顔には、やや疲労が滲んでいた。頬が蒸気し、肩で息をしている。
「えぇ。もう、大丈夫です。」
公賢は瞼を降ろし、深呼吸を一つ。それから、ゆっくりと目開け、
「さぁ、行きましょう。」
次から本編に戻ります。
5章もすでに折り返しております。
完結まで、あと・・・9話くらいかなと。(遂行で前後すると思いますが)
引き続き、お付きあいいただけると、幸いです。