82 千鶴と比丘尼
千鶴とナンテンが連れてこられた洞窟は、山の斜面を利用して作られたものだったらしい。あるいは、自然にできたものだったのか。
外に飛び出ると、暁に目を覚ました秋の草木の朝露が、光ってみえた。
ナンテンは、二人を背に負ったまま、斜面を、転がるように駆け下りた。
身体の内からは信じられないほどの力が、湧いてくる。
それは、千鶴の血のおかげだった。
洞窟の中で、千鶴の掌の怪我を舐めた途端、心臓が、ドクンと鼓動した。
一瞬、焦点が曖昧になり、身体の芯が熱くなったと思ったら、その熱は一気に、全身を駆け巡り、指や手足の爪の先まで、覆い尽くした。
同時に、自分の身体がグングン膨らんでいくのが分かった。
ナンテンは、その変化を感じながら、脳裏には、ある姿を思い浮かべていた。
ーーーミツ。
あの日、死んだ主人の傷から滴る血を舐めた猫の身体は、みるみるうちに膨らんでいった。
黄昏の橙色の陽光を浴びて、巨大化したミツの口は裂け、爪や牙は鋭く、ナンテンと同じ、妖怪になってしまった。
今、自分の身体に起きていることが、ミツと同じ変化だと、ナンテンは確信していた。
千鶴を助けたくて、守りたくて、堪らない。その思いが頂点に達したとき、主人の血を分け与えられる。
ナンテンは、ひょっとしたら、このまま理性が飛んでしまうのではないか、という不安に襲われた。
あのときのミツは、ナンテンの言葉が届かないほど、自分を見失ってしまったから。
正気を失ってしまったらどうしよう。
千鶴のことがわからなくなったらーーー。
しかし、ナンテンは、ミツとは違った。
ナンテンがもともと妖怪だったせいか、千鶴の血が、そうさせたのか。理由は分からないが、少なくともナンテンは巨大化して力を得たが、心の中もちゃんとナンテンのままだった。
身体の奥底から、無尽蔵に力が湧いてきて、牙で一突きしただけで壁が壊れた。
二人を背負って逃げても、全く疲れを感じない。
どこまででも走っていける。
そんな気がした。
そんなーーー気がしたんだけれど・・・
「ナンテン?」
千鶴の呼ぶ声が遠くから聞こえる。
「ナンテンっ!!大丈夫?」
気がつくと、目の前には、いつもと同じ大きさの千鶴の顔。
「ナンテンっ、よかった・・・」
その顔が、グーッと近づいてきて、ナンテンの身体に触れた。頬には、涙の跡がある。
「・・・オイラ?」
一体、どうしたんだろう。
頭をフルフルと振って起き上がると、自分が、千鶴の掌の上にいると分かった。
「気を失っていたんだよ。」
「気を失った?いつ?」
「私たちを、ここまで連れてきてくれて、すぐ。」
「ここ?」
見渡すと、自分たちが小さな部屋の中にいることに気がつく。
「ここ・・・どこだ?」
そういえば、二人を乗せて逃げたナンテンは、途中、山の中にある、この建物に気がついて、そこに向ってーーー
それ以降の記憶がない。
千鶴によると、二人をここに連れてきてすぐ、ナンテンは気を失ったらしい。
そして、そのまま、もとの大きさに戻った。
「そういえば、貴族野郎・・・は?」
「無事だよ。ここの比丘尼に手当してもらって、近くの別の家で休ませてもらっている。」
千鶴が言うのと、ほぼ同時に、
「あら、その子も起きたのね。」
という声。
振り向くと、盆に茶碗を乗せた尼僧が、部屋に入ってくるところだった。
「千鶴。落ち着いたら、こちらにきて、白湯を飲みなさい。」
◇ ◇ ◇
千鶴は、比丘尼の差し出した白湯を飲んだ。ただの湯のはずなのに、不思議と甘く、口当たりが柔らかい。
「あなたも、どうぞ。」
小さな皿に張った水を、ナンテンにも差し出した。
比丘尼は、ナンテンという生き物に驚いている様子も、不審がっている様子もない。ごく普通に受け入れている。
ナンテンは最初、恐る恐る舌をつけていたが、すぐに、勢いよくペロペロと呑みだした。喉が乾いていたらしい。
「お腹が空いていたら、後で外に行きなさい。畑に、鼠の好きな穀物があるから、根でも齧るといいわ。」
「ありがとう・・・ございます。」
人語を話す、おかしな柄の鼠に動じることなく、あまりにも上品に微笑んで言うので、かえってナンテンが戸惑っている。
「あの・・・ここは?オイラ・・・?」
「私の庵です。随分と疲れていたようで、あなたは、ここまで二人を連れて来て気を失ったのです。」
それから、比丘尼は千鶴のほうを向いて、
「千鶴。あなたも、相当、身体に負担がかかっているようですよ。しばらく、ここで休んでいきなさい。」
「いえ、しかし・・・」
突然、いなくなって、皆が心配しているだろう。
都がどうなっているのかも気になる。
謀反で捕縛されているはずの藤原某中納言が、ここにいることも伝えたい。
「気になりますか?」
「え?」
「顔に書いてありますよ。ゆっくり休んでいる暇などない、と。」
比丘尼が、千鶴の心のうちを見透かすように尋ねた。
「いえ、あの・・・」
当たっているだけに、なんと答えてよいのか口ごもる。が、意を決して、
「あの・・・すみませんが、ここはどこでしょう?都までは、どれくらいで行けますか?」
「都・・・?」
「はい。帝のいる、都でです。」
比丘尼は少し考えてから、
「牛車で、日が昇ると同時に出て、日没頃には着くでしょうか。ただ、牛車は、このあたりにはおりませんので、用意にするにはさらに時間がかかりますが。」
「徒歩では?」
「足が早いものが、休まずに行けば、半日ほどかと。」
「半日・・・」
思った以上に遠い。足には自信があるから、今すぐ発てば、今日の日没までにはつけるだろうか。
「駄目ですよ。」
すかさず比丘尼が言った。
「今から歩いて行くなんて、とても認められません。」
異論を挟む余地がないほど、きっぱりとした言いぶり。ふいに、その顔が、ひどく懐かしく感じて、思わず比丘尼の顔をまじまじと見つめた。
「・・・でも、私は、どうしても帰りたいのです。帰らないと、いけないのです。」
千鶴が、拗ねた子どものように言い返すと、
「ならせめて、もう一眠りだけでもしていきなさい。」
絶対に行かせないと言い張る比丘尼に押仕切られ、結局、千鶴は、あれよあれよと言う間に、比丘尼の寝所の布団に押し込められた。
何故だか逆らえない、不思議な人だった。
比丘尼は、横になった千鶴に掛け布団を、かけてくれた。隣では、すでに、ナンテンが鼾をかいていた。
「ごめんなさいね。無理に引きとどめて。でも、あなたの体調を思えばこそ、なのよ。」
「えぇ。わかっています。」
横になると、起きあがれないほどに身体が思い。まるで上に、大きな岩でも乗っているみたいだ。
確かに、千鶴の身体は酷く疲れていた。比丘尼の言うことは正しかったのだと思い知る。
比丘尼は、直ぐ側に腰を下ろして、垂れて顔にかかった千鶴の髪を、優しくかきあげ、直しながら、
「でも、都で心配している家族もいるのでしょう?」
「・・・家族」
菊鶴の顔がすぐに思い浮かんだ。
宇治に行ったきり、会っていないから、多分、心配しているだろう。誰か、千鶴の状況を、伝えてくれているだろうか?
「今、思い浮かべたのは、お母さま、かしら?」
と、比丘尼が尋ねる。
「・・・いいえ。育ててくれた人です。私は孤児だったので。」
「あら。ごめんなさい。」
「いえ。いいんです。」
比丘尼は、少し、迷うようなそぶりをみせてから、遠慮がちに、
「本当の・・・ご両親のことは、覚えているのかしら?」
千鶴は、かぶりをふった。
「私が一歳のころに拾われたので、記憶にないんです。唯一の手がかりは、あるには、あるのですが・・・。」
その手がかりの櫛は、目を覚ましたときには、いつもの懐から、なくなっていた。
攫われたときに落としてしまったのか、それとも洞窟の中か。
お守りでもあり、唯一の手がかりでもある櫛だ。あれがないと、もう、千鶴の本当の両親にはたどり着けないかもしれない。
そう不安を口にすると、比丘尼は、布団の上から、優しく手を添え、
「大丈夫。きっと戻ってくるわ。特別な櫛だもの。」
それから、そのまま、とんとんと優しく布団を叩いた。それは、不思議と懐かしく、まるで、母に寝かされているような安心感があった。
千鶴の瞼は、いつの間にか、降りてきて、その心地よさに包まれたまま、意識を手放した。
◇ ◇ ◇
眠りから覚めると、部屋は暗かった。
千鶴は、身体を起こし、四つん這いになって布団から出た。ゆっくりと、立ち上がる。
身体が、随分と軽い。
外を確認しようと、戸をあけたとき、隙間から差し込む月明かりが、何かに反射した。
なんだろうかと、部屋のすみに置かれた文机に近寄ると、その上には、古い手鏡が置かれていた。
「だいぶ、古いものみたい。」
千鶴は、その鏡を、そっと手に取った。くるりと反対にむけた瞬間、千鶴の手がピタリととまった。
「これ・・・」
そのとき、
「千鶴?起きたのかしら?」
比丘尼の呼ぶ声が聞こえ、慌てて、鏡を置いた。
「ご飯がありますよ。」
「ありがとうございます。」
千鶴は返事をして、比丘尼のいる隣の部屋に向かった。
庵は、千鶴が寝ていた部屋と、土間から直接上がることができる部屋の二間からなっているようだった。
女ひとり住まいの手狭な家ということで、藤原中納言は近くの国司の家に面倒を頼んだのだ。
土間には竈があり、そこに置いた鍋から、美味しそうな匂いが漂っていた。
比丘尼が、鍋のなかのものを椀に盛って、渡してくれた。
椀の中身は、山菜の入った雑穀粥であった。
「いい匂い。」
すんすんと鼻を動かす千鶴を見て、比丘尼が、優しい顔で、ふわりと笑った。
「このあたりは、山菜が豊富にとれますからね。飢饉の時も、皆、助けられました。」
千鶴は、箸で一口、放り込む。
じわりと野菜から溢れ出すコクが、優しい甘味とやって、口全体に広がった。
「美味しいっ!」
一口食べると、たちまち、お腹がすいていたことを思い出した。
椀に口をつけ、残りを一気に掻き込む。
「ごちそうさまでした。」
たっぷり、おかわりをして、お腹がいっぱいになったところで、箸を置くと、
「すっかり元気になりしまね。」
「はい。」
返事をしてから、
「あの・・・明日の朝、日の出とともに都に発とうと思うのですが、それまで、ここにいていいですか?」
「もちろんですよ。」
比丘尼が、鷹揚に頷いた。
「あなたが、いたいと思うだけ、いなさい。」
「ありがとうございます。」
千鶴が、頭を下げた瞬間、地面が震えた。
「っ地震・・・また?!」
洞窟の中で感じた小刻みな揺れとは違う。ドンと下から突き上げるような振動。
胸のうちに、急速に嫌な予感が広がってくる。
何かあったのだ、と。
「千鶴っ!」
いつの間にか起きてきたナンテンが、駆け寄ってくる。ナンテンも何かを感じているらしい。
「すぐに帰ろう。」
「うん。」
休まず歩いて丸半日。今すぐ出たとしてーーー
「明日の昼には、つけるかな。」
顎の下に手を起き、呟くと、
「千鶴!」
ナンテンが千鶴の手の上に駆け上がってきて、
「千鶴の血をくれないか?」
「え?血っ?」
「千鶴の血をオイラに貰えれば、たぶん、千鶴を乗せて都まで行けると思う。歩くよりはずっと早くつける。」
ナンテンが言うには、あのとき洞窟で、千鶴の血を舐めたら、一気に力が湧いてきたのだという。主だと思い慕う者を助けたいと願い、その血を分け与えられると、妖力が強化されるんじゃないか、ということらしい。
「前にも、そういう妖怪をみたことがあるんだ。だから・・・」
「分かった。」
千鶴は、ナンテンの説明を聞いて、二つ返事で頷いた。
「私も早く都に行きたい。お願いできる?」
支度ができると、千鶴とナンテンは庭に出た。千鶴は、腰に差した宝剣を抜く。
側で比丘尼がその剣の動きを、じっと見守っていた。
千鶴が、手の甲を切ると、ポタポタと血が滴る。
その血を、ナンテンがペロペロと舐めた。
と、あの時と同じように、ナンテンの身体が膨らんでいく。
千鶴を乗せられるくらいの大きさになったところで、
「千鶴、乗って!早く行こう。」
「都の方角は分かる?」
クンクンと鼻を動かす仕草をし、
「大丈夫だ。いつもの何倍も鼻が利く。」
千鶴は比丘尼の方を向いて、お辞儀をした。
「お世話になりました。」
「私も・・・連れて行ってくれないかしら?」
「えっ?」
千鶴とナンテンが同時に声を上げた。
「比丘尼も・・・都に、行くのですか?」
「えぇ。私も・・・行かなくてはならない。そんな気がするのです。」
その言葉には、何か、彼女なりの重大な理由があるのだと感じられる。比丘尼の目には、強い決意が浮かんでいた。
この人が望むなら、連れて行かなくては。
「・・・ナンテン、二人乗せれる?」
ナンテンが頷く。
「わかりました。一緒に、行きましょう。」
千鶴は、比丘尼を押して、ナンテンの背に乗せると、自分も比丘尼の後ろに乗った。比丘尼を庇うように、後ろから彼女の身体に手を添え、ナンテンに捕まる。
「行くぞ。」
ナンテンは、再び、都を目指して、夜の森に飛び出した。
都編に戻るまえに、次回、公賢の話を挟みます。