76 不審な女と噂話
今回は場面が頻繁に変わります。
公賢の屋敷を出た惟任は、鶯の君を七条家に送ってから、朽ちた小さな社に寄った。
社の木の枝に、鶯から頼まれた文を結ぶ。中に何が、書かれているのかは知らない。
鶯によると、ここに結べば、誰かが読んでくれるらしい。
それから、唐錦からの頼まれていた、行方不明の友人を探すために、その女性の屋敷に向かった。
もともとは、権大納言家で、千鶴と合流して、詳しい話を聞く筈が、今度は千鶴の方が行方不明になってしまった。
こうなっては、唐錦の依頼の件は気にしなくていい、と権大納言に言われそうなところだが、惟任は、その女のことが、どうにも引っかかっていた。
今回の千鶴のことと無関係ではない、という気がしてならない。
唐錦に教えられていた屋敷は、左京の四条にあった。
あまり大きな家ではない。普段は小綺麗に整えられいるのであろう門前も、外から垣間見える庭も、ここ最近は、誰の手も入れられていないようで、やや荒れていた。
「もし?」
惟任は、閉じられた門の前で、声をかけてみた。
「誰か、おりませんか?」
誰も返事をしない。
「もし?」
再度、先程より大きな声で呼び掛けてから、耳をすました。
静かだ。誰もいないのだろうか。
そう思ったとき、中から、カタンという小さな音が聞こえた。
「この家の娘のことで、聞きたいことがあります。どなたか、いらっしゃるなら、出て来て下さい。」
駄目元で声を張り上げたら、とたとたと慌てて、駆ける音がした。カタンと僅かに扉が開き、その隙間から、女のくらい瞳が、片方だけ覗く。
「すみません。お話があるのですが・・・。」
惟任が、その目に向かって話しかけると、それを遮るように、
「我が家に、娘はおりません。」
早口で、囁くように女が言った。
「え?いえ、でも・・・」
唐錦の君から、確かに聞いてきたのだ。いないはずはない。
「かつておりました我が家の娘は、モノノケに喰われました。」
「モノノケ?」
「異形のモノノケに喰われたのです。そのように、さる高名な僧に、先日、宣託を受けたのです。だから、我が家に、すでに娘はいないのです。あなたも、祟られたくなかったから、我が家に関わらないで下さい。」
「さる・・・高名な僧?」
どういうことか、と問い返そうとしたが、女は、突如、バタンと、扉を閉めた。
「あっ・・・」
扉は、寸部の隙間もなく閉じられており、二度と開きそうにない。
惟任が、唖然として、立ち止まったまま、目の前の扉を見つめていると、突如、どこからともなく、笑い声が聞こえた。
「ふふ・・・」
惟任は、驚いて、振り返り、周囲を覗う。
「ふふ・・・ふふふ・・・」
少し高い、女の声だ。背筋がぞわりと泡たつような、普通ではない笑い声。だが、姿は見あたらない。
惟任は、声の主を探した。
来た道を引き返し、角を一つ曲がると、そこには、女が一人、佇んでいた。
惟任は、女を見つけた瞬間、その異様な様に、思わず、一歩後ずさった。
髪は長いが、明らかに手入れされておらず、ボサボサの毛があちこち逆立っている。着物は、肌着のようなもののうえに、袿を一枚羽織っているが、その上着も泥に塗れて、ぼろぼろだ。
帯はなく、肌着に着けた腰ひも一本だけで留めているせいで、隙間から、痩せた胸がチラチラと見えていた。
女は、前後左右に揺れながら、「ふふふ・・・」と笑っている。只事ではない。
一瞬、人外のものかと思ったが、こんな真っ昼間に、モノノケがうろうろしているとは、思えないし、かつて鵺を見たときのような、得たいの知れない、不穏な何かも感じなかった。
ただ、焦点のあわぬ目付きから、女が正気でないことだけは、わかった。
女は、ゆらゆらと揺れながら惟任に近づいてくる。
「あっ・・・!」
倒れかかる女を、惟任は、反射的に受け止めた。瞬間、仄かな匂いが鼻を刺激した。
「これ・・・は?」
嗅ぎ覚えのある匂い。
女は、惟任の腕の中で、気を失っていた。
ハッとして、「もしもし?大丈夫ですか?」と呼びかけたが、ぐったりとして返事はない。
道の往来で、女を抱えた惟任は、思案した。
この女をどうするべきか。
その答えは、一つしかなかった。
惟任は、気を失った女を背に担いで、立ち上がると、さっき出たばかりの公賢邸に向かって歩きだした。
◇ ◇ ◇
「やぁ。また来たのですね。」
少し着崩した着物を纏い、先程と同じ釣殿で、脇息にもたれた姿勢の公賢が言った。
今後に向けて、唐錦の父である権大納言と、藤袴、その夫である治部卿に協力を依頼すると言っていたから、出掛けているかもしれないと心配したが、公賢は、さっきと同じ姿で、惟任を迎えた。
「皆のところには、式を遣わしてあるので、心配なく。」
そういえば、この人は、極度の出不精で、人嫌い。滅多なことでは、外出しないのだ。そして、代わりの遣いなら、いくらでもいるらしい。
「それで?再訪のわけは、背中のそれ、ですか?」
公賢が、惟任の背に向かって、顎をしゃくった。
見せてみなさいと促され、惟任は、背の女を下ろした。女は、ぐったりと気絶したまま、ぴくりとも動かない。
改めてみると、顔がひどく青白い。
「生きて・・・いますか?」
公賢が、女の口のあたりに、手を当てて、頷く。
「ゆっくりですが、呼吸はしているようです。」
「よかった。」
公賢が、閉じたままの女のまぶたに指をあて、カッと見開く。無理矢理に開かれた瞼の下の眼球は、焦点をすんでいない。
「女から、おかしな匂いがするのです・・・あの、千鶴どのの消えた夜と同じ・・・」
公賢が、人差し指を、口元で立て、黙るように指示した。
それから、胸の辺りに、そっと手を添え、目を瞑り、何事かを呟くように唱えた。
惟任は、何かしらの変化を期待して待ったが、何も起こらないまま、少し経ち、目を開いた公賢は、
「これは、呪詛の類では、ありませんな。」
静かに言った。
「呪詛ではない・・・のですか?」
てっきり呪いのようなもでも、かけられたと思っていたので、驚いて尋ねた。
「何か、精神に異常をきたす、毒のようなものを煽った、と考える方が自然です。」
「毒のようなもの、ですか?こんなふうになるものが?」
「えぇ。例えば、植物などのなかには、服用すると、ひどい幻覚をみるものもあります。これは、そういった類いのものでしょう。」
公賢は、「ただし、」と言って、女から離れ、もとの脇息のところに戻る。
「それとは関係なく、この女性には、なんらかの呪詛の後があります。何か、強い呪いをかけようとした後が。」
「呪い?それは・・・誓願したのでしょうか?」
公賢は、首を左右にふった。
「おそらくは、成し遂げなかったのでしょう。どんな呪いをかけようとしたのかすら、読み取れませんでしたが。」
そのとき、庭から猫が一匹、飛び込んできて、公賢の懐におさまった。公賢は、腕に抱えるように抱き上げ、耳の後ろをかりかりと撫でた。
「やぁ。戻ってきましたね。」
猫が嬉しそうに、ごろごろとないた。
公賢は、十分に耳の裏と鼻の頭を撫で、それから、床降ろしてやると、
「この人にかける上着を持ってきてください。」
猫は、「にゃあ。」と一鳴きして、奥の部屋に消えていった。
程なくして、いつものつり目の女房が、薄い布団を抱えて、戻ってきた。
公賢に、指示されるまでもなく、女の身体に、ふわりとかける。
「権大納言と治部卿は、在宅でしたか?」
つり目の女房は、薄い笑みを浮かべたまま、軽く頷いた。
「それは良かった。」
女房は、女に着物をかけると、軽々と持ち上げ、釣殿から出ていった。それを見送ると、惟任に向き直り、
「私が気になるのは、なぜ、呪詛をかけた者は、成し遂げられた形跡がないのに、この女を放したのか、ということです。」
「放した?自力で逃げてきたのでは?」
「この状態で、逃げてくるのは、至難の技でしょう。」
確かに、惟任が見つけた時点で、正気を失っており、自分で何かを考えて行動できる状態ではなかった。
「では、公賢どのは、なぜ、この女を放した、とお考えですか?」
「呪いをかける必要がなくなったか、あるいは―――」
「あるいは?」
「この女の変わりを見つけたか。」
惟任の喉がひゅんっと鳴った。
「その、変わりというのは・・・?」
頭の中に、千鶴の顔が思い浮かんだ。
まるで入れ替わりのように現れた女に、同じ匂い。
嫌な感じがする。
しかし、惟任の縋るようにかけた期待とは裏腹に、公賢は、ゆっくりと頷いた。
「千鶴・・・どのが、代わり?」
惟任の身体が、がたがたと震えだす。
さっきまで背に負っていた、女の有様を思い浮かべる。震えを抑えようと思っても、止めることが出来ない。
こんなことは、初めてだった。
「大丈夫ですよ。」
ふいに降ってきた優しい声に、ハッとして顔を上げる。
「大丈夫。」
公賢だった。細い目がいつもより、少しだけ大きく見開かれ、その瞳には、強い光が宿っていた。
「必ず、千鶴は取り戻します。貴方は、これ以上の後悔は、しなくていい。」
優しく、力強い言葉が惟任の心に、不思議なほどに、スッと入り込んでいく。震えが止まり、心が、落ち着いていく。
「間に合わなかったなどという後悔は、貴方には絶対に、させませんから。」
◇ ◇ ◇
惟任を返したあと、公賢は女房に、酒を持ってこさせた。
「さて。」
公賢は、いつものように、扇を開いて、ぱたぱたと扇ぐ。
暑いわけではない。ただ。いつもの、思索に耽るときの癖だった。
「道満庵、とはな。」
以前、朝雅と初めて接見したときに、教えられた名を独り言で唱えた。
『道満庵』
その名を聞いた瞬間、ふざけた名を名乗る男がいたもんだ、と思った。
かつて、公賢の祖、安倍晴明と対峙していた陰陽師に、芦屋道満と呼ばれる者がいた。
稀代の天才陰陽師と肩を並べて、張り合っていた男の名を、安倍家に連なる人間で、知らぬものはいない。
頭中将を手助けしている者の中に、呪術を使う者がいる、というのは、早くから分かっていた。
それも、並の者ではない。かなりの手練。
それが、この『道満庵』と呼ばれる男なのだろう。
こんな名を、堂々と名乗るのだ。
それほど腕に自信があって、当てこすりのように、その名を名乗っているのなら、当世で男の標的となりうる陰陽師は、ただ一人しかいない。
安倍家の当主などではない。
傍流でありながら、晴明の才能をだれよりも強く受け継いだ者、公賢。
たぶん、道満庵は気づいたのだろう。千鶴の中に流れる、高貴で、特殊な血に。
黒拍子と戦ったときに、爪で抉るような傷跡をつけられたというから、その時かもしれない。
朝雅の調べによると、頭中将は、この道満庵と手を組み、芦高王子と呼ばれる男を担いでいるらしい。
芦高王子は三代前の帝の落とし種だった。
母親の身分は、重宝されるほど高くはないが、卑下するほどに低くもない。確か、身籠った際に、体調を崩して、里下がりをし、そのまま産んだはずだ。
数多いる子の、名もなき一人で、藤袴と同じく、親王宣下を受けていない、ただの「王子」である。
幼くしてどこかの寺院に引き取られ、僧籍を継いだ、と聞いたことがある。
一時は宋に渡っていたなどという噂もあるが、真偽のほどは分からない。気に留める必要のないほど、取るにならない存在だったからだ。
芦高王子も僧の端くれではあるようだが、術者ではない。
この一連の騒動の裏で呪いを駆使している者ーーー道満庵。
会ったことはない。
だが、公賢は、確信に近い感覚を持って、そう信じていた。
◇ ◇ ◇
その噂は、燃え広がる火の手のごとく、あっという間に宮中を席巻していった。
曰く、
ーーー平清盛の隠し財産が、福原で見つかったらしい。
ーーー鎌倉が帝の許可を得て、調査をするそうだ。
ーーー右大将が、六波羅の平賀朝雅を伴って帝のところに謁見した。
ーーー隠し財産には、日宋貿易で築いた莫大な富が含まれており、その規模は、国の年間歳費を遥かにしのぐ。
ーーー清盛の隠し財産には、この世の覇権を覆すほどの秘宝が眠っている。鎌倉は、それを狙っているらしい。
そんな、真偽も定かではない噂が、尾ひれに背背びれ、胸びれまで盛大について、今や、人びとの口の端に上らぬ日はない。
また、その噂に真実味をもたせるがごとく、平賀朝雅が、短期間のうちに二度ほど、宮中に姿を現した。
「まこと、人は噂が好きよのぅ。」
権大納言 花山院忠経は、その様子を尻目に、半ば呆れるように呟いた。
自身の正体は狐であるが、人に化け、人としての暮らしも、長い。順調に宮中で、地位を登っているだけあり、そのあたりの身の施し方も心得ている。
人間とは、噂話が好きなのだ。
だから、わざとこの噂を流した。
流してくれ、と頼んできたのは、安部公賢だ。頭中将に拐われたと目されている千鶴を取り返すために、一計を案じるつもりらしい。
本当に、こんなことで、あの頭中将を釣れるのかという疑問は、ないではない。しかし、今は公賢に従うしかないのだ。
忠経は、頭中将の怜悧な瞳を思い出した。冷たく、それでいて、野望に満ち溢れている。
名門、九条家の長男。
噂では、幼い頃の事故で、男性器を損傷し、女を抱けぬという。代わりに、その鬱屈した欲求が、禍々しい気となって、全身から隠しようもなく発露している、そんな男だ。
人間の多くは、見目の美しさに気を取られて、それに気がつかぬであろう。しかし、我ら獣にとっては、明らかに警戒するべき相手だと分かる。
危うきに近寄らず。忠経は、今まで、あの男と、あえて距離をとってきた。
頭中将が、伏龍を狙っていることは、千鶴に聞いて、知っている。
伏龍は、清盛が宋から取り寄せた秘術具であり、手にしたものは一国の覇権を握るという。あの男なら、さもありなん、というのが、正直な感想だった。
忠経は、今日も今日とて、内裏に蔓延る、噂好きの男どもを眺めながら、先行きの不安を押さえきれずに、ため息をついた。
すると、背後から、
「おや、ため息ですか?」
その聞き覚えのある声に、思わず、ぶるりと身震いをした。
「今をときめく、権大納言どのに、何かお悩みでも?」
振り替えると、値踏みするような目をこちらに向ける、頭中将の顔があった。
「いやいや、頭中将どのほどどはあるまい。」
忠経は、心の底にちらりと出現した畏れを、ぐっと押さえ込んで、いつも通りの世辞を言った。
頭中将は、それに取り合わず、たち話に興じる男どものほうを顎でしゃくって、
「噂になっていますな。」
自ら、話題にしてくるとは、なかなか不遜な男だ。
「清盛公の隠し財産ですからね。規模も大きいてしょうし、嘘でも真でも、皆、夢のある話だと思うでしょう。」
「なるほど、夢・・・ですか。」
頭中将が、呟く。
「・・・権大納言は、あると思いますか?清盛公の隠し財産。」
ある、と言いたいのを抑え、
「さぁ、どうでしょうな。」
忠経は、さして関心のなさそうな様を装って、首を傾げた。普段、あまりこの手の噂ごとは好まぬ性格。下手に入れ込んでいると思われると、怪しまれる。
「誰から聞かれましたか?」
つと、頭中将が聞いた。
「誰から、とは?」
忠経のこめかみに、うっすら、汗がつたった。
「この噂、ですよ。」
なぜ、このような質問をするのか。何かを探ろうとしているのか。
「はて。」
権大納言は、先程と同様、首をひねった。考えたが、どのような意図があろうも、これ以外に答えようはない。
「誰でしたかな。何せ、皆が噂しておりますので。」
答えてから、さりげなく、頭中将の反応を伺った。頭中将は、いつも通りの微笑を浮かべ、
「なるほど。確かに、これだけ噂になっていること。どこからでも耳に入りますな。」
一人、納得するように頷き、その場を去っていった。
次回、舞台は福原。更新に少し時間いただくかもです。