表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/102

81 千鶴、逃げる

久しぶりの主人公。ちょっと長めです。

千鶴は、母の胸に優しく抱かれていた。


記憶になど、残るはずもない、幼いあの頃。

安心できる腕の中で眠った日。


これは夢だ。


丸みを帯びた手が、柔らかな産毛に包まれた頭を撫で、櫛で漉く。


その掌の一撫で一撫でから、可愛いと、愛おしいと伝わってくる。



それから、時が流れ、場面が変わった。 


千鶴は、一人、神社の境内で、舞の練習をしていた。菊鶴はいない。


前にも見たことのある夢。


あのときは、境内の木の陰から、女性が一人、こちらを見ていた。深い傷を負い、熱に苛まれる千鶴に、「こっちに来るな」と押しやった人。


でも、本当は違う。


あのとき、境内にいたのは、女性ではなくーーー


ダメだ。思い出せない。


誰か分からないけど、誰かが見ていた。


とても大事な誰かを思い出せぬまま、幼い自分に憑依している今の自分が、冷静で、客観的に自分を眺めている。


夢の中、千鶴は、いつものように足で拍子をとって、舞を踏んでいた。


舞うことは、最初から、ずっと好きだった。ごく自然に自分に馴染み、一部になり、そして通り抜けていく。

まるで、世界の全てと一体にやるかのような高揚感。


まるで・・・

まるで、自分が自分でなくなるようなーーー


ワタシ・・・


ワタシは、誰?

ワタシは、何者?


近頃、子どものときは、考えもしなかった疑問が、湧いてくる。


自分の境遇を不幸だと思ったことはない。

むしろ、この生活には、そこそこ満足している。


なのに、何か・・・何かが足りない?

自分には、何かが欠けている?


実はその欠損感を、心の中に抱え続けていたのかもしれない。

その欠損が・・・、欠けている何かが、藤袴の悪意を暴いたのだろうか?憎悪を刺激したのだろうか?


千鶴が舞を終えると、木の木陰の向こうの影が揺れた。


と思うと、鶯が姿を現す。


その後ろから、阿漕がひょっこり顔を出し、手招きした。

さらに、安倍公賢、斑の姫や、唐錦、権大納言が現れた。

そして、菊鶴。


みんなが、千鶴が来るのを待っている。



少し前までは、ずっと、師匠であり、親代わりの菊鶴だけが、唯一、千鶴と関わってきた人間だった。

それが、今は、こんなに沢山。


でも、その中に、一人が足りない。


「・・・っ」


千鶴の心が、その人の名を呼ぼうとした、その時。みんなの後ろから、人の良さそうな丸顔が姿を表した。


「千鶴どの。」


はにかんだように、笑う。優しそうな、でも、力強い。


「・・・惟任(これとき)さま。」


そうだ。あのとき、あそこにいたのは・・・




記憶の切れ端を掴みかけた、その瞬間、身体がぐらりと揺れた。

大きく、左右に、ぐらぐらと揺れーーー



そして、目を開けた・・・と、同時に、「ゲホッゴホッ」と、激しく咳き込む。


視界は、うっすら靄のかかったように、煙に覆われていた。


身体を横に向け、背中を丸めて咳き込むと、誰かが、その背を擦った。


「おい、大丈夫か?」


背後からの気遣うように尋ねる声に、驚いて跳ね起きた。


それで、ようやく、自分がどこかに寝かされていたらしいと気づく。


声のしたほうを見ると、中年の男が心配そうにこちらを見ていた。


「生きておったか。」


見ず知らずの男が、ホッとした様子で言う。


「・・・・あの?」


戸惑っていると、男が、


「どうした?()()?」


と首を傾げた。


千鶴は、驚きのあまり、後ろに飛び退ると、目の前の男の顔を、改めて、まじまじと見た。


うらなりのような青白い顔に、小さな目とおちょぼ口。

貴族特有の剃り落とした薄い眉は、今は、化粧が施されていない。


やはり、知らない男だ。


しかし、男は、こちらの戸惑いなど、気が付かぬ様子で、


「千鶴?どうしたのだ?」

「・・・あの・・・いえ、あの・・・?」


恐る恐る、「どこかで、お会いしましたか?」と尋ねると、初め、キョトンとした男は、すぐに、まばらに生えかけた薄い眉尻を下げて、


「そうか、気が付かぬか。」


と、苦笑した。


「私だよ。権中納言、藤原房親(ふじわらふさちか)だ。」

「藤原の・・・中納言さまっ?!」


藤原(なにがし)中納言。


本名を藤原房親というのだーーーというのは、つい最近知ったばかりだ。そして、今回、千鶴が追われる原因になった謀反を企てた、張本人。


「なぜ・・・ここに?たしか、都で近衛に捕らえられているはずでは?それとも、ここは・・・都の中、ですか?」


千鶴はあたりを見回した。土の壁に囲まれた丸い部屋のような空間。洞窟の中みたいにみえるが、もしかして、都にこんな場所があるのだろうか。


すると、中納言は、力なく首を振った。


「正確な位置は分からぬが、ここは都の中ではない。」


捉えられた後、すぐに牛車で連れてこられたのだという。かなりの時間移動していたから、都からは遠く離れていると言う。


「では、今、都で囚われている中納言さまは・・・?」


偽物なのだろうか?


分からない。今の千鶴は、なんの情報も持ち合わせていない。


中納言は、まじまじと千鶴の顔を眺めて、


「千鶴こそ、なぜこんなところにいるのだ?」

「私も、何者かに攫われたのです。」


話しているうちに意識がはっきりしてきた千鶴は、改めて周りを確認した。


千鶴たちがいるのは、おそらく、どこからの洞窟の中で、壁も天井もすべて、土か硬い岩のようなものでできている。


灯りが少ないので隅のほうは見えないが、不均一な形状は、この洞窟が、誰かが掘ったもではなく、自然に出来たものだからだろう。


千鶴が寝かされていたのは、土で固められた寝台で、これは誰かが、作ったものらしい。


「私はいつから、ここにいたのですか?」


どれくらい気を失っていたのだろう?指先を動かすと、痺れが少し残っている。


「おそらく、3日ほど前だ。私は、もっと奥の別の部屋・・・といっても、ここと同じく、洞窟の一部だが、そこに閉じ込められている。いつも、だいたい部屋の前に見張りがいるのだが、時々、その見張りがいなくなる。今日はいないから、外に出てきたのだ。」


「見張りは、いないのですか?」


「いないのは部屋の前だけだ。洞窟の入口には、いる。」


聞けば、中納言は、捕縛されてからずっと、ここに閉じ込められていたらしく、洞窟内部をかなり熟知していた。

そう広い洞窟ではないらしい。


普段は部屋の前に見張りがいるが、いなければ、自由に、この中を歩き回っているようだ。洞窟の入り口は頑丈な柵があり、そこには見張りがいるから、逃げ出すことはできない。


ボロボロにほつれ、泥だらけの着物は、都にいた頃の、あの雅な中納言からは想像もできない姿だった。


「まったく。先日、一人逃したところだというのに、なんでまた、よりによって、お主が・・・」


中納言は、困惑したような、呆れたような顔をした。


「先日、一人・・・逃した?」

「あぁ、そうだ。お前と同じ年頃の・・・そこそこ良い身分の娘だ。」


豊かな黒髪の美しい娘だったという。


「だが、可哀想に・・・。正気を失っていた。」


おかしな術でもかけられたのか、薬でも盛られたのか、あまりに憐れで放っておけなかったのだと、哀しそうに言う。


「無事に逃げられたら良いのだが・・・」


中納言といえば、いつも厚い御簾のむこうで、何を考えているのか分からぬ、平坦な口調で物を言う。


千鶴を見下すように「妾になれ」と言った男が、見ず知らずの娘をこんなふうに心配しているのは、なんだか別人のようだった。


中納言は、薄い眉を下げて、


「心配しなくとも良い。お前もちゃんと逃してやる。」

「え?逃げられる・・・のですか?」

「外へ通ずる穴があるのだ。だが、私には、小さくて通れない。」


前にいた女の人も、そこから逃したらしい。


「来なさい。私の部屋だ。」


中納言は立ち上がり、手を伸ばした。


「立てるかね?」

「あっ、はい。・・・いえ。」

「どうした?」


その気遣いが、今まで千鶴が抱いていた中納言の印象と違いすぎて、戸惑っているとは、さすがに言い出せず、素直に手を伸ばした。


中納言は、千鶴を引き上げながら、


「あぁ、それと、あまり息をしないほうがいい。どうも、この部屋の空気には、おかしな薬が混じっている。さっきから、私も少し、手足がしびれるのだ。」


と、自分の口元を隠したので、千鶴も真似して、袖口で口を覆った。


中納言の後について、部屋を出ると、薄暗い洞窟の中を歩いていく。時折、転ばないように手で壁を掴むと、ヒヤリとした土の感触がした。


中納言に与えられていたのも、千鶴が寝かされていたのと同じような洞窟の一間で、少し広い。

寝台はないが、寝起きするための筵と藁が部屋の角に置かれていた。筵が、乱雑ではなく、きちんと整えられているところが、中納言らしい。


中納言は、燭台から、紙燭を取ると、薄暗い壁の方へ持ってきた。


壁を照らして、コンコンと触りながら、


「ここだ。」


振り返って、千鶴を呼ぶ。


中納言に促されて壁を触ると、確かに、そこには、割れ目があった。向こうからは、新鮮な空気が通っているらしく、紙燭の灯りがユラリと揺れた。

しかし、割れ目は、千鶴が通れるほど大きくはない。

すると、中納言が割れ目に手をかけ、


「ここが、外れるのだよ。」


どうやら、この壁は、いくつかの岩が積み重なって出来ているらしい。その岩のうち一つが、中納言が引くと、簡単に外れた。


「ほら、見てみなさい。」


千鶴は再び穴を覗く。

ぼこりと空いた穴の向こうに、月明かりに照らされた草木が揺れているのが見えた。


「今は夜・・・ですか?」

「あぁ。だが、間もなく明け始める。」


穴は小さいが、確かに、千鶴ならギリギリ通れそうだ。


「さぁ、逃げなさい。お前が通ったら、ここの穴は塞いでおくから。」

「しかし、中納言さまは・・・?」

「私は大丈夫だ。この穴のことは知られてはいない。前回と同じように、しらばっくれていれば、良かろう。」

「いえ・・・しかし」

「見張りが戻ってくるといけないから、早く。」


急げ、急げと押そうとする中納言に抵抗して、


「中納言さまは、逃げなくてもよろしいのですか?都に、帰らなくては・・・」


あれほど、都の華やかな貴族文化を愛した人だ。ここでの扱いは、相当辛いはずだ。


「私一人だけ逃げるわけには行きません。中納言さまも、一緒に逃げましょう。」


すると、千鶴を押す中納言の手が、ピタリと止まった。


「私は、いいのだよ。」


困ったような、諦めたような顔で、


「私は今、都で、謀反人なのだろう?」

「しかし・・・・」

「どうせ、戻っても罪人。どこかの島に配流されるだけの身だ。」


ここにいるも、戻るも、中納言にとっては、耐え難い屈辱なのだ。


「中納言さまは・・・謀反はされていない、のですよね?」


恐る恐る聞いた千鶴に、


「当たり前だ。」


千鶴の目をしっかりと見て、頷く。


「私は、帝を誰よりも敬愛している。確かに近頃の・・・武士たちが権力に取り入って、好き放題しているのは、気に食わんが、だからといって、帝に牙を向くようなことは、私は絶対にしない。」


なるほど。確かにそうかもしれない。


「では、どこから謀反の疑いが?」

「分からぬ。少し前から、やたらと客がやってきて、今の政治情勢に文句を言っては帰っていったが・・・それが何故、謀反の企てになるのか、全く理解できぬ。」


そういえば以前、中納言邸を辞するとき、牛車とすれ違ったことがあった。こんな時間に客とは珍しいなと思ったのだ。


「確かに私は、武力をちらつかせながら権力に集る、あの連中のことは気に食わぬ。けれど、だからといって事を起こすつもりはない。どんなに不満を言ったとて、時代が戻ることはないし、また、力を持って、我らが手に取り戻すような思想は、私にはない。」


それは、私の器ではないのだと、言った。

この人は、千鶴が思っていたよりも、達観している。風流を愛し、旧来の貴族らしい生き方を好むが、権力に魅せられてはいない。

ならばこそ、


「やっぱり、一人だけ逃げることは出来ません。」


すると、中納言は、薄い眉をハの字に曲げ、困り顔をして、


「帰りたいだろう?」

「えっ・・・?」

「帰って、会いたい人が、いるのだろう?」


中納言の質問の意味がわからず戸惑う千鶴に、


「隠さずとも良い。私とて、数多恋をしてきたのだ。お前は、以前とは少し、顔つきが変わった。想い人がいることくらい、わかるわ。」

「想い・・・人?」


千鶴のキョトンとした様子に、中納言は呆れたように、


「なんだ?自覚がないのか。自分が恋をしていることに。」

「こい・・・?」

「いるだろう?いつも頭の中に思い浮かぶような、恋い慕う相手が。」


中納言が、もどかしそうに尋ねる。

よく考えてみよ、と囃し立てる中納言に促されて、千鶴は考えてみた。


いつも、頭の中に思い浮かぶような相手をーーー


中納言がいうには、千鶴は、その相手に恋をしている。


瞬間、惟任の顔が浮かんだ。

カッと頬に熱を持つ。そして、悟る。


あぁ、そうか。


ずっと、ずっと、自分の中で不思議だった。

いろんな人たちと知り合い、友のような関係を築いてきた。


でも、惟任は、他のみんなとは違う。


かけてくれる言葉に、安心感があって、でも、どこか落ち着かない気持ちになる。

でも、その落ち着かなさは、決して不快ではなくて、むしろくすぐったいような幸せな気持ちになる、不思議。


そうか。これが、恋ーーーなのか。


私は、ずっと好きだったんだ。

惟任さまのことが。

すごく、すごく好きだったんだ。


自覚した途端、惟任に会いたくなった。


千鶴の表情の変化を察した中納言は、満足げに微笑むと、


「帰りなさい。その人のところに。」


再び背を押し、穴の中に押し込もうとしたので、ハッと我に返った千鶴は、慌てて、


「駄目ですっ!中納言さまを置いてはいけません。」

「どちらにしても、その穴は、私には潜れない。千鶴が通り抜けるのがやっとだろう?」

「いえ、でもっ・・・」


千鶴が、言い返そうとした、そのとき。


「千鶴っ!!」


物陰から飛び出してきたのは、小さな塊ーーー旧鼠のナンテンだった。


「ナンテン!無事だったんだね!!」

「ここに運び込まれたときに、すぐに隠れて、それからずっと、千鶴の様子を見守っていたんだ。」


でも、オイラが起こしても全然起きないし、とグズグズ言いながら、ナンテンは、するすると、いつもの懐におさまった。


「千鶴、早く逃げよう。何か・・・ヤバいことが起こる予感がする。」

「ヤバい・・・こと?」

「あぁ。話は全部聞いてた。千鶴なら、そこの穴から逃げられんだろう?」

「いや、でも・・・」


千鶴は、再び中納言に視線を向けた。中納言は、当然出てきた、おかしな柄の喋る鼠を、目を丸くして見ている。


「やばいんだ。何か・・・スゴいヤバいことかが起きそうな気がする。」

 

ナンテンがブルリと背を震わせた。その必死の形相に意を決した千鶴は、


「わかった。」


穴の中に手を突っ込んだ。


「なにをしているっ?!」


驚く中納言に。


「入り口を崩すんです。ここの間口の石さえ抜ければ、この先は少し広い。そうすれば、中納言さまでも通れるはずです。」


元々、大柄な印象はなかったが、数日の監禁生活のせいか、中納言は痩せこけていた。肩さえ通れば、なんとかなりそうだ。


「一緒に逃げましょう。」

「なっ・・・!」


そのとき。突然、地面がカタカタと、小刻みに揺れた。


「・・・地震っ?」


揺れはすぐにおさまったが、


「千鶴っ!!」


慌てて穴から引き抜いた腕を、壁面に擦ってしまったらしい。

掌から、少し血が出ていた。


「大丈夫かっ?」

「大丈夫。ちょっと擦りむいただけ。でとも、壁の穴が・・・」


今の地震で、細かな石が崩れ落ち、穴が塞がっている。一つ一つ退かすのは、かなり時間がかかりそうだ。


「どうしよう・・・。」

「傷は大丈夫なのか?」


懐から飛び出したナンテンが、心配そうに、傷を舐めた。


「絶対、オイラが助けてやる。菊鶴や、公賢のところに、戻ろう。」


ザラザラとしたナンテンの舌が、くすぐったい。


「うん。ナンテンも、一緒に帰ろう。」


千鶴が頷いた、その瞬間。


「っナンテ・・・ン?」


ナンテンが、「グゥ」と、息苦しそうに一つ喘いだかと思うと、床に転がり落ち、ゴロンゴロンとのたうち回す。そうしているうちに、みるみる身体が膨れ上がった。


ナンテンは、あっという間に千鶴の3倍近い大きさになった。しかも、いつの赤い目は吊り上がり、鋭い爪と牙が不気味に光っている。


「シャーーーッ!」


威嚇するように一鳴きしたナンテンは、壁に勢いよく牙を突き立てた。


「きゃぁっっっ!!」


粉々になった石や土埃が舞い上がり、思わず、目をつぶる。一瞬、ナンテンは正気を失ったのかと思った。


しかし、違った。


目を開けた千鶴の前で、前足を折って身をかがめたナンテンが、


「逃げよう。オイラの背に乗って!」


さっきまでの壁のあった場所は、千鶴や中納言、巨大化したナンテンでも十分に通れるほどの大きな穴が空いていた。


「早く。誰かが、近づいてくる足音がする!」


奥の方から、「おいっ!音がしたぞ!大丈夫かっ?!」という声とともに、人が駆けてくる足音。


「急ごう。」


千鶴は、ナンテンの背によじ登る。


「そこの貴族野郎も。乗せてやるから、早くしろ。」

「いや、しかし・・・」

「千鶴を逃がそうとしてくれたお礼だ。特別に乗せてやる。」


千鶴は、ナンテンの背から飛び降り、中納言の手を掴んで、


「逃げましょう。ここにいても仕方がありません。一緒に行きましょう。そして、必ず無実を証明しましょう。」


中納言の背中を押して、ナンテンに乗せた。そして、自分も乗ろうとした、千鶴は、


「ーーーっ?」


突然、誰かに引き止められた気がして、慌てて足を止めた。


「千鶴?どうした?」


ナンテンが不思議そうに聞いたが、千鶴はそれを無視して、中納言の寝ていた筵の側へ駆け寄った。

そこには、小さな葛籠が一つ置かれていた。千鶴が、その葛籠の蓋を開けるとーーー


「これは・・・!?」


中には、公賢からもらった刀が入っていた。


やはり、呼び止められた、と思ったのは間違いではなかった。


呼ばれたんだ。この刀に。


刀の柄を握った瞬間、それが分かった。


刀を襦袢の腰紐に差すと、ナンテンのところに戻って、背に乗った。


「それは、千鶴の刀だったのか?」


中納言が言った。


「つい2日ほど前に、私が拾ったのだ。洞窟の通路の暗がりに落ちていた。」


多分、千鶴がここに運ばれる途中で落ちたのだ。千鶴を攫った何者かは、それに気が付かなかった。


大きなものなのに、落ちたのに気が付かないなんて不思議だと思ったが、千鶴のところに戻るために、刀が自ら進んで逃げたのだ、とも思えた。


「それじゃあ、今度こそ行くぞ。」


千鶴が、ナンテンの毛をギュッと掴むと、


「うん、お願いっ!」


それを合図に、ナンテンが勢いよく後ろ足を蹴り上げた。


ヒュンっという風を割く音とともに、穴をくぐり抜け、一気に外に出た。


飛び出すとき、一瞬だけ、駆けつけた見張りの男の姿が見えたが、それもあっという間に消えた。


千鶴とナンテンと中納言は、囚われの身から、夜の山へと逃げ出した。


千鶴が中納言と会話しながら思い出している「以前、牛車とすれ違った」話は、第2章「40 惟任と頭中将」の冒頭あたりのことです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ